狩り

 鳴葉は茂みの合間で姿勢を低くした。

 彼が身を隠しているのは、縄張りと緩衝地帯の境目にある『ウサギの庭』だ。背丈の高い植物が生えているので視界は悪い。けれど、身を隠すには最適の場所でもある。


 ここがなぜウサギの庭と呼ばれているのかというと、生きているウサギに交じって彼らの像がごろごろ転がっているからだ。過去にこの庭を縄張りにした人狼が作ったものらしい。きっとウサギが住み着くようにと願ったに違いない。像の配置がよく考えられているので、狩りがし辛いのである。

 鳴葉がウサギを追いかけたときは、一羽狩るまでに何度たんこぶを作ったか知れない。前を向いて走れば像に足を取られて転び、転倒した先で別の像に頭をぶつける。狩りを企む獣は多くいたが、ほとんどが鳴葉と同じ末路を辿った。そうして彼らが転ぶたび、鳴葉もまた過去の痛みを思い出すのだ。


 鳴葉は茂みから耳を出した。ウサギだけの庭に、珍しくウシの群れがいる。彼が隠れたのはウシを狩るためではなく、彼らを狙う狼を見つけたからだった。

 艶のあるクロガモ色の毛が、朝日を受けて輝く。草でも隠し切れない巨体は堂々としており、太くて長い尻尾は逆さまにしたススキのようだ。


 目に入った瞬間、うつくしいと思った。そうして、もっと近づきたいとも。

 鳴葉は草の間から体を半分出して、風に乗って届いた狼のにおいを嗅ぐ。彼は首を傾げてもう一度鼻を吸った。


(雌なのか。あんなに勇ましくて格好いいひと、初めて見た)


 ウシの一頭が顔を上げ、しきりに耳を動かしている。狼の気配に感づいたようだ。黒狼が走り、跳ぶ。軽やかな身のこなしで跳躍を繰り返したあと、あっさり獲物を仕留めた。

 鳴葉は鼻を舐める。彼女は一度も転ばなかっただけではなく、像を足場にして狩りを行ったのである。視界の高さを利用して、像の位置を的確に把握したのだろう。


 彼女が止柊の縄張りを引き継いだ人狼なのかもしれない。

 鳴葉はそう予想をつける。力量は陽炎と同等、それ以上にも見えた。いくら陽炎贔屓の鳴葉でも、黒狼の狩りを目の当たりにした今、彼女が劣るとは嘘でも言えない。


 鳴葉は息を吸い、ことさら静かに吐き出す。

 庭から鳴葉の縄張りまで目と鼻の先だ。ここまで狼が近づいたのは初めてだった。強い狼と出会えた幸運は恐れを大きく上回って鳴葉を舞い上がらせたが、同じだけの緊張も与えた。

 鳴葉は黙々と獲物を平らげていく狼を耳で捉えながら、慎重に辺りを見回す。他のウシは逃げて行った。ウサギは散り散りになったようで、あちこちの草が揺れている。


 その中のひとつ、小さな塊が鳴葉の方へ向かってくる。現れたのは子連れのウサギだった。親は目を充血させており、体をびくびく震わせている。

 ウサギは鳴葉に気づくと像のように固まった。淡い薄紅色の耳先が色を失っていく。命からがら逃げて来たのに、新たな狼と出会えばそうもなろう。鳴葉は今にも死にそうな親子から顔を逸らし、自分の目から彼らを隠してやった。すると、ウサギは鳴葉を避けて駆けて行く。腹は減っているけれど、鳴葉が狙う獲物は別にいた。

 ムシの羽音が耳をかすめた。草がそよ風に吹かれて擦れあう。あまりに静かだった。巣に近づくなと警告するトリの鳴き声も、草食い獣たちを身震いさせた音も聞こえなくなっていた。


 異変を感じた鳴葉は瞬時に瞼を上げた。

 黒狼が口元を赤く染めて鳴葉を見ている。

 絡み合った視線が大木に根を張る蔦のように密着し、鳴葉の胸がどくどくと激しい音を立てた。


(こっちを見てる?)


 焦りが募って視界が狭まる。鳴葉にはもう彼女しか見えなくなっていた。黒狼が立ち上がる。ウシに前脚をかけた彼女は凛々しく、鳴葉は逃げるどころか引き寄せられる。

 腰を浮かせて一歩、また一歩と近づけば、同じだけ彼女も距離を縮めた。

 そこへ遠吠えが響く。追っている獲物が進路を変更したという、家族からの知らせだった。

 鳴葉は突然狼の本能が戻ってきたかのような心地になって、縄張りを持つものらしく牙を見せた。一旦引いて実落に知らせるべきだが、そうするには黒狼との距離が近すぎたのだ。


 鳴葉の威嚇を正面から受けた黒狼は、腰を引いて項垂れる。彼女はなぜか困惑したような面持ちで鳴葉を見下ろしているが、鳴葉は構わず敵意を示し続けた。やがて黒狼は耳を後ろに倒し、とてもぎこちない動きで鳴葉に背を向ける。


(視線をそらすどころか、背を向けた? つまり、あの狼に敵意はない!)


 続いて、すぐ近くから遠吠えが響く。

 鳴葉は脱兎のごとく走り出した。目指すは縄張りにある大樹だ。そこで家族が待っている。


 鳴葉が目的地に辿り着くと、弟の朱果しゅかが顔に皺を作って待っていた。


「鳴葉! どこに行ってたんだ? もうすぐ獲物がこっちに来るぞ」


 朱果は灰色の毛を苛立たせながら言う。先ほどの遠吠えは、鳴葉を呼び戻すために彼が発したものだった。

 鳴葉は素早く朱果に近づいて、彼の口吻こうふんを噛んだ。


「近くにいたけど、いろいろあったんだよ。獲物の数は変わりなし?」

「なんだよいろいろって。後で教えろよ! 数は予定通り。こっから二手に分かれて待ち受ける」

「わかった。僕は父さんの方に行く」


 近づいてくる獲物にも聞こえるよう、鳴葉は喉を反らして吠えた。弟妹が追っている獲物に、お前を狙う者がここにいるのだと、そう知らしめるためだ。それで怖気づけば良し。足を止めずに立ち向かってくるなら、優位な狩場へ誘導するのが鳴葉たちの務めである。

 獲物の足音は変わらなかった。鳴葉は朱果に目配せする。

 数秒後、彼らは別々の方向へ走りだした。


 ムシが左右で跳ね回っている。鳴葉に踏まれまいとしてか、我先にと道を譲りだす。彼らが好む樹木は病知らずで、枝先の葉は青々としていて健康的だ。それは良いようにも思えるけれど、多すぎる木は森全体の陰りに繋がる。すると、風通しが悪くなり、病を招きやすくなる。良質な植物が減るとムシが新芽まで食らい尽くし、巡り巡って獲物が痩せる。

 この地がそういった悩みなしに、絶妙な均衡を保っているのは、陽炎の働きに大地が応えたからだ。


 鳴葉は向かい来る牡ジカの行く手を塞ぎ、進路を無理やり変えさせた。獲物は足をもつれさせたが、すぐに立て直して走る。彼は並走しながら行き先を固定すると、一気に牡ジカとの距離を縮めた。刹那、細い声が上がる。牡ジカの角につるが絡まったのだ。植物はクモの巣状に広がっており、動けば動くほど拘束が増す。シカは引きちぎろうと躍起になっている。力任せにいくらか切ったものの、脱出するには時間がかかるだろう。

 鳴葉が食べ応えのありそうな肉から離れたとき、時を同じくして大きな狼が駆けてきた。父の実落みらくだ。彼が鋭い牙で牡ジカの尻に噛みついたのを見計らい、鳴葉も獲物に覆いかぶさった。


 すっかり動かなくなった肉から牙を抜く。鳴葉が足止めに使ったつるを噛み始めると、牡ジカを追い立てていた妹の果林かりん、弟の落水らくすいも後始末に加わった。


「つるを使って動きを止めるなんて、よく思いついたな」


 実落は感心したように言う。鳴葉が歯に引っかけたつるを引き千切ると、支えを失った獲物はあっさりと崩れ落ちた。


「クモの巣に引っかかるムシを見て思いついたんだ」

「頭を使う良い狩りだった。他の子も上手に追いかけたね。上出来だ」


 実落の褒め言葉に、子どもたちは尾を揺らす。

 縄張り内の別の場所から遠吠えが響いた。家族は揃って耳を傾ける。母の枢果すうかだった。彼女の方では朱果と二人の妹が共に狩りをしている。


「どうやら、あちらも終わったようだね」


 実落は枢果に返事を返すと、身を屈めて口を血に染めた。

 食べる順番は序列の高い者からと決まっている。獲物を仕留める狼が弱ってしまうと、下位の狼もろとも飢えて死ぬからだ。下位を生かすために、上位の状態を整えなければならない。鳴葉の家族ならば、実落、枢果、鳴葉に続いて朱果、弟妹たちの順になる。

 鳴葉は獲物を果林に明け渡し、実落の隣に座る。すると実落は毛づくろいも半ばに尋ねた。


「どうした?」

「狩りの前、ウサギの庭で狼を見つけたんだ。父さんくらいの大きさで、すごく強い雌の狼」

「ほう」

「ウシをひとりで狩ってた。でも、僕らの縄張りに入ってくるつもりはないみたい。新しい人狼かな?」

「そうであれば鳴葉に挨拶するだろう。言葉は交わさなかったのか?」


 鳴葉は体を伏せて実落を見上げる。


「うん。何も話さなかった。じゃあ、また山の方から流れてきたのかな。あんな狼にだったら、腹を見せてもいいと思ったのになあ」


 腹を見せるのは、相手への尊敬や服従を示す。鳴葉なら人狼と父母がそうだ。


「ウサギの庭は陽炎様と止柊様の恩恵がある。他の緩衝地帯に比べて豊かだから、どこから獣が来ても不思議じゃないさ。それはいいんだが……」


 実落は途中で言い淀むと、唸り始めた。鳴葉が立ち上がってうろうろする間も、父の目は鳴葉につきっきりだった。

 鳴葉は叱られに来ましたと言わんばかりに、しゅんと耳を下げて実落の前に戻る。


「もしかして僕、いけないこと言った?」

「なんの話し?」


 口の周りを赤く染めた果林と落水が、二人の会話に加わる。


「ウサギの庭にいた狼が、どこから来たのかって話かな」

「どんな狼?」

「こわい?」

「怖くないさ。父さんも母さんもいる。鳴葉も大丈夫、怒ったわけじゃない。いい機会だ。話をしよう。みんな、よく聞きなさい」


 実落の言葉に、鳴葉たちは揃って姿勢を正す。


「狼であるなら簡単に腹を見せてはいけないよ。どんなに相手が立派でも、好意を持ったとしても、本当に信頼できるか時をかけてでも確認すること。家族以外の狼なら、なおのこと気をつけるように」

「わかった!」

「どうして?」


 落水は頷き、果林は理由を尋ねる。実落は果林の顔についたままの血を舐めて拭った。


「信頼関係を疎かにした結果、家族を食い殺されて縄張りを乗っ取られることもあるからだ。狼は慎重で、思慮深く。難しいと思っても、そうあれるよう努めなさい。誰にでも腹を見せるような狼は軽んじられる」

「でも、ぼく、考えるの苦手」


 落水は尻尾を丸めて鳴葉にくっつきながら、小さな声で言った。その口吻を鳴葉が綺麗にしてやる。

 実落は柔らかな笑みを浮かべると、ゆっくりとした口調で言った。


「考えるのが苦手なら、体を使って覚えなさい。それが経験になる。狩りも同じだね」


 弟妹が追いかけた獲物を鳴葉が足止めし、囲い込んだら実落が咬みつく。狩りの大まかな過程は同じでも、対象が違えば方法も変わる。


「シカとネズミを同じように狩れば、逃げられる。逃げられないようにするためにはどうするか? それが想像できないうちは、とにかく経験を増やすんだ。想像力を養うことにも繋がって、いずれ失敗も減っていくだろう。考えてから知る、知ってから考える。どちらにしても挑戦するのは変わりなく、失敗と成功の繰り返しだ」


 難しい顔をする弟妹に実落は吐息のような笑みをこぼし、それぞれの背中を甘く噛んだ。


「一目見て群れの主導者に相応しい、群れにいて欲しい相手と思えたなら。次はよく観察して、相手がどういう狼かを知ることだ。腹を見せてあげるのは、それからでも遅くない」

「はぁい」


 返事をした弟妹は、悠々と飛んできたムシのあとをついていく。

 鳴葉は鼻をツンと上げた。

 腹を見せてもいいと言いだしたのは鳴葉だが、いとも簡単に寝転がると思われるのは心外だった。


「僕は軽々見せたりしないよ」

「知っているさ。だから鳴葉にとっては復習で、他の子にとっては勉強のきっかけになった。そうだろう?」


 鳴葉は鼻の下がむずむずした。いくらかおいて、鳴葉が小さな声で謝ると、実落は彼の白色の毛に鼻を埋めて「気にするな」と慰めた。


 鳴葉は父母どちらとも毛色が違う。濃淡の差はあるものの、家族の毛色は灰色で、鳴葉は白色だった。完全に真っ白というわけでもなく、耳と尾の毛先が薄く緑がかっているため、朱果いわく「たんぽぽの綿毛」らしい。また金目の家族に対し、鳴葉の瞳は黄と緑が滲む。

 明らかに二人の子ではない鳴葉が、どうして家族に加わったかというと、川辺にひとりでいた彼を実落が拾ったからだ。


 狼は家族を見捨てない獣。それなのに、鳴葉の家族は一度として姿を現さなかった。鳴葉が迎えに来ない理由を尋ねると、実落はひどく言いにくそうにしながらも教えてくれた。

 鳴葉は実落に縄張り争いを仕掛けた狼の子どもだった。本当の家族の元へ返すべきだったけれど、激しい争いをしたため、戻してやれなかったのだと。

 鳴葉は自分で理由を聞いたにも関わらず、実落の言葉をひとごとのように聞いていた覚えがある。実際、幼いころの記憶はあいまいだ。置いていかれた事実だけが色濃く残り、よく泣いていた気がするけれど、家族に関してはほとんど覚えていない。


 鳴葉は縄張り争いの壮絶さを既に知っている。彼自身は争いに参加したことはないけれど、実落が他の狼を追い立てる姿を何度か見た。そこで鳴葉は、前の家族が自分を迎えに来なかった理由をようやく理解した。

 実落たちと争って、生きている方が難しいのだ。それを確かめたわけではない。だが、ひとりぼっちにされたのも、家族同然に育ててくれたひとたちがいるのも事実だった。

 鳴葉は仰向けになると、前脚で実落にじゃれついた。


「父さんみたいになりたい。家族を守れるくらい強い狼に。僕もなれるかな?」

「なれるさ。狩りをするときのように、地道に少しずつ。積み重ねを大切にしていたら、それこそ父さん以上の狼にね」


 鳴葉の腹を舐めた実落は、そう笑って答えた。


「さて、そろそろ居に戻ろう。鳴葉、枢果に戻ると伝えてくれ」

「うん」


 鳴葉は家族と合流して縄張りに戻る途中、木々の向こうにウシの群れを見つけた。今朝の喧騒など無かったかのような静けさだ。

 けれど、あの光景は夢でも幻でもない。

 黒狼の姿は鳴葉の心にくっきり刻まれていた。

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