人狼

 狼をはじめとする獣。それらと一線を画す存在である人狼は、しなやかな体躯と長い手足を惜しげもなくさらす。彼らは一見すると《食われる側》だ。鼻はリスのように低く、脚はウマのように細い。そのうえ二本の脚で走るとなれば、やはり追われて食われる姿が似合う。

 けれどどういうわけか、あの細い腕で狼を持ち上げ、クマを殴り倒し、ウマより速く走るのだから、見た目で判断してはならないと誰もが一度は学ぶ。


陽炎ようえん様! なんで僕を投げるんですかーっ……いったあ!」


 真っ直ぐに宙を飛び、鳴葉めいようは逃げるシカに勢いよくぶつかった。そのままシカと一緒くたに地面を転がる。


 投げた張本人、人狼の陽炎が鳴葉の傍に立つと、着地の衝撃で衣が舞った。

 股下に作られた山形から肌が見え隠れするも、一定以上開かないようにするためか、山頂付近は留め具で固定されている。夕陽色の衣は裾から足元にかけて深緑へ変わり、鮮やかな色の花々が野で咲き誇る。

 陽炎は口元をにやりとさせて彼を見下ろした。


「鳴葉、きさまの狩りがほんにへたくそじゃからの。つい投げてしもうた。ほれ、ぐずぐずしておうたら獲物が逃げてしまう。はよう喉を噛め。脚でも良いが、蹴られて目を潰されるでないぞ」


 切り揃えられた赤茶の毛は、足首に届くほど長い。鳴葉はそれが地に伏した葉を撫でる前に立ち上がった。

 頭を振ってぶれた視界を整えると、ふらつくシカの前方に回って喉に牙を立てた。熱い液体が鳴葉の顎を濡らす。


 しばらくして、シカはぴくりとも動かなくなった。鳴葉は咬みついたままの状態で陽炎を窺い見る。すると、彼女の唇が弧を描いた。


「もう放してよい」


 陽炎の装身具が揺れて、木の優しい音が響く。鳴葉は陽炎に頭を撫でられて尾が揺れた。けれども彼女の言葉を思い出した途端、山頂まで至った鳴葉の心は転がり落ちていき、感情につられた耳も下を向く。


「陽炎様。僕の狩りはそんなに下手でしたか?」

「うん? ああ、へったくそじゃった」

「ど、どこがですか?」


 鳴葉が問うと陽炎は大げさに毛を揺らした。


「狼は集団、連携が基本の狩りだというに、われに一度として助力を請わず、単独で獲物を仕留めおった。それも三度!」


 狼の狩りは集団で行う。遠吠えで位置を把握し、獲物を追い詰め、仕留めるのだ。それを指摘する陽炎の言い分は最もだけれど、鳴葉にも理由がある。


「だって今日の獲物は全部、陽炎様の子へ献上するものでしょう。陽炎様も食べるものなのに、手伝ってもらったら意味がないじゃないですか」


 だから鳴葉は自分の力だけで獲物を狩った。そうすれば陽炎が喜ぶと思ったからだ。しかし、単独で仕留めたにも関わらず、陽炎は不満があるらしい。

 鳴葉が口を尖らせていると、その先端を陽炎につままれた。


「わかっておらんな。狼なら考えぃ。たとえば……いち、見知った狼たちが狩った獲物。に、母と狼が連携して狩った獲物。貰うならどちらが魅力的かえ?」

「……に?」

「そうであろ。子だけではない。われの番も、われと鳴葉が狩った獲物だと知れば、さぞ喜ぶであろうなあ。うむ。して、このシカはわれらの獲物じゃ。相違ないな?」


 陽炎の赤い目が鳴葉を見下ろす。彼は首を縦に振った。


「鳴葉は素直で良い。拾ったものを手あたり次第見せびらかして、褒められたくて躍起になっておったのを思い出すわ」

「それは忘れてください……」

「はは! とはいえ、われも鳴葉と共に狩りがしたかった。次はわれに寂しい思いをさせるなよ?」


 陽炎の細い指が鳴葉の両頬をつまんで伸ばす。背を曲げれば当然、彼女の長い毛が土を撫でる。鳴葉はため息を飲み込んだ。陽炎に汚れ一つつけないという、密かな目標は今日も達成できずに終わった。


 人狼は常に真新しい衣を着ており、獣の中でも綺麗好きの部類に入る。元が狼だからというのもあるだろう。そのわりに、毛や衣を汚す回数は狼よりも多い。まるで、汚れてもすぐに綺麗になるのだから気にしても仕方がないとでもいうように、あっけらかんとしている。

 陽炎の指が鳴葉に触れ、顎についた血を拭う。鳴葉は目を細めて尾を垂らした。


「純朴過ぎやせんか」

「そうでしょうか」


 心当たりがないような顔をする鳴葉に、陽炎は柔らかく微笑んだ。彼女はしゃがんで目の高さを狼に合わせる。


「まぁよい。さて、春の実りは問題ないじゃろ。空腹で殺気立つ獣もおらんかった。きさまの縄張り周辺はどうじゃ?」

「問題ないです。草と実がよく育っていて、獲物の肉付きも夏前には戻ると思います」

「ほう。周りをよく見るようになったの。すぐ答えられたのがその証拠。このまま精進せい。他には?」


 陽炎に続けて問われ、鳴葉は即座に答える。


「緩衝地帯の向こう、たぶん山の縄張りにいる狼が、僕らの縄張り近くまで来るようになりました。しかも、狩りをしているみたいなんです」


 誰の縄張りでもない地を『緩衝地帯かんしょうちたい』と呼ぶ。その名のとおり狼同士の衝突を防ぐ大切な場所で、縄張りの間にあるのが普通だ。また、緩衝地帯は獲物の育つ場としても重要視されていて、一帯にいる動物はなるべく狩らずにおくのが暗黙の了解であった。

 件の山は、緩衝地帯を挟んだ反対側に位置している。山の狼と出くわすのはこれまでもあったし、それ自体は珍しいことでもない。ただ、いつも陽炎の縄張りから遠く離れた場所で顔を合わすだけだったのに、近頃は鳴葉の縄張り近くで目撃されている。

 陽炎の手が鳴葉をあやすように叩いた。


「山の縄張りはもうない」


 鳴葉は言葉を失くす。彼の記憶が正しければ、山の縄張りは雌の人狼が治めていたはずだ。そうなると、もはや狼だけの問題ではない。山で暮らすあらゆる獣が行き場を失ったのである。

 鳴葉の視線を無言で受け止めるた陽炎は、すっくと立ちあがって大きく伸びをする。


「久々の狩り、なかなかに楽しめた。われは居に戻る。仕留めた獲物は拾っていくからの。鳴葉はそのまま帰るがよい」


 陽炎が片手でシカを担ぐ。並みの狼なら引きずることすら怪しいのに、難なく持ち上げたうえ、さらに他の二頭も持ち帰るという。鳴葉は家族を呼び寄せて、共に獲物を運んでもらうつもりでいたが、役目がないと知って頭を下げた。


 陽炎は序列の最上にいながらも、自身にできることは自身ですると決め、狼がへつらうのをよしとしない。かといって孤高を持するのでもなく、縄張りにいる狼とよく触れ合った。陽炎は狼に愛されたぶんだけ縄張りを広げ、そのたび新たな狼を迎え入れてきた。

 陽炎の愛情深さと行動力に惹かれた雄狼は多い。人狼は通常、自分の縄張りにいる狼を番にする。

 狼の頂に立つからには、強さと懐の深さを兼ね備え、自然と服従したくなる存在が求められた。奥行きがない者の下にいる状況は、狼にとって耐え難い苦痛をもたらす。それは陽炎にも当てはまる。彼女は雄狼からの求愛に、何年も首を振り続けた。

 それでも周囲の狼は、陽炎もいずれはみなと同じように、群れの中から番を探すのだろうと思っていた。


 ところが、陽炎が選んだのは同じ人狼の止柊ししゅうだった。人狼が人狼を選ぶのは前代未聞だったとはいえ、二人は同種族。力、賢さ、寿命においても、これ以上とない相手である。

 一つだけ問題があるとすれば、止柊が縄張りを治める人狼だったことだろう。

 片方の縄張りに居を構えれば、どちらかの土地は荒廃する。人狼がいなくなった地は、まず初めに植物の実りが少なくなり、新芽が育たなくなる。食べるものがなければ、獣は外へ出て行くしかない。そこには今まで人狼を支えてきた狼達も含まれる。

 目を瞑っても見ないことにはできない問題を前に、陽炎と止柊は正面からぶつかり、互いの縄張りを駆け回ったのである。時には彼女らの仲を認めない狼と激しい取っ組み合いをし、時には群れの家族の子育てに参加した。二人は自分の狼のみならず、互いの狼にも分け隔てなく接したという。

 そうしてついに、二人は双方の狼から服従を得て結ばれた。しかも彼らは緩衝地帯に居を置くことで、土地の荒廃を避けるどころか、実りある地を更に広めたのだった。


 鳴葉は父から聞いた話を思い出し、陽炎に羨望の眼差しを向ける。


(止柊様とのことだけじゃない。考えながら行動して、実現させるんだ。陽炎様はすごいな。尊敬しないわけがない。僕は陽炎様みたいにできるか自信ないや)


 鳴葉は陽炎の背を眺めながらため息をつく。彼は陽炎に恩を返したい。しかし、具体的にどうするかまでは決まっておらず、心は風に吹かれた綿毛のようにふわふわ浮いている。

 陽炎に助言を求めても、彼女は呵々大笑して「きさまが幸せになることかの」と言いながら綿毛を吹いただけだった。


 悠々と歩いていた陽炎が唐突に動きを止めた。なにかを思い出そうとしている素振りである。鳴葉が彼女の一挙一動を見守っていると、陽炎はすっきりした顔で振り返った。


「言うのを忘れとった。近々、止柊の縄張りを明け渡す」

「えっ、じゃあお二人の居はどうするんですか? 陽炎様の縄張りに移すんですか」


 それは聞かなくてもわかることだったが、鳴葉は驚きのあまり、つい口に出してしまった。当然のように陽炎が頷いたため、鳴葉はばつの悪そうな顔をする。


「よって今後、止柊の縄張りには近づくな。緩衝地帯にも深く入るでないぞ。みなにも伝えておけ」

「わかりました」

「ではの」


 鳴葉は陽炎の姿が見えなくなるまで見送った。


「人狼か。どんな人だろう。気になるけど、教えを破って川に落とされるのはこりごりだよなあ」


 幼い頃に味わった川の冷たさを思い出して、体がぶるっと震えた。


 狩りを覚えたばかりのある日、鳴葉は兄弟と共にウサギを追いかけ回し、殺してしまったことがある。陽炎から獲物を遊びで狩るなと教えられた後だったので、やってしまった、と青くなった全員はウサギを放置して帰った。

 その夜、陽炎が狼の姿で縄張りにやって来た。口にくわえていたのは、鳴葉たちが殺したウサギだった。足元に死骸を寝かせた陽炎の瞳は、爛々と輝いていた。


「このウサギに見覚えがあるか。なに、殺したことは責めぬ。柔い命じゃ。牙を見せただけで死んでしまうこともあろう」


 身構えていた鳴葉たちは、彼女の言葉に細長い息を吐き出した。しかしそれも束の間で、「だが」と続いた声に呼吸を止める。


「なぜ骨も肉も残っている。どうして食わずに捨て置いた。殺したのなら、食わねばならぬ。後で食うつもりであるなら埋めておけ。それが狩る側の務めだと教えたはずであろ。懸命に生きるのはみな同じであり、命を粗末に扱うなとも」


 続けて「それを忘れたのか」と問う陽炎と向き合ってようやく、自分たちの行いが彼女の怒りに触れたのだと思い至った。


「それともわれの教えた意味がわからなかったか。ならば素直に申せ。同じことが二度起きぬよう、考えねばならぬ」


 事情を知らない者はきょときょと目を動かし、心当たりのある者は一様に尻尾を丸めた。


「忘れていません。意味もわかっています。陽炎様が教えてくれたこと」


 鳴葉が声をあげた。細められた陽炎の目が鳴葉に向く。


「ほう。鳴葉、ウサギを殺したのはきさまか」

「……はい」

「食わずに捨て置いたのはなぜじゃ」

「お、怒られると思ったからです。それに、お腹も減ってなかったし……」


 陽炎は鳴葉の答えにゆるく首を振った。家族たちは耳を立てて聞いている。


「言い分はわかった。ではの、例え話をしよう。きさまの父が死んだとする。殺したのはクマじゃ。そのクマが言う。きさまの父を殺すつもりはなかったがの、気づいたら死んでおった」


 鳴葉は父を見た。灰色の毛と金目の、大柄な狼だ。

 クマの太い爪や腕が父を痛めつけている光景を想像して、両脚に力が入る。父を軽んじるようなクマの言葉は、許せない、と思った。


「食うべきであろうが、腹も減っておらんし、食わんでおいた。――そう言ったんじゃぞ、きさまは」


 鳴葉の口がぽかんと開いた。

 狩りの練習は楽しかった。追い詰められて、慌てふためく姿に喜んだ。やってしまったと思う反面、息絶えたウサギを達成感で眺めもした。

 陽炎の言う、父を殺したクマとなにが違うのだろう。

 鳴葉の鼻に皺が寄り、尾は地に触れた。彼は陽炎を窺い見る。救いを求めるような目をした鳴葉を、彼女はけんもほろろに突き放した。


「言ったであろ。われはきさまを責めぬ。われの教えをわかった上での行いであれば尚更よ」


 そう言って陽炎は身を屈めた。鳴葉は咄嗟に叫ぶ。


「でも、僕! 僕は、陽炎様の教えを破りました! それなら罰を受けないと!」


 陽炎はウサギをくわえようとした格好のまま動きを止め、目を丸くして鳴葉を見ている。鳴葉は深く息を吐き出してから、「そうじゃないと周りに示しがつきません」と、黄緑の目を強く光らせて言った。

 いつまでも続くかと思わせる沈黙を破ったのは、陽炎の笑い声だった。


「はっはっはっは! いや、やられた。なかなかどうして知恵が回る。そうじゃな、教えを破ったのなら罰を与えねば。見逃せばきさまの言う通り、周りに示しがつかぬなあ」


 陽炎は瞬く間に人狼の姿に戻って、指を二本立てる。


「では鳴葉に二つ罰を与える。一つ、このウサギをどうにかせい。方法は任せる。二つ目はのちに伝える。みな、良いか。これで二度目は起きぬか?」


 狼たちは短い声を発して同意を示す。

 ウサギを殺めた兄弟は、鳴葉と同じ罰を受けると名乗り出る者もいれば、縮こまって口を閉ざす者もいた。


 その後、鳴葉と名乗り出た者たちでウサギを残さず食らい、二つ目の罰として、陽炎の手により川に投げ落とされたのだった。


「僕もそうだったけど、なんで子どもってああも残酷なんだろう。ちっちゃい頃は全く思いもしなかったぶん、僕も大人になったんだな」


 鳴葉は陽炎の去った方向を振り返る。

 止柊の縄張りは広い。新しい人狼が縄張り内を把握するには、相応の時がかかるだろう。下手に邪魔すれば陽炎の負担が増す。


 新たな出会いに期待で胸を膨らませつつ、鳴葉は居へと戻っていった。

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