海神の縁者は人魚に愛を希う

月中光

海神の縁者

 目覚めたとき、彼の目前には黄と緑がにじむ美しい真珠が二つ浮かんでいた。

 白い毛、長い鼻、小さくも尖った牙。見え隠れする真珠は、どうやら目玉だったらしい。海の生き物とはかけ離れたその姿から、自分を見下ろしているのが陸の獣だとすぐにわかった。


 彼は獣が間近にいるにもかかわらず、身動き一つできずにいた。体が乾いて動かないのだ。気を失っていたのがどれ程かは知れない。空気に触れ続けた全身がとにかく痛かったし、死にたくないと騒ぎ立てられるほどの力はとうに尽きていた。

 そうこうしているうちに、獣が口を大きく開けた。牙が迫ってくるのを間近で見つめる彼の心は、恐怖でいっぱいだった。けれど、乾いた口は声を奪われた人魚のように大人しい。

 彼は、この獣は自分に牙を突き立てて、頭から食べるつもりなのだと思って身を固くした。けれど、予想していたものとは全く違う感覚が体を撫でる。熱いけれど痛くはない。海では味わったことのない感触だった。


 彼が不思議がっていると、獣が再び牙を見せた。

 彼は今度こそ痛みが訪れるのだろうと覚悟した。しかし、またも獣は彼を傷つけなかった。その代わりにと言うべきか、湿り気のある暗がりに閉じ込められる。生ぬるいものに包まれているあいだ、彼はいよいよ覚悟を決め、家族や友の顔を頭に思い浮かべて別れを告げたのだった。


 二度と明けないと思われた夜に光が差した。

 彼は暗がりから放り出されると、稚魚のように目を瞬かせた。

 呆然とする彼の横腹を白い獣が小突く。払いのけようとして動いたヒレに、彼自身が驚いた。エラを動かせば、新鮮な空気で体が満たされていく。そうして彼はようやく、自分が生まれたての小魚が迷い込むような、とても小さな水溜まりに連れて来られたのだとわかった。

 川の一部を石でせき止めて作っただけの簡素なものらしい。何かの気まぐれで川が水流を強めたなら、あっという間に崩れてしまいそうなやわな囲いだ。しかも底が浅いので背びれが水面から出てしまう。


 獣は彼の全身を舐め始めた。獣の熱を感じるたびに鱗が震える。獣は魚の体をたびたび鼻で小突き、満足げな顔をする。その表情は、気に入る貝殻を見つけたときのラッコを彼に思い出させた。

 この獣は自分を食べるつもりがないのだ。そうと知って力が抜けた。


 獣の献身を受けながら、ぼうっと空を見上げる。獣が彼の体を踏んで横倒しにしているため、視界はほぼ白色で埋め尽くされている。本調子だったら短い脚を叩いて退かしていただろう。


 縄張りの見回りで川を上ってきたのだが、とんだ目にあった。彼を水面から引きずり出したのは鳥だった。ヒレで叩いて逃れたものの、空中から地面へ真っ逆さまに落ちた衝撃で気を失ったのだろう。彼がただの魚だったなら、気絶どころでは済まなかったはずだ。深刻な乾きが遠のいた今、体からはすっかり痛みが引いており、じきに気だるさも消えるだろうと思った。


 彼は前置きなく、強引に体をひっくり返された。空気にさらされていたヒレが水に沈む。

 彼は獣をじろりと睨んだ。潤いを与えてもらえるのは助かるが、粗雑なやり方は彼の好みではなかった。


 獣が幼い声で問う。


「しんでない?」


 彼は怪訝な面持ちになりながらも、問いには答えるように口をぱくりと動かした。


「うん。しんじゃだめだよ」


 会話をしているつもりなのだろう。獣は重ねてそう言うと、彼の頬に口付けた。

 彼はどきりとした。幼い頃に聞いた昔話が頭の中で泳ぎ回る。


 あれは大嵐が明けた日のこと。

 獣に命を助けられたひとりの同族がいた。

 海岸に打ち上げられた彼女は、勇ましい獣に救われ恋をする。彼女はこの獣こそ自分の『海神の縁者わだつみのえんじゃ』だと思い、一生を共にしたかったが、ふたりが生きる世界には生死が関わる大きな境界があった。

 彼女は海陸を越えて生きる方法を見つけるべく、海洋を横断して同族の知恵を求めた。それから幾年が経ち、膨大な知識を内にため込んだ頃、彼女は満を持して呪いを生み出した。彼女はその呪いを使うと、獣に姿を変えた。同じ形になって相手の元へ行けば、想いが報われると信じていたのだ。

 ところが獣と再会するや否や、彼女は涙を流す。

 陸を統べる人狼とは異なり、ただの獣は短い生を駆け抜けるのが定め。彼女をその目に映す獣からは、出会った頃の力強さは既に失われていたという。


(彼女は獣を海に連れて帰れなかったうえに、泡になって死んだ。恋した相手と結ばれなければ、その代償として泡になる。そんな条件を呪いにつけるなんて、と今更言ってもな。後世に役立つ呪いを残しただけの残酷な話だ。そんな昔話と、この状況は酷似しているわけだが……)


 彼はしばし考えてから、獣を観察し始めた。冗談抜きに死にそうだったので、これまで獣を調べる余裕がなかったのである。嗅覚はないに等しいが、それ以外の感覚はとても鋭いので得られる情報は多い。

 獣の白い毛には少しだけ薄緑が交ざっており、まめに手入れされているのか艶がある。鼻は適度に湿っていて、歯並びも悪くない。丸みが残る顔つきは年相応にあどけなく、黄と緑がにじむ瞳は海底で揺らぐ小花のようだ。彼を見下ろして嬉しそうに笑うのも好感が持てた。


 彼のヒレはぴたりと体にくっついた。


(……いや、好みの顔だからって『海神の縁者』になるかは別だろう。いくら顔が良くて優しくても、それだけじゃ心は傾かない。彼女のように、簡単に恋に落ちてやるものか。そもそも海神の縁者なら、愛の言葉のひとつやふたつ寄こすべきだろう)


 自分の縁者ならば、これでもかというくらい愛を語って欲しい。美麗字句のように見せかけて、中身はしっかり詰まった言葉を並べ立てられたい。その代わり、自分はそれ以上の言葉と体で愛を注ぐつもりである。


 彼は目の前の獣が言いそうな言葉をいくつか考えた。更に、獣から求められる光景を頭に浮かべる。きっと獣はこう言うはずだ。水底で輝くサンゴのようなひと、美しい瞳を持つあなた、願わくば共に泳いでくれないだろうか。


 自ら考えた台詞を反芻して、彼はいやいやと体をよじった。


(相手は子どもだ。そんなこと言えるわけがない)


 彼は胸中で予想と否定を繰り返す。そうしているうちに、獣との決定的な瞬間を願う気持ちが増していった。

 なにせ自分好みの相手である。獣が望むのなら自分から口説いてやってもいいが、この幼い獣に自分の言葉が正しく伝わるかも怪しい。それに、もしも怯えて内陸に逃げられでもしたら、今後一生会えなくなってしまう可能性が高い。やはり獣の好意を引きずり出すのが先決だろう。


 そうなると、今度は相手がどういう意味でこちらを好いているのかが気になった。彼は自分の美しさには自信があったけれど、獣の美的感覚は彼らのそれとは大きく異なるらしい。


 彼は大いに悩んだ。

 相手が恋を知らない場合、自覚するまで待っていたら昔話のようになりかねない。かといって、急いては事を仕損じるような気もする。


 びちびち跳ねる彼を、獣は片足で踏みつけた。


「きみはもう、ぼくのだからね」


 彼は気を失いそうになった。これほど愚直で真っすぐ届く愛の言葉は、全く予想していなかったのだ。


――獣は既に、わがものと呼ぶほどに、自分を好いている!


 獣の愛を受け取った彼は居ても立ってもいられなくなり、脚が離れるのを見計らって大きく跳ねた。水溜まりを抜け出し、大いなる川に飛び込む。

 その際、呆気にとられた様子の獣に胸が痛んだ。

 互いに好き合っていると判明したばかりだ。別々の場所で生きる自分たちが共に暮らすためとはいえ、一時の別離は身を切るような想いである。


 川を下って海に辿り着くと、彼は瞬時に変貌した。

 黒い髪、青紫色の目。肩飾りの布はヒダを作り、露出した背を隠す。短い上衣に対して、下衣は足先を覆って魚の尾ひれのように水中をたゆたう。

 彼の口元は、沸き立つ欲を抑えきれないとばかりに弧を描いた。


「待っていて。必ず私と同じ人魚にしてあげるから」


 そしてあの獣、自らの海神の縁者を、この大海原に引きずり込むのだ。

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