迷子の狼

 崖の上は日当たりと風通しが良く、昼寝に最適で、時おり鳴る葉のさざめきが眠りを促しもする。


 鳴葉は縄張りにある見張り台の上で、周囲の様子を伺いながらうたた寝をしていた。獣が近づいても、鳴葉のにおいに気づくと大概のものは去って行く。ときどき怖いもの知らずのアリが尻尾を登ってくるが、それもひと振りすれば転がり落ちた。何度かそれを続けたものの、鳴葉は面倒くさそうに片目を開ける。すぐそこに黄色い翅のムシが横たわっていた。

 鳴葉は眠気まなこでアリの行列を眺めたのち、ふわーっと欠伸をして体の位置をずらした。


 狼の遠吠えが響く。隣の縄張りからだった。どうやら親が子を探しているらしい。このあたりは陽炎一家が住んでいた居が近く、緩衝地帯も他と比べて狭くなっている。

 子どもが他の縄張りに入ること自体はそれほど問題ではないが、子を探す親にとっては一大事である。それに、もし狩りの途中ではぐれたのなら、早めに見つけ出さなければ怪我を負う。追われる側の獲物といえども、やられるばかりではない。


「……ん?」


 遠くで茂みが揺れている。

 鳴葉は素早く立ち上がって耳を澄ませる。音の主はすぐに現れた。


 灰色狼が泣きべそをかきながら、鳴葉の元へ飛び込んでくる。幼い子どもであるのは一目でわかった。子どもを追いかけて来たイノシシは、自分を睨んでいる鳴葉を見るや仰天した様子で足を止め、来た道を戻っていった。

 鳴葉は深く息を吐いて脱力した。


(はあ、焦った。クマだったらどうしようかと思った)


 鳴葉だけではクマと争えない。クマは臆病だけれど力が強く、ひとりでは力負けしてしまうのだ。ただ、父母と家族で群れを成し、万全な状態で争えば勝ち目がある。今回は中型のイノシシだったので、鳴葉だけでも追い返せたけれど、これが大型のイノシシだったら、鳴葉は子どもの首根っこを噛み、わき目もふらず逃げなければならなかった。


 子どもの狼は、鳴葉を見上げてくんくん鳴いた。不自然に片足を上げているうえ、わずかに血のにおいをさせている。

 鳴葉は足に鼻を寄せながら尋ねる。


「その足、イノシシに噛まれたの?」

「……いたい」

「血が出てるからね。怪我を見るから横になって。……トゲが刺さってる。走ってるときに枝でも踏んだかな」


 鳴葉が傷口を舐めると、子どもは甲高い声をあげた。痛みで震える子どもをあやしながら、鳴葉は知恵を絞りだすような声で唸る。

 怪我をした子どもがひとりで縄張りへ戻るのは難しいだろう。近くまで送ってやりたいところだが、陽炎の言いつけもある。

 子どもは目に涙を浮かべながら聞いた。


「とうさん、どこ?」

「さっきお前を探していたよ。うん、たぶんお前のことだと思うんだけど……、一応確認しとく。縄張りの人狼の名前、わかる?」

「わかる。ししゅうさま、はくらさま」

「はくら様? それ、……ああ、そっか。わかった」


 この子どもは間違いなく隣の縄張りの狼だと結論づけた鳴葉は、顎ひげをトゲの周りに触れさせた。足に刺さっているのは、枝の一部で間違いないようだ。毛の合間から頭を出しているものの、上下の歯を使って抜ける長さではない。


(これを抜くのは無理だな。止柊様に頼ったほうが良さそうだ)


 鳴葉は腰を屈めて子どもに言う。


「縄張りに戻りたいなら力を貸すよ」

「いいの? かぞくじゃないのに」

「いいよ。お前は子どもだから。子どもは特別」


 右も左もわからない同族の子どもを、理由もなしに見捨てる狼がいたとしたら、それは狼に似たただの獣だ。

 子どものお願いを聞いた鳴葉は、空に向かって吠える。

 これで止柊だけではなく、まだ見ぬ人狼と親に子どもの現状がわるだろう。

 しばらく待って、止柊から了承と共に落ち合う場所を指示される。鳴葉は子どもの首根っこをくわえて走り出した。


 子どもの名は希桜きお。六兄弟の末っ子だ。夢は大きなイノシシを狩ることで、昨日食べたネズミが美味しかったなど、たどたどしくも鳴葉の質問に返せるあたり、家族にうんと愛されているのだろう。


 希桜は体をぶらぶらさせながら、見知らぬものを見つけるたび、脚を動かして鳴葉に知らせて問いかけた。あれはなに、これはなんだと、尽きない質問はブドウの房のようである。

 鳴葉は一つひとつそれらをかじって飲み込んだ。そればかりでは味気ないので、鳴葉は話題の種となった木に希桜を近づけた。枝にぶら下がる豊満な果実は、周囲の花に比べて匂いが薄い。探そうとしなければ見つけられないものなので、この実を狙うのは頭上で様子をうかがっているトリか、鳴葉くらいのものだろう。希桜も例外ではなく、橙色の果実より花に興味を示している。

 鳴葉が食べるように促してようやく、希桜の目が実に向いた。一口かじると、途端に顔が輝く。それを見た鳴葉は口角を上げた。

 希桜は種を吐き出したあと、親が子を探すような目で枝の隙間をつぶさに確認し始めた。空気のような存在でありながら、噛めば濃厚な甘みを味わわせてくれる実に、すっかり虜になったようだった。


 そうしているうちに、白い花を咲かせた二本の梅木が見えてきた。付近には澄みきった沼がある。表面は穏やかで落ち着いており、時折、底から湧き上がってくる泡が波紋を生む。水面に空と梅が映り込むと、まるで離れた天地が触れ合っているかのようだった。


 鳴葉は沼の前で希桜を下ろした。居住まいを正して梅を見上げる端で、沼に手を出そうとする希桜に気づいてぎょっとした。咄嗟にその首を噛んで叱る。


「ここは陽炎様と止柊様の沼だから、勝手に触れちゃだめ。……その顔、なんでだめか知らないな?」

「うん」

「よしよし。希桜は素直ないい子だ。じゃあ教えてあげる。その前に止柊様に挨拶しよう」


 草木や花の香りに混じって人狼のにおいがする。

 木の合間から、腰まで届く灰色毛を一つに束ねた雄の人狼、止柊が葉や蔦を片手に姿を現した。


「お久しぶりです、止柊様」

「ししゅうさま、こんにちは」


 ふたりが声をかけると、止柊は金目を緩ませて微笑んだ。


「はい、久しぶり。こんにちは」


 止柊が身にまとっている衣は、陽炎と形が似ているけれど、与える印象はまるで違う。彼の衣は冬の空を連想させる薄青色。模様は上着にのみ施されていて、枝付きの梅が小さな花を咲かせている。下衣を結ぶ紐は固く結ばれており、肌をさらけ出している陽炎とは違って、止柊は肌も尾も濃紺の上着に隠している。

 陽炎が動だとすれば、止柊は静。温和な性格と面立ちが、より彼をそう思わせた。


「鳴葉、この子を連れてきてくれてありがとう。さあ希桜、怪我を見せてごらん」


 止柊は希桜を持ち上げて自分の膝に寝かせた。希桜は体をひっくり返されたり、四肢を広げられたりされてもされるがままだ。止柊へ全幅の信頼を寄せているのがわかる。


「トゲが刺さっているだけで、他に怪我はないみたいだね。ところで、この沼の話をしていたようだけど」


 止柊が思い出したように言う。彼の目は希桜の脚に向けられたままだったが、鳴葉は背筋を伸ばして答えた。


「はい。希桜がこの沼を知らないようなので、説明してあげるつもりでした」

「はは、なるほど。先に言っておくと、鳴葉が近づかないようにと教わっただろう場所はここだけだから、陽炎の狼以外は知らないと思うよ」

「……えっ」


 目を剥く鳴葉をよそに、希桜は仰向けの状態で首を左右に動かし、斜めにして止めた。


「ここだけ?」

「そう。僕の縄張りだった地や緩衝地帯にも、注意すべき沼はない」


 止柊の背中側の衣がごそごそ揺れた。


「ここはね、僕と陽炎が初めて出会った場所なんだ」


 風が吹き、梅の木が枝を揺らした。

 陽炎が止柊を好いているのは周知の事実だ。しかし止柊も大概だと鳴葉は思う。陽炎の話をする止柊の表情も、蜜をたっぷり含んだリンゴのような甘さがあった。

 希桜の首が逆側に傾く。


「ようえんさまは、ししゅうさまのつがい?」

「そうだよ。希桜はまだ陽炎に会っていなかったね。とび色の毛の人狼が僕の番だよ。とても可愛くて、美人で、朗らかで、強くて、見ているだけで気持ちが良い人なんだ。口を開けば更に魅力的になる。そうそう、撫でるのも上手くってね。僕と子どもたちとで、よく陽炎の手を取り合ってるんだよ」


 止柊は今日の天気を言うように、つらつらと惚気た。

 希桜が素直に受け止めている傍ら、鳴葉は蜜入りリンゴを二つも三つも詰め込まれた気分になった。牙はべたついて、隙間から果汁があふれ出ている。

 鳴葉は陽炎の素晴らしさを語る止柊に逐一同意しながら、右の爪で左足をかいた。聞き捨てならないことを聞いた気がする。


(この沼に触らないようにしてるってこと、なんで止柊様は知ってるんだ? 狼だけの秘密なのに。もしかして狩りの密約も知られてるのかな? 止柊様ならいいけど、陽炎様にも知られているとしたら……、だったらそれは、ものすごく、恥ずかしい気がする)


 陽炎の縄張りには、いくつかの群れがいる。鳴葉もそのうちのひとりだ。

 狼は縄張りを争う獣なので、小競り合いはたびたび起きる。陽炎は狼の中でも特に情が深い。絆を重んじる狼の本能には、彼女の曇り顔が罪悪感となって刺さった。よって狼は群れ同士で密約を交わしたのである。縄張り争いが始まりそうになっても、彼女が近くにいる間は争わないようにしようと。もちろん彼女に密約を知られないよう、細心の注意を払った。

 それなのに、と鳴葉は体をよじる。

 陽炎に知られているのだとしたら、内緒だと前置きしながら大声で話していたようなものだろう。沼の説明をするにあたり、止柊が「こういった話のほとんどを、陽炎は知らないようだけれど」とわざとらしく付け加えなければ、鳴葉の体はねじれて戻らなくなっていたかもしれない。


「いたい!」


 希桜が叫ぶ。鳴葉が慌てて顔を覗き込むと、彼は鼻に皺を寄せて瞳を潤ませている。


「ごめん、ごめん。うん、痛かったね」


 止柊が彼の腹に手を置くと、幼い目から大粒の涙がぼろぼろ零れた。


「いたい……」

「頑張ったね。偉い、偉い。刺さっていたトゲは抜けたから。もう大丈夫」


 止柊は薬草を口に含んで噛み潰し、希桜の傷口に塗りつけた。その上に葉をいくつか重ね、十本の指を器用に扱いながら蔦を巻きつけていく。


「鳴葉には陽炎も世話になったね。鳴葉との狩りは良い気晴らしになったって喜んでいたよ」

「僕も楽しかったです。獲物に向かって投げられましたけど」


 鳴葉が拗ねたように言うと、止柊は声に出して笑った。


「鳴葉がひとりで上手に狩るから、寂しくてつい手を出しちゃったんだと思うよ。昔は陽炎様、陽炎様って、丸っこい脚で追いかけて獲物の報告をしていたのに、今では立派に狩りをする大人の狼だから」

「止柊様まで……。陽炎様にも似たようなこと言われました。でも、陽炎様が言うには、自分が一緒に狩った獲物のほうが止柊様たちは喜ぶからだって」


 鳴葉がそう言うと、止柊の背中が騒がしくなった。


「そりゃあ喜ぶとも。ふたりが僕らのために用意してくれた獲物なんだから、喜ばないわけがない」

「ししゅうさま、しあわせそう」

「とってもね。よし、結び終わった。少し足を動かしてみて。歩ける?」


 希桜は止柊の膝から降りて、探るように何度か足で地を叩く。それから止柊と鳴葉の周りを歩いて二周した。


「あるける。ありがとう、ししゅうさま」


 希桜が止柊の膝に足をついて、彼の顔を舐めた。その体を片腕で抱えた止柊は、空いた手を鳴葉の頭に乗せる。彼の腕には陽炎と揃いの装身具がはまっており、撫でる動きに合わせてからころ鳴った。


「僕はこの子を縄張りに戻してくるよ」

「お願いします。希桜、たくさん食べて、大きく育つんだぞ」

「うん。またね、めいよう」

「……またな」


 鳴葉は一瞬声を詰まらせた。しかし、すぐに破顔して挨拶に応えたのだった。

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