03 推しへの命題

「ごめん。暑い。服着てるの、無理なくらいマジで暑い……ね。水無瀬さん。こんなにも汗をかくのに、もう化粧とか要る?」


 部屋に入るなり慌てて化粧台に駆け寄った私は、クッションファンデを塗って口紅くらい付けようとしていたんだけど、その姿を見た芹沢くんは冷静にそう言った。


「ダメダメ。そういうので、諦められるような問題じゃないの」


 これは、推しの前ですっぴんで居られるのか? という命題なのだ。推しの前では、いつも自分史上最高の自分で居たい。しかも、部屋の中に二人きりというこのシチュエーションで、すっぴんは無理。


 世界中の推しを持つすべての存在が、私の気持ちに同意してくれると信じている。


「うわ。何もしてないのに、汗ヤバい……これだとなんか熱中症、起こしそう。水無瀬さんも、悪いことは言わないから。俺のことは気にせずに出来るだけ、身軽になったら?」


 爆速で簡単時短メイクを終わらせた私に、芹沢くんは上半身裸のままで稼働中だった扇風機の風を私の方に向けつつ、そう言った。


「あっ……うん。ありがとう。芹沢くんに、向けて良いよ。お客さんだし。私、だいぶ部屋サウナみたいな状況には、もう慣れて来たし」


 三日前にエアコンが壊れてからというもの、ずーっとこんな状況だったのだ。最初は課題なんて何もかも忘れて実家に帰ろうかと思ったものの、来週までの辛抱と思って我慢していた。


 修理業者が来てくれる日がわからないと言われれば多分心は折れていたけど、この日まで耐えればなんとかなると思えば、不思議と耐えられるものである。


「いや、無理。水無瀬さん、使ってよ」


 どうも、芹沢くんは、周囲に居る女の子など有象無象だと思っているのかと思いきや、レディファーストを大事にする紳士のようだ。


 何をどう言っても頑なな様子を見せる芹沢くんは、家主の私に唯一の涼める機械を譲ってくれたままになってしまう。


 私はこの状況を、どうしようかと思案しつつ、アイスを二つだけ取り出して、後は無造作にコンビニ袋を冷凍庫の中に放り込んだ。


「……それじゃあ、こうしよ」


 そう言って、暑さに回転の鈍った頭で考えた解決法で芹沢くんのすぐ隣に座った。なんだか恥ずかしいけど、仕方ない。


 私の推しは、普段は冷たく見えるけど本当はこうだろうと夢見ていた彼像に違わずに、女の子に対して優しいようだから。


「……近いね。俺は良いけど」


 アイスを彼に渡して、首振り機能を調整した私に無表情のままで芹沢くんはそう言った。


「芹沢くんが良いなら、それで良いよ」


 はい、と手渡したパリパリのチョコが取り巻いたバニラアイスはもう既に表面が溶け始めている。慌てて齧り付いた私を、芹沢くんはじっと見ていた。


 もうすぐ手に持っていたコーンを食べるだけという段階になって、私より大分早く食べ終わっていた彼は、溶けたアイスが付いた手の甲を指差した。


「ここ。溶けてるよ。早く食べなきゃ」


 そうですね、と私はそれを舌で舐めとろうとしたら、何故か芹沢くんが舐めた。呆然と見つめる私に彼は不敵な笑みを浮かべた。


「甘い」


 それは溶けたアイスだから。と言おうとして、言えなかった。彼がそのまま、何も付いていない手を舐めたからだ。指を何本か舐めたところで、それまで何も言えずに口をパクパクしているだけの私はようやく声を出した。


「え……なんで」


「美味しそうだから。ねえ。水無瀬さんて、俺のファンって言ってたよね……確かにファンなんだろうけど、そこには恋愛感情って存在してるの?」


 話しながらも続ける指を舐めている行為が、ひどく艶めかしいものに思えて来た。私は逃げ腰になりつつも、その場から身体を動かせない。


 嫌なら、手を振り払うべきだ。私たち、付き合ってないし。こういうことする、深い関係じゃないし。


 けど、嫌じゃなかった場合、どうしたら良いの?


「……えっ……そりゃ、芹沢くんのこと、好きだよ。でも……」


 それは、推しのアイドルとしてであって、まさか付き合えるなんて思ってないし、絶対に自分には振り向かないってわかっている人をネタに、皆と一緒に騒いでるのって楽しいし。そういう関係になりたいなんて……今まで、全然考えたこともなかった。


 そういった私の良くない本音なんて、お見通しみたいな芹沢くんは、言質を得たとばかりに唇を押し当てた。


 柔らかな感触がしたと思ったら、彼の舌は話している途中で開いていた唇の中に押し入った。熱い舌が口の中でとろけると思ったけど、それは錯覚だったみたいで歯列をなぞったと思えば引っ込み思案な私の舌を吸い込んだりと好き勝手して出て行った。


「あっつー……水無瀬さんも、脱いだ方が良いよ。ねえ?」


 弟のバンドTシャツが下からまくり上げられて、剝ぎ取られたのは一瞬だった。すぐに背中にあったホックは外されて、汗が溜っていた胸の谷間を芹沢くんが目に止めたのを感じた。


「ちょっ……芹沢くん……?」


「うん。俺のことを好きな女の子と、二人きりで密室の中。もう、こうなるしかない。部屋に入れた後悔なら、後でして」


 胸に顔を埋められて、汗を狙うように舐められたのを感じた。そして、晒された生肌に当たる彼の熱い筋肉も、暑さでしっとり濡れているのがわかってしまう。間にある液体が潤滑油になって、ぬるぬるした感触も変な気持ちになるのを助長した。


「ひゃっ……ちょっとちょっと待って! 汚いよね!?」


「いや、暑いし……シャワー浴びても、どうせこうなるよ。同じこと」


 これを止めようと言った私の言葉を、シャワーを浴びように誤変換した芹沢くんは、また遠慮なしに事を進めていく。舐められているうちに先の尖った乳首に吸い付いて、あとはもう彼の舌が上半身を縦横無尽に動くのを、戸惑いつつ感じているしかない。


 私はというとこれが最初な訳でもなかったので、この後に起こることをはしたなくも期待してしまっている自分が居た。高校生の時に一時付き合った幼馴染は、浮気されて別れてしまった。その時の彼氏と比べてしまうと前戯の経験値が段違い過ぎて、期待しかない。


「……芹沢くん……あつい」


「俺も暑い。けどもう、止められない。ごめん」


 いきなり短パンと一緒に下着が足から引き抜かれても、私はどうしても彼を拒めなかった。


 付き合う前にしてしまうと、その男とは付き合えないという恋愛マスターの美穂ちゃんによる忠告なども頭にチラついた。


 けど、よくよく考えると芹沢くんとは正式に付き合えることはない。お互いに決めた人も居ないというのだから、ここは割り切った一夜で良いのではという……流されてしまいたい願望の私が脳内会議で勝利した。


 躊躇することもなく足の間に舌を這わせた芹沢くんは、特に狙いを定めることなく、がむしゃらに周辺を舐めているようだ。さっき、胸の間に溜った汗も舐めていたし、もしかしたら体液フェチなのかもしれない。


 私が久しぶりに達した快感に呆然としていると、いつの間にか下着も脱いでいた芹沢くんはどこからか取り出したコンドームをそれに装着していた。


「せりざわくん……?」


「完全にお守りになってたけど、持ってて良かったー……先に言っとくけど、これ一個しかないから、出来るだけ長く持たせたい……」


 良くわからない一回だけ宣言をしたと思ったら、ずるんっとすぐにやって来た。

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