第42話 魔法使いの暴走

  階段の下へ落ちていくルベールと、それを見つめるコルテ。

 ジロンドはそれを、血の気がひく思いで見ていた。思考は霞がかったようにどこかぼんやりとしていて、まるで白昼夢を見ているかのよう。


「きみはそれほどまでにルベールのことが……?」


 好きなのか、と問う言葉は声にならなかった。

 否、その前の言葉さえ声になっていたかどうか。


 彼女がルベールを守るのは、これで二度目だ。

 一度目は狩猟場で、ジロンドの魔法で満身創痍まんしんそういになったルベールが、魔獣に襲われそうになった時だった。


 コルテはルベールとの婚約を嫌がっていたはずだ。

 それなのに、なぜ。


 その時の彼女はまだ、どうしてルベールを助けたのかわかっていないようだった。

 彼女が不思議そうな顔をしていたことを、ジロンドは覚えている。


 思えば、狩猟場での一件の時からすでに兆候はあったのだろう。

 一体、いつどこで。ジロンドが目を離したどのタイミングで、そうなったのか。

 甚だ見当もつかないけれど、でなければ、地下墓地にいるルベールにコルテが手を伸ばす──なんて光景を目にするはずがない。


「関係ない。止められない」


 それがルベールに向ける恋心に対するコルテの答えだと悟った瞬間、ジロンドはなにもかも嫌になってしまった。


 親がいないことも、孤児院で暮らすことも嫌だった。

 素質があるからと、魔法使いの弟子にさせられたことも嫌だった。

 マンドレイクに恋したことを馬鹿にされたのも嫌だったし、馬鹿にした上に薬材に差し出せと言う師匠も嫌だった。

 泣く泣くマンドレイクを諦めた自分の弱さが、何よりも嫌だった。マンドレイクの犠牲の上に成り立つ、偉大なる魔法使いという称号も。


 過去から現在に至るまでの、たくさんの嫌だったこと。

 ジロンドが内に封じ込めていた負の感情が、彼の魔力制御を破壊し、ドロリと流れ出す。


 傷からうみを出すように。ジロンドから、澱んだ魔力があふれ出る。

 闇の気配をまとう粘つくような魔力は、ドロリドロリとジロンドをむしばんでいくかのようだった。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ。コルテを奪われることだけは、耐えられない……」


 髪を掻きむしりながら、ジロンドは何度も何度も「嫌だ」と言った。

 まるで子どもの癇癪かんしゃくのようだ。一体おまえは何歳なのだと、幻聴が聞こえる。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ。だってやっと……やっと見つけたのに」


 目の前はもう、あふれ出た魔力で真っ暗だった。

 何も見えない、闇の中。ジロンドの慟哭どうこくだけが響いている。


 あの時もそうだった。

 愛するマンドレイクを犠牲にしなければ、戦争は終わらないと告げられた時。

 それでも承諾できなかったジロンドは、今のように「嫌だ」と拒否した。


 戦争のために泣く泣くマンドレイクを媚薬びやくにしたなんて、そんなのは嘘だ。

 師匠がジロンドのために広めた、真っ赤な嘘。


 真実は違う。

 ジロンドは最後まで、受け入れなかった。

 今のように魔力暴走を引き起こして──そうしている間に、マンドレイクだった彼女は自ら、鍋に身を投じたのだ。


 目を覚ました時にはもう、なにもかもが終わっていて。

 ジロンドは深い悲しみと後悔の中、転生魔法を使ったのである。


「大事にしていたんだ。僕なりに、精一杯」


 なのになぜ、ジロンドの手をすり抜けていってしまうのだろう。

 あの時も、今も。状況は違えど、なにがいけなかったのか。


「ええ、もちろん。あなたはわたしを大事にしてくれた」


 闇の気配をまとうジロンドの魔力が、コルテを形作る。

 まるで影のような彼女は、ジロンドの声に「わかっていますよ」と答えた。


「何をわかるって言うんだ」


 影のくせに、ぬくぬくとあたたかい。

 お日様の光をたっぷり浴びた、土の匂いがする。


 腹立たしいと思うのに、愛しいという気持ちがとめどなく溢れて、ジロンドは困惑した。


「全部挙げろって言われたらキリがないですけれど……。あなたに大事にされた、と。わたしがそう思うってことが、重要なんじゃないですか?」


 コルテのふりをする影が、ジロンドの手を取った。

 そしてゆっくりと持ち上げて……やわらかな頰をすり寄せてくる。


 甘えるようなしぐさに、胸が躍る。

 泣き叫ぶほど欲していたものが簡単に手に入ったものだから、ジロンドは(これは夢だ)と思った。


「ほら、確かめてみてください。こんなことを許してしまうくらい、わたしはあなたのことが──なんですよ?」


 ジロンドにばかり、都合の良い夢を見ている。

 当然だ。ジロンドの夢なのだから。

 肝心な言葉を聞けないのもまた、彼らしい。


「夢ならば……良いだろうか? ねぇ、コルテ」


「はい」


「僕は、きみが好きだ」


 手に添えられた小さな手を取り、ジロンドは唇を寄せる。

 懇願するように彼女を見つめながら、ジロンドは言った。


「ルベールではなく僕を……選んでほしい」


「ジル様を?」


「ああ。僕を選んでくれたら、生涯きみを愛すると誓おう」


「不老長寿のあなたが、生涯?」


「ああ、生涯をかけて愛し抜く」


 ジロンドの精一杯の告白に彼女は困った顔で息を止めて……フハッと吐き出した。


「重いなぁ」


 茶化すようなセリフに、つい涙腺が緩んだ。

 歳をとると、気が弱くなっていけない。


「重いかな?」


「重いですよ。でも……」


「でも……?」


「嬉しいです。でも答えは直接言いたいから……聞きたいのなら、目を覚ましてくださいね」


 いたずらな指が、ペチンとジロンドの額を打つ。

 額を押さえて、痛みにうめくジロンド。彼はしばらくそうして──やがてゆっくりと、まぶたを押し上げた。

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