第40話 求婚

 やがて、コルテはゆっくりと床へ下ろされた。

 思いのほか丁重な扱いに、空恐ろしさを覚える。


(どこに……到着したの?)


 袋越しに、ひんやりと冷たい、かたい床を感じる。

 袋の独特な香りが邪魔をして、匂いまではわからない。


 おとなしくしていると、気絶したと思われたのか、顔のあたりをさすられた。

 イヤイヤと顔を振って逃げようとすると、袋に包まれたままの不自由な体はグラリと傾いて、床へ転がる。


痛いムムゥ……」


 くぐもった声で文句を言うと、空気が微かに振動したような気がした。


(見えないけれど、笑われている気配がする。誘拐犯に笑われるって……わたしって、一体……)


 情けなさに、身を丸めるコルテ。

 そんな彼女のそばへ、カツカツと足音が近づいてくる。


(何かされる⁈)


 コルテは身を固くしてを待ったが、彼にそのつもりは毛頭なく──コルテを起こしてくれただけだった。


ありがとうムムムムー……」


 無意識に出た、感謝の言葉。

 さらわれているくせに素直に礼を言ったコルテに、彼は今度こそ耐えきれずにフハッと吹き出した。


「もしかして、ありがとうって言ったのか? 誘拐されているというのに、なんて能天気な頭だ」


 袋越しに、ワシャワシャと頭を撫でられる。

 荒い編み目の袋に髪が絡まって、絶妙に痛い。コルテはたまらず、ムームー文句を言った。


「袋のままでは呼吸しづらいか。今出してやるから、暴れるなよ?」


「ムー!」


 袋が取り払われる。

 一気に息がしやすくなって、コルテはプハァーと息を吐き出した。


 呼吸を整えながら、周囲を見回す。

 薄暗い空間にいることはわかるが、暗闇に慣れた目でもここがどこかはわからなかった。

 耳をすませても、ヒントになるようなものは何もない。


 その時。

 小石を蹴るような音がして、コルテは大仰に驚いた。


 一瞬でも彼の存在を忘れていた自分に、あきれる。

 コルテは息をひそめ、そばに立つ男を見上げた。


 使い込まれた軍靴、見慣れない異国風の軍服、腰につけたウィップホルダーにはむちが携帯されている。

 これ以上は、見なくてもわかった。


(鞭を愛用するなんて、あの人しかいない)


 それでも、かすかな望みを抱いて仰げば。

 襟足の辺りで無造作に結えた赤茶色の長い髪と、神経質そうな尖った顎が見えた。

 恐る恐る上へ視線を向ければ、狐のような細い目と視線が絡む。


 もともと細い目が、コルテを見るなり弓形にしなる。

 獲物を前に舌なめずりをしていそうな風貌に、コルテは意識が遠退きかけた。


「ふむ。ちゃんとおとなしくできて、えらいじゃないか」


 猫をあやすように、顎下をくすぐられる。

 そのまま手はコルテの後頭部へとまわり、猿轡さるぐつわを外された。

 解放されたのに、コルテはまるで首元に刃物を突きつけられたような気分になって、カタカタと震えることしかできない。


「いい子にしていなさい、コルテ。私はおまえを助けたいだけだ。実験動物として死ぬまでジロンドにこき使われるなんて、嫌だろう?」


 なにを言っているのだろう、この人は。


(言うに事欠いて、助けたいですって? わたし、あなたから隠れていたんですけど‼︎)


 ルベールへの嫌悪感をジロンドへの嫌悪感と勘違いしたのだろう。

 彼はコルテの目に浮かぶ苛立ちに同意するように、尊大な態度でうなずいた。


「結婚さえしてしまえば、ジロンドも手は出せまい。実験動物として生きるより、私の妻になる方がずっと幸せに決まっている」


 なにを言っているのだろう、この人は。

 本日二度目のセリフを飲み込んで──というより、呆れてものが言えなかったが正しい──コルテはうつけたようにルベールを見た。


「おまえに助けられた時、私は気が狂いそうだった。この私が、女に助けられるなんて、と。だがしかし、謹慎している間、頭に浮かぶのはおまえのことばかり。そして、気がついたのだ。おまえこそ、私の相棒にふさわしい。結婚し、ともに戦場を駆け抜けよう。私たちならきっと、良いパートナーになれる」


 狐を思わせる顔は、いかにもずる賢そうだ。

 しかし、言っていることは勘違いも甚だしい。


(そもそも、わたしが実験動物にされているだなんて、どうしてそんな発想に至るわけ?)


 ジロンドはコルテを大切にしてくれている。

 特別な弟子として、目をかけてくれている。


 部屋を分け与え、食事をともにし、一対一で講義をして……。

 彼と過ごした日々を思い返すごとに、とんでもない勘違いをしているルベールへ怒りが湧いてくる。


 だけれど。

 ジロンドがコルテを大切してくれる、その理由を履き違えそうになっていたことを思い出して、彼女はシュンと肩を落とした。


「結婚式は女性のためにあるということくらい、私もわかっている。好きなだけ豪華にすればいいし、それを叶えるだけの資産も十分にある」


 そういうことじゃない。

 そういうことではないのだと、コルテは力なく首を振った。


 今、口を開けばマンドレイクの声が出てしまいそうで。

 首を振るくらいしか、コルテは自分の意志を示せそうになかった。


「遠慮することはない。さぁ、ジロンドが来る前にさっさと行こう」


 天井近くにあった窓から光が差し込み始めた。

 日が昇り始めたのだ。


 白とも黄色ともしれない光が明かり取りの窓から差し込み、部屋の中を照らす。


 背後に見えるのは、地下へ向かう階段。階段の手前には看板が立ててあり、『ここから先は死者の国。お心静かにご入国ください』と書いてある。

 どうやらここは、地下墓地へ降りる階段がある部屋らしい。


(朝がきた。ジル様が、迎えに来る……)


 名残惜しそうに何度も振り返るジロンドを見送ったのが、随分と前のことのように感じる。

 コルテはここで、ジロンドを見送った。


 コルテに関しては過剰なほど過保護なジロンドだ。

 彼はきっと、朝早くに迎えにくるだろう。もしかしたら今すぐにでも、扉から姿を現すかもしれない。


(この光景を見て、ジル様はどう思うかしら?)


 嫌な予感がする。

 それも、特大の。


 ルベールに対し、挑発するようなおとなげない態度を取っていたジロンド。

 狩猟場での一件を思い出して、コルテは青褪めた。


(駄目だ。このままでは、ルベール様が危ない)


 ルベールに対して、好意はない。

 しかし、彼が矜持を曲げ、コルテと対等なパートナーになろうと心を入れ替えたことで、コルテは彼のことを拒否しきれなくなっていた。

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