第15話 懐かしい香り
「さぁ、今日も参りますよ!」
両そでをグイとまくり上げ、コルテは部屋の前へ立った。
目の前には、分厚い扉が一枚ある。
ここは、ジロンドの実験室の前だ。
魔塔で一番分厚い扉が、その証拠である。
キッチン、クローゼット、薬棚。
先週はジロンドの私室を片付けたので、今週はジロンドの実験室である。
「ガンバルゾー」
なんともぬるいジロンドの掛け声に合わせ、取っ手に手をかける。
扉を開けた瞬間、プンと独特の香りが鼻をくすぐった。
懐かしい匂いに、コルテは前世の頃に呼び戻されたような錯覚を抱く。
あれは、いつのことだろう。
マンドレイクには厳しい冬で、コルテは窓の前に置かれたガラス容器に移されていた。
人間が使う椅子が一脚入るくらいの家の形をしたガラス容器で、窓から差し込む光がポカポカとコルテをあたためる。
グツグツと煮える大釜。
ゴリゴリと薬材をすり潰す音。
机の上にはいつも、かび臭い大きな本が開かれていた。
どれかが欠けてもなし得ない、独特の香り。
コルテは無意識に、笑みを浮かべた。ああ懐かしい、と。
「女性はこの香りを嫌うものだと思っていたけれど……きみは違うようだね、コルテ」
「え? ええ。嫌いじゃないです」
「ふぅん、そっか。さすがだね」
なにが、“さすが”なのだろう。
不思議そうに、コルテは小首をかしげた。
部屋の入り口に立つコルテの脇を、ジロンドが通り抜けていく。
ふと見えたその横顔は、どこか嬉しそうに見えた。
ジロンドの実験室は、危険を伴う場所のためか、他の部屋よりも被害は少ない印象だった。
他の部屋が汚部屋率100パーセントだとしたら、ここは60パーセントくらいだろうか。
ちなみに、コルテの部屋の汚部屋率はほぼゼロである。
彼はコルテのために、かなり無理をしてがんばってくれたらしい。
(ありがとうございます、ジル様)
どうやらコルテは、かなり……大歓迎されていたようだ。
改めて感じる彼の優しさに、コルテはジンと胸を熱くした。
(どういうつもりで親切にしてくれるのか、まだわからないけれど……いつか恩返ししたいな)
慣れた様子で部屋の奥へと向かっていくジロンドの背中を見つめ、心の中で感謝する。
そうしてコルテは、実験室へ踏み入った。
四方の壁には作り付けの本棚。もちろんぎっちりと本で埋め尽くされている。
本棚の前には、既読なのか未読なのかもわからない本たちが、いくつもの塔を形成していた。
等間隔で並べられた机の上には実験道具が並び、休むことなくコポコポと音を立て続けている。
その傍らには、カビの生えた大きな本。本のうえに散らばっているのはもしや、クッキーの食べこぼしだろうか。
(そういえば、わたしの部屋にもクッキーの瓶を置いていた……ジル様は、クッキーが好物なのかな)
さすがに安全面を慮ったのか、きちんと通路は確保されている。
天井からぶら下がった薬草に蜘蛛の巣がかかっているのを見て、コルテは「もったいない」と嘆息した。
「あ。今、蜘蛛の巣のせいで薬草の価値が落ちたと思っただろう」
図星を指されて、コルテはギクリと肩を震わせた。
ジロンドは意地悪な顔で、ニヤリと笑う。
「え? ええ、思いました、けど」
「あの薬草はどこにでもあるものだから、希少性はない。だからこうして蜘蛛の巣を集めるためにわざとああしているのさ」
「ああ、そうなんですか。それは、失礼を──」
ふっと影が落ちる。
のけ反るようにして背後を見上げると、ハリオスがヌーンと立っていた。
「
「あ、ハリオスさん!」
ハリオスの広い肩には、五匹のマンドレイクもどきたちが座っている。
まるで止まり木のようだなと思いながら、コルテは「お疲れさまです」と声をかけた。
ハリオスとは、会えばあいさつをする程度の関係だ。
ジロンドへの用事のついでに、話しかけられている。
魔塔には他にも何人かの魔法使いが在籍しているが、まだ顔を合わせたことがない。
汚部屋と化した魔塔の最上階へ足を踏み入れられる猛者はハリオスしかいないようで、不本意ながら彼が伝書鳩のような役目を果たしているらしい。
「コルテさんも、お疲れさまです」
相変わらず、表情が読めない人だ。
開いているのかいないのかわからないような糸目だが、声はひどく穏やか。
聞けば占いを得意としているそうで、なるほど、胡散臭さがにじみ出ているような顔さえ出さなければ、うっかり弱音を吐いてしまいそうなくらいにやわらかな声をしている。
「ところで、騙されているとはどういうことでしょう?」
「そのままの意味です。あの草は確かに希少なものではありませんが、蜘蛛の巣なんて魔塔のあちこちにありますから。あれはジロンド様の怠慢が招いた、ただの結果です」
「あら。そうなんですか? ジル様」
「んー……あー……そうかも、ね」
白々しく視線を逸らすジロンドは、わかりやすすぎる。
年齢のわりにひねていないというか、素直すぎるというか。
まるで子どものような彼に、コルテはクスクスと笑い声を上げた。
「ジル様。お掃除が苦手なことはもうバレていますから、もう隠さなくても大丈夫ですよ?」
「あー……ウン」
恥ずかしかったのか、ジロンドはハリオスの脇ばらを小突いていたが、急ぎの依頼がきたと聞くと慌てて出ていった。
去り際に「なんでかっこつけさせてくれなかったんだ」とぶつくさ言っている声が聞こえたような気がしたが、コルテが振り返った時にはもう、二人の姿はなくなっていたのだった。
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