2章
第9話 真夜中の騒ぎ
「起きてください」
揺り動かされて、意識が浮上する。
興奮してなかなか寝付けなかったコルテは、「やっと眠れたのに」とボヤきながら目を開けて──固まった。
薄暗い部屋の中、コルテが眠るベッドの横に、一人の男が立っている。
てっきりマンドレイクもどきの仕業だと思っていたコルテは、心の底から驚き、息を飲んだ。
大声を上げなかったのは、長年にわたる無言の成果でしかない。
こんな時まで声を出さない自分に、少なからずコルテは落ち込んだ。
「コルテお嬢様」
となると、思い当たるのは執事である。
(こんな時間に、なにをしているの?)
そもそも、彼が別館に来ること自体珍しい。
父のようにまるきり来たことがないというほどではないが、数カ月に一度来るかどうかという程度で、定年退職者の手続きをするためという目的以外で来たところを見たことがなかった。
(今月はここへ来るはずがないのだけれど)
そもそも、こんな夜更けに、年配とはいえ男性が訪ねてくるのは非常識である。
暗がりに見る執事の顔は、積雪に反射した月明かりのせいか、ひどく青白い。
どう見ても、普通ではない。
黙って立っていられたら幽霊だと勘違いしそうなくらい、彼の顔色は悪かった。
声を出して失神させるわけにもいかず、コルテはしばらく黙ったまま執事を見上げていた。
しかし、見下ろすだけで一向に動きのない執事にジリジリしてくる。
とうとう耐えきれずに執事の服の裾をツンと引っ張ると、執事は途端にビクリと体を震わせて、老いが目立ち始めた顔をくしゃりと
(……どうして)
今にも泣き出しそうな表情に、コルテは戸惑う。
(どうして、そんな顔をしているの)
執事について思い返す時、淡々と仕事をこなす姿しか浮かばない。
父がなにをやらかそうと、彼は眉ひとつ動かさずに粛々と受け入れ、片付けていた。
幼い頃は、その冷ややかな顔立ちに恐れを抱いたものだ。
別館から去る時は、ホッとしたくらいである。
ギョッと目を剥くコルテの前で、執事は崩れるように膝をついた。
「もう限界です、お嬢様」
まるでコルテにすがるのをすんでのところで堪えたかのように、ベッドへすがりつく執事。
彼の尋常でない様子に、コルテは混乱するばかりだ。
それでも不思議と、執事を放っておいてはいけないとコルテは思った。
どうしたわけか、慰めたいとまで思う。
(わたしのことを、見捨てていた人なのに)
おずおずと手を伸ばしたコルテは、執事の肩をいたわるように撫でた。
(だいじょうぶ……?)
初めて触れた執事の肩は、思っていたようなものではなかった。
ブルブルと震える肩は細く、骨張っている。
限界だと言う彼の言葉に、嘘偽りはないのだろう。
それほどまでに、今の執事から感じる気配は弱々しい。
声をかけられないことが、もどかしかった。
筆談用のノートを取りに行くことさえ
どれくらい、そうしていただろう。
にわかに別館の雰囲気が変化したのを感じ取って、コルテは眉を寄せた。
(なにか、あったのかしら?)
すぐそばで気配が動くのを感じて、視線を移す。
見ると、コルテの周りで寝ていたマンドレイクもどきたちが、パッチリと目を開けて扉をにらんでいた。
やがて、遠くの方から荒々しい物音と制止の声が聞こえてくる。
「うるさい……邪魔を……な!」
「なに……お待ち……」
「コルテが……すぐにでも……」
どうやら、誰かがコルテを探しているらしい。
コルテの私室がある場所を知らないのか、次々に扉が開けられる音がする。
コルテの部屋は、別館の中でも奥まったところにある。
入り口に近い部屋から順番に開けていったとしても、たどり着くのはまだ先だろう。
とはいえ、嫌な予感しかしないのも確か。
執事を連れて逃げるべきかと思い始めたその時、この世の全ての呆れを煮込んだような深いため息が聞こえてきた。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
重々しいため息を吐きながら、執事は彼をねぎらう少女の手を取った。
「申し訳ございません、お嬢様」
執事は名残を惜しむかのように、コルテの手を恭しく両手で包み込んだ。
その口から紡がれるのは、独り立ちする子どもや嫁入りする娘に贈られる祈りの言葉だ。
(ま、まさか……わたしをルベール・ヴィラロンに引き渡すつもり⁉︎)
なんてことだ。
恩を売るつもりでやっていたことではないけれど、コルテは気持ちを踏みにじられたような気分になった。
(別館を荒らしているのは、ルベール様? それとも、お父様?)
どちらにせよ、捕まるわけにはいかない。
なんとしてでもここから脱出し、魔塔へ向かわなくては。
(魔塔にさえたどり着ければ、ジル様がなんとかしてくれるはずだわ)
ジロンドに頼りきることに若干の抵抗はあるものの、今はそれしか道がない。
リナローズ男爵邸から出たことがないコルテでは、魔塔へたどり着けるかもわからない危うい状況なのだから。
ジロンドがなんとかしてくれる。
そんな希望を抱かないと動けないほどに、今のコルテは弱い存在だった。
弱々しい老人にしか見えない執事を突き飛ばすことに、罪悪感を抱かないわけがなかった。
けれど、執事はコルテの味方ではない。情け容赦なくコルテをヴィラロン伯爵へ渡そうとしている、敵なのである。
(感情に流されては、だめ)
ここに留まれば、ルベールの妻にされてしまう。
ようやく手にした明るい未来への切符を、取り上げられてしまうことになる。
(それだけはイヤ)
今なにより優先されるのは、逃げること。
コルテは、執事の手を力一杯振り切った。
意表をつかれたのか、執事はドサリと尻もちをつく。
立ち上がろうともたつく姿を見たコルテは、罪悪感でいっぱいになった。
「ギィ!」
マンドレイクもどきの声がなかったら、手を差し出していたかもしれない。
我に返ったコルテは、ぎゅっと拳を握ると執事から顔を背けた。
そのままベッドから降りて、出口へと向かう。
その後ろを、マンドレイクもどきたちが追いかけた。
鉢植えがヨチヨチ歩いているのを見た執事は、ギョッとしながら床の上を後退りする。
しかし、ドアノブが回る音にハッとなった彼は、急いで立ち上がると、扉とは正反対の位置にある窓を開け放った。
「お嬢様、逃げるならどうぞこちらへ。そちらからでは、見つかる可能性がございます」
ご丁寧に窓辺へ椅子を寄せて足場を作りながら、執事は言った。
「もう間もなく、ヴィラロン伯爵家から迎えが来るでしょう。ニノス様は、コルテお嬢様をヴィラロン家へ渡すことで、責任を転嫁しようと考えているのです」
そこで一度言葉を切ると、執事は忌ま忌ましげに舌打ちした。
湧き上がる怒りを整理するかのようなしぐさに、相当鬱憤がたまっているのだなぁとコルテは思う。
「何度も説得を試みましたが、今回ばかりはもう私の手には負えません。偉大なる魔法使い様の反感を買うなど、馬鹿がすることですから」
どうやら執事は、とうとう父に見切りをつけたようだった。
吐き出された「馬鹿」には、悪意と失望が詰まっている。
「私は当主様が愛したリナローズ家を守りたい。しかし、ニノス様が当主のままではいつ取り潰されるかわかりません。これを機に引退していただき、以後は新たな当主様と守っていく所存です」
執事がそう思うのも、無理はない。
現当主である父は、どう
(新たな当主というのは、弟のことかしら)
とはいえ、コルテの記憶に弟の姿はない。
どんな姿をしていて、どんな性格をしているのか。
家族ならば当然知っていることを、コルテは知らない。
正直に言うと、リナローズ家自体がどうでも良かった。
きっと、魔塔に行くと決めたあの瞬間から、この家との縁は切れたのだ。
「ですから、お嬢様……決して、お戻りにはなさいませんように」
コルテを見つめる目は、静かな覚悟を秘めていた。
戻れば容赦なく利用する。嫌なら逃げろと言わんばかりに。
なるほど、執事には執事の事情があるようだ。
コルテにはコルテの事情があり、今は手を取り合う時だということなのだろう。
「裏口に馬車を用意しておきました。乗れば、すぐに魔塔へ向かうでしょう」
コルテは用意していたトランクをつかむと、扉へ背を向けた。
執事から渡されたブーツを履き、窓から飛び降りる。
浅く積もった雪の上、着地するとサクサクと音が鳴った。
「コートをお持ちではないのですか?」
そんなものはない。
コルテがフルフルと首を横に振ると、執事はベッドから毛布をはがし、彼女を包んだ。
そうしている間に、マンドレイクもどきたちもコルテの後を追ってピョンピョンと飛び降りてくる。
月明かりの下、マンドレイクもどきたちの案内を頼りに、コルテは裏口へ向かって歩き出した。
(そういえば……あの人はお父様のことを当主様と呼んだことがあったかしら?)
遠ざかっていく、自室の窓。
揺れるカーテンの向こうに見え隠れする執事をチラリと見ながらコルテは、
(わたしは聞いたことがなかったわ)
と思った。
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