1章

第2話 コルテ・リナローズ

「喜べ、コルテ。おまえに婚約の打診がきたぞ。これ以上ない良い縁だから、よろしくお願いしますとお答えしたからな」


 リナローズ男爵家の当主である父から告げられたのは、成人してから二年も経った日のことだった。


 グランベル王国の貴族は通常、成人してすぐに婚約する。

 男爵令嬢であるコルテは当然、婚約していなければならない年齢だ。

 なにせ、二年も経てば問題ありの烙印らくいんを押されたも同然で、成人前から相手を探すことが貴族社会の慣例となっているからである。


(数十年前まで続いていた戦争の名残らしいけれど……今となっては無意味よね)


 だというのに、今の今までコルテに婚約話がなかったのは、ひとえに彼女の存在を父が忘れていたからだ。


 少なくともコルテは、そう思っている。

 事実、父の執務室に呼び出されたのは、記憶にある限り初めてのことだった。


(でも、助かったわ。少なくともこの部屋にいる間は、寒い思いをしなくて済むもの)


 悪い予感はしたものの、こうしてのこのこと執務室へやってきてしまったのは、部屋が寒すぎるせいだ。

 コルテはかじかむ手をこすり合わせながら、執務机の後ろにある窓へと視線を移した。


 大きな窓から見えるのは、うっすらと雪が積もる冬景色。

 雪を見るのは何年振りだろう。子どもの頃だったらいざ知らず、大人になった今はうんざりするだけだ。


(毛布だけで、この寒さをやり過ごせる気がしないわ)


 気づいた時にはもう、コルテの家は本館ではなく別館だった。

 父と義母、弟と妹の五人家族。みんなは本館で暮らしているのに、コルテだけが別館で暮らしている。


 幼い頃は、母と血のつながりがないせいだと思っていた。

 だって、おとぎ話にはよくある話だったから。


 だけれど、本当は違ったのだ。

 悪意ある使用人によって、コルテはその理由を知ることとなった。


 落ち込まなかったと言えば、うそになる。

 しかし、自分を無視するのに十分な理由だと思ったから、コルテは粛々と受け入れた。

 今は毎日を生きることに忙しく、こういうものだと思うだけだ。


(怒る余裕さえ、今のわたしにはない)


 歴史だけは古いリナローズ家の屋敷は、もともと公爵家が所有していたものだった。

 数代前の当主が公爵を助け、そのお礼に賜ったのがこの屋敷らしい。


 公爵家の所有だったこともあって、リナローズ邸はどこもかしこも美しい。

 だが、それは表に見える本館だけ。

 裏手に建っている別館は、当時はとても美しい建築物だっただろうに、今やその面影すらなく。コルテが使っている間、一度だって手を入れられたことはなかった。


 コルテが素人ながらに頑張ってみたところで、焼け石に水。

 しばらく改装していないせいで、別館はボロボロだ。


 寒いし、じめじめしているし、カビ臭い。

 広さはあるが、閉塞感のある使用人部屋が天国に思えるくらいの悪環境である。


 そんな場所で働く使用人たちは、定年退職間近の年配者ばかり。

 あちらはぎっくり腰、こちらは骨折……と、なにかと休みがちな使用人たちの面倒を見ながらの生活は楽ではない。

 裏庭でガーデニングをすることだけが、コルテのささやかな日々を支えていた。


(戻ったら鉢植えを中に入れてあげなくちゃ)


 家族のように大事にしている植物たち。

 この冬を乗り切るためには、どうしてあげたら良いのだろう。


 コルテが頭を悩ませていた、その時だった。


「相手は、次期ヴィラロン伯爵様だぞ」


 耳に届いたその名前に、コルテはなるほどと納得し、ひっそりとため息を吐いた。


 男爵家の令嬢に、伯爵家との縁談。

 通常であれば、喜ぶべきシーンなのだろう。


 なにせコルテは、問題を抱える男爵令嬢。

 男爵以下の準男爵か騎士、あるいは裕福な商家に嫁げれば御の字といったところなのである。


(でも……)


 うれしそうに語る父のこめかみに脂汗がにじんでいるのを、コルテは見逃さなかった。


(わたし相手なら、騙し通せると思っているのね)


 なにせコルテは、社交界も知らない箱入り娘。

 屋敷の外のことなんて、知りようもない。


(でも……わたしは知っているのです)


 婚約の打診なんて、とんでもない。

 これは、そんなにやさしい話ではないのだ。


 つい先日のことである。

 コルテの父は、王宮の夜会に参加した。


 煌びやかな会場、すてきな音楽、おいしい料理に珍しい酒。

 男爵家では到底手を出せない高価な酒をここぞとばかりに飲みまくった父は、泥酔したあげくにやらかしてしまった。

 よりにもよって、ヴィラロン伯爵に絡んでしまったのである。


 ヴィラロン伯爵家と言えば、加虐趣味を持つことで有名な一族だ。

 吊り上がった切れ長の目は悪賢い狐を思わせ、戦場ではそれを体現するかのように、狐が小動物をなぶるが如くじわじわと追い詰める。


 三度の飯より、悲鳴が好き。

 数代前の当主は、そう言ってほくそ笑んだのだとか。


 長い平和が続いている現在、彼らのフラストレーションは妻へと向けられているらしい。

 表立って言う者はいないが、陰では「嫁いだ者はみんな精神を病んだらしい」とまことしやかにうわさされていた。


 そんなうわさがあるためか、それとも遊学と称して遠方の戦地を嬉々として駆け回っていたせいなのか、後継者であるルベール・ヴィラロンは成人してかなり経つのに婚約者がいなかった。


 それを良しとしていなかったのは、ヴィラロン伯爵の姉でルベールの伯母おばであるサロニカ侯爵夫人である。

 彼女は格好の餌食を見つけて目を輝かせはじめたヴィラロン伯爵を宥め、見返りにリナローズ男爵家の令嬢を所望した。


(わかりましたと素直に答えて帰宅したくせに、なんとか逃げる方法はないかって執事に泣きついていたそうじゃない)


 小心者で、有能とは言い難い父らしい行動だが、男爵家の当主としてどうなのだろう。

 この家がうまく機能しているのは、先代が育て上げた有能な執事のおかげに違いない。


(とはいえ、こうしてわたしが呼び出されたということは、執事が入れ知恵したということ。いっそお父様だけでなく執事も忘れてくれていたら良かったのに)


 そうしたら、少なくともヴィラロン伯爵子息との婚約は回避できたはず。

 男爵家にはもったいないくらいの愛らしい顔立ちをした妹ーーキティラには悪いが、コルテだってこんな縁談はごめんである。


(うちの執事は有能だもの。もちろん、わたしが抱えている問題についても考えていることでしょうね)


 コルテ・リナローズは、重大な問題を抱えている。

 相手に加虐趣味があるというなら、なおさら避けて通れない問題だった。

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