第3話

 私は暗い気持ちで家を出た。足取りも重い。空気はなんだか冷たくてうまく吸い込めないし、空もどんよりしている。

 歩いて数分の電車に乗ると同じような顔をした人々が同じような服を着て並んでいる。これが社会なのか。ただの死を待ちわびている人たちの行列みたいだ。その中に何かを感じた。見覚えのある、何か。それをはっきり理解したとき、声が出ていた。

「あっ!」

 彼だった。彼はスマートフォンを見ているのではなく一生懸命になにか単行本を読んでいる。でも、目が字を追うスピードがそこまで早くないし、行ったり来たりしている。見つめられているのがわかったのか、彼もまた私を発見して嬉しそうに手を振った。

「なんだ! 会えたじゃん! おはよ」

 私は彼が私の返信していないことなんかとっくに忘れて、笑ってしまった。

「何読んでるの?」

「智恵子抄。ちょっとまだ俺には難しかったかも……」

「高村光太郎?」

 彼は人懐っこい笑顔で、そうと頷いた。

「なんだ、まい。ちゃんと喋れるじゃん。俺心配してたんだよ」

 私は呆気にとられた。私の名前を憶えているなんて。そういえばこの男はクラス全員の名前なんてばっちり把握していたやつだった。はあ、ひそかにそりゃもてるわけだ。なんて、ちょっと暗くなると、すかさず彼は私の目をのぞき込んで、申し訳なさそうにうなだれた。

「ごめん。名前呼ばれるの嫌だった?」

「そうじゃなくて」

 私もなんとなく覚えている。彼の名前は後藤俊太。後藤だ。

「びっくりしただけ」

と私のほうが申し訳なくなって、硬いコンクリートを見つめる。

「相変わらずクールだな。そこがいいんだけど。今から出社?」

「うん、そっちもは?」

「俺は前残業ー。でも頑張るわ。もう会えないと思ってたから」

「なにそれ」

「俺、返信のタイミングに迷うほうでさ。もうさすがに嫌われたんじゃないかなって」

「後藤、意外と小心者だね」

 私はそう言いつつ、なんだ似た者同士だったじゃないかと安堵した。人と人との距離に迷っているのは自分だけじゃないのだ。

「ばれたか。別に俺は仲良くしてもらってるやつらが多いだけで、本人は地味なんだ」

 スーツのせいで余計に小綺麗に見えるのはもともとのセンスがそこまで悪くないからだろうか。それとも、それは彼女がいてその子が選んでくれいているのだろうか。私はまた邪推をして一人で暗くなる。でも、高村光太郎なんて読むのか。

私は彼の少しだけ大きい手に持たれた詩集を注視していると、後藤がおそるおそる口を開いた。

「まいが読む? これ気になってたから買ったんだけど、難しくて。まいならちゃんと読めそう」

「てか、まいまいって連呼されても」

「ごめん。君の苗字クラスに二人いたじゃん。だからつい」

 そうだ、私の苗字は佐々木。クラスに二人いたから私は下のほうで呼ばれることが多かった。

「じゃあ、まいさん。俺の代わりに読んで、教えてよ。よかったら」

「なんで」

「俺、小説より論文読解のほうが得意なんだよ。まいさんだっていつも成績上位だったじゃん」

「根暗の特権でしょ」

「俺もこんな歳で智恵子抄読むくらいには根暗なの」

 私は黙った。後藤が悲しそうな顔をしたからだ。私の知らない間に何がおこったかはわからない。だけど、その表情はとても痛ましかった。

「あ、じゃあ、読む」

 私は、後藤から本をもらう。そのときの手渡し方が妙にふわりと優しくて驚いた。まるで壊れ物を扱うかのような力加減。もっと、明るいからぽんと渡してくると思ったのに。

 そんなことを考えていると、後藤はさむっといいながらコートのポケットに手を突っ込んで、「じゃあまたな。俺こっちだから」と極めて明るいトーンで言って突っ込んだはずの手をわざわざだし、ひらひら手を振った。

 私はまたもやそんな後藤を見ていられなくなって、すぐに立ち去った。

ところが罪悪感からすぐには立ち去れなかった。私は後藤のほうを振り向いて少しだけ手を振った。後藤は破顔して嬉しそうに反対行きの電車に飛び乗った。

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