第2話
「いたんですね、先生」
「いらっしゃい」
見覚えのある上質な空間と柑橘系の甘い匂い。わざとらしくもある、アクセサリーをじゃらじゃらつけて声の主は言う。
「とりあえず、この間は僕が助けられてよかった。あなたはなんだか近いような気がしたから」
また、この男はお酒を飲んでいる、だが今日は日本酒のようで、手酌で熱燗をすすっている。でも、今は朝だ。早朝の五時。本当にこの部屋は繋がっているのか。
「その節はありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。感謝している。命を拾われたのだ。あの、私の汚く気持ち悪い思いが詰まったファンレターに添えた絵で、彼は私を知った。そして、この部屋に匿い、私を助けたのだ。
彼は、この間より不機嫌で何も話さない。柔らかかった雰囲気がどことなく冷たくとがっている。
「あなたは聞かないんですか?」
「なにを」
「なぜあなたを助けたのか」
沈黙が走る。真剣な目だ。こんな目をされては、私は身動きが取れない。野生の獣にかられる前のようだ。
「いえ、あなたが今ココアを出してくれているだけで、別に聞きませんよ」
とわざと努めて穏やかに言うと、彼も反省したのかふっと笑って両手でおちょこを持った。
「じゃあ、いいです。あなたがそう言ってくれるならそういうことで」
彼は前のようなテンションで、またお気に入りなのか例の万年筆と原稿用紙、そしてパソコンを取り出した。
原稿を始めるつもりらしい。
長い前髪をまさかの長めのピンでとめ、腕まくりをした。その時、大きな傷が見えた。私は何も見えなかったふりをしたが遅かった。
「…見た? よね」
私ははてなを浮かべて、今日怖いですよと彼に言った。
「ごめん、うまくいってなくて。ここでは元気なようだけど、ほらちょっと多忙だったみたいで調子を崩してそれで……」
「無理してるんですか」
私が聞いた途端、表情が凍った。おかしいな、と複雑そうに笑う。
「無理なんかしてないよ。……いや、してるかも」
じゃなかったらここには来ないだろう、と私は思ってしまった。
現に私がここにいる理由はこの間の警察の件もあり、精神科なども打診されて、転居して間もなく疲れ果てて寝ていたらくだんのもふもふソファーに倒れていたのだ。私はこの空間があっても、今度こそ私の描き出した幻想で、彼はいないと思った。でも、電子レンジのチン!と言う音と熱燗を手にしてソファーに戻ってきた彼を見て、少し落ち込んだ。一人きりになりかった気がするのに。こころは誰かを求めている。そんな浅はかな欲望を見せつけられているかのようだった。
「……お嫌じゃなかったら、聞きましょうか?」
「ううん、ただそばにいてください。なんだったら、自分のすきなことをしていてください。そのほうが僕も安心します」
本当のことを言っているはずなのに、言葉遣いが丁寧なせいか嘘のようだった。でも、これが彼の本当なのだろう。だれしも本当の姿など、一部しか見えていないのだ。
私は、適当にコピー用紙をもらい、筆記用具を借りた。落書きをするつもりだ。
お互い、飲んでは、集中し、たまにふーと息遣いや、伸びをする。
目が合う。彼は、いつの間にか筆というか執筆が止まっていた。私はあろうことかその手に手を添えようとした。あまりにもしんどそうだったから。
ぱしっと、手がはじかれる、違う、怖くて震えた彼の手が私の人差し指だけつまんでいる。私も、手が震えている。そうだ、私は男の人が怖い。昔から。なにをされたでもない、昔から怖かった、だから、触れられるのも怖い。それだけ。でも、さっきのは拒絶されたのではないか。彼は大丈夫なのか。
「ごめんなさい」
「私もごめんなさい」
「……あなたが男性怖いかと思って、握りなおしたら怖いだろうし、今日は、今回は指先だけで」
「それはあなたが甘えたいんですか?」
私は場の空気を変えようとしてわざと聞いた。彼は赤い顔を隠して、違います!と言った。でも、指先だけは触れている。
私はかなりの勇気を出して、そっと、もう片方の手の人差し指を彼の指に添えた。
「お互い少し休みましょう」
知らないうちに一時間が経っていた。
「はー僕少し落ち着きました」
といつもの笑顔でのんきに伸びをする作家。いや、それはかなり飲んだからではと何回も電子レンジの音を聞いた気がするし。
「私も、落ち着きました」
「本当ですか? よかった」
彼は大きな伸びをして、ゆったりとしたシャツをのばして、もう僕は戻りますねと言った。
私は、頷くと、彼はおそらく本当の気持ちで「また」とだけ言ってパソコンを持って帰った。
結局おかわりしたココアはまだ甘く口の中に残っていて、それを確かめるように私は嚥下して、声に出した。
「ありがとう、先生」
どこかで「いえいえ」と聞こえた気がした。
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