dream in the box

@asaasaasa_5han

第1話

「助けて……! やめて!」

 自分の声が自分の声でないように聞こえる。

 それでも、私の手を強引に引っ張る男。

 私は強く目をつぶった。ぶたれると思ったがぶたれはしなかった。体重をかけてのしかかられる。

 恐怖で震えるどころか体が何も反応しない。

 もう仕方がないんだ、と思ったとき、私の意識はどこかへ消えた。


 記憶がはっきりしているのはそこからである。

 私は明らかにいわゆる趣味のいい黒基調のふかふかしたソファに寝ていた。

柑橘系のいい香りもする。……なんだここ。カウンセリングルーム?

目を開いた瞬間、おそらくこの部屋の主が対面する一人かけソファでお酒を片手にこちらを見ていた。

「起きました? 大丈夫ですか?」

 そこらへんにビールの500ミリリットル缶が転がっているのに本人はやたらと滑舌がいい。

 どうやら、医者やカウンセラーの類ではないようだ。明らかに。

その声が甘く聞こえる。だいぶ酔っているからだろうか。

「あなたも飲みます? まだありますから遠慮なく……」

「あの、助けてくださったんですか? ありがとうございます。でも、お酒飲めないので」

 目がとろんとしているというか若干目が座っている男は長めの前髪からにこっと微笑んでちょっと残念がった。

「僕、てっきりお仲間だと思ってたんですけど、違ったんですね。これは失礼しました。とりあえず、よかったです」

 ここの部屋、僕しかいないので寝ていてください、と男は本来の意味とは違う意味で安心させられた。

 この男、リラックスはしているものの、かなり丁寧だし、礼儀正しい。ここの主である男はどんな人物なのだろうか。

 私はかけられたふわふわのブランケットを綺麗にたたんで、座った。

 私が座ると、いえいえお構いなくとブランケットを再度私にかけた。

 男はこの部屋の香りの主でもあった。香水だ。柑橘系の香水をつけている。よく見れば、その男の顔は愛嬌があるほうだし、指にリング、耳にイヤカフまでつけている。よほどのお洒落さんか、はたまたホストか、裏稼業のひとか。

「あなたは、何者なんですか?」

「ん? 僕ですか? うーん、ただ言葉が好きな人間の一人ですよ」

あなたも、そうでしょう?と男はふんわり笑った。私はまったくわからないという顔をしてしまった。しかし、酒が回っているのか上機嫌な様子である。

「……文字を書くものはだれしも、脳内にその空間を持っている。誰だって持っているけれど、その空間を文章として表現するのが僕たちだ。そして、たまたまその空間が見えたからたまたま繋がれたというわけで」

そんなびっくりしないでくださいよ、と男はむくれてビールを一口含んだ。ぷはー。とてもおいしそうに飲む。

「さ、あなた僕をよんだんでしょう? お酒なくても酔いましょうこの空間に」

 男はとても楽しそうだ。そして、どこからとってきたのか、これまた上質の万年筆と原稿を取り出した。

「えっ、作家さんなんですか」

正直、私はホストかそういう関係の人だと思った。

「ああ、まあ、一応。そんなに有名ではないですけど、知っている方は知っているかもしれません。そもそもあなたが僕の文章を読まなかったら繋がれていないはずです」

そんなもの読んだっけ? 私は最近読んだ本やらエッセイやら文字をとにかく思い出してみたが作者像というものはこれはまたなかなか難しいもので、いったい誰だかわからなかった。

「あの、尊敬している作家さんかもしれないのでお名前を……」

「いえ、それは僕の主義に反するので教えられません」

男はきっぱり言った割に、ごめんなさいねと付け加えた。


 男の調子に巻き込まれること小一時間。知らない間に、互いの緊張はほぐれ、飲めないならお酒のつまみを作って食べようということになり、男はさっきからクックパッドとにらめっこしている。

「あのー、わかるようでわからないんですがひとまわしってどのくらい……」

このくらい、と私はプライパンに適当に醤油とみりんをぶっかけると作家は叫んだ。

「ああああ! 味!」

「大丈夫ですよ。味見ながら調節すればいいんですから」

 私は若干冷ややかな態度をとったかもしれないというか、さっきからこんな調子なので取らざるを得なくなって、この関係に至る。

 私は小さいスプーンをとり、混ぜ合わさった液体をなめる。少しからい。

……まるで、姉と弟だ。かわいそうに。

 憐憫の目で見ていると、それに気が付いたのか、男は少し怒ってくる。が、そんなに情緒が乱れないほうなのか、すぐに機嫌を取り戻す。

例えば、「ちょっとお酒入れますか?」とか。

はっと、男は私を見て、それおいしいんですか?と顔に書いてある。がそんな表情を取り繕って、「……おいしそうですね。いれてください」と丁寧に言った。

案外わかりやすい。「ほら、味見」と息でさましたスプーンを差し出すと、黙ってなめた。

「……おいしい」

腑に落ちないようだ。それはそうだ。おそらく、助けたはずの私からこんな風に扱われるとは想像もしていなかったからだろう。

さらっとできあがったつまみをテーブルに並べると、男はお上品に食べ始めた。いいところの坊ちゃんなのか。

出来は普通らしく、ビールを飲みながらなんだかんだで機嫌がいい。私が疑問符を浮かべていると、ビールとつまみを嚥下し、話し始める。

「お姉さん。ここはね、作り手たちの脳内なんだ」

「さっき聞きましたよ」

「……そうだった。そう、それで、思念が強い作り手は空間を創造することができる。こんなふうに。文字として書き表すとしたものが脳内に空間として逆説的にできるわけです」

「はあ、それで」

「繋がるんです。思考と思考がまるで導線に着火したように繋がって、みえてしまうときがある」

「それは」

「そう、僕は今日あなたのことがみえた。たまたま、です。そういいたいところだけど、僕の欲望とあなたの願望が近すぎた」

「な、に」

「逃げたい、助けてって」

私は黙った。私は男から乱暴されて「逃げたい助けて」と思ったのだ。そのとき確かに思った。……とあるシーンが浮かんで、作家の名前をふと思い出した。

私はわかってしまった。

「僕、どうしてもお酒飲みたくて。いっぱいお酒飲めるところに逃げたいなって思ってしまったんです。強く。あまり体も強くないのに、お酒だけはやめられなくて。そうしたら、あなたが、息絶えそうに、ここの部屋に倒れていた。ここに来ることができるのは、思念が強い作り手、なはず。とりあえず介抱しました。でも、僕その時点で夢をかなえてしまったんですよね」

「えっ、どういうこと」

私が驚いて聞き返すと、男はうつむいて笑った。

「ということで、もうすこしでここの部屋は崩れてなくなりますよ! 僕の部屋よりいい居心地だったんだけどなー」

うん、誰でもいいから、見つけてくれってそう男は私を指さすと胡散臭そうに目を細めた。

 えっ……と言う前に、男は楽しそうに笑いながら浮遊した。体が消えかけている。

「どこかでまた会えたら面白いですね。これはいいネタになりそうだ」

「ちょっとどこ行くの」

「現実へ、じゃあ」

 男は缶ビールを何本も抱えながらのほほんと笑ってどこかに消えてしまった。なにそれ、と絶望感に浸っていると、私自身の体も消えかけている。

「なに、願いが叶ったら消えるの?」

 私はどんな願いを抱いていたのだろうか。なんであの男に会わなくてはならなかったのか。そんなふうに考えていると、私の体も消えてなくなっていった。


 フローリングが冷たい。倒れている。

 でも、どこも痛くないし、ここは私の部屋だ。

 現実にいた、暴力をふるう男もいない。なんで。

 よく聞くと、外が騒がしい。

 知っている声、あれ、なんかこの声さっき聞いた気が、というかさっきまで酒におぼれていた男の声がする。

 伸びてもいない、しっかりした少し甘い声。

 反射的に振り返ると、懸命に現実の男は何かを説明していた。

 そして、私をどうにかしようとしていた男は警察に捕まっていた。

 私は瞬時に理解した。私は確かにあの作家のファンで、ファンレターを送ったことさえある。返事はもちろんなかったけど。

 その何度も読み返した想像上の景色がなぜか走馬灯のように私の中で繰り返されていた。だから、私は作家の部屋まで、行けた。そして、なぜか作家が現実でも助けてくれた。

警察の声が聞こえる。

「お伺いしますが、あなたは被害者のなんなんですか」

その声はどことなくイラついていた。私は怖かった。

「ただのサイン会で一回あったことがあるくらいの、作家とファンです」

「あなたがファンですか? 怪しいですね」

「いえ、彼女も作り手ですよ」

と作家は指をさした。私の、絵。描かれていないキャンバスがひしめいている部屋。灰色ばかりの絵たち。

そう、私はさして名もない絵描きで、ネットで活動しているもののとんと依頼も来ないような知名度の絵描きだった。

「僕は某雑誌に載るくらいしかできない文字書きですけど、お手紙に絵が添えられていたんです。それで彼女を見つけて」

そして、作家は恭しくこういうものですと名刺を出した。

警察は固まる。おそらく誰でも知っている社名とわからない雑誌名と作家名。

そして走ってきた人影の中から「先生! あんたなにひとごとに突っ込んでるんですか! まだ終わってませんよ!」の声。

 のちに走ってきた雑誌の編集からの謝罪があり、警察は態度を改めざるを得なくなった。

「あとで車に乗っていただきますが、ちゃんとお話はお聞きしますので」と引っ込んだ。

 名刺様様である。肩書様様である。

 先生と呼ばれたひとは、私のことを一瞬見て相変わらず爽やかな胡散臭い笑みを浮かべた。そして、口だけ動かした。

 (見つけられたでしょうお互いに)

 私はこのとき、私の趣味がミーハーでよかったと心から思ったのだった。

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