第三葉 6月27/17歳/女性

 雨が降ると気が滅入る様になったのは何時からだっただろう。雨が嫌いな理由は湿った空気が肌に纏わりつく感覚がイヤだったから。雨が降ればどうしたって濡れてしまう。外に出ない日はいいけれど、梅雨になれば学校に毎日行かなければいけない。そうすれば靴も服も髪も肌もカバンも傘だって濡れる。湿っていく身体が、何時までも乾かない肌が嫌で仕方なかった。


 あの日、朝から降り続けていた霧のような雨が下校時にも続いていて、登校時に雨で湿った傘を開くのも億劫に思いながら、玄関口から下校していく生徒達の後ろ姿を眺めていて思った。みんなは雨が降っているから傘を開いている。濡れたら困るから、傘で雨を凌いでいる。けれど、霧のような雨の中を歩いていけばじっとりと全身が濡れていく。それでも傘を差すのは、雨が降っているからだ。


 だから、私は雨の中に出た。閉じた傘を手に持ったまま玄関口を出て、校門を通り過ぎていく。広がる傘の群れの合間を通り抜けていけば、私の全てが雨で濡れていった。霧のような雨粒が目の中に入り、濡れた髪は額に吸い付き、肩から背中からスカートも肩に掛けていたカバンも雨に浸水する。歩く度に革靴に雨水が染み込んでいき、靴下の爪先まで濡れているのを感じる。家へ向かう通学路で傘を差していないのは私だけだったけれど、それでも、暖かく感じた。


 私にとって傘は差さなくてもいいモノになった。梅雨はまだ明けていない。雨が降る日に傘を差してもいいし、差さなくてもいい。そうして見て、私の世界が変わった。


 始めは、スマホを家に置いて学校に行った。クラスメイトと話す時も、休み時間にも、何も困らなかった。次に、授業でノートを取るのを止めた。科目教師の授業は聞いても聞かなくても同じだった。だって、教科書を読めば書いてある事を口に出して、黒板に同じ事を書いているだけで、それをノートに写していたから。ずっと何年も私はこんな回りくどくて、どうしようも無い事を真剣に取り組んでいたと思うと、吹き出しそうになった。


 授業を眺め始めると、教室の生徒は静かで煩かった。教師の言葉は意味が有って、何も喋ってないのと同じだった。毎日の様に、決まった時間に、学校に登校して、何も無い事を眺めていると下校時間になり、家に帰って、勉強だとか趣味だとか何かしなければならないと思い込んでいた事をして、夜が更けたら寝て、朝になったら起きる。そして、昨日と同じ事を繰り返す、きっと明日も繰り返す。けれど、雨はまだちゃんと降っている。


 最後に、きっとこれが最後だと思うから、クラスメイトが話している言葉がオママゴトに感じた。言葉だけじゃない、仕草、格好、化粧、持っている道具、読んでいる雑誌、目配せ、イントネーション、話題、好きなもの、嫌いなもの、流行っているから、ダサいから、これがカッコイイ、これはカワイイ、あれはダメ、それは嫌い、誰が誰と、誰は誰に、誰が誰が誰が誰が、教室には男女も年齢も立場も関係なく、お人形が並んでいた。


 私の目の前の席に座っているのは、女子高校生のお人形だ。もちろん、教壇で黒板によく分からない模様を真剣に描いているのは国語教師のお人形だ。右も、左も、後ろも、周り全てが、よく出来たお人形なんだ。


 あのお人形達は、自分の身体を使ってオママゴトをしている。周りと自分で決めた役を演じている。誰が一番今風の女子高生の役にハマっているのか。あの彼は男子高校生の役を上手に演じているのか。目の前の教師は何十年も同じ配役をやり続けている。


 私も、オママゴトをしなきゃいけないのだろうか。


 雨が降る中、下校と共に空のカバンを肩に掛けてホームセンターで買い物を済ませた。雨でよく濡れた姿のまま店内を探していると周囲の人に不審な目を向けられたが、もうどうでもよかった。レジをしていた店員も一瞬だけ怯んだ顔をしたが、何も言わずに会計を促しただけだった。


 目当てのモノをカバンに入れて店の外に出ようとした時に、店に入ろうとしていたオバサンに声を掛けられた。どうして濡れてるのか、傘を持っていないのか、雨の日に濡れている人を見たら掛けるべき台詞が私の前に並べ立てられた。だから、私はオバサンの目をしっかりと見据えてから、ニッコリと笑い掛けた。何も言わずにジッと笑顔を続ける私に、オバサンは数秒で目を逸らした。そして、足元をよろけさせながら店の中へと入っていった。優しい御婦人っていう役柄は、私の笑顔一つで崩れた。


 家に帰ってから、ちょうどテレビでやっていた天気予報は明日も雨の予報だった。私は満足して部屋で眠った。


 最後の授業だと思えば何か変わるかと思ったけれど、やっぱりオママゴトは最後までオママゴトだった。カバンの中には道具だけが入っている。そういえば昨日から何も食べていないのに、お腹は減っていなかった。


 いつもと変わらずに放課後は来た。机に入れっぱなしにしていた教科書を出して読んでいるフリをしながら教室に居残っていると、すぐに私以外は居なくなった。一般教室の鍵閉めをする見回りの教師が来る前に、私は教室を出ていった。階段を上へと登っていく。


 立ち入り禁止の札が掛かったロープを潜って屋上へ続く階段を登りきり、屋上への扉の前へ着く。強風に煽られた雨粒が打ち付ける音が扉越しに聞こえる。カバンからハンマーを取り出して、ドアノブを殴りつけた。大きな音が鳴って少しだけ戸惑ったけれど、二度、三度と打ち付けていく。ドアノブが根本からネジ切れる。バールを扉の隙間に差し込み、全身の体重を掛けて歪ませる。扉は思ったより簡単に歪み、開いた。


 屋上に高いフェンスが無い事は下から見えるので分かっていた。外は雨の音だけで満たされていた。私の身体はすぐに雨と同じ匂いになった。雨雲を暫く眺めながら、屋上からの景色を見渡すと暖かな気持ちになっていった。濡れた前髪を掻き上げて、屋上の縁へ歩いていく。眼下には陸上トラックが描かれた校庭、そして、幾つもの広がった傘が色とりどりに蠢いている。


 私は目を瞑り、自分の身体を外へ、重力に従うまま、倒した。

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