第57話 タイムリミット
真っ白になった頭。
信じられない光景。
絶句し過ぎた時間がどれほどあったのかわからないが、恐らく一秒にも満たない。
そんな一瞬のうちに、濃縮された絶望を味わった気分だった。
気付けば正気に戻って、自然と身体が動いた。
当然だ、俺はこの状況が初めてじゃない。
前にも、同じことを体験したことがある。
落ちてきたのは――憩衣だった。
足腰を踏ん張って、憩衣の身体をキャッチする。
割れ物を扱うように、そっと腕に包み込む。
同時に見上げて気付く。
いや、憩衣が落っこちてくると同時に、本当は気付いていた。
ただ抗えない恐怖が、認識を遅らせた。
憩衣を落としたのは――珠姫だった。
俺と同じくして、信じられない光景をみるように珠姫を見上げる憩衣。
「だ、大丈夫か……? 憩衣」
「は……はい」
ゆっくりと腰を支えながら、憩衣を下ろす。
見た感じ、怪我はしていないようで良かった。
だが……正気の顔ではないな。
「ごめんね、憩衣ちゃん。大丈夫? つい手が滑っちゃったみたい」
白々しく言ってのける珠姫。
俺には全部、見えていたぞ。
「あと呼び出してごめんだけど、調べものはもぅ済ませちゃったから、やっぱり大丈夫。それより、もう帰ろ?」
それでいて、珠姫は冷静に――何事もなかったように振舞う。
「え、え……?」
憩衣は戸惑いながらも、普段通りの笑みを浮かべる珠姫の手を取る。
「累くんは――また後で話そうね。先に憩衣ちゃんと話したいことがあるから」
意味の伝わらない言葉。
益々わけがわからないと、憩衣は困惑の表情を見せる。
しかし、憩衣の疑念に応えることはなく、二人は先に帰ってしまう。
――その場に立ち尽くした。
足が動かなかった。
凪いだ空気の中、頭だけがゆっくり働いた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――そりゃ、ないだろ」
二人が去った後で、俺の顔は自覚できるくらい真っ青になった。
一連の行動にどんな意味があったのか。
きっとそれを知る者は――俺と珠姫だけだろう。
故に、わかってしまう俺にとって、吐き気を催す邪悪でしかない。
善意も、悪意も、何の感情もなく、珠姫は憩衣を突き落とした。
『――――……
――ただ自分が回帰者だと、俺に伝える為に。
……――――』
「じゃあ……最初から、かよ――ッ」
最初から……俺が前世の記憶を引き継いですぐ、朝教室に着いて、珠姫に出会ってから――その時点で、珠姫は俺を騙していた。
だって彼女は間違いなく、言ったのだ。
『あたしね、以前累くんに助けられたことあるんだよ。その様子じゃ覚えてなさそうだけど』
『ほら、階段から転び落ちそうになった時、助けてくれたでしょ』
前世の記憶を頼りに、あの時俺は納得していた。
確かに、そういうシチュエーションで学園の美人姉妹を助けたという記憶はあったのだ。
そう――美人姉妹である堀原姉妹のどちらかを、俺は助けていた。
しかし、それは前世の記憶を引き継ぐよりも、前の話なんかじゃなかった。
真実は、今知った。
「生徒会選挙発表日――今日が、その日だったってことかよ」
既視感だけで、鮮明に当時のことが想起させられた。
「ははっ……じゃあ、今までの珠姫は、全部……全部知っていたのかよ。俺のことも、憩衣のことも……それで、傍観していたのかよ……ッ!」
どくどくと――様々な憶測が頭に流れ込んでくる。
あまりに妄想じみているのに、どれも不思議と違和感がない。
狂っている……これが真実なら珠姫の行動原理の全てが理解不能だ。
珠姫の嘘自体には何の意味もない。
その場しのぎの言い訳でしかない。
ただ都合が良かっただけの、噓から出た実。
きっとそれだけの、他愛のない嘘なのだろう。
これまで歩んだ全ての前提がひっくり返る爆弾。
「何がしたかったんだよ……お前」
前世の記憶を引き継いでいるなら、それこそ珠姫の行動は矛盾だらけだ。
「落ち着け……落ち着け……」
何か意味があるはずだ。絶対に、何か意図がなければおかしい。
――考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。
「――――――――――――――――あっ」
引っかかるところは、すぐに見つかった。
やっぱりそうだ……珠姫には、最初から明らかにおかしいところが、あるじゃないか。
「でも――もしも……もしもそうだとしたら」
疑念を頭の中で洗うと、更に疑念は浮かぶ。
しかし、それ以外の可能性を最早考えられなくなってしまった。
「俺の考えが、妄想が正しければ――きっと、そうなんだ。矛盾だらけだけど、合っているはずだ」
珠姫はただ俺に回帰者だと伝えたかった訳じゃない。
あの行動の裏には、絶対的な意図が存在した。
もちろん、矛盾はある。
俺の考えが正しいとすると、珠姫には憩衣の憧れを否定する理由が存在しなくなってしまう。
寧ろ憩衣の願いを肯定しないとおかしい……そんな結論に至ってしまうのだ。
だから俺自身……妄想であってほしいと思っている。
「確かめないと――」
珠姫は『後で話そうね』と言っていた。
憩衣と何を話したいのかわからないけど、きっと連絡をくれるはずだ。
流石に俺も、苛立ちを隠せない。
善意があったかもしれない。悪意があったかもしれない。
でも、俺にはまだわからない。
伝わらないほど、虚しいものもない。
会って、確かめなければならないことが、山ほどある。
***
連絡が届いたのは、彼女達と別れて十分もしなかった。
呼び出されたのは、彼女達の住んでいる家。
そんなに短いなら、何故先ほど一緒に俺を呼ばなかったのか疑問となる。まあ憩衣のいる前で俺が前世のことを話すかもしれない、と危惧した結果なのかもしれないけど。
頭の中を止まらず加速する思考でパンパンにさせながら、堀原姉妹の家へと到着する。
「いらっしゃい、累くん」
出迎えてくれる珠姫は、涼しい顔をしていた。
客室に招き、お茶を出してくれる。
今まで入ったことのない部屋だった。
中央のテーブルと椅子に、小さな化粧台に、ベッド、クローゼット……それくらいの家具しかない。
しかし、壁には吸音材が敷き詰められていることに気付いた。
ここでなら、誰にもできない話が、俺達しか知らない話ができる。
「憩衣は、どうした?」
「ああ。言い訳してたんだぁ。突き落としたこと、流石に弁明しないとだから……適当に作り話でね。今は、買い物に行かせてる……一時間は帰ってこないよ」
「……そうか」
静かな部屋だと思ったら、そもそも憩衣は今いないらしい。
いや、いたらおかしいな……何も話をできなくなってしまう。
「前世の記憶があるんだよな?」
「そうだよ。累くんとは――最後に会ったよね」
最後――憩衣から縁を切られ、酒に酔ってふらふらしていた俺を介抱してくれた時のことか。
だけど、そんなことはもうどうでもいい。
「憩衣を突き落としたのは――なんでだよッ!」
珠姫の胸倉を掴んでいた。
女子相手にすることじゃないと思う。
でもそれを気にする余裕が今の俺にはない。
怒りの感情が我慢できなかった。
「累くんさぁ、あたしがその質問をしてくるってわからなかったと思う? で、あたしが関係ない話すると思う? 冷静になって、話聞きなよ」
冷たい視線を向けられる。
関係だって? 前世で最後に会ったことと、一体どう関係するというんだ。
ああ、天才様の考えなんて、俺にはわからねぇよ。
そっと胸倉を話すが、俺も珠姫を睨み返す。
「あたしは言ったはずだよ。前回……累くんは前世って呼んでるのか。前世の最期、あたし言ったじゃん。憩衣ちゃんに復讐しようって」
「……は?」
「前世の累くん、憩衣ちゃんに酷い目に合わされたでしょ? それだけじゃなくて、あたしに関わらせないように妨害されて、遂に縁まで勝手に切られようとされてた」
待て。話がついて行けない。
「あたしは、累くんまで見捨てたあの性悪女に、復讐したかったから、突き落としただけ」
「なんで……」
「知ってるでしょ? あたしが憩衣ちゃんと不仲だったこと」
知っている。
でも、そこまでじゃなかっただろ。
俺が知らないことだって多くあるかもしれないけど、復讐とか言い出す程の険悪はなかったはずだ。
それでも、俺が否定するよりも先に、珠姫の感情が爆発した。
「気持ち悪いじゃん、同性愛って。同じ女の子で、更に双子の妹がいつも身体目当てで近づいてくるの。信じられる? 悍ましいよ。ゾッとするよ」
違う。
それは――憩衣の尊い想いだ。
侮辱するな。
「病気なんだよ。あんな子と同じ血が流れていると考えるだけで、裏では何度も反吐を出しながら耐えてた……ッ!」
やめろ。
お前たちは姉妹だろ。
そんなこと言わないでくれ。
「だからね? これは治療なんだよ。累くんにはあの子の側にいてくれればいいの。孤立させて、いつ捨てられるかわからない恐怖に落とそうよ」
どうしてだよ。
どうして――お前がそんなこと、言うんだよ。
あの子の隣は、お前でしかあり得ないのに。
「充分、累くんには依存してきたみたいだし、もうぞんざいに扱ってもいいんじゃない? 身体だけはあたしと同じで立派だから、使い道なんて沢山あると思うなぁ」
ふざけるな。
俺は憩衣をそんな目で見たこと、ない。
「……もう、いい」
「え、どうしたの? あぁ、女の子を屈服させるのって興奮するもんね。魅力的な提案過ぎて、勃起を我慢してるのかにゃ?」
「違う。もう……黙れ……」
「ヤダな~、まだ話し足りないよ。累くんだって犯してみたいと思ったこと――」
「黙れええぇぇぇ!!!」
叫んでいた。
全力で、珠姫を押し倒しながら、叫んだ。
何よりも彼女に、そんな事言って欲しくなかった。
「大胆だなぁ。あたしにまで興味――」
「黙れって言っただろ」
「あのね、これは正当な復讐なんだよ。我慢する必要なんて――」
「いい加減、もう茶番はいいだろ……ッ! 自分の尊厳を踏みにじってまで自分を偽るなよッ! もう……自分自身を貶すなよ……」
もっと早くに言葉を止めていればよかった。
殴ってでも、その口を閉ざさせるべきだった。
俺が怖気づいてしまって、行動が遅くなった。
「な、何言ってるの? 自分自身を貶すって……今の話をどう聞いたらそうなるの?」
「
もうわかってんだよ!
お前が堀原珠姫じゃないってことは!
」
「――――――ッ」
目の前にいる少女は堀原珠姫。
押し倒して、俺が陰りを作って見た瞳孔さえ、珠姫の身体だ。
しかし――彼女の中身は……魂はどうだろうか。
未来から戻ってきた彼女の正体が――堀原珠姫ではあり得ないところが多くある。
「なぁお前言ったよな? 憩衣のことは憩衣自身よりも知っているって――そういうことなんだろ? ――――お前は、前世で憩衣だった」
身体は間違いなく堀原珠姫のもの。確実に変装ではない。
だけど、中身は珠姫じゃない。憩衣じゃなきゃあり得ないんだよ。
階段から落ちた出来事が咄嗟に思い浮かんだのは、自分が体験した出来事だったからだ。
絶対の記憶力を持っていた憩衣なら、覚えていてもおかしくない。
そして、男嫌いを拗らせていた憩衣が、男子から助けられた出来事なんて珠姫に話す訳がないんだ。
加えて俺が義理の兄になった頃には珠姫と距離を置かれていたから、伝える機会すらない。
そして確信に至ったのは――。
「珠姫は、俺のこと――『累くん』なんて呼ばなかった……! 珠姫は俺のこと、呼び捨てだった……ッ!」
憩衣は、俺のことを姉と同じ呼び方にはしたくないと言った。
だから、今の珠姫と違って、今の憩衣は俺のことを呼び捨てにしている。
――前世では、今と真逆。
珠姫は俺のことを呼び捨てにして、憩衣は俺のことを『累くん』と呼んでいた。
偶然変わっただけだと思っていたけど、違ったのだ。
というか、前世でも数年会っていない珠姫にどう呼ばれていたかなんて、忘れていたから、瞬時に違和感を覚えることもなかったのである。
「前世の最期、お前は――珠姫に変装して俺の目の前に現れた。それで、復讐だのなんだの言ったんだろ? その理由が、回帰した後の為だとは、思ってもいなかったけど」
教室で憩衣の演技をする珠姫に違和感を持てなかった理由。
そして――前世の最期、俺が珠姫にしか見えない彼女が誰なのかわからなくなった理由。
全ては繋がっていた。
だから、堀原珠姫という少女の身体に宿る魂は。
堀原憩衣でしかないとあり得ない。
ただの時間回帰じゃないんだ――彼女は過去に戻ると同時に、今の珠姫の身体を乗っ取ってしまった。
そう……ずっと珠姫になりたいと憧れ続けた憩衣の願いは、本当に叶ってしまっていたのだ。
「…………まず、訂正させて」
やがて口を開いた珠姫は、落ち着いていた。
「あたしは、時間が巻き戻るなんて知らなかった。復讐って言ったのは別の理由」
「お前が前世で憩衣だっていうのは、否定しないんだな」
コクリと頷く。
さっきまで憩衣を侮辱していた彼女の面影はない。
ともあれ、本心ではないだろう。自己嫌悪の類……という可能性は否めないが。
そう考えると、少し安堵した。
「うん。話し方は変えないよ。もう馴染んでるし、今はあたしが堀原珠姫だから」
自分のことを「堀原珠姫」と主張するその顔は、何処か寂し気だった。
「今言ったら無粋って思われるかもしれないけど、ここまで累くんが歩んだ『やり直し』は全部無駄じゃない。全部意味があって、繋がってる。そこは安心してほしいな」
「…………」
安心……か。
別に、珠姫の正体がソレだとして、俺は回帰した後の歩みが無駄になったとは思っていない。
まだムカムカしていることがあるとすれば――。
「で、なんで……憩衣を突き落とそうとしたんだよ」
あれに何の意味があったのか。
まだ応えてもらっていないぞ。
「現役員推薦で生徒会に入った憩衣ちゃんは、生徒会の権力を知ったの。それで珠姫に褒めてもらえると思った憩衣ちゃんは、浮足立った心でつい足を踏み出してしまう――そして、そんな憩衣ちゃんは累くんの手で助けられる。正体を明かすなら、サプライズじゃないと――そんなの珠姫じゃない」
それは珠姫の前世――憩衣が実際に体験した話なのだろう。
けど――あんまりだろう。
その言葉はつまり、この選挙で憩衣を勝たせようと誘導していたことさえ、すべてあの瞬間の為だったことになる。
そしてそれが叶わなかったから、態々自分で突き落としたというのか……?
俺が抱えきれなかったら、命の危機だってあるはずなのに?
「前世の出来事を再現してまでしたかったことが、俺に自分が回帰者って伝えることだったのか?」
「そう怒らないでよ。助かるって確信があったんだから。あたしは運命を正しただけ」
正した? 運命を修復したつもりにでもなっているのか?
あの行動に意味なんてなかった。憩衣を生徒会へ入れようと躍起になっていたことも全て、俺が彼女の正体を知る為のインパクトに過ぎなかったということ。
そうまでして、真実を修復する必要は、あったのだろうか。
「ああ、お前はそういうやつだよ。自己犠牲が格好いいと思っているのか?」
「必要なら、なんだってやるよ」
これは重症だ。
何かの妄執に囚われているようにしか見えない。
きっと彼女なりの崇高な目的があるのだろうけど、俺の目線からはさっぱりわからない。
今の憩衣を見習ってほしいと、声を大にして言いたい気分だ。
「それで、お前は何をしたかったんだよ。ここまで内緒にして……前世でも何がしたかったのか。まるでわからねぇよ」
俺の言葉に「そうだろうね」と答えた珠姫は一息吐いて……次に見せた顔は――酷く苦しそうだった。
「長くなるけど、前世であたしが何をしたかったのか、今あたしが何をしたかったのか、全部話すよ」
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