第22話 憩衣の選択

 試験前日、それは同時に勉強会の最終日。たった今、最後の採点が終わった。

 連日勉強尽くしだった事で肩は凝ったが、憩衣が作った仮試験で手ごたえはあったと思う。しかし、今日で彼女達の住処にお邪魔するのも最後……名残惜しくもある。まあ似たような機会があるかもしれないとポジティブに考えよう。


 憩衣が立ち上がりカーテンを閉じる。夕焼けの陽射し細くなり消える瞬間は、眩しい時間の終わりを告げているみたいだった。横からは縫いぐるみを抱きながらテーブルに伏せて寝ている珠姫の寝息が聴こえる。心地よい気温、お昼寝したくなる気持ちがわかってしまう。


「お疲れ様です」

「ああ、最後までありがとうな……憩衣は巻き込まれただけなのに」

「いいえ、教えるのも良い復習になりましたから」

「そっか。それはよかった」


 今も手厚くコーヒーを入れてもらい、肩の力を抜いてリラックスさせてもらっている立場だから、憩衣の言葉にホッとした。これで憩衣の邪魔になっていて試験で調子を落とさせたとあれば、申し訳が付かないからな。


 ただ……今回は憩衣が本当に秀才なのだと知る機会にもなった。まず暗記問題で彼女が失点することはあり得ないし、応用力でも複数の解法を導く能力を備えている。正直、まぐれでも俺が憩衣に学力で打ち勝つことはできないだろう。本気を出せば割と自信はあったが、現実はそう甘くない……上には上がいる事を思い知らされた。


「あの、少しお話良いですか?」

「ん? ああ」


 いつも対面に座り距離を離していた憩衣が、珍しく俺の隣に座り話しかけてきた。


「以前から、珠姫に提案されていた件についてです」

「彼氏が云々ってあれか」


 元々、勉強会の目的は試験勉強以外に、憩衣が俺を信頼するに値するか確かめる為の交流の意味も含まれていた。要は答えを決めたということだろう。


「思い返してみれば、憩衣も気付いていたんだな……珠姫の目的がお前の男性不信を治す為のものだったって」

「そう……ですね。貴方の目の前では誤魔化してしまいましたが」

「気にしてない。俺を信頼できなかったのもわかるしな。寧ろ、俺が気付いてからもこうして勉強会に付き合ってもらったんだ……憩衣には大きな借りができたよ」


 男性不信に気付いた日の後、俺は憩衣に翌日からの勉強会を続けるか訊いた。彼女が俺を苦手としている以上、かなりの無理をさせているんじゃないかと考えたからだ。しかし、憩衣は続けることを選んでくれた。気を遣わせているんじゃないかと思い、何度も確認を取ったが彼女の意思は変わらなかった。有難い事だ。


「……一つ、貴方は勘違いしていることがあります」

「勘違い?」

「借りができたのは私の方ですから」

「休日のことをそう考えているなら、外出しようと言った俺自身の責任を取っただけだぞ?」

「そのこともそうですが……色々と気にかけていただきましたし、パンダの縫いぐるみだって貴方に獲ってもらったものです」


 気にかけたって、もしかして寝不足のことで俺が動いたって珠姫がバラしたな? いや、実際あれから憩衣の顔色は良くなっている気がするし、ちゃんと睡眠を大切にするようになったなら良かった。

 というか、縫いぐるみ……思っていた以上に気に入っているのか。大切にしてもらっているなら俺も嬉しい話だ。


「なので、私は……貴方に私の彼氏役を引き受けてもらいたいと思っています」

「いいのか……? 俺はてっきり男性不信を理由に断られるかと思っていた」


 迷い続けた結果、勉強会という形で毎日のように会うことになり、不信を募らせ続けているだろうと踏んでいた。ただ憩衣も責任感から勉強会を最後まで付き添ってくれていたのだと思っていたが、どうにも違ったらしい。


「寧ろ、そんな大事なことを伝えずに隠したままでしたら、嫌だったかもしれませんね」

「だろうな」


 俺が彼女の精神的な問題について知らないまま彼氏役なんて演じたら、憩衣が辛い思いをするだけの不適切な荒療治となってしまう。きっと憩衣の方から言い出すことも遠慮して難しくなるだろうしな。


「ですが、貴方はそれを知っても態度を変えなかったので、信頼できると思いました」

「無理しないか? アピールとしてそれなりに一緒にいるところは見せる必要が出てくると思うけど」

「多少のスキンシップ程度なら問題ありません。もちろん他の男性は無理ですけど、貴方には慣れました。貴方も女の子に慣れていないから、かもしれませんね」

「奥手なだけだ」

「私が男性を怖がっていると知っても、貴方は私を追い詰めたりしませんでした。それだけで、私には安心できることだったのですよ」


 憩衣みたいな美少女が男性を苦手だと知ったら、逆らえないと考える男子もいる……か。

 実際、彼女に男子を嫌いになるような過去があるとしたら、その言葉は俺が感じている以上の重みを孕んでいるのかもしれない。

 そうなら自分を守ってくれる存在の必要性と精神面を天秤にかけ、長い時間迷っていたことにも納得する。


「それに、本当に付き合う訳ではない……ですから」

「そりゃ本当に付き合うってなったら、俺だって困るよ」

「……困るんですか?」

「えっ」


 憩衣に真っ直ぐな瞳を向けられた。少し寂しそうな顔……しかし何を考えているのかはわからない。俺としては、結局憩衣を妹という形で見てしまうせいかもしれないけど、まったく想像ができないのだ。珠姫の提案が本当の交際だったら困っていたし、絶対に断っていたと思う。だけど前世の記憶があるなんて憩衣は知らない。困るというのは俺の本心であると同時に、失言だった。


「もしものお話でも、私のような女は嫌なのですか?」

「待ってくれ、勘違いするな。憩衣に女として魅力がないって言ってるんじゃない。むしろあり過ぎるくらいだ」

「そっ……そうですか」


 憩衣は何故か目を逸らしながら、何かを考え込み始める。

 ちょっと紛らわしい事を言ってしまっただろうか……仮の彼氏という憩衣の近くにいることが出来る立場を手に入れたのに、これで憩衣に対して気があるとか誤解されると不味い。

 俺の懸念が当たっているのかわからないが、憩衣は神妙な面持ちになる。


「まあ私が、その……性格に難があるのはわかっています」

「いや、容姿以外に問題があるとも言ってないぞ」

「むっ、本当にないんですか? これまでの私は貴方に失礼がありませんでしたか?」

「えっ、あー……」


 罵倒の言葉の数々を反芻する。珠姫がツンツンと言っていた通り、ひしひしと敵意を感じる側面が少なくなかった。それでも、前世で彼女から最後に投げかけられた言葉の方がずっと傷付いたせいだろうか……不思議と可愛げがあるとさえ思っていた。まあ失礼な事は否定できないけど。


「その顔、失礼だったと言いたげですよ」

「まだ何も言ってない」

「まだ……って、言うつもりだったんじゃないですか。いいんです。私にも自覚がありますので」


 不味い。なんか拗ねてる? やっぱり気があると思われてしまったかな。お世辞でも失礼がなかったと言うべきだったかもしれない。いや、それはそれで憩衣に察せられてしまうだろう。

 取り敢えず、憩衣が間違っていない事を説くか。


「いやさ、男性不信なんだから当然の牽制じゃね。元々、学校じゃ俺は色々と噂に尾ひれが付いてしまっているからな。警戒されない方がおかしい」

「でも実際に私は危害を加えられた訳じゃありません」

「だから謝りたいって?」

「はい、これまですみま――」

「待て待て! 謝罪は要らない」


 さっきから憩衣がおかしい。いや、よく考えてみれば休息を取った休日から、俺に対する態度が丸くなった気がする。流石に謝罪とかいう段階までくると、彼女の変化に俺も動揺を覚えた。


「申し訳なく思っているところなんだけど、お前に気を遣われる方が……俺は嫌だ」

「でも……」

「あのな? 俺だって気を遣ったから失礼に目を瞑っていたんじゃない。そっちのお前の方が付き合いやすいと思ったんだ。遠慮とかしてほしくない」


 これは本心だ。憩衣に気を遣われるのは他人行儀でしかないし、俺が彼氏のフリをしようにも疑われる可能性もある。


(前世での負い目も……あるしな)


 妹は兄に甘えるものだ。憩衣は我儘を言っていいし俺はそれに答える。疑似的な恋人関係は、そういう兄妹関係を養う為に良い訓練にもなるだろう。


「一つ、最近ずっと遠慮していたことがあります」

「ん? なんだ?」

「貴方の呼び方を変えてもいいですか?」


 意外な提案だった。俺が憩衣を下の名前で呼び始めた時も、彼女は俺に対して心の壁を作るように、頑なに苗字呼びを変えてくれなかった。

 最近ずっと『貴方』と呼ばれていたが、苗字呼びをすることで感じていた他人行儀が嫌だったからだろうか。


「ああ、遠慮しないでいいぞ」

「……累って呼びます」

「呼び捨てにされるとは思っていなかった」

「珠姫と同じ呼び方は嫌です。ただでさえ、私達姉妹は声も似ていますから」


 珠姫ならともかく憩衣が他人を呼び捨てるという部分に、結構驚いた。

 声が似ているのは知っているけど、俺には何となく違いがわかるんだけどな。ただ指摘するとまた憩衣に気を遣わせてしまいそうだし、やめておいた。


「これからよろしくお願いします。累」

「こちらこそ」


 憩衣が差しだしてきた手に、俺も手を重ねる。手の震えは感じず、俺に対して慣れたという彼女の言葉が本当だとわかった。


 恐らく学校の皆へ公表するのは試験が終わった後になるだろうけど、日頃から気構えはしておこう。

 ようやく少し、未来の義妹との関係を進展させることができたのだ。試験でも良い成績を取って、認めてもらうようにならないとな。


 すると、後ろから手が生えてきた。

 次には背後からもぞもぞと背中を上るようにして抱き着いてくる珠姫の姿があった。


「たっ、珠姫!?」

「ん? あー、ごめんごめん。憩衣ちゃんじゃなくて累くんだったか~」

「寝ぼけていたのか、気を付けろよ」

「気を付ける~。で、憩衣ちゃんが累くんを呼び捨てにするところから聞いていたけど――」

「寝ぼけてなかったのかよ!」


 一先ず、俺は恋人のフリをする事を憩衣が受け入れてくれたことを珠姫に伝えた。


 静観していた憩衣に目を向けると、ソファーでスマホを弄る姿。

 最近は時々リラックスすることを覚えたらしいけど、今はスマホをポチポチと叩き音ゲーをしていた。試験前日なのに大丈夫か? ストレス解消に良いとか言っていたし、何かに拗ねているサインなのか。折角起きた姉が自分よりも俺を先に構ったからだろう。俺と珠姫が話し終えたや否や、憩衣は顔を上げた。


「珠姫、このゲームどうすれば上達すると思いますか?」

「どれどれ? あー、この流れてくるやつ全部覚えればいいと思うよ。あたしはそうしてる」

「あっ、やっぱりそうですよね! 聞いてください珠姫、累が覚えなくても叩けるって言っていたんです! 嘘吐きじゃないですか!」

「ダメだね~、累くん。音ゲーを何もわかってないよ」

「俺が間違っているのか!?」


 珠姫がいると、一気に騒がしくなった。

 今度は珠姫が憩衣へゲームを教えており、俺が憩衣から教わっている様子ってこんな感じなのかな? とか思ってしまった。重症だ。

 明日の試験……大丈夫なのかまた心配になってきた。帰ったらもう一度復習しておこう。

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