第3話
ゆさ、ゆさと体が揺れる。窓の外からは軽やかな鳥の鳴き声が聞こえた。
「雪丸、起きなさいな」
「んぇ」
間抜けな声を出しながら、雪丸は祖母の声で目を覚ました。まだ微かに霞む視界が時計の姿を捉えると、そこに表示されていた時間は七時四十五分。
「よ、四十五分⁉︎ 電車の時間過ぎてんじゃん!」
「だから何度も起こしたのに……」
驚いて大声を上げて飛び起きた雪丸に、祖母は呆れてため息をついた。
「やばいって、これ、遅刻じゃん!」
雪丸が祖母の家に引っ越してきて転入したのは、衣様駅から二つ隣の駅のある地区に建てられた県立の高等学校。通学には電車を利用しなくてはならず、雪丸が学校に間に合うためには七時四十分の電車に乗る必要があった。
「ば、ばあちゃん……」
「はいはい、車で送って行ってあげるから、早く支度しなさい」
雪丸が泣きつくと、祖母はわかっていましたと言わんばかりの顔をして立ち上がった。
祖母は車のエンジンをかけに行き、雪丸は過去最高の速さで着替えを終わらせ、顔を洗う。
空腹は感じるが、朝食を摂っている時間はない。泣く泣く朝食を諦めて雪丸は車に乗り込んだ。
「ふー。セーフ」
「いや、マジでギリギリだな」
学校の前で祖母の運転する車を降り、教室に滑り込む。すると隣の席の男子が、教室に駆け込んできた雪丸を見て苦笑いを浮かべた。
「寝坊した」
「だろうな。後ろ髪はねてんぜ」
「マジか」
転校してきて最初にできた友人と軽口を言い合う。雪丸は時間に間に合ったことにホッとしながら、片手で寝癖を抑えて席についた。
雪丸が転校、引っ越ししてから一ヶ月が経った。最初は心配していた交友関係も意外とうまくいき、すでに完成された友人グループからひとりだけはみ出し者にならずにすんだ。
それもこれも、隣の席になった
クラスでも人格者な恭輔と仲良くなった雪丸は自然と他のクラスメイトとも話す回数が増え、教室の雰囲気に馴染むことができて、まるで入学式から一緒にいたかのように普通に話をすることができるようになった。
「はーい、席着いてー。うん、もう全員座ってんな。じゃあ、ホームルーム始めまーす」
雪丸が席につき、鞄を仕舞ったところで教室の扉が開き、担任が姿を現す。全員出席、着席してることを確認するとホームルームが始り、雪丸も慣れ始めた学校生活が始まった。
ひたすら板書する歴史の授業や、日にちと同じ出席番号の人間が当てられて問題の答えを当てなければいけない数学などの授業を受け終わり、放課後になるとみんな足早に教室を出て行く。
「じゃな、雪丸」
「おう、バイバイ」
クラスメイトたちに手を振り、教室前で別れる。友人たちは各々の部室に、雪丸は昇降口に向かった。
「ん、おお、佐々木野。どうだ、学校には慣れたか?」
「あっ、先生。うっす。大丈夫です。恭輔のおかげで友達もできたんで」
雪丸が下駄箱のある昇降口に着くと、背後から声をかけられ振り向いた。そこにいたのは二十代後半程度の見た目をした、清潔感のある短髪が特徴的な男性。彼は雪丸のクラスの担任で、転校初日から雪丸をよく気にかけてくれていた面倒見のいい先生だ。ちなみに本当の年齢は三十を超えていて、既婚者である。
雪丸はそんな以外と童顔な担任の問いに笑いながら頷いた。
「はは、お前の性格なら恭輔がいなくてもクラスに馴染めてただろうけどな。そうだ、部活は入んないのか?」
「あー……まだ、考え中みたいな?」
「そうか。ま、気をつけて帰れよ。今日も雨みたいだし」
「はーい」
この学校はべつにどこかの部活動に強制的に入らなければならない訳ではない。けれど担任はたまに雪丸に部活に入ることをお勧めしていた。それを雪丸は毎回のように断るのは運動が苦手、とか人と関わるのがいや、などではなく、祖母の家計の心配をしているからだった。
雪丸は中学時代、バスケやサッカーを遊び程度だがやっていた。しかし、それを高校の部活でやるとなるとユニフォーム代などの費用がかかる。雪丸は正直な話、祖母にそんな余計な負担をさせたくないと思っていた。
「はぁ」
先日梅雨入りして陰湿な雰囲気を漂わせる空の下でため息をこぼす。
もちろん、雪丸がそう考えていることくらい祖母も担任もわかっている。
気づいているから、雪丸に困った顔で遠慮しなくていいという言葉を投げかけるのだ。だが、そこで素直に甘えられるほど雪丸は器用じゃなかった。
「あー、めんどくせえけど帰ったら数学の宿題やんないとなー。あっ、そうだばあちゃんの畑の手伝いでもしに行こうかなー。いや、いやいや、これはべつに手伝いをして宿題をサボろうとしているわけではなくー」
学校から駅へと続く道をパタパタと傘に当たる雨音を聞きながら、雪丸は誰にでもなく言い訳を並べる。
雪丸が越してからここ一ヶ月、忙しい日々が続いていた。転入手続きや、家の近辺のコンビニの位置の把握。新しいクラスでの友人作り。それらがやっと落ち着いてきた今日この頃、雪丸は自らなにかと用事を作り、外を出歩いたりして忙しい毎日を送り続けようとしていた。
「あー、考えたく、ねぇ」
ずっと、両親の死から気を逸らし続けるために。
雪丸が毎日を笑顔で過ごせるのも、
「次に参ります電車はー」
新しい環境に馴染めて笑顔を浮かべながらも、心に小さな穴が空いたままの雪丸は駅につき、電車に乗り、いつものように家に帰る。
鞄を自室の机の上に投げ置いて、好きな漫画が並べられた本棚を横目に雪丸は両手で顔を覆った。
雨足は徐々に弱くなっていると言うのに、雪丸の心は晴れない。
時折襲いくるこの孤独感が、雪丸は大嫌いだった。
自分は恵まれている。家族を亡くしても、そばにいてくれる祖母がいる。新しい友人もできた。毎日美味しいご飯だって食べられる。それなのに。
「なんか、いてぇよ」
心がチクチクと、針で突かれているみたいに痛い。
「はぁ」
ため息をつきながらごろん、と布団の敷かれていない床に寝転がる。フローリングの床は、少し冷たかった。
「雪丸、ちょっと頼まれてくれないかい?」
ごろごろと宿題に手をつけず、床を転がる雪丸を、一階から祖母が呼んだ。
「……なに? どうしたの?」
すっと体を起こし、頬を軽く叩いて陰湿な表情を消す。
ダダダ、と勢いよく階段を駆け下り、祖母の元に駆け寄ると祖母は笑って、
「これをお隣さん家にお裾分けしに行って欲しくて」
そう言って祖母は雪丸に煮物が詰められたタッパーを渡した。
「今日の晩ご飯にと思って作ったけど、多く作り過ぎたから」
「わかった」
今日の夕食は煮物か。ばあちゃんのつくる煮物は味が染みていて美味しいんだよな、と思いながら雪丸は家を出た。
空を見上げると雨は小雨に変わっていて、すぐそこの隣の家だし、と雪丸は傘を差さずに歩き出した。
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