第1話 ご機嫌な毎日
今日も私はご機嫌だ。
気持ちよく起きて、カーテンを開ければぽかぽかと温かい日差しが差し込み、窓からはそよそよと心地よい風が吹く。リビングへ行くとパパはコーヒーを片手に新聞を読んで、ママはそれを叱りながらもなんだか嬉しそう。
「おはよう」あたしに気付くと二人はにこやかに顔を向けた。
「早く顔を洗って着替えて来なさい。今日はホットケーキよ」
「やった!」
まだ眠気眼だったあたしの眼を覚ます魔法の言葉に足取りも軽くなる。顔を洗って歯を磨いて、制服に袖を通す。姿見でネクタイを整え、髪を丁寧に梳くと黒髪が煌めいた。毛先まで艶やかな髪に自然と顔が綻んだ。
心を躍らせてリビングに行くとパパは食事を終えていた。ソファーに置いていた鞄を持ち「行ってくる」と言ってあたしとすれ違い様に頭を二度軽く叩く。ママはパパを見送るために玄関についていった。リビングから廊下に続くドアから様子を伺うとママはパパにいってらっしゃいとキスをしている。何歳になっても仲が良い。こちらが恥ずかしくなるほどに。
食卓にすでに並んであるホットケーキの前に座った。黄色いバターがじわりと熱を帯びて溶けていく。メープルシロップを好きなだけかけて、はちみついりのミルクティーをお供に食べ始めた。甘いものは元気をくれる。
一日の活力を蓄えてあたしはママに手を振って家を出た。
いいお天気に恵まれたおかげかあたしの心は空と同じくらい澄み渡っている。あまりの気持ちよさにスキップでもしたい気分だ。流石に恥ずかしいからできないけれど。
近所に住んでいる小さな女の子が母親と手を繋いで歩いている。すれ違い様にとびっきりの笑顔で空いたもう片方の手で振ってくれた。あたしもその子に負けないくらい笑顔で振り返すと、もっといい笑顔が返って来た。確か二人でくらしてるんだっけ。女手一つで育てるなんて大変ね、偉いわねとママが言っていた。あの子が良い子なのは母親が良い人だからよと。
「紅緒ー!」
赤信号に差し掛かったところで右手から駆けて来たのは同じクラスの
「そんなに急がなくてもまだ時間に余裕あるよ」
「紅緒が見えたから急いで走って来た私に労いの気持ちはないの?」
「ごめんごめん。褒めて遣わすぞ」
「ははー。有難き幸せ」
即興の茶番にあたしたちは馬鹿みたいに笑い合って青信号を歩く。
翠は誰にでも好かれるタイプの女子で学校でも男女問わず人気がある。どんなタイプの子とも仲良くなれるのは翠の長所だ。キラキラしたお洒落な女子とも、人付き合いがちょっと苦手なあたしみたいなタイプの女子とも分け隔てなく話かけて懐にうまく入っていく。だからといって八方美人というわけでなく、本来の翠の持ち前の明るさが人を引き付けるのだろう。あたしももし翠が話しかけてくれなかったら友達にはなっていないかもしれないけれど、太陽のような翠の明るさに好意を持ったに違いない。
「今度の休み、買い物に行かない?紅緒が欲しがってたワンピ買おうよ」
校舎が見える頃には、同じ方向へと同じ制服を着た集団に交じって歩く。あたしたちと同じように友達と閑談する生徒や気怠そうに歩く生徒、スマホを弄ってとぼとぼ歩く生徒、色んな背中を追うようにのんびりと歩く。
歩いていると視界が揺らいだ気がした。目が変になったのかと擦ってみるけれど徐々揺らぎは激しくなる。急激に頭が締め付けられる痛みを覚え足が止まった。こめかみを押さえ目をぎゅっと瞑ってからゆっくりと開くすると、じじっと音がすると共に後姿に交じって一人の同じ年位の男の子が流れに逆らうようにあたしと向かいあっている。
少年より大人で、青年よりあどけない端正な顔立ちの男の子は、真っ白の半袖のTシャツから細長い腕が伸び、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいた。背中に流している一つに束ねた長髪が風に揺らいでいる。深い海を思わす紺碧色の髪から目が離せない。時折朝の陽ざしで煌めいた。男の子の薄い唇がほんの少しだけ弧を描き、隙間を作るように口を開いた。
—――待っていたよ、紅緒
彼の笑顔を見ていると目の奥がつんと痛む。さっきまでの穏やかな心が波立ち、見知らぬ彼に駆け寄って今すぐに縋って泣き出したくなった。
「紅緒?どうしたの?」
翠の声で、はっと我に返った。さっきまでの賑やかさが濁流のように耳の中に流れ込む。
「急に立ち止まったりして、何かあった?具合でも悪いの?」
「ん…ちょっと立ち眩み?頭痛がして…」
「大丈夫?保健室に行く?」
「大丈夫、もう痛くないから…それよりさっきの見た?」
「見たって何を?」
「中性的な顔の男の子だよ。すらっとしてて、深い青い色の髪の」
そこまで言うと翠はぷっと噴き出して笑った。
「紅緒、本当に大丈夫?白昼夢でも見たの?そんなアニメみたいな髪色の男の子なんているわけないじゃん」
翠の言うことは最もだ。よくよく考えなくても異様だ。青い髪なんてまるでアニメのキャラクターだ。コスプレだと思う方が普通なのに、あたしはそれが当然のように受け入れていた。
「幻覚見ちゃったのかも」
冗談めかしておどけて笑ってみせた。どちらからでもなく一歩を踏み出して日常へと戻っていく。あたしは幻覚だと思ってもあんなにはっきり見えた男の子を振り払うことが出来なくて彼が立っていたところを過ぎてから振り返ってみる。学校へ向かう生徒の姿しかなかった。
アルカディア 桝克人 @katsuto_masu
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