アルカディア

桝克人

プロローグ 帰りたい場所

 ついに瞼が開かなくなった。瞼を通して白色の光がぼんやりと輝くだけだ。身体が動かなくなってどれくらい経つのか解らない。ぼんやりする頭で何日、いや何か月過ごしたのだろう。

 死がそこにあるのが解ったのが昨日の事だ。私は急遽体を綺麗にすることを望み、娘が風呂に入れてくれ丁寧に身体と髪を洗ってくれた。それがとても心地よかった。娘は何度も湯の加減を訊ねながら、私が生きた行いを語り、感謝をした。私もまた同じだけ幸せだったと返したと思う。


「お母さん、ありがとうね。ゆっくり休んでね」

 娘の声がする。口うるさい時もあったけど優しい子だ。


「おばあちゃん、死なないで」

 孫の声がする。いつも私の後をついてくる可愛い子だ。


「辛くてもきちんとお別れをしようね。お義母さん、後のことは心配しないでくださいね」

 義理の息子の声がする。あの子はしっかりした婿さんを貰ったよ。あとはお願いね。


 ああ…なんて幸せなんだろう。愛する家族が涙を零して感謝をし私の死を悲しんでいる。生きてきて良かったと思える瞬間は死の間際だ。

 唯一悲しいといえば彼らに返事が出来ないことだろう。映画の様に死に際に感謝の気持ちを伝えられれば良かった。貴方たちが私を愛してくれたように、私も貴方たちを愛していたのよ。そう伝えられたらどんなに素敵だろうか。でもそれは叶わない。それでも知っていて欲しいと願うしかない。


 浅い呼吸を続けていた私は、最後に大きく息を吸って吐いた。その瞬間、私の身体はふわりと軽くなるのを感じた。ベッドにのしかかる自重が一瞬でなくなった。誰かが魂の重さは二十一グラムと言ったがそれは本当なのかもしれない。私は風船のように体の重みを一瞬で失いただ上へ上へと昇っていく感覚がする。ふと下を見ると、そこには家族がベッドを囲み泣いている姿が見えた。そして中心に眠るのは私だ。

 魂が抜けていることを察し、自分が死んだのだと気付く。だからと言って、そこに未練はない。私はただただ天へと昇っていくことに身を任せていた。


 病室の天井を抜け、屋上を超え、ぐんぐんと空へ向かっていく。雲を超えてからは、緩やかになったような気がする。雲の上を並行するように空を飛んでいた。そこは光に包まれていた。黄色のような、水色のような、薄い黄緑色や柔らかな朱色が混ざっているようにも見える。温かな光だった。心地よい光の波の中に身を任せていた。

 光の中にいるとこれまでの人生の記憶が少しずつ溶けだしていた。浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返しその都度私の心は軽やかになっていく。


 気付くと私は一面見渡すひまわり畑に立っていた。遠くに見える山も広がる空も、肌を撫でる風ですら全てが金色に染まっている。目の前にはすらっとした高身長で、景色と同じ金色の長髪を携えた女性が微笑みを讃えて私をみつめた。彼女を見ていると安らかな気持ちになる。不安も恐れもない。


「紅緒さん」


 忘れかけていた名前を、心に寄り添うような優し気で透明感のある声で呼ばれ、実態のない背筋を伸ばす。此処はどこかと訊ねると彼女は魂を清めるところだと答えた。


「この度の人生、充分に謳歌されましたか」


 彼女の声を聴いていると頭がぼんやりとする。さっきまであった記憶はもう殆どなく薄れていた。どのような人生を歩んできたのかもうよくわかっていない。それでも心は晴れやかで凪いでいた。きっと悪くない人生だったのだろう。


「はい」

「それはようございましたね」


 女性は大きな本をどこからか取り出し———目の前で見たままをいえば宙に突然現れた。大きな掌に載せて長い指でページを捲っている。


「この度で紅緒さんは七度目の人生を送られましたね。一度目と二度目は学校生活で挫折をし、三度目は受験で、四度目と五度目は社会人になった頃に、六度目は子供のことで…七度目にして寿命を迎えることが出来たのですね。よく頑張りましたね」


 補助輪なしで初めて自転車に乗れた子供に対しての褒め方だ。なんだか気恥ずかしい。


「寿命を迎えたことで得られた幸福は格別なものでしょう?どう満たされているかしら」

「わかりません。でも味わったことのない温かさがあります」

「そう」


 女性はこれまた宙に表れたペンを持ち本にペン先を撫でて何かを書いている。


「その気持ちを再びあなたに灯ることを祈りましょう。さあ、八回目の人生ですよ」


 私の後ろ側を指さした。振り返ると広い金色に染まった野原から更に遠くに地面に大きな丸い大穴があいており、金色の水が流れている。四方八方から光の粒が水の流れに沿って大穴に落ちていく。此処で清らかになった魂が現世に帰る道なのだと彼女は言う。


「恐れることはありません。次の人生でも幸福を存分に味わってくださいね」


 私は言われるがままに大穴の方へと歩き出す。まだ此処に居たいと片隅で叫んでみるが彼女は———いや、この場所が許してはくれない。流れに身を任せた私の体は分解し光の粒になる。他の魂の粒たちと共に落ちていく。


—――美しいひまわり畑が遠くなる。早くあそこに帰らなくちゃ。

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