34 リウト弾きの男


 若い男が抱えるその楽器はとてもきれいだ、とエリオは思った。

 水のしずくのような形。後ろはコロンと丸いけれど、平らな前の部分には真ん中に透かし彫りが入っている。その上には何本も弦が張られていて持ち手ネックのところで男の大きな手におさまっていた。


「――これ、リウトっていうんだっけ」

「ん? なんだボウズ。リウトが珍しいか」


 工房前の道端で、いきなり目の前に駆けてきたエリオに男は低く笑った。頑張って追いついてきたジェンマをチラリとし、呆れた声になる。


「女の子を置いてくるなよ。そんなんじゃモテねえぞ」

「ジェンマはぼくのいもうとだよ?」

「……いもうと、なの」


 顔立ちの似た二人を見比べて男は笑顔になる。


「マジにすんな。妹っても、おまえら大きさ同じだな」

「ふたごだもん」

「だもん」

「ふうん」


 男は子どもらにあまり興味がなさそうだ。手にしたリウトに目を落とすと頭の部分のペグをいじる。キュキュッと小気味よい音がした。


「なにしてるの」

「調律」


 乗り出して尋ねたエリオに、男は真顔で答えた。どういうことか、エリオにはわからない。む、と黙ったのを見てニヤリとされた。


「てーか、全体の出来をみてんだよ。これは俺が作ったんだ」

「え」


 双子は目を丸くした。


「これ、つくれるの?」

「これを?」

「誰かが作らなきゃ、ここにねえだろうが」


 それはそうなのだけど、こんなに美しい物を人が作れるのかと思ったのだ。

 なめらかな曲線を描く胴体。幾何学模様の透かしの装飾。五つのコースに張られた弦は九本。


「ねえ、おと、だして」


 見とれるような少年の視線に男は小さく微笑む。


 そうだ、こういう瞬間には覚えがある。何かに心をわしづかみにされる、あれ。

 その後の人生を決めてしまうかもしれない出会いに立ち会っている予感がした。心あたりがありすぎて男の胸がざわめく。自分も昔、そこを通りすぎた気がするのだ。


 バチを持ち直し、男は単弦の高音をはじいてやった。ピーン、と透き通る音色が空に抜ける。

 余韻を見上げたエリオの顔を見ながら、今度はフレットを押さえ和音を奏でる。オクターブに調弦した各コースが重層的な音を作った。

 エリオもジェンマもこんなに近くでリウトを聴いたことはなくて、体に直接響くその音に耳の中が震えるようだと思った。少年少女の反応に男は目を細めた。


「いい音か」

「――うん」

「う、うん」


 じっとりと食いつくようなエリオ。ほわあ、とうわずったジェンマ。どうして音楽というものはこんなに人をとりこにするのだろう。

 天から与えられた、この世のことわりを読み解くための学問。それが音楽。

 そんな難しいことはわからないが、男はただ美しい音に魅入られて楽器職人になったのだった。何も知らない子どもらをとらえる音が出せたなら、わりと満足だった。

 男は立ち上がると、その椅子をエリオに示した。


「座れ」

「え」

「ほれ、持ってみろ」


 グイとリウトを突きつける。息をのむジェンマの前でエリオは言われるままフラフラと椅子に腰かけた。膝に乗せられた楽器に驚いて、エリオはつぶやいた。


「かるい」

「だな。中はがらんどうだ」


 薄い板で作られた中空のリウトは大きさのわりに軽やかにエリオの体になじんだ。だがネックは太すぎて子どもの手にはあまる。


「弦は解放でいい」


 言われたことはわからないがエリオはそっと木のなめらかさを手のひらに感じていた。バチを持たされた右手に男が手をそえる。

 ジャ――ン。

 思ったより強く手を動かされた。弦の硬い手ごたえが幼い腕に伝わった。自分の手によって鳴った和音にエリオは口をポカンと開ける。


「――すごい」

「だろ」


 男はエリオの後ろから背中を包むようにかがんでリウトを奏でた。左手の位置を変えつつ、エリオのつかむバチで弦をはじかせる。そのたびに違う音色がリウトからあふれてエリオの瞳が輝いた。

 一通りやってみせて、男はヒョイとリウトを取り上げた。


「とまあ、こんな感じだ」


 頬を紅潮させたエリオにウィンクしてみせる。言葉もないジェンマがパチパチと拍手するのにも笑顔でこたえた。


「――ホ、ホウ。いい聴衆だな」


 工房の中から年配の男の声がして、三人は振り向いた。前掛けを木くずだらけにした人が顔を出している。髪には白いものがたっぷり混じっていた。


「おまえさんたち、ニコロの音が気に入ったか」

「……おにいさん、ニコロさん?」


 椅子から下りて、エリオはキョロキョロ大人たちを見比べた。出てきたのは工房の親方さんなのかな、とジェンマは考えた。男はリウトのネックで自分を指して言う。


「おう、俺はニコロ。おまえは?」

「エリオ」

「……ジェンマ」


 視線が自分にもきて、ジェンマはあわてて名乗った。親方が双子の頭を両手でワシワシとなでてくれた。


「ええ子たちだ。音のわかる、ええ子だ」

「まあ俺の音ですからね」


 ヘヘン、と得意げに笑うニコロに対しては渋い顔をして、親方はその頭をはたく。


「うぬぼれんな。さっさと飯をうてこい」

「へいへい」


 叩かれ慣れているのかニコロは気にする素振りもなく笑った。リウトを持ったまま行きかけて、双子を見下ろす。


「おまえら見かけねえよな。どこの子だ」

「え、えーと」


 外で知らない人に名乗るな、と両親からは言われていた。それなりに金があると思われたら拐われることもあるから。迷った二人に肩をすくめ、ニコロは苦笑した。


「しつけられてんなあ。見た感じ貴族じゃないが、そこそこの商売人だろ。どうこうしようってんじゃなく、迷子かよ、て訊いてんのさ」

「あ、だいじょぶ……だよねジェンマ?」

「うん、わかる。あっちにがっこう。うちはそっち」

「おう、ジェンマしっかり者だな。んじゃ、気をつけて帰れよ」


 高らかに笑って歩き出すニコロにエリオは尋ねた。


「かいものなのに、リウトもっていくの?」


 ニコロは振り返ってニヤリとし、リウトを軽くかかげた。


「これがあるとタダ飯が食える」

「まったくおまえは……」

「おやっさんの分も稼いでくるんだから、いいじゃねえすか」


 揚々とニコロは行ってしまい、親方も工房に引っ込んだ。取り残された双子は顔を見合わせた。


「……かえろうか」

「……かえろうね」


 二人はぼんやりと言い合った。

 なんだか夢みたいだ。いい音、としかエリオにもジェンマにも表現できないのだが、聴いたばかりのリウトの音色が耳の中に残っている。特にエリオは、直接体に響いた弦の震動が腹をジンジンとうずかせていた。


 ――ああ、ぼく。ぼくは。

 エリオは未知の衝動に取りつかれて立ち止まった。


「ジェンマ、さきにかえって」

「え?」


 クルリと向きを変えて、エリオが走り出す。わけもわからぬうちに取り残されたジェンマは、遠ざかるエリオの背中を呆然と見送った。


「エリオ……?」


 知らない町で、一人になった。

 双子の片割れが自分を置いてどこかへ行ってしまった。

 急に心細くなったジェンマはポツンと立ち尽くす。無意識に握った服に、ギュッとしわが寄った。


 ……どうしよう。


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