29 新しい世界へ


 リヴィニ伯爵の執務室でフィルベルトは父伯爵と問答していた。口喧嘩ではない。アデルモで起こる様々な問題や、市民から届いた要望に対してどう判断するべきかという勉強のことだ。


「賭場の取締りは終わったが、残った懸念は何だと思う?」

「はい。まずは取り逃がした者がいるらしいこと。その追捕ついぶが必要です。でないと法の下に不平等が生まれて市民の不満がつのります」

「よろしい」


 リヴィニ伯爵は理知的な男だった。法と知識にのっとりアデルモを治めている。


「でも僕は――賭場がある以上、賭場に行く者にも言い分があると考えてしまうんです。その整合性について、法はどう答えるのですか?」


 伯爵は息子の率直な疑問に微笑んだ。


「教会法は賭博を禁じている。だがアデルモの法では一部に限り許される。ではその一部の意味をどう解釈するのか、だな」

「はい」


 まだ純粋な眼差しを残すフィルベルトのことを、父として嬉しく思うし危うくも思う。この資質を活かしつつ、息子が世間を渡っていけるよう力を授けたいのだった。


「人は、善いばかりではない。誰の内にも欲は生まれるものだ。わかるか」

「……はい」


 曖昧にフィルベルトはうなずいた。

 人の様々な欲望ならそれなりに見てきている。権力、金銭、承認、支配。そういえば先日、芸術に対する欲望に巻き込まれて誘拐された件は父にバレていないだろうか。


「誰もが抑制して暮らせるなら、賭場も娼館も必要ないだろうな。だがそれだと街全体が修道院みたいなものだ」


 伯爵の目は笑っていた。僧侶だらけの街を想像してしまい、フィルベルトは吹き出しそうになる。


「人は罪深い。その罪を最も小さく済ませるために、ここでだけ、という場所を設けてあるんだよ」


 まあ言い訳なんだが、と伯爵は続けた。


「全てをなくせば犯罪が増える。だからひと所に押し込めて税も取り、その税を治安維持に役立てる。矛盾はあるが、悪を排除すればいいとは限らなくてな――うん、おまえは法律を学ぶのもいいかもしれん」

「学ぶ? 法律を?」


 意表を突かれた顔の息子に伯爵はうなずいた。


「教会法、都市法、古代法、習慣法。裁判はそのせめぎあいだ。それに法律家になれば参事会に加わることもできるし、どこの街に行っても重宝される。アデルモでエッツィオの補佐をすることもできる」


 エッツィオはフィルベルトの兄だ。現在十九歳で、世事に明るく身体頑健、フィルベルトもエッツィオを慕っている。おそらくこの兄が爵位を継ぐことになるだろう。


「法律家……」


 それで自分が兄の役に立てるのなら、とフィルベルトは考えた。新しく見えた一つの道に、少年の胸は高鳴った。



 ***



 染物師の町へ続く通りを女がフラ、と歩いていた。ロマだ。

 悲しみをたたえた瞳。無造作にまとめた髪がほつれ、頬に陰りを添えている。涙に溺れそうな心持ちのまま、なんとか家を抜け出してきたのだった。

 ジュリオに会いたい。その一心だった。


 会って確かめたい。父から聞かされた絶望的な言葉の真意を。

 ロマに恋をしていないなんて信じられない。きっとジュリオも親方に叱責されたか、それともロマのことを想い身を引こうとしているかだと思う。

 だって、あんなに熱い視線を向けてくれていたのに。


 ――そんな視線をくれたことはない、とジュリオが聞いたら叫ぶだろう。このままロマが姿を見せたらジュリオは悲鳴を上げるに違いない。幽霊に取り憑かれた気分になるはずだ。


「ああジュリオ――」


 万感を込めて呟くロマに、周囲の人々はギョッとなった。

 実はもう、カッペリオの工房に人が走っている。逃げろ、という伝令だ。だがそれを聞いて、わざわざこちらに向かった者がいた。ロマを見つけて駆け寄り、その前に立ちふさがる。

 カッペリオの娘、ティバルタだった。


「何しに来たの」


 いつも家族と工房の弟子達とぐらいしか言葉を交わさない内気なティバルタが、ロマを睨みつけていた。普段の彼女を知る町の人々がざわつく。


「あなた――」

「藍染工房の娘よ。ジュリオ以外の人なんて見えてもいなかった? そんなだからジュリオの気持ちもわからないんだわ」

「なんですって」


 道端で対決する女二人はどちらも青ざめていた。ティバルタは緊張で。ロマは――まあ悲劇に登場する女性なんて、皆そんなものだ。


「私がジュリオをわかっていないだなんて」

「わかってないでしょ。ジュリオは仕事に打ち込んでて、一人前になることしか考えてないの。あんたに恋するヒマなんかない」

「ひどい! ジュリオは私のこと愛してるって」

「言うわけないでしょ! あの無口な人が!」

「言わなくても伝わるものがあるのよ!」


 そんなものはない。あるとしたら熱い抱擁や口づけだろうが、それこそジュリオがやるわけないのだ。


「ジュリオはあんたに五ペデス一・五メートルと近づかなかったじゃないの!」

「彼は恥ずかしがり屋なの!」

「全然そんなことないけど?」


 キーッとなる二人の視線が火花を散らす。遠巻きの野次馬がささやきあった。


「おい、誰か止めろ」

「やだよ。あんな怖いとこに割って入れるか」


 手を出すでもなく至近距離で言い合う女二人をどうすればいいのか。横の老女が呆れ声を上げた。


「なんだいあんた達、男のくせに女のケンカも止められないのかい」

「女のケンカだからだろ!」


 周りの男達が諸手を上げて賛同した。

 女の争い、しかも恋愛事などに首を突っ込みたくない。それにロマは織物アルテの、ティバルタは染物アルテの、それぞれ重鎮の娘だ。背後に微妙な力関係が存在する、紛争の火種になりうる二人なのだった。

 だがそこに救世主が現れる。騎士団のお仕着せの青年――アレッシオだった。賭場から逃亡した者の捜査のために近くに足を運んでいて、騒ぎを聞きつけたのだ。角突き合わせる女性の間に果敢に割って入る。


「何があったんですか」


 アレッシオは抑えた柔らかい声で女の言い合いをさえぎった。二人がハッとなる。

 必死で喧嘩していたティバルタの緊張の糸が切れ、呼吸が震えだした。ロマの方は素でギャンギャン言っていたのが突然ヨヨとなり、ふらつく。目の前に素敵な騎士が現れたことで、悲劇の女性の気分に切り替わったのだった。


「おっと」


 アレッシオは倒れそうなロマを律義に受け止めた。腕の中の女性に眉をひそめる。


「興奮しすぎるのはよくありませんね、お嬢さん――そちらの女性も顔色が悪い。ひとまず落ち着きましょう」


 ティバルタの方にも平等に気を遣う。野次馬の中の女達から黄色い声が上がった。

 こうなるともう口喧嘩の続きどころではない。ティバルタはいつもの内気な娘に戻ってしまったし、ロマは――アレッシオに支えてもらいながら、潤んだ瞳で憧れの騎士団服を見つめたのだった。


 なし崩しに終わってしまった争いを見て、町の男達は釈然としなかった。

 あそこに割り込むアレッシオは勇気がある。それは認めよう。だが……イケメン騎士なら何でもいいのかよ?


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