3 カグラザメ(2)
*
あるとき、諦念する女王の頭上を大きな何かが横切り、また戻ってきた。明らかに巨大な遊泳性の深海魚であった。それは戻ってくると暗闇の中で、緑色の蛍光性の目でラブドールの顔を覗き込んだ。相手を威嚇する強靭な顎と並んだ鋭い歯。
成体のカグラザメである。
「ここには餌がたくさんあると聞いてきたのだが、間違いだったかな?」
カグラザメは、得体のしれない姿の女王にそう尋ねた。その塊にあえて尋ねたのは、泥の中に潜む生物の気配が、この塊を中心にして囲んでいたように思えたからである。
「聞くならば答えよう。よくぞいらした。女王の園はここである」
「園とは何だろうか。ここには少しは生き物がいるようだが、じきにそうでもなくなるだろう。私の長年の経験によれば、だが」
「女王、深海の生物は長く生きるのです」
ヒトデがそう耳打ちした。女王は思わず鼻で笑った。
「長生きが何だというのか。仮に百年二百年生きたところで、死ぬ定めに変わりはないだろうに」
カグラザメは,、女王のこの態度を逆に滑稽だと思った。
近づけば分かる。この塊は生まれてからそれほど長い年月を経ていない。肌に傷は少なく、砂や泥に汚されるところがない。ただ、ここら辺の生まれではないことは明らかだ。遠くから来たのだろう。深海で遠くからと言うと、上からだ。カグラザメは上のことはよく知らない。浮上する理由がなかったから。
ともかく、目の前のこれが何の生物なのか、そもそも生物なのかは知らないが、若い個体であることに疑いはなかった。
「そういうお前は生まれて間もないようだ。異邦の存在よ。物知りなのをいいことに、海底の
「死に抗うものたちに祝福を与えている。ここは常に喪に服しているようだが、喪に服す中にも楽園を築くことは可能なのだ。我を讃えよ。汝も骨となって楽園の礎となるといい。軟骨を梁とし、柱としても楽園に
「お前が来る前から何が変わったというのだ。楽園などどこにもないではないか」
「楽園とは私のいる場所がそうである。生き物よ。何もない場所に向かって何を讃えることができようか。私を讃えることができる、それこそが素晴らしいことなのだと知れ」
「上の世界ではそれが処世術なのかね。言葉を食べて生きているようだが」
「
カグラザメは尾で海底を叩き、泥を高く巻き上げた。様子を探っていた周囲の生き物たちは、恐れおののき、飢えた体でもっと深い場所へと隠れた。
砂煙の中から、牙をむいた大口がラブドールに向けられた。
「喰えそうもない臭いなのをいいことに、誰にも食べられないから長く生きたと勘違いしている。物知りなようだが、サメの歯が裂くことのできない生き物はなく、サメの喉が飲み込めないものはないと知っているか?この喉は、一度喰らえば二度とは吐き出さぬぞ?」
カグラサメの脅しに女王はまったく臆さない。
「私を傷つけることはできても、喰うことはできない。血をすすることもできず、お前は途方に暮れるだろう。私を喰えばそのものは苦しむだろう。この地に積もる泥を食った方がましだったと後悔し、弔われるものたちの列に並ぶだろう。神の摂理に外れたことをしたがゆえに。このことを、私は何度でも繰り返し言うだろう。そう。喰われたとしても、私は復活するだろう」
「お前は誰からも食べられない。臭いからだ。それを不死の特権だと思っているようだが、甚だ勘違いというものだ。誰にも顧みられることなく、鼻先にお前が降りてきても、みながその悪臭に顔を背けたのだろう。分かるぞ。それで上からここまで降りてきたのだろう。嫌われものめ。哀れなものだ」
「私と共に降りてきたマリンスノーは、食物連鎖の輪の一つゆえにここまで辿り着くことができないのだ。私はそうではない。愛ゆえに、ここまでやってきた。私を食べることはできない。殺すことはできないのだ。愚かな肝油袋よ。遅いということはない。悔い改めるがいい」
カグラザメは憤懣やるかたない。尾を泥に叩きつけ、大口を天に向かって開いて言った。
「なるほど、喰い改めるとしよう」
そして大口を開けたまま前へと一泳ぎし、シリコンの塊に牙を突き立て、一飲みした。
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