3 カグラザメ(1)

 女王の楽園は早々にひもじさを露わにしていった。

 精子が尽き、プランクトンが数を減らすと、それを食べるヒトデやゴカイが姿を消した。ナマコや底生魚も新しい楽園を求めて女王の元を泳ぎ去った。女王の周囲には、女王に心酔しているために離れることができない瘦せ細った生き物と、その生き物の成れの果て、そしてそれを喰いあさるものしか残っていなかった。


「空腹のものこそ幸いである。飢えは汝らを天国に連れて行くだろう。渇きは汝らを地獄から遠ざけるであろう」


 女王は、髪の毛に隠れるヒトデに向かってそう言った。気休めである。飢えはともかく渇きなどあるはずがない。泳ぐ気力のなくなったユメナマコが足元に転がっている。まだ死んではいないようで、死肉をあさりたいものたちは遠目に、あるいは泥の底から様子をじっと覗っている。


「女王を讃えよ。汝らが生きているのは、私を讃えるためである。死肉をあさる親から生まれ、親のそれであろうと死肉をあさり、そして死んで死肉になり喰われる汝らが持てる唯一の祝福は、女王である私を讃えることである。死ねば解放される。消化器官のない姿へと生まれ変わることもあるだろう」


 楽園に動くものは何もなかった。皆、押し黙り、何かが落ちてくるか、誰かが死ぬのを待っていた。

 深海の生物は、女王の言うことがほとんど分からない。分からないが、その異様な存在から語られる何事かは、傾聴に値するとしか思えなかった。それは一瞬だけ訪れた、かつての楽園の日々――ソコダラが目をむいたあの喧騒――を思い起こさせもしただろう。


「女王はどうして飢えることがないのですか?何をお食べになっているのですか?」


 髪の毛と戯れるヒトデが女王にそう尋ねた。 


「聞くならば答えよう。女王だからである」


「何故、女王は飢えることがないのですか?」


「私は食物連鎖の連環から外れた存在だからである。これを機に知れ。食物連鎖は、私が愛によって、お前たちのために作り上げたものである。喰い、喰われる様相は私とは無縁である」


「その、ショクモツレンサが私たちにとってとても苦しいのはどうしてでしょう?飢えはショクモツレンサの愛ゆえなのでしょうか?」


「深海の闇の中、冷たい水の中に生きるものどもよ。ここが最果てとも知らず、神の国を照らす日の光を知らず、光合成も知らぬ、無知蒙昧で哀れなものどもよ。神を讃え、私を讃えなさい。日の光すら届かぬこの地に、私は自ら、シリコンに身を宿してまでしてやってきたのだ。何故か。汝らへの愛ゆえに。神は決して汝らを見捨てない。私も決して汝らを見捨てない。闇に手を伸ばし、水圧に耐え、電波の届かないことも恐れはしない。冷たい水に飛び込むことも辞さないのである」


 どこからか万歳と讃える弱々しい声が聞こえた。海底に積もった無機物が陽炎のように舞い、そしてまた積もった。


 女王は内心、ここはもう駄目だと思う。彼女の子供たちは、神にも女王にも見捨てられたのだと正しく思いつつ、飢えて死んでいく。

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