2 深海の生態系について
この不毛の地に降り立ったラブドールは、股間に精子が残っていた。誰の?ラブドールを購入した日本人の独身男性の。ラブドールは、その精子に群がるプランクトンを自分の子だと主張し、それに群がる捕食者も自分の子だと主張した。
また、食物連鎖は彼女の創造でも発案でも何でもないが、摂理に従って集まってきたものたち、つまり、精子に群がったものたちも、その後に続いた捕食者についても、食物連鎖は自分の発明品だと
愚かな深海生物たちは、この戯言を意味も分からずに信じ込んだ。彼らは女王がそうしろと言ったため、このシリコンの塊をひっきりなしに褒め讃えた。また、彼らは女王がそうだと言ったため、彼らの紐帯にはショクモツレンサという名があり、それは女王が愛ゆえに彼らにもたらしたものだと信じた。彼らは、その言葉の本当の意味も知らずに、我らの幸福はみな女王が築いたショクモツレンサの賜物だと信じた。ショクモツレンサこそ偉大な女王の
そして、彼らの思いとは裏腹に、この楽園が長く続きそうにないことは明らかだった。
膣内に残った精子だけで、どうして繊細な食物連鎖を維持することができるだろうか。
深海の生態系を支えているものの一つにマリンスノーがある。これは、浅い海に生きていた魚の死骸が粉々になったもの、糞、プランクトンなどで構成される。それは光の届かない深海にとっては希少なエネルギー源であり、その名のとおり、雪のようにゆっくりと海底へと沈んでいく。
マリンスノーは、一般的に、深海1000メートル付近で消費し尽くされる。海底2000メートルまでマリンスノーが降ってくることは稀である。
ラブドールが降り立ったそこ――もちろん、降り立ったのはたまたまである――は、マリンスノーの恩恵を受けられない深さにあった。それゆえに、他の深海の海底がそうであるように、何の変哲もない栄養の乏しい土地であった。ここは、僅かに降り注いだ栄養素を、砂の中、泥の中からほじくり出すゴカイやヒトデが細々と生きているだけの土地でしかなかった。
精子を食らいつくしたカイアシやワレカラは、餌がなくなると、当然に楽園を離れたいと思うようになった。
女王は自分たちのことを子だと言い、慈愛とともに育てていると言う。しかし、女王は能動的に動いて何かをするわけではなかった。女王自身が餌になるわけでもない。女王の膣内は、身を隠すのには適していたが、それだけである。食べ物がそこから湧いてくるわけでは決してなかった。
カイアシやワレカラは、楽園なのに飢えていいはずがない、ショクモツレンサなのに我々の数が減るのはおかしいと、実に真っ当な思いでこの状況に疑義を唱えた。
女王は黙して語らなかった。そのくせ、ふとしたタイミングで、「汝らは私の愛し子、我を讃えよ。母として。女王として」と、カイアシたちからの賛美を求めるのだった。
カイアシたちだけでなく、女王の子らは軒並み飢えつつあった。
やがて不況は捕食者たちにも牙を向いた。弱っていたゴカイは飢えて死んだ。これはただちに餌となったが、これを餌とするものを十分に満たすことはできなかった。
コロニーは衰退しつつあった。
このことを一番分かっていたのはラブドール本人である。
彼女はこの問題に何の対策も打てなかったし、打とうともしなかった。大っぴらにすることはなかったが、実は、早々に諦めていた。精子の初期装備というログインボーナスが生かせなかったのは痛手だが、深海生物の単純さであれば、どうにでもなると思っていた。
自分を讃える声は日に日に小さく細くなる。ある日のラブドールは、海底に転がりながらこんなことを思うのだった。
「ここにはうんざりするほど何もない。いやはや、不毛の地に生き物を
周囲から生き物たちの気配が消えていく。それら小さな命は、女王が想像する以上の悲しみを抱いて死んだ。
女王は、誰にも聞こえないと思ってゲラゲラと、この闇の中に生きるものすべてをあざ笑う。
お前らはここで死ぬがいい。不死者の特権とは、幾らでもやり直せることだ。お前たちは愚かで惨めだから、こんなところで貧相に、死んだように生きているのだ。日の光を知らぬものどもよ。その温もりを知らぬものどもよ。精々私を楽しませてから地獄へと落ちるがいい。ここよりも地獄があるとすればだが。ギャハハハハ。
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