1 深海の女王(2)

 嗅覚を澄ませば、確かに周囲は賑わっていた。ここだけが賑わっていたと言ってもいい。

 四方には緩やかな丘陵がのっぺりとして広がっている。一帯は、一面、堆積した泥である。わずかに岩が泥から顔を出している。礫はなく噴出孔もない。目立つ死骸もなければウミユリのような生き物もいない。だだっ広い海の底である。それでも、何かしるしがあるわけでもないのに、ここだけに多くの生き物がつどっていた。


 西に行けばさらに深みへと誘う急斜面がある。その谷底には平野が広がっている。東に行けば標高は高くなるが、谷間を抜ければ海嶺の向こう側へと行くこともできるだろう。

 つまり、ソコダラの今いる場所は、高原のような場所であった。


「ここは何故、こんなにも賑わっているのでしょうか」


 ソコダラは少しだけ警戒を解き、そう尋ねた。女王はまた甘い声で答えた。その声は、まるで自分だけに届けられたような、そんな聞こえ方をした。


「それは、みなが私の子であるから」


 ソコダラは、水の動きを敏感に感知して、鼻先にいる、その女王と呼ばれているものがまるで動いていないことに気が付いた。

 それにはエラやヒレがない。心臓もない。そもそも臓器がない。体を流れる体液がない。女王は何かの塊のようにしてある。

 触手のようなものが生えて伸びてはいる。海底の、あってないような潮の流れに合わせて揺れているが、不器用な印象を受ける。この塊は、深海で見たことのある何物にも似ていない。ただ、それには口のような何か、卵管のような何かがあるように思われる。であれば大型のナマコの仲間なのかもしれない。あるいはもっと浅い海域で、オオグチホヤを見かけたことがあるが、それに近いかもしれない。

 

 ソコダラは、ナマコなら食べてみるのもいいかもしれないと内心思った。一飲みにするのは無理でも、齧ってみる価値はありそうだ。しかし、それは実行には移されなかった。そもそもおいしそうな臭いがしない。むしろ食べてはならないと本能が警告している。つまりこれはナマコなどではない。では何なのだろう?泳ぐことも這うこともしないなんてーー。


 *


 女王は元々、リアルタイプのラブドールであり、その商品名は白百合しらゆりという。身長は133センチメートル。美しい造形の、小柄な美少女の人形である。

 彼女のステンレス製の骨格は、滑らかに関節が動き、人間と同等のポーズが取れるということで人気を博していた。その骨格を覆うのはウレタンであり、そのウレタンを覆うのはきめ細やかなシリコンである。シリコンは人の肌のように加工されている。

 長い手足の先には細く艶やかな指が延びており、その先には鮮やかな色のマニキュア、ペディキュアが塗られていた。胸は豊満。腰は自然にくびれており、それでいて腿は健康的なまでに太く、張りがあった。萌黄色の両目はあるじの特注品であり、栗色の髪は真っすぐに腰まで届いていた。口の中にも器具はあり、その入口となる唇は、淡い花のような色で染められていた。


 しかしながら、ここは深海である。女王を取り囲むのは高水圧である。

 そしてそれゆえに、その姿は地上のものとは異なっていた。


 それはステンレスの棒にシリコンがまとわりついた何かだった。それでも、人の姿を知るものが見れば、辛うじて人の姿を保っていたと言えるかもしれない。四方八方からかかる水圧によって、骨格とウレタンの隙間、ウレタンそのもの、シリコン内の気泡、具合のいい体腔は圧縮されて潰れていた。長く伸びた手足はまだ人のそれに見えただろうが、人を知らないソコダラには触腕に見えた。指はその先に、原型をとどめて生えている。爪の色など誰も気にしない。豊満であった胸や腿は、内部に中空があったため、より醜く押し潰されて窪んでいる。腰もデフォルメされたように締め付けられて細くなっている。股間の器具は辛うじて胎内に。肛門は潰れており、奥に溜まった精子にプランクトンが辿り着けないほどである。

 顔はひどい。顔の内部では、何かが水圧で壊れており、頭の形を歪にしていた。圧縮したために萌黄色に澄んでいた両目はどこかへと抜け落ち、二つの眼窩だけが――圧縮されて毛穴のように小さく――空いている。栗色の長くて美しい髪の毛は、海藻のように漂っている。そこには、暗く冷たい深海において、もっとも人間の女性らしさが残っているように思えた。喉の器具は、桃色の薄い唇の間から飛び出している。眼球のなさと相俟あいまって、女王をよりグロテスクな姿にしている。まつ毛は両方とも取れかかっている。


 それでも、ラブドールは自分のことを人の形だと言い張った。

 どうせ深海魚たちは人の形など見たことがないのだから。そもそも視力のないものすらいる。それに、今の姿が不気味であればあるほど、異形そのものである深海魚たちと共に生きるに値すると言えるのではないだろうか。

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