1 深海の女王(1)

 深海の底、泥を巻き上げてソコダラが泳いでいる。糸の切れた凧のようにして、行くあてもなくここまで漂ってきた。まだ幼く、ひどく痩せてはいるものの、獲物や天敵を探る勤勉さと、気配を消して水をゆっくりと掻きわける慎重さは備わっている。


 ソコダラは長い間何も口にしていなかった。大きく見開いた眼下の泥はどれも栄養が足りていない。上からは何も降って来ない。愚図な多毛類が目の前に飛び出てくることもない。このソコダラ自身が、何か別の生き物の餌になる方がまだありそうなことだった。


 周囲は深い闇である。何もない。それでも、闇をかき分けてふらふらと泳ぐソコダラの前方から、嗅いだことのない臭いが漂ってくる。ソコダラは警戒した。警戒しつつ、それでも体をくねらせて進むと、馴染みのある臭いが漂ってきた。

 それは、カイアシの美味しそうな臭いだった。

 久し振りの食事の予感に、消化器官がぎゅうっと己を締め付け、蠕動ぜんどうするのを感じた。ソコダラは警戒を解いてバタバタと進んだ。ますますその臭いは濃く強くなる。やがて口を開くと、多量の泥とともに臭いのもとが飛び込んできた。僅かなカイアシ。そしてここにはワレカラもいる。

 ソコダラはそれらをんだ。口は硬く閉じられ、体の動きはゆっくりとしたものとなった。必要以上に体を動かすことはない。それが栄養の少ない深海で生きていくための本能であった。

 それでも、このソコダラは、まだ何かないかと尾をはね上げ、貧寒な泥を巻き上げてみせた。無機物の臭いが周囲に漂った。何もない。それでもこのように思うのだった。


「これで生き永らえることができる」


 満腹にはほど遠い。行く宛もなく前へと進む。やがて、突然、周囲には色々な生き物の影と臭いが漂い始めた。いや、先ほどだって、空腹のあまり気が付かなかっただけで、生き物の気配はしていたのかも知れない。

 その数の多さ、種類の多さに、この若い魚は遅まきながら躊躇し、ヒレのない尾をひるがえした。

 そして、最初に鼻に届いたあの馴染みのない臭いのもとも、どうやらすぐ近く、面前に佇立ちょりつしていることに気が付いた。


「よくぞいらした。私の園、女王の園に」


 それはソコダラにそう言った。蠱惑的な、甘ったるい声が深海に響いた。響いたが、しかしそれはこのソコダラだけにしか聞こえない声であった。ソコダラは警戒しつつ、こう応えた。


「何もない海底をずっと彷徨っておりました。サメに襲われ、慣れた地から離れたばっかりに、あてもなくここまでやってきたのです」


「ここは砂漠のオアシスのようなもの。食物連鎖に不要なものはないと知りなさい。本当に、よく来てくれました」


 ソコダラには、砂漠、オアシス、食物連鎖、その言葉の意味が分からなかったが、歓迎されていることだけは理解した。ソコダラは、それが魚の所作で礼を意味するかのように、細長い体を優雅に動かした。


「また新入りが訪れましたね。女王」

「女王の話では、ここはものが集まりやすい場所とのこと。意味は分かりませんが」

「ここは神に祝福された聖地なのですよ。意味は分かりませんが」

「女王曰く、コロニーができあがっているのですよ、ここには」

「捕食者もやってきます。安全ではありませんが、それでも女王はここにいるのです。ほかならぬ我々の眼前に」


 近くを漂うナマコたちがそう言って通り過ぎ、泥の中から顔を出したゴカイたちがそう言ってまた潜った。ソコダラは、聞きなれない言葉に戸惑い、こいつらのどこにまともな眼があるのだといぶかったが、聞き返すこともせず、何かを頓悟したかのようにほうほうと頷き、感心してみせた。

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