雪代

鈴ノ木 鈴ノ子

ゆきしろ


 白雪の積もる道を抜け隧道へと入る。

 橙白色の小さな高圧ナトリウム灯が隧道の内を淡く照らしている。岩盤をくり抜いたであろう壁面には、それを覆い隠すだけの荒削りなコンクリートが塗りたくられていて、その隙間より漏れ出でる水滴は、ぽたり、ぽたり、と音を奏でては刻を刻むかのように風化したアスファルトの上に広がった水たまりへと落ちているのが見えた。

 白銀の外世界とは違う、どこか産道のようでもあり、魔窟でもあるような狭い隧道であった。



『東原 陽一様、突然のお手紙失礼したします。お元気でございますか?』


 大都市東京の片隅にある高層オフィスビルで仕事に邁進していた私の元に、その手紙が届いたのは11月も終わり頃であったと思う。通用封筒ではない、美濃特産の紙漉きによって丁寧に作られた和紙を加工して作られたであろう封筒の表には、流るる一本の水線の如く筆墨で書かれた達筆な文字で、会社名と私の名前が記されていた。同封されていた便箋数枚も美濃和紙で水線の文字がとめど無く流れている。


『しらゆきが、お父様に会いたいとせがんでおります』


 文面はあいさつから始まって近況を伝えるものであったが、やがて、そこに一節だけ文体から浮き出させるように改行され、そして少し動揺したのであろう小刻みな震えを伴う文字があった。


『お冬の休みに一度、こちらへ参っていただくことは叶いませんでしょうか、お返事をくださいとまでは申しません、唐突な来訪でも結構でございます、心からお待ち申し上げております。では、お体にお気をつけて。』


 手紙を読み終えた私はそれをデスクに広げていたノートパソコンの上にゆっくりと置き、椅子に深くもたれ掛かると目頭を抑えた。ああ、あの子は生まれて育っていたのだと思うと、久方ほど流すことのない感涙の涙が頬を伝い、アイロンがけした真白なワイシャツの上にぽたりと落ちてシミを作った。


 私は孕ませた女を捨てたことがある。


 どう、世間に言い訳をしようともそれは隠しようのない事実だ。

 彼女との蜜月を過ごす中、彼女は身籠り、それが分かると彼女は私の前から姿を消した。学生であった私は必死にその消息を追い求め、日夜、餌を求める野良犬の如く、彷徨ったが、閉ざされることの多い雪深い地では思うようにいかず、やがて春が来ると同時に東京の大学へと進学のため上京したのだった。もちろん、冬の休みには実家に戻ると朝から晩まで彼女の姿を見つけられるかもしれぬ場所へと足を運び探し歩いた。

 高山の街並み、寺社仏閣、白川郷、五箇山、温泉郷、その他数多くへ足を運んだが、その姿の一編の欠片すら見つけることは叶わず、幸多き日々を過ごした記憶によって蘇ってくる彼女の笑顔、彼女の仕草、彼女の声が、私を飛雪千里のような荒々しさでひたすらに責め苛んでいった。まるで脱衣矛盾を起こした者のように毎日、毎日と寒い外へとでることを繰り返し家族から訝しげな視線を向けられながら数年間を過ごしたが、ついに願いは叶うことはなく、心にへばりついたような残雪はやがて氷河のように凍っていった。そして遠く米国の地へと移動を命ぜれて日本を離れた。

 離れる際に私は、彼女から去っていったのではない、自身の不甲斐なさから失ったのだ。と心を凍漬けにして、以来、春などを迎えることなどない仕事のみの生活を営んだ。結果は往々にしてついてくるもので、積もる様にして培った実績により、私は昨年の春先に本社へと栄転という形で日本の地を再び踏んだのだ。

 卓上に置かれた手帳を開き、12月を確認する。ポケットからスマホを取り出してそれに記載されている予定も確認するが、今年の冬は新型感染症の流行に伴って軒並み忘年会や新年会が中止されているところもあり、28日以降の予定は白一色である。28日から4日までを横線を走らせて潰し再会と短く記して手帳を閉じた。


 12月28日の夕方、社内オンラインでの仕事納め式と役員幹事会が幕を下ろした頃には、東京は白い沫雪が舞う雪模様となっていた。諸先輩方や親しい友人達のこっそりとしたお誘いを断り、足早に社屋を出ると数ブロック先のコインパーキングに止めておいた愛車へと支払いを終えると乗り込んだ。エンジンをかけて室内を温めながら、起動したナビの目的地項目に久しぶりに実家をあたりを選択した。4時間30分と表示されたナビの経路選択を確認すると設定を押して道を定めた。ハンドルを握りながら、一呼吸置く、座席へと座り直して再び一呼吸を置く。

 

 気持ちが落ち着いていないのが目に見えて分かる。


 ハンドルを再度握った私はセダン型の愛車を道へと発進させて目的地へと車を進めていく。

 雪の降りは変わることなく慣れていない車が多いためか、普段よりも道は混雑しており渋滞している区間が多いことをナビが知らせてきた。信号待ちで背もたれに身を預けながら待っていると、三越の看板が前方の視界の隅に入った。


『いつか百貨店にも行きたいです』

 

 記憶にある彼女が寂しそうな面影をしながらそう言った。

 あの閉ざされた土地から出ることのできない彼女であったからだろうか、男女のことを終えたのち肩を寄せ合いながら入っていた炬燵の前にあった液晶テレビからは東京の夜景番組が緩やかな音楽と共に流れていたのを追憶する。

 信号の色が変わると車線を変更して三越の専用駐車場へと車を乗り入れていた。駐車券を取りループ状になっている駐車場を最上階まで車を進めて外の見えるスペースへと車を止めた。ジャケットを羽織って鍵と財布、そしてスマホを持って車を降りると、広がっている景色をスマホで数枚撮影した。それほど遠くない位置に東京タワーが入り込んでいて、そこが東京であることが一目瞭然で分かりやすい写真となった。

 店内へと続く自動扉を入ると年末年始の飾り付けがなされて早くも正月気分の漂う音楽が心地よく流れていた。人通りも少ない紳士服売り場を通り過ぎエレベーターへと向かう、ふと、売り場の端に作られていたコーナーが目についた。

 薄い、いや、淡く薄い桜色をしたシルクショールだ。彼女の普段着にとてもよく似合うと思われる色合いにそれを手に取って眺める、その隣には、小さめの子供用のものが一緒に陳列されていた。


「いらっしゃいませ、いかかでございますか?」


「ああ、こんばんは、なかなか、素敵な色合いですね」


 少し背の低く可愛らしい丸顔の店員が声をかけてきた。商品の説明を少し聞いてから購入を決めた。正絹は肌触りがとても心地よく彼女の肌肉玉雪のように美しい肌を美しく見せてくれることだろう。そして、まだ見ぬ子供もまた、きっと女の子であると確信を持ってしまっていた。彼女が女系の家系であることからそう想像しただけであるけれど、でも、それを抜きにしても揺らぐことのない根拠のない確信が私を支配しているのであった。


「奥様もお子様もお喜びになられますよ」


 紙袋を受け取りながらその言葉に息を呑む、父親として何もしていない私のこのような行為に彼女は何を思うのだろう。報仇雪恨までいかぬとは考えているが、子どもへの教育として私を捕えて固めて報仇雪恥を教え込むことくらいはするかもしれない。だが、私はそれを甘んじて受けようと思う。それが償いになるのならしなければならない。そうなれば、涙を流すことが多く感情豊かな彼女のことだ、きっと、泣きながら私を固めてゆくだろう。

 地下街に降りると雑踏を体現するのではないかと思われるほどに人が溢れていた。人混みをかき分けながら、食品街とは違う、和菓子屋へと歩みを進めていく。修学旅行で東京に来たおりに買い求めて彼女が美味しいと言って喜んでくれた和菓子屋へ寄るためだ。「薄雪」と名付けられた和菓子を見つけ、今年も作られたことに感謝しながら、5つほどを頼み、実家近くの近隣の家へとご挨拶に配る他の菓子分も含めて購入する。


「小さなお子様でも食べることができますが、こちらは如何ですか?」


 和三盆糖で作られた小さな指先ほどのサイズの和菓子を案内される。白箱と紅箱の紅白模様に作られているソレも一つ一緒に混ぜてもらうと会計済まして店を離れた。車へと戻り荷物を乗せると再び車を走らせて案内されたルートへと戻ってゆく。信号で止まるたびに車内は音もなく静寂が訪れてゆく、スマホからお気に入りの音楽を選び出してカーステレオから程よい音量で流すと気分も少し落ち着いてくる。



『ヨーイチは、もう少し大人にならなければならない。自分を責めるだけが良いことではないよ。もし、再会の機会を得ることができたなら、彼女の優しさに感謝し、そして、償いでない話を始めるべきだ』



 フレッドの言葉が不意に頭をよぎる。

 アメリカ勤務中に出会ったインディアンの子孫、彼とは妙に馬が合い親友となった。結婚式や子供のお披露目、そして、実家にも連れて行ってもらった。なんでも話せる間柄となった今では無二の親友と言えよう。大平原部に暮らす部族の末裔であるフレッドに連れられてティーピーと呼ばれるテントで数日間、貴重な放浪生活を体験した。インディアンに伝わる伝承や文化を酒を飲み交わしながら伝え聞いているときだ。


『ヨーイチは何を秘めているんだ』


『え?』


 酒の入ったステンレスマグを口に運ぼうとして手が止まった。なにか、見透かされた気がしてどきりとする。


『何かを負っているだろう、時折、君の魂は陰ることがある』


 責めるわけでもない彼の優しい眼差しが2人の真ん中に据えられたランタンの明かりを反射している。

 

『分かるのかい?』


『ああ、話したくないなら構わない、でも、溜め込んで苦しいなら、聞くことはできるよ』


 そう言われて微笑まれてしまうと隠していた気持ちは酒の勢いもあってだろうか、雪解けすぐの小川のように、やがて流れは大河となって言葉の水をとめどなく流した。一頻り聞いていた彼は、説教をするわけでも、アドバイスをするわけでもなく、ただ、淡々と、それでいて優しく、そう述べたのだった。


「フレッド、君の言うとおりだよ」


 フロントガラスに落ちては溶ける雪を信号待ちで見つめながら、ぽつりとそんなことを呟いた。やがて車は高速道路へと入り渋滞もなく順調に進んでゆく、適度に休憩をとりながら山梨を通り過ぎ、やがて諏訪湖のサービスエリアへと入った時のことだった。空腹も満たすために食堂へと入りくらい諏訪湖を見渡せる席へと腰を下ろした。

 諏訪湖は数日前に全面凍結をして御神渡りがあっだとのことで。その写真が入り口のレジ横に額に入れられて飾られていた。晴天の空に白い氷に覆われた湖の氷が盛り上がり合掌しているかのように天へと伸びている。神々しい写真であることは確かだ。

 メニューを持ってきてくれた店員に山菜定食を頼み、運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら味わう。つけっぱなしのテレビから御神渡りを若いキャスターがリポートしていた。

 御神渡りとは諏訪神社上社に住まう建御名方命さまが、諏訪神社下社に住まう八坂刀売命さまへお通いになられた道のことだ。湖が全面凍結しそして風の力によってはった氷がぶつかり合うと盛り上がる、その盛り上がりが線となって続いて行ったところを通われた道と言い表す。その歩かれた道は様々な占いなども応用され五穀豊穣や吉兆を表しているそうだ。


「不謹慎だけど、今の私と似ているね・・・」


 ボソリと呟いてしまった。私の道は冬に閉ざされなければ開くことはない、厳冬の漂いと里雪の降り積もった雪が、その道を知らせてくれるのだ。御神渡りでできた神聖な道のように。その先に吉兆が待っているかどうかは分からないが・・・。


 雪は変わらず降り続けている。


 諏訪湖サービルエリアを出て松本インターまでを走り切ると外はマイナスという気温になった。行く前に購入したスタットレスタイヤのおかげで難なくここまでこれているが、ここからは上高地近くまで続く道と野麦峠が待ち構えていた。有名なあの野麦峠だが、道の整備が進んだおかげで冬季でも通行可能となっている。もちろん、雪の装備は必須であることから、タイヤとは別に車にはチェーンも用意をした。

 野麦峠の明るいトンネルを通り過ぎてしばらく白銀の世界を走っていくと、やがて、左へと曲がる道が見えてきた。そこを左折し中へと進んでゆく。それが生まれ育った集落へ続く唯一の道だ。両側を除雪された雪に囲まれ白い壁が聳え立つように見えている。道幅を狭く感じてしまう視野狭窄が起こるが、慣れている身としてはそれほど苦にはならなかった。

 やがて、集落へと続く道の脇にもう一つ新しく道ができていることを思い出したが、そちらへはハンドルを切らず、古い旧道へと車を進めていくとやがて一本道の途中にある路側帯に車を停めた。

 そこに人が1人やっと通れるほどの電気の灯った薄暗い隧道が見えた。


 探し求めた入り口だった。いくら見つけようと努力しても、見つけることのできなかった、懐かしい隧道。


 靴をスノーシューズに履き替えコートを羽織り車を降りると、足元から新雪を踏むなんとも言い表せぬ音が響いた。あたりに他の音はなく、静寂という言葉がよく似合う空間が広がっている。いつの間にか雪が空から降るのをやめていて、雲が徐々に晴れてゆくと白銀月から照らされた眩しい月光が差し込んできて、あたりを包んでしまえば雪月夜の素晴らしい景色が眼前に広がる。

 

 夜の雪国にあるべき姿となった山里に私は迎え入れられた。


 トランクから着替えの詰まったボストンバックと三越で購入したお土産の紙袋を持ち、細い獣道を一歩、また一歩と、進んでいく。やがて隧道を抜けると山の中腹へとでた。そこに懐かしい平屋の日本家屋が雪を積もらせながら、あの時と変わらず建っていた。玄関脇には手作りであろうか雪灯籠があり細い蝋燭が一本灯されて揺れている。庭には雪が降り積もっているのに、薔薇や他の花が季節を忘れ、寒さを忘れたように咲き誇っていた。月光が差し込んできて花々を照らし出してゆくと、やがて、その先にある雪見障子のガラスの先に愛おしい顔が見えた。私の視線に彼女も気がついたのだろう、互いに視線が合うと慌てたように彼女が立ち上がった。やがて、ガラスの入った格子戸の玄関が開くと白い着物のあの時と寸分変わらない花顔雪膚の彼女が姿を見せた。


「ただいま、今、きたよ」


 その神々しいまでの姿を見て気の利いた言葉すら思いつかず、そうとだけ言ってしまった。

 戸口で立っていた彼女がその言葉を聞いた途端、何も履くことなく白い足袋を汚し両袖を風に揺らしながらこちらへと一目散に駆け出してくる。私は両手の荷物をその場に置いて両手を広げることにした。やがて胸の中へあの少し冷えた肌の温もりと変わらない懐かしいお香の薫りが鼻腔をつく。彼女の両手が私を離すまいと背中へと周りしっかりと包み込んだのちに、私も両腕を回して久しぶりの出会いに歓喜しながらも優しく、それでいてしっかりと抱きしめてゆく。


「ごめんなさい・・・」


 彼女が短くそう切なそうに詫びた。


「君が謝る必要なんてない。私を想って考えての行動だろう。私こそ、そんなことをさせて、いや、寂しい思いをさせて本当にごめん」


 そう伝えると涙に濡れる顔が私を見つめた。

 可愛らしくもあり、美しくもあるその小顔が涙を湛えて声を上げて泣き出しそうに窄めた唇をして、頬を梅のように色づかせている。そのまま互いにしばらく見つめ合い、どちらからともなく、ゆっくりと口づけを交わした。


「おかあさん・・・」


 唇を離して互いに見つめあっていると玄関から可愛らしい声が聞こえてきた。

 白いパジャマを着て何かの動物のぬいぐるみを握りしめた女の子が寝ぼけ眼を擦りながら彼女を呼んでいた。


「あの子が・・・」


「はい、貴方と私の娘です」


 それを聞くと甘露な愛おしさが湧き上がる。私達は連れ立って幼子の元へと歩みを進めていく。

 子作りのことは付き合っていた頃、彼女から聞いたことがある。それは想いの結晶だと。恋焦がれ、そして愛しさが募りに募ってゆくとやがて繭玉ができる。そして男に抱かれ終えた女はその繭へと息吹を吹きかけると、雪のように白い繭玉はその愛と想いを一身に受けて身籠りゆっくりと時間をかけて育んでゆくのだ。やがて2年の月日が流れる頃、赤子はこの世へと生まれ出でるという。繭はそのまま産着となって産声を上げたばかりの力の弱い赤子を護り、母親は長い刻をかけて大切に育ててゆく。


「おかあさん、だっこ」


 寝ぼけから抜け切らぬ幼子は、母親の美しい手で両脇を抱えられると優しく抱き上げられた。幼子が首へ両腕を回し肩に頭を乗せると少しだけ視線が交差した。でも、幼子は眠気が優るのだろう、やがてゆっくりと可愛らしい寝息を立て始めた。


「今日は、雪灯籠を作ったりして外遊びをさせていたの」


 そう言って背中を優しくさする彼女の手に寝たままの子が頬を緩ませた。


「おとうさん・・・」


 そう呟いて眠った愛しい我が子に涙が溢れる。天使に勝るとも言われる我が子の寝顔はとても愛おしくて、とても、儚くて、そして、とても美しかった。


「起きたらお話をたくさんしようね」


 可愛いおでこへと軽くキスをして、荷物を持ちに戻ると久しぶりの彼女の自宅へ、いや、家族の元へと還ることができた。

 あれから数十年が過ぎたが、私は毎年の冬に帰省して暖かな日々を雪深い山里で過ごしている。

 

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雪代 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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