第27話 ゲームオーバー

 朝と言うか、もう昼に近い時間なのだが、僕は酒巻君の家の洗面所に立っていた。

 昨夜はコンタクトレンズを付けたまま寝てしまったので、乾燥して目に張り付いてしまった。無理に外すと網膜を傷付けてしまう。対処法としては専用の目薬をさすか、水に顔を浸けて瞬きすることだ。

 生憎あいにく、目薬は持っていなかったので、水に顔を浸けることにした。洗面台に水を張って、その中に顔を突っ込むと目をパチパチさせる。するとコンタクトレンズが外れて、ポロッと水の中へ落ちた。

 ついでに顔を洗って、メイクも落とす。クレンジングオイルや、髪が濡れないようにヘアバンドは酒巻君の母親が貸してくれた。

 顔を上げると、後ろに立っていた母親がタオルを渡してくれる。顔を拭きながら何だか恥ずかしくなって、僕はタオルで口元を隠しながら上目遣いで母親の顔を見ていた。

 スッピンを見られるのは別に構わない。葛城さんが酒巻君に会う時に、自分よりも僕の方に気合いを入れるからやっていることだ。でも、コンタクトレンズを付けたまま寝てしまった上に、寝起きの顔も見られてしまった。名門校に通っているのに、だらしがないと思われなかっただろうか。


「うちは女の子が居ないから気が利かなくて、ごめんなさいね」

「あ、大丈夫です。寮に入ってるから、こういうことには慣れてます」

「困ったことがあったら、いつでも相談してね。女の子が実家を出て、寮で暮らすなんて大変でしょう?」

「ありがとうございます」


 僕の印象は悪くないようなので、ひとまず安心してタオルとヘアバンドを母親へ返した。

 新しいコンタクトレンズをブリスターパックから取り出し、その場で鏡を見ながら装着する。洗面台の中のコンタクトレンズは、ワンデータイプだから捨ててしまっても構わない。水の中から回収すると、ゴミ箱に捨ててから洗面台の詮を抜いた。


「ちょっと、ごめんね」


 そう言って母親が棚からブラシを取り出して、後ろから僕の髪を梳かし始めた。


「女の子が居たら、こうやって身なりを整えてあげたかったのよ」

「あ、ありがとうございます…」

「着替えも貸してあげたいけど男物しかないから、ごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です」


 男子高校生が自宅へ女の子を連れて来ると、母親は皆こんな感じなんだろうか。何だか妙に嬉しそうだ。

 髪を梳かし終わると今度は向かい合わせになって、緩んで左右の長さが違っていた襟元のリボンを一度解いてから結び直してくれる。


「礼司から聞いたんだけど、男の子と二人きりになるのは嫌なんだって?」

「ええ…すみません」

「謝らなくてもいいの。周囲にどれくらい人が居れば大丈夫なのかと思って」

「状況にもよりますけど…」

「例えば礼司の部屋で二人きりになっても、家の中には家族が居るって状況はどうなの?」

「それは、ちょっと…」

「私は専業主婦だから、礼司が家に居る時間帯なら必ず私も居るの。何かあったら、すぐに駆け付けるから安心して遊びに来てくれてもいいのよ」


 まるで、酒巻君の恋路を後押ししているようだ。いや、後押ししてるのか…。

 うっかり寝てしまったけれど、一晩中映画を見るつもりだったから、外泊をしたという感覚はあまりなかった。高校生にもなれば、友人同士でそんなこともあるだろう。でも、母親にとっては同級生の女の子が、お泊まりをしたという感覚なのかもしれない。僕に対して好意的なのも、酒巻君の言動から察するものがあるのだろう。

 二階から酒巻君と葛城さんが下りて来るのが見えたので、この場から逃れられそうで助かった。


「あ、幸ちゃん。もう、歩けるの?」


 葛城さんは一晩中、僕に膝枕をしていたせいで脚が痺れて立てなくなっていた。クッションでも何でも良かったのに、本当に生真面目な人だ。酒巻君がマッサージで血流を良くするから、その間に僕はコンタクトレンズを何とかするという話しになっていた。

 酒巻君が物凄く親切な人だということは分かったのだが、葛城さんのことを女性だとは思っていないから出来ることだろう。僕に急接近しただけで赤面していた人が、同じ事をしてくれるとはとても思えない。


「もう、大丈夫。普通に歩けるから」

「あ、お母さん。もう昼も近いから、近所のファミレスに行って来るよ」


 午前中には帰るつもりだったのに、そんな話しは聞いていない。でも、どうせ昼食はどこかで食べて行くことになるから、ファミレスへ行ってそのまま帰れば良いか。

 酒巻君と葛城さんが洗面所へ来て身なりを整えている間に、僕は二階へショルダーバッグを取りに行く。帰り支度を済ませて階段を下りて行くと、母親も一緒に玄関先で待っていた。


「また、いつでも遊びに来てね」

「お邪魔しました」


 母親に見送られながら、僕らは酒巻君の家を出て行った。



 酒巻君の家から近所のファミリーレストランまでは、歩いて10分くらいの距離だ。まだ昼には少し早いから、それほど混んではいない。

 僕と葛城さんが同じ側の席に座り、酒巻君が僕の正面に来るのは、いつかスイーツを食べに行った時と同じだ。


「僕はカルボナーラ」

「じゃあ、私もカルボナーラで。あと、食後にパンケーキも」


 葛城さんと外食をする時は、生クリームが乗った物を注文して二人で分けるのが、お決まりになっている。パンケーキだと彼女は、一番上の層を僕に譲ってくれる。

 酒巻君はミートソースで、三人共スパゲティを食べながら昨夜見た映画の話しをしていた。僕が見たのはマペットのファンタジーと宇宙船の怪物、その後は寝てしまった。酒巻君と葛城さんは、その後も映画を見ていたのだろうか。


「二人は朝まで起きてたの?」

「私はちょっと、ウトウトしたくらいかな」

「僕が膝の上で寝てたから、熟睡できないよね。酒巻君は?」

「俺も仮眠くらいかな」


 和気藹々と話しをしながらスパゲティを食べて、それが終わるとパンケーキが運ばれて来る。生クリームが乗った一番上の一枚を僕が食べて、残りを葛城さんが食べる。日頃はダイエットを意識している葛城さんだが、僕と外食をする時はもう諦めてしまっているようだ。

 それらが全部片付いて、最後まで食べていた僕がフォークを置くと、


「あ、ちょっとトイレ行って来る」


 そう言って葛城さんが席を立った。

 葛城さんは公共のトイレへ入ることを極力避けている筈だ。男子トイレに入っても、女子トイレに入っても、周囲の視線が気になるからだそうだ。多分、僕が洗面所でコンタクトレンズを外している時に、酒巻君と打ち合わせをしたのだろう。僕は葛城さんが女子トイレへ入るのを目で追ってから、視線を酒巻君の方へ移した。


「ごめん…俺が葛城さんに頼んで、席を外してもらったんだ。ファミレスなら周りに人が居るから、二人だけになっても大丈夫かなと思って」


 葛城さんの気持ちを知らないから、そんなことが出来るのだろう。彼女も真面目な性格だから、結果がどうなるのか分かっていても嫌とは言えなかったと思う。


「幸ちゃんには、聞かれたくない話?」

「初めて一之瀬さんに会った時から、ずっと気になってたんだ。もし良かったら…俺と…つ、つ、付き合ってくれないか…?」


 周囲に見ず知らずの人が居る状況で告白をするのは、さぞや恥ずかしいことだろう。内面的には男寄りの僕でも、勇気を出して告白してくれたのは凄く嬉しい。と同時に、自分が思わせぶりなことをしていたのかと思うと、罪悪感を感じてしまう。

 もう僕と葛城さん、そして酒巻君との友人関係のバランスは保てないだろう。酒巻君が僕に告白をしたから、これでゲームオーバーだ。葛城さんとは、そういう約束だった。今、彼女はどんな気持ちなんだろう。


「ごめんなさい。僕は女の子じゃないから、酒巻君とは付き合えないよ」

「言ってる意味が、よく分からないんだけど…」

「僕がトランスジェンダーの幸ちゃんと同室なんて、変だとは思わなかった?」

「それは思ったけど、トランスジェンダーには見えなかったから」

「僕は遺伝的な性別と身体的な性別が食い違ってる、半陰陽なんだよ。産まれた時は男の子だと思われてて、そのまま学校でも男の子として扱われてたよ。でも、成長と共に体が女の子になって行って、イジメられたりセクハラされたりしてね。普通に生活をするには見た目に合った格好をするしかないと思って、それが今の状態なんだよね」

「でも、そういうのって、どこかに男っぽい部分が出るんじゃないの?一之瀬さんは、どこから見ても女の子だし」

「何を基準に性別を決めるかだよね。遺伝子レベルでは間違いなく女性なんだろうけど、身体的にも精神的にも男性的な部分がある。でも戸籍上は男だし、それを変えたいとも思ってないから」

「それじゃあ、付き合うとすれば相手は女性?」


 僕が頷くと、酒巻君は気落ちしたように溜め息をついて項垂れた。


「僕はただ男友達が欲しかっただけなんだけど、思わせぶりなことしてたよね。せっかく勇気を振り絞ってくれたのに、こんなことしか言えなくて、ごめんね。もう酒巻君とは、なるべく関わらないようにするから」


 そのまま暫く沈黙が続いて、ようやく葛城さんが席に戻って来た。重苦しい雰囲気に、何が起きたのかは想像できるだろう。こうなることが分かっていても、酒巻君に頼まれたら席を外すしかなかった彼女も辛かったと思う。

 その後は会話もないまま三人で席を立つと、会計を済ませてファミリーレストランを出て行った。



 寮に戻ると僕は着替えもせずに椅子に座って、何となく机の上に置いてある鏡を見ていた。襟元のリボンは、酒巻君の母親が結んでくれたものだ。あの時の嬉しそうな表情が、何となく頭に浮かぶ。


「ごめんなさい、莉音」


 葛城さんは立ったまま、僕に頭を下げていた。


「どうして、幸ちゃんが謝るの?」

「だって、莉音に言わなくてもいいようなことを言わせちゃったでしょう」

「別に僕が半陰陽だってこと、隠してる訳じゃないよ。言ったところで見た目の印象の方が強いみたいだから、わざわざ言おうとは思わないだけ」

「でも、莉音は友達が欲しかっただけなのに、私のせいでこんなことになって」

「友達なら、もう居るからいいよ。酒巻君とは暫く距離を置くけど、幸ちゃんは同じクラスなんだから宜しくやって」

「本当に、ごめんね…」


 その時、ドアをノックする音が聞こえた。葛城さんの方が近いのだが、頭を下げたまま動こうとはしない。僕が立ち上がって出入口の所まで行き、ドアを開けた。


「莉音ちゃん、久し振り。お土産、買って来たから一緒に食べようよ」


 そこに居たのは、藤堂さんと新居さんの同室二人組だった。明日は登校日なので、生徒が戻り始めている。夕食も寮母さんが作ってくれるから、今日は自前で用意しなくても良いことになっている。

 新居さんは箱に入ったお土産を抱えて、藤堂さんは重量感のあるエコバッグを持っている。毎度お馴染みの、ロイヤルミルクティーだろう。

 先に藤堂さんが中へ入ろうとしたが、立ったまま項垂れている葛城さんを見て足が止まった。


「お取り込み中だった?出直そうか?」

「もう、話しは終わったから大丈夫。幸ちゃん、ティータイムだよ」

「あ…はい…」


 部屋の中にテーブルはないから、四人が車座になって床に座る。藤堂さんはペットボトルのロイヤルミルクティーを一本ずつ配り、新居さんはお土産の包装紙をビリビリと破いて箱の蓋を開けた。


「新居さんて実家、どこだっけ?」

「中津川だよ」

「それで、栗きんとん」


 長閑な街にある寮で生活をしていると、なかなかお目に掛かれない高級和菓子だ。有り難く頂戴してロイヤルミルクティーも飲みながら、和洋折衷だなと思っていた。

 葛城さんも栗きんとんを手に取ったが、無言で黙々と食べている。たった今、部屋の真ん中で項垂れていたのだから、藤堂さんにも察するものがあったようだ。


「辛気臭いわね。男にでもフラレたの?」

「え…」

「僕が男をフッたんだよね」


 葛城さんに弁明させるのも可哀想な気がして、先に僕が答えた。それが葛城さんが落ち込んでいる理由にはならないが、何となく想像は出来るだろう。


「莉音ちゃん、男に言い寄られたの?」

「言い寄られたって言うほど強引じゃなかったけど、告白されたのは事実かな」

「フッたのね、フッたんでしょう?」

「まあ、当たり障りのないように」

「偉いわ。男と恋仲になっても、何もいいことなんてないから」


 藤堂さんの男嫌いは全然治ってないなと思いながら、もう一つ栗きんとんを手に取った。葛城さんとは普通に話しを出来るようになったのだから、成長したと言うべきか。


「僕はただ、男友達が欲しかっただけなんだけどな…」

「莉音ちゃんみたいな可愛い女の子に接近されたら、相手の男も勘違いするよね」


 新居さんが、そう言った。この中で僕が半陰陽だということを知らないのは彼女だけだ。それでも一応、話しが噛み合っているのはフッた相手が男性だからだろうか。そして、藤堂さんが話しを続ける。


「そうだ、明日学校が終わったらこの四人で、お昼食べに行こうよ。邪魔者も一人、消えたことだし」

「なんか今、心の声が聞こえたような」


 話しをしながら、これって恋バナなのかなと思っていた。松山さんにも色々と相談をしていたが、主に人間関係の話しで僕自身のことは、あまり相談していない。

 高校生になったら恋バナをしてみたいという願望もあったのだが、思わぬ形で夢が叶ってしまったような気がしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る