第5話 押しが強い先輩に流される僕
校則では髪の長い生徒は、縛るなり三つ編みにするなりして、まとめることになっている。長いとは、どれくらいのことを言うのか。そこは曖昧だが、僕の場合はウエストの辺りまであるので、言い訳できないくらい長いということになる。
飽くまでも学校内での話しなので、通学の時はそのままでも問題はない。以前は女子校だったせいか、長い髪を風になびかせたい生徒も少なからず居るようで、朝は教室に入ってから髪を縛って、下校時には解いてしまう生徒をよく見掛ける。
昨日は夜遅くまで、葛城さんと一緒に『時空のアルテミス』のDVDを見ていた。それが三日目ともなると、さすがに朝は起きられない。普段でもきちんと起きているとは言い難いが、遂に朝食には間に合わなかった。寮の食事は時間厳守だから、終了時間までに現れなかったら、さっさと片付けられてしまう。
何とか遅刻せずには済んだものの、髪を縛るよりも先に先生が教室に来てしまった。朝のホームルームを始める前に、担任の桜井先生は僕の方を見ながら、
「一之瀬さん、一限目の授業が終わったら職員室へ来なさい」
ニッコリと微笑んで、そう言った。
そういうことで、一限目の授業が終わったので職員室へやって来た。授業の間の休み時間は10分しかないので、長々と説教されるようなことはないだろう。
職員室に入った時点で桜井先生の方が僕に気付いて、デスクの所まで来るのを待っていた。
「朝から何も食べてないんでしょう?これ食べていいわよ。ただし、他の生徒には内緒でね」
誰かに貰ったお土産なのか、紙の箱に入ったドラ焼きがデスクの上に置いてある。蓋が底面にある状態で、二つほど中身が無くなっている。
「先生は誰が朝食を食べてないか、把握してるんですか?」
「寮に入ってる生徒だけよ。うちのクラスでは、一之瀬さんだけだから」
そう言えば、僕が入学式の日に保健室で寝ていたことを寮長は知っていた。そんな細かい情報まで、やりとりしているのかと思うと、ちょっと怖い気がする。
立ったまま食べるのは行儀が悪いと思ったのか、先生が隣りのデスクからキャスター付きの椅子を引っ張って来て僕を座らせた。僕はお腹が空いていたので、遠慮なくドラ焼きを取って食べる。あんこが甘さ控えめで、少し物足りない感じもする。
「一之瀬さんが中三の時の担任の木嶋先生、覚えてるでしょう?」
「最近のことですからね…んぐっ」
「私が一方的に喋るから、食べてていいわよ」
呼び出しの理由については、髪のことで説教をするためではないらしい。個人的な話しだから、他の生徒にはそう思わせるためのカモフラージュだったのろうか。
「木嶋先生は進学の手続きの時、あなたの内申書をご自分で持って来られて、直接手渡してくれたのよ。その時に、半陰陽には無知だったから一之瀬さんのことを傷付けてしまった。ずっと後悔してると言ってたわ。男子にセクハラされたり、保健室登校するようになった原因を作ったって、自分を責めてたわよ」
木嶋先生は僕のことを、ゲイかトランスジェンダーと混同していたようだ。若い女の先生だから、そういうことには嫌悪感があるのかもしれない。
それが間違いであることに気付いたのは、高校の入学式の日と同じように女の子の日に保健室で寝ていて、養護教諭から僕に生理があることを知らされたからだ。
養護教諭には半陰陽の知識があったから、僕が身体的には女性に近いことは察してくれていた。僕のことを差別するような態度の木嶋先生に対して、凄い剣幕で怒っていたのを覚えている。
木嶋先生から話しを聞いているのなら、桜井先生の行動も何となく納得できる。保健室まで様子を見に来たり、僕を女子ということで通そうとしたり、相原さんに根回しをしたりということだ。
「一之瀬さんが保健室で寝てたのは入学式の日だけだし、同好会にも所属して宜しくやってるようだから、木嶋先生には問題ないって報告していいかしら?」
「まだ、僕のことで気に病んでるんですか?」
「そのようね」
「じゃあ、そうしてください」
別に木嶋先生のことを、恨んだり根に持ったりはしていない。男子にセクハラをされていたのは、それ以前からあったことだし、間違いに気付いてからは僕のことをフォローしてくれていた。この学校へ進学できたのも、木嶋先生のお陰だ。
もう一つドラ焼きを取ろうとすると、桜井先生が箱をスッと動かして取れないようにした。
「もう、休み時間が終わるから教室に戻って」
「はい」
朝食としては、ドラ焼き一つでは物足りないが、昼食までは持ち堪えられるだろう。僕は立ち上がって先生に一礼すると、職員室を出て行った。
放課後に声優同好会の部室へ行くと、既に森本さんと藤堂さん、他にも二人の会員が来ていて、メンバーはこれで全員だ。
同好会なので出席しようが欠席しようが、誰も文句は言わない。ただ、最低でも5人は所属していないと部室は貰えないそうだ。昨年、会員が二人卒業してしまったので一人足りなくなり、僕を勧誘したという訳だ。
相変わらず森本さんは学校では、お下げ髪にメガネで、私服とのギャップが何とも言えない。
「莉音ちゃん、スカートの裾上げ出来たから着てみてくれる?」
森本さんがそう言って、先日一緒に買いに行った衣装を見せてくれた。お店で売っている段階ではスカートの丈はかなり長かったが、アニメでは膝が見えるくらいだ。
手に取って見るとスカートの丈だけではなく、細かい部分まで直してある。ブラウスと合わせて、藤堂さんが描いたデザイン画そのままだ。
「凄い凄い、アルテミスの衣装になってる」
「莉音ちゃん、私に何か言うことはないの?」
「お姉様、ありがとう」
「もっと言って」
「お姉様、素敵」
「あ、気持ちいい」
「お姉様、大好き」
「あ、死んじゃうかも」
恍惚の表情を浮かべる森本さんに対して、藤堂さんは不満げな様子だ。
「何それ、いつからそんな関係になったの?」
「三日前からよ」
三日前というのは、買い物をした日曜日のことだ。森本さんがお姉様と呼ばれて喜んだというだけのことで、それ以外は何もない。
「私が同好会に勧誘したのに」
「藤堂さんは寮だから、いつでも莉音ちゃんと会えるじゃない」
「あの背が高い子が、いつも一緒だから」
葛城さんのことを男だと言わないのは好感が持てる。ただし、寮の食堂で僕が葛城さんと一緒に居ても近寄って来ないので、元は男だったという意識が拭い去れないのだろう。僕が普通に女子だと思われているように、葛城さんのことも女子として認識してほしいという気持ちはある。
前置きはこれくらいにして、衣装を着てみることにする。更衣室はなくても、倉庫代わりにダンボールが積み上げられているので、その陰に隠れて着替える場所はある。多少は見えても周りは女子しか居ないので、恥ずかしいということもない。
着替えてダンボールの陰から出ると、森本さんと藤堂さんだけではなく、他の会員達も集まっていた。
「ちょー可愛いんだけどぉぉぉ」
「ほんと、お人形さんみたいよね」
「やだぁ、ずっと見てられる」
アルテミスの衣装の特徴である、呪文が書かれた二色のリボンも作ってあった。森本さんが僕の後ろに立つと、ポニーテールだった髪を解いてツインテールにしてくれる。ただでさえ年相応には見られない僕が、ツインテールにすると更に幼く見えるような気がしてしまう。
部室の中には大きな鏡がないので、どう見えているのか自分では分からない。恥ずかしくもあり不安でもあった。
「なんで、こんなことになっちゃったのかな。コスプレの趣味なんかなかったのに」
「もっと自分に自信を持って。今、莉音ちゃんは最高に可愛いから」
「本当に、そう思ってる?」
「私だけじゃなくて、みんなそう思ってるわよ」
女の子になりたい訳ではないのに僕が可愛くなろうとするのは、自然体のまま普通に日常生活を送りたいからだ。
無理に男の格好をして男の振る舞いをしても、何も良いことなんてなかった。でも、見た目が可愛い女の子なら、イジメられたり差別されるようなこともないだろう。
「あとは靴とカラコンよね。また日曜日に、一緒に買いに行こうか?」
「私が一緒に行くよ。デザインは分かってるから」
藤堂さんが話しに割り込んで来た。自分が勧誘したのに、疎外感を感じているようだ。順当に考えれば、衣装を作ってくれた森本さんと一緒に行くのが筋だと思う。
「こういう時、何て言えばいいの?」
「私のために争わないでって。莉音ちゃんの場合は、僕のために争わないでかな。一応、声優同好会だから感情込めてね」
森本さんは僕の肩に手を掛けて、耳元でそう囁いた。囁くと言っても広くはない部室なので、他の人にも聞こえている。
「僕のために争わないで」
「はい、ごめんなさい」
あっさりと、藤堂さんは引き下がった。
「それじゃあ、日曜日にね。おいしいフルーツサンドのお店知ってるから、帰りに寄って行こうね。莉音ちゃん、生クリーム好きだから」
森本さんがチラッと藤堂さんの方へ視線を動かすと、何だか歯軋りの音が聞こえて来そうな雰囲気だった。
完成した衣装を持って寮の部屋へ戻ると、勉強机の椅子に座っていた葛城さんは、上半身を回転させながら僕の方を見る。
僕はもう髪を解いているのだか、葛城さんと連日『時空のアルテミス』のDVDを見ているので、ツインテールのままだったら、どんな反応を見せてくれたのかと少し残念に思っていた。
「それ、コスプレの衣装?もう完成したの?」
「そう。先輩が全部やってくれたから、僕は何もしてないけどね」
「莉音に可愛い服を着せて、楽しんでるんじゃない?」
「そういう気持ちって、幸ちゃんにもあるの?」
「あるある。同じ洋服でも着る人によって全然、違うからね」
「へえ、そういうの興味あるんだ」
「ところで莉音。今度の日曜日、空いてる?」
唐突に話しが変わったなと思った。でも、葛城さんは初めから僕に、それを聞きたかったのだろう。たまたま、僕がコスプレ衣裳を持って帰ったから、話しがそっちへ行ってしまっただけのことだ。
「ごめん。同好会の先輩と、コスプレの買い物に行く約束してるから」
「あ、気にしないで。大した用事じゃないから」
恥ずかしそうにしている葛城さんを見ると、言い難いことなのかなという気がする。こういう時は、僕の方から聞きに行かないと話しが進まないだろう。
「用事があるなら言ってよ。善処するからさ」
それでも、モジモジして話しを切り出さない葛城さんに対して、僕は彼女の机に肘をついて顔を寄せる。葛城さんは照れ臭いのか、仰け反って距離を取った。
「酒巻君、覚えてるでしょう?スイーツ・フェスに誘われたんだけど、莉音も一緒にって」
「二人で行って来ればいいじゃん」
「無理だよ。莉音を誘うために、私を誘ってるんだから」
「あいつ本当は男だぞって、耳元でボソボソっと」
「それも無理。莉音がそれで嫌な想いをしてきたことを知ってるから、口が裂けてもそんなこと言えない」
酒巻君はトランスジェンダーに対して差別や偏見はないようだが、葛城さんのことを女子としては認識していないのも間違いないだろう。この間の話しでは、女子の多さに圧倒されて上手く会話も出来ないようだった。中間的な存在の葛城さんなら、会話がしやすかったと言ったところか。
「仮に僕が一緒に行ったとして、幸ちゃんはそれでいいの?見ていて辛くない?」
「莉音と一緒に居る酒巻君、と一緒に居られたらそれでいいから」
「へえ、そういうもんなんだ…」
トランスジェンダーは恋愛に対して、消極的なのかもしれない。一度壊してしまったら、二度と元へは戻らない。アニメの最初の方に、そんなセリフがあったような気がする。それでも修復しようとするのが『時空のアルテミス』なのだが。
土曜日なら午後から空いているが、それで問題がないなら初めからそう言っているだろう。葛城さんはクリニックに通っているので、そちらの予定が入っているのかもしれない。日曜日は森本さんとの約束があるので、断るしかなかった。
「ごめんね、この埋め合わせはするから」
「全然、気にしなくていいから。莉音のアルテミス、楽しみにしてるよ」
「あ、お母さんにコスプレ衣装の写真送りたいから撮ってくれる?」
言いながら制服を脱ぎ始める僕を見て、葛城さんは
「莉音は、もう少し恥じらった方がいいよ」
溜め息をつきながら、そう呟いた。
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