17、乱入

「へーぇ。こいつは面白い。嬢ちゃん、震えてるじゃねぇか」

「ふ、ふふ、ふるえちゃ、いけないんですか」

「どこまでその強気がもつかな。まぁ、気にすんな、客が一人ふえただけだ」


 背後でなにかが動く気配がした。

 その時。

 黒い旋風が足もとに吹いた。


「ぎゃあ」と男が悲鳴を上げる。見れば、ブルーノが男の足に噛みついていた。

男はなんとかブルーノをふり払おうと足を曲げたり、上げたりする。


 だがブルーノはこれまでに見せたことのない狂暴な顔で、男をけっして離さない。


「大丈夫か。ミリアム」

「レオンお兄さま」


 飛びこんできたレオンを見たミリアムは、ふいに体の力が抜けた。

 さっきまで震えていたひざが、自分を支えることができない。

 がくっとくず折れたミリアムの体を、レオンが支える。


「お前、何をしている」


 地の底からひびくような、低い声だった。

 怒鳴りつけたいのをかろうじて堪えるような。けれど怒りを抑えたがゆえに、レオンの声は凄みがある。


「なにって、別にさぁ」


 足の痛みを我慢しながらも、男はへらへらと笑う。


「ただ楽しそうだから、一緒に混ぜてもらおうと思っただけでさぁ。兄ちゃん、この駄犬をなんとかしてくれよ。いてぇんだよ」

「駄犬? うちにはそんな犬はいない」

「いや、だからさぁ」


 駄犬呼ばわりされたブルーノは、いっそう深く牙を立てる。男のはりついた笑顔はこおりつき、うめき声をあげる。


「さっさと出ていけ。ここは教養あるものしか受けいれない店だ。お前はうちの客じゃない」


 鋭い眼光。レオンの琥珀色の瞳が、金に光ったようにみえた。


「な、なんだよ。冗談じゃないか」

「冗談? なにひとつ楽しくもないが。ああ、冗談のセンスもないのか。哀れだな。これ以上みじめな姿をさらす前に消えたらどうだ」


 男はなんとかブルーノを離そうとして、それも叶わず。しかも強面のレオンににらみつけられて、口をぱくぱくと開くばかりで言葉が出てこないようだった。


 ブルーノの大きい体を引きずりながら、男は去っていく。


「もういい。戻りなさい、ブルーノ」


 さっきまで狂暴そのものだったブルーノは、レオンの命令に素直に従った。ミリアムたちの元に帰ってきたときには、たいそう温厚な犬の顔に戻っていた。


(もう大丈夫なんだわ。レオンお兄さまが、ブルーノが助けてくれたんですもの)

 

 ほっとしたとたん、ミリアムの目の辺りが急に熱をもった。

 視界がにじむ。

「怖かったな」と問いかけるレオンのやさしい顔がにじんでいく。「くぅん」とミリアムの手に頭をすり寄せるブルーノも黒くぼやけて見える。

 もう怖くない。怖かったけれど、大丈夫。


「あいにくハンカチがない。使っていたタオルしかないのだが」

「いいの。平気なの」

 

 ミリアムは手の甲で涙をぬぐった。けれどハンカチではないから、ただ涙をひろげるだけ。


「ほんとに頑張ったな。勇敢だったぞ」

 

 ミリアムの両足が地面からふわっと離れる。背中を軽くなでられる。

 レオンは、ミリアムを抱えあげていた。


「おにいさまぁ」

「よしよし」

 

 声が震える。泣きたくなんてないのに、涙がとまらない。ミリアムはレオンの肩にしっかりとしがみついた。


「ほんとうにありがとうございます」

「恐ろしかったですわね」

「勇気あるお嬢さんですわね。感謝しますわ」


 女性たちの声がきこえる。

 レオンにかかえられたまま、ミリアムは女性客を見やった。


 彼女たちは手に手に、ワインの瓶やフォーク、はてはナイフまで握りしめている。

 戦う気満々だ。


(マダムたちも勇敢ですよ)


 ほおに涙のあとを残しながら、にへっとミリアムのほおが緩んだ。


(ひとりだけで戦おうとして怖かったけれど。でも、わたしはひとりじゃなかったんだわ)

 

 一時はどうなることかと思ったが、レオンやミリアムを手伝って女性客も男性客も場を整えてくれた。

 さいわい虹色の花や木の葉が散ったくらいで、さほどの被害はない。


 けれど、ミリアムが何日もかけて作ったライラック色の覆いが破れてしまっていた。


「どうしよう……刺繍するだけでも大変だったのに」


 びりりと縦に裂けた布。やぶれた部分は、むなしくそよ風にゆれている。


「あら。直してきてさしあげますよ。わたくし、お裁縫は得意なんです」

 手にしたワイン瓶を敷き布のうえにおきながら、ひとりが話す。


「いいですわね。ご一緒に繕いませんこと? はやく直さないと、また花の宴を催してもらえませんもの」

「わたくしもお手伝いしますわ」


 ナイフやフォークを持った手を後ろに隠しながら、マダムたちが上品に微笑む。


「でも、お客さまにそんなことは……」

「いいのよ。それくらいはさせてちょうだい。だから花の宴は続けてね」


「ね?」と念押しされて、ミリアムはうなずいた。


「でもお兄さまでしょう? 過保護ねぇ」

「そうよ。そろそろ妹さんをおろしてあげてはどうかしら」


 指摘されて、ミリアムははじめてまだ自分がレオンに抱えられたままであることに気づいた。


「いや、これは。その、そもそもこの子は妹ではなく、えっと」


 さっきは男に毅然と立ち向かったレオンが、いまは話す内容も要領を得ない。


「あらーっ、レオンお兄さまと呼んでるから。てっきり兄妹だと思ったわ」

「じつは……婚約者で」

「まーぁ。すてき」

「年の離れた許嫁なのね」


 かわいそうにレオンはうなだれてしまっている。けれど横抱きにされたミリアムには、困ったような表情で頬を染めているレオンの顔がはっきりと見えた。

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