15、残ってしまったスープとブランダード
「レオンお兄さまが帰っていらしたんだわ」
ミリアムは駆けだした。
けれど、廊下に出たところで、はだしであることを思いだす。
「すうすうすると思ったら」
部屋に戻って、くつしたと靴をはく。階段をお行儀悪く一段とばしに駆けおりて、目を丸くする使用人を急かし「開けて、開けて」とエントランスのドアを開けてもらう。
「おかえりなさい。今日はお早いですね」
「ああ、ただいま」
わふわふと、ブルーノがミリアムにとびついてくる。あまりの勢いに、ミリアムはよろけてしまった。
じぃっと見つめてくるブルーノ。
なにか言いたそうだけれど「きゅーん」と鳴いているけれど、犬の言葉はわからない。
「荷物が多いから、あぶないぞ」
レオンは幌のかかった荷台から、荷物を下ろした。ふだんよりも重そうな鍋。レオンが地面に鍋をおくと、たぷんと音がする。
「もしかして、あまり売れなかったの?」
たしか今日のスープはレンズ豆と刻んだソーセージ。黄色いレンズ豆だから、煮こんでいるあいだに溶けて、とろりとした食感になる。
飴色になるまでよく炒めた玉ねぎの甘みと、クミンのスパイシーな風味がとてもおいしい。
以前、おなじメニューを出したときは人気だったのに。
「俺の力不足だな」
「え、でも。お味見したときは、いつもと同じだったわ」
ほかには少し干した白身魚と、ラシットポテトとともに生クリームとチーズでこんがりと焼きあげたグラタンである、ブランダード。
最後の焦げ目をつけるのは、シトリン亭のキッチンだけれど。焼きあげなくても、ガーリックの香りとオリーブオイルの軽さ、クリームのまろやかさがよく合っていた。
「ブランダードも、朝にいただいたときはおいしかったわ。お昼にお出しするなら、もっと味がなじんでいたはずよ」
このグラタンも、以前はすぐに売り切れたはず。軽くて食べやすいと、女性のお客さまに喜ばれた。
「そう。味の良し悪しじゃない。残念ながら」
「どうして……」
すこし傾きはじめた太陽が逆光となって、レオンの表情がよく見えない。茶色い髪はきらきらと輝いているのに、まるでいまにも泣きそうな、そんな顔に見えて。
(でもお兄さまは大人ですもの。お強くていらっしゃるもの)
だからきっと勘違い。
ミリアムは納得した。
「ストランド男爵令嬢。話がある」
「えっと、じゃあ中にお入りになりません?」
「いや、ここでいい。きみに謝りたいんだ」
レオンの言葉に、ミリアムは姿勢をただした。
(なにかしら。やっぱり婚約はとりやめにしたいとか?)
不吉な考えに、心臓がバクバクと不穏な音をたてて騒ぎはじめる。
(それとも、もう実家に帰るとか? シトリン亭を閉店するとか?)
ほろほろと涙があふれてきた。
このところ、ミリアムの涙腺はよわい。決壊ばかりしている。
「あのー、だな。話す前に泣かれると、非常に困るのだが」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
にじんだ視界で、レオンが眉を下げて弱っている。
とつぜん、ふわっとミリアムの体が浮いた。
驚きに瞬きをすると、足が地面から浮いている。レオンの顔も下にある。
涙がとまった。
「よかった。泣きやんでくれた」
ほわっと花が開くようにレオンがほほ笑んだ。とても柔らかく。
「別れ話じゃないんですか。ちじょーのもつれとか」
「……痴情のもつれ? なんでそんな言葉を知ってるんだ。メイドたちか、仕方ないな。レディの前で下世話な話をして」
レオンのかかげた両腕が、ミリアムの胴の部分をささえている。
「これもサマにならないな」
腕を動かすと、レオンは右腕でミリアムを抱きかかえた。
(お、お兄さまのお顔がちかいわ)
これまで海の側のシトリン亭にいたからか、レオンの髪からはかすかに潮の香りがする。
冬のころよりも、すこし日に灼けた肌。初対面のときに、ミリアムがつけてしまった傷。
ほんの二年ほどだけれど。レオンとの日々がたしかにある。
「わたし、わたし……お兄さまのことが好きなの」
「うん」
「大好きなの」
お日さまの香りと潮の香りがまじった茶色い髪。ミリアムは、レオンの頭にぎゅうっとしがみついた。
「だから捨てないで」
「それはこっちのセリフだな」
レオンがミリアムの腕を引きはがそうとするから。そうはさせじと、さらにしがみつく。
しかもブルーノまで後ろ足で立って「我も我も」と、レオンの腰のあたりをひっかいている。
「こら、苦しいって」
「だって、こっちのセリフって……え?」
ミリアムは間近にあるレオンの顔をのぞきこんだ。
「つまりだな、男らしくないかもしれないが。前言撤回だ」
「ぜんげんてっかい?」
「そう、ストランド男爵令嬢にこれからも店に手伝いにきてもらいたい。館での仕込みだけではなく」
「行ってもいいの?」
「俺のほうから頼みたいんだ」
レオンはうなずいた。
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