13、嵐のあと

 朝には嵐は去っていた。

 空はどこまでも清澄で、海も凪いでおだやかだ。海面はまるでアクアマリンを溶かしたように美しい。


「すがすがしい、気持ちのいい朝ですよ」


 レオンにつきそわれて、ミリアムは浜辺にでた。

 ブルーノは昨夜の荒れた風の音でよく眠れなかったのか、まだ起きてこない。


「こら、ちゃんと帽子をかぶりなさい」

「せっかくの日ざしなんですもの。もったいないわ」

「日焼けをしたらどうするんだ」

「きれいな小麦色の肌になるかもしれないわ。南国にバカンスに行くマダムみたいに」

「いや。きみの場合はまっ赤になって、肌が腫れてしまうほうだ」


 まだしっとりと濡れている草地には、折れた小枝や散った葉が点々とおちている。

 細い草の先端から、雨のなごりの粒がぽたりと落ちていく。まるで水晶のかけらがとけるようで、見ていて飽きない。

 もともと海水浴をする習慣のない土地なので、砂浜に人の姿はない。


 ふあぁ。

 やっぱりよく眠れなかったミリアムが、あくびをかみ殺す。


「ソファーベッドで、ふたりは狭いな。俺もなんというか背中が痛いような」

(まぁ、それってもっと大きなベッドをお店に入れようということかしら。それともふかふかのマットを用意するのかしら)


 ミリアムの睡眠不足は、おもにレオンの寝言だ。

 ふだんはけっして呼んでもらえない「ミリアム」の名を、とぎれとぎれとはいえ、不明瞭とはいえ、呼んでもらえたのだから。

 寝言だけど。


「まぁ、安心しなさい」

「はいっ」

「次からはこんなことがないように、ストランド男爵令嬢は屋敷での手伝いだけをお願いするから」


 さっきまで晴れわたっていた周囲が、一瞬にして闇に閉ざされた気がした。


「あの、お兄さま。それって……」

「いくら我々が婚約者同士であるとはいえ、ふたりきりで朝まで過ごすのはよくないだろう」

「よくなくないですっ!」


 ミリアムは勢いこんで、レオンに詰め寄った。


「……ストランド男爵令嬢、言葉がおかしいぞ」

「問題ないと思います。だって婚約者なんですもの」

「だが結婚はまだだ」


 いつもよりもレオンの声が低く聞こえた。


 こんなにも小鳥がかろやかにさえずっているのに、おだやかな海が陽光を反射してきらめいているのに、咲きはじめた海辺の白い花のあまい香りがするのに。


「わかりました」


 ミリアムはぎゅっとこぶしを握りしめた。

 今ごろになって、しっぽをぴんと立てたブルーノがミリアムの側にやってくる。

 どうしたの? と言いたげに、黒い瞳が見あげてくる。


「さぁ、男爵家に戻るか。行くぞ、ブルーノ」

「わたし、荷物をはこびます」


 いまにも泣きだしそうで、そんな顔を見られたくなくて、ミリアムは駆けだした。


 ほんの半日まえの涙とは正反対で。

 悲しいのか悔しいのか、寂しいのか。自分の感情が、自分でもわからない。

 まだ湿りけの残る砂に足を取られて、つまずきそうになる。

 それでも一心にミリアムは走った。


◇◇◇


 駆けていくミリアムの背中を、レオンは目で追った。


「ブルーノ、行きなさい。あの様子では辺りを確認せずに、道を渡りそうだ」

「わんっ」


 元気よく返事をして、ブルーノはミリアムを追いかけた。


「まったく、ちゃんと伝わっていないよな」


 ため息まじりにレオンは呟く。その小さな声をさらう風はない。


「けじめはちゃんとつけておかないと、ダメだろう。こんなことで悪評がたって、婚約は破棄するようにと男爵に言われたらどうするんだ」


 やれやれ、とレオンは頭をかいた。


(女の子というのは、ほんとうに難しいな)


 帰りの馬車では、ふたりとも無言だった。

 あまりにも重い沈黙。いつもなら御者台で、ミリアムはレオンにぴったりと寄り添っているのに。

 今朝は微妙にふたりの間に空間がある。


(道の両端に生えているのが、もし暗い糸杉なら。墓場へ向かう馬車みたいだな)


 よかれと思って、レオンは店での手伝いをことわった。

 だが、たぶん伝わっていない。きっと伝わっていない。


(弁論は得意なんだが。どうして会話は下手なんだ、俺は)

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