12、嵐の夜
夜半になっても嵐はおさまらない。
猛る波は、白いしぶきをあたりに散らし、木々の葉は暴風にもてあそばれて、ちぎれて散っていく。
「ほら、ストランド男爵令嬢。早く寝なさい」
「もうちょっと」
二階の部屋の窓から外を見ると、重く黒い雲を雷光がぼわっと照らしている。おくれて聞こえる雷の音。
「いつもなら、とっくに寝ている時間だぞ」
「はぁい」
レオンがそばにいる心強さか、嵐が怖くないことがミリアムには不思議だった。
「ほら、君はこっち。ブルーノは床で」
とんとん、と大きな手がベッドにしたソファーをかるくたたく。
「そ、そうだったわ」
「なにが?」
問いかけられたミリアムは、ふるふると首をふる。
(どうしましょう。いくら婚約者とはいえ、レオンお兄さまとおなじベッドで寝るなんて)
しかも毛布は一枚。
(はわわ、同衾というものだわ)
メイドたちの噂や世間話を耳にすることの多いミリアムは、意味はよくわからずとも、聞きかじりの知識だけはあった。
なにしろ「マグロはいけない」らしい。
どうして殿方と一緒のお布団に入るのに、魚の話になるのかミリアムにはさっぱりわからない。
(よろしくお願いしますって、言えばいいのかしら。ふつつかものですが、とか? ああ、家庭教師の先生はこんな場合にどうすればいいか、教えてくれなかったわ)
あたりまえですよ、何をおっしゃっているんです。このわたくしが、ふらちなことをお嬢さまに教えるわけがございませんでしょう。
つんとあごを上げた家庭教師の鋭い声が、空耳となって聞こえた。
「じゃあ、おやすみ」
「え?」
レオンはソファーベッドに横をむいて寝ころんだ。ちゃんとミリアムの場所は空けてある。
そしてすぐに静かな寝息を立てはじめた。
「寝ないの? 寝れないの?」と尋ねるように、ブルーノがミリアムの顔をのぞく。
「レオンお兄さま。寝つきがよすぎない?」
むろん応じる声はない。
ブルーノが「いっしょに寝てあげるよ」とでもいう風に、愛らしく首をかしげてくる。
なんだか、自分ひとりだけ緊張してバカみたい。
ゆるく三つ編みにしたした髪を、ミリアムは指でくるくるといじる。
「おやすみなさい」とちいさく呟いて、レオンのとなりに横たわった。
目の前には、大きな背中。
シャツ越しでも、そのたくましさが分かる。
ちいさなミリアムの手をレオンの背に添えてみれば、ほんとうに大人と子ども。
レオンと知りあって二年になるのに。ぜんぜん追いつけない。
(それにまだ、名前で呼んでもらえないんですもの)
ストランド男爵令嬢と呼ばれるたびに、ミリアム自身よりも、男爵令嬢であることのほうが大事なように思えてしまう。
もちろん、レオンの実家は伯爵家。爵位は継げなくとも、彼が望めばもっとすばらしい結婚相手だって見つかるはずだ。
布の向こうにあるレオンの肩甲骨を、そっと指でなぞる。ほそい指が、ちいさな爪が、にじんで見える。
(こんな風に幼稚で、すぐに涙ぐんでしまうわたしなんて、まだ子どもでしかないのだから)
レオンの背中から、ミリアムはそっと手を離す。
「ごめんなさい。プロポーズをしてしまって」
ごめんなさい、好きになってしまって。
お兄さまが選べるはずだった未来を、わたしが奪ってしまったのかもしれない。
「……ア、ム」
あまりにもかすかなレオンの声が、外の雨音にまぎれてしまう。
「ミ……」
「お兄さま?」
もしかして、わたしの名前? 名前を呼んでくださっているの?
耳を澄ましても、聞こえるのは荒い波音と風が木々の枝をざわめかせる音。
「あぶな、い。なかにはいり、なさ……い、ミリ……ア」
涙があふれた。
目頭がほてるように熱くなって、ぽたぽたと涙がとまらない。
タオルもハンカチも手もとにないので、ミリアムは手でこぼれる涙をぬぐった。
熱い涙は、手の甲ですぐに冷えていく。
(わたし、お兄さまの夢のなかにいるんだわ。ミリアムって呼んでもらえているんだわ)
こんな嵐の夜なのに。家にも帰れないのに。
とてもうれしくて、しあわせだとミリアムは感謝した。
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