3、レオンとの思い出【1】
「ストランド男爵令嬢。夫人の言うことは聞くものだぞ」
包丁をもったレオンが、鴨をさばいている。
肉はローストにして、リンゴンベリーを煮詰めたものをソースにする。残った肉は燻製に。ガラの部分は野菜たっぷりのスープに利用する。あとはくたっとゆでたカブと、オリーブの油でかりっと焼いたポテトに岩塩をかける。
それが今日の献立。
「だって、お母さまの言うことを聞いていたら、お勉強に詩の朗読に、刺繍に礼儀作法に語学でしょ、それから歴史に芸術。ぜんぜん自分の時間がとれないもの」
「それに関しては同意だが」
「あ、あとね」
ミリアムはナイフを机に置いて、レオンに向きなおった。
目の端に鴨のもも肉が見えるけれど、無視。
「わたしのことはストランド男爵令嬢じゃなくって、名前で呼んでほしいの」
「名前で?」
こくりとミリアムはうなずく。
(ほおが熱い。ううん、耳も熱い。ちぎれそう)
沈黙がキッチンを支配し、廊下でメイドたちが話をしながら箒をつかう音が聞こえる。
「名前かぁ」
ちいさくつぶやく声は聞こえども、その後レオンは無言になってしまった。
(わたし、もしかしてぶしつけなお願いをしてしまった?)
おろおろとしたミリアムは、次のラシットポテトを手にとろうとして床に落としてしまった。
いびつにころがりながら、レオンの足もとにたどりつくポテト。
しゃがんだ彼はポテトを拾おうと伸ばした手をとめた。
ミリアムの位置からは、レオンはほぼ背中をむけた状態なので表情はわからない。
けれどそのため息のような口調から、好ましい反応ではないとわかる。
(やっぱり言っちゃいけなかったんだ。レオンお兄さまは大人なんですもの。議員なんですもの。わたしみたいな子どもを対等にレディとしてあつかえるわけがないわ)
もやもやと灰色のあつい雲が、ミリアムの心にかかる。水分がたっぷりで重くて、いまにも涙になって目からこぼれそうなほどの雲を、ミリアムは追いはらおうとした。
見た目はこわいが、本質はとてもやさしいレオンを困らせてしまったことが、もうしわけなくてしょうがない。
レオンと社交界のデビューもまだ先のミリアムの婚約が成立したのは、ミリアムの強い願いでもある。
うまれつき体がよわく、すぐに寝こんでしまうことの多いミリアムは、ほとんど館から出ることがなかった。
さいきんは以前よりも丈夫になったが。勉強は家庭教師に教わっているし、友だちは庭にやってくる小鳥くらいしかいない。
使用人の子どもたちが、厩舎のまえで遊んでいるのを見かけもする。けれど男の子ばかりで話すこともない。
ひとり。
いつもミリアムはひとりで、空を流れるうすいオーガンジーの布のような雲が流れるのを、ガーデニアの白い花に似た雲がふわっとほどけるように開くのを眺めていた。
それは二年ほど前、ミリアムがまだ十歳のころのこと。
館の屋根にも木々の枝にも、地面にも雪がふりつもり、すべての音を吸収する静かな日。
ストランド家に住まうこととなったレオンとはじめて出会った午後だった。
こつん、とエントランスのドアノッカーが音を立てる。
(これからは使用人でもない、親戚でもないおとなの男の人が、いっしょに暮らすんだわ)
緊張したミリアムは、二階の階段を上がったところにあるバルコニーから、ホールを見おろしていた。
手には、さっきまで使っていた羽ペン。
もちろん、これから一緒に暮らす伯爵家のご子息をのぞき見るために。
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