4、レオンとの思い出【2】
開かれたドアから入ってきたレオンは、濃い茶色の髪やぶあつい外套の肩に雪を散らし、まるで雪原の狼のようにおもえた。そばにたつ黒い犬、ブルーノをしたがえた精悍なすがた。
一気に階段の下のホールに雪まじりの風が吹きこんでくる。
つめたい風は、大理石の床をすべり、重さを感じさせない雪をおどらせている。まるでレオンが雪を発しているようにおもえた。
「こわ……」
それが、レオンを見たときの第一印象だった。
険しい表情、眉間は寄せられて、琥珀色の瞳も凍りそうに思える。
「あーっ! ミリアムさま。こんなところに」
二階の廊下を、長く黒いスカートをつまみあげながら、家庭教師が駆けてくる。
(しまった。思いのほか、早く戻ってきちゃったわ)
ひとつに結んだはちみつ色の髪と、あわいすみれ色のリボンをゆらして、ミリアムは立ちあがる。
そのとき。すとん、と羽ペンが階下に落ちた。
まっすぐに落ちてゆくペン。
混乱したミリアムは手を伸ばし、二階の廊下のバルコニーの手すりに身をのりだした。
かろうじてつかんだペン。けれどそのままミリアムは落下した。
「え? うそ。なんで」
耳もとを風が吹きぬける。エプロンドレスのすそが、ばさばさと音を立てる。
ぎゅっとまぶたを閉じる。
(頭をまもらなきゃ)
木の枝から落ちてけがをした使用人の子どものことが、脳裏をよぎった。
けれど、どうすればいいのかわからない。
「あぶないっ」
低い声がホールに響いた。
次の瞬間。たたきつけられる衝撃ではなく、とすんとなにかに収まる感覚があった。
おそるおそるまぶたを開くと、ミリアムの目の前にはさっきの凍った琥珀の瞳。
背中も腕も、腰も足も、ひんやりと冷えてゆく。
「怪我はないか?」
「は、はい」
「よかった」
その人の目もとが、ふとゆるむ。
助けてもらったお礼を言おうとしたとき、ミリアムのほおにあたたかい雫がぽたりと落ちた。
錆びた鉄のようなにおい。
ぬるりとした雫は、ぬくもりを失いながらミリアムのほおを伝う。
「ち……ち、ち、が」
「ん? ああ、血か。ペン先がかすったみたいだな」
(ペン先って、もしかしてわたしのせい?)
右手に握りしめた羽ペンは真ん中から折れてしまい、羽の部分はぼろぼろになってしまっている。軸の先、とがった部分には血の跡が。
見あげれば、レオンの左のほおにひとすじの傷がついている。そこから血は流れだしている。かすったなどというレベルではない。
(わたしがケガをさせてしまった)
伯爵家の御子息に、初対面の殿方に、お客さまに。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
なんどでもミリアムはくり返す。
(おうちが取り潰しになるかもしれない。わたし、処刑されちゃうかもしれない)
がくがくと小さな体がふるえだす。
レオンはと言えば、ケガを気にするようすもなく、ただひたすらに自分の腕のなかで頭をさげる少女を、困惑したように眺めている。
「ミリアムさまーっ。お怪我はございませんか」
「大丈夫みたいだが。君、どこか痛いところはあるか?」
レオンに問いかけられて、ミリアムは彼の腕にかかえられたまま、ふるふると首をふる。
「あとから痛みがくることもあるからな」
床にしゃがんだレオンは、片方のひざにミリアムを座らせると「失礼」と言いながら、彼女の手や足にふれた。
「ここは? 痛くないかい?」
「はい」
応じる声が震えてしまう。
痛いのは、あなたのほうでしょうに。
(どうしよう。わたしはこのお兄さまに一生きえぬ傷をつけてしまった)
考えれば考えるほど、視界がぼやけてにじんでしまう。
「え? 泣いてるじゃないか。我慢しなくていいんだぞ」
「してま、せん」
「ほんとうに、ほんとうか?」
「ほんとうの、ほんとうです」
それでもミリアムの涙声に、レオンは明らかにおろおろとしている。
ペン軸がつけたレオンのほおの傷は、ようやく血がとまったようだ。だが、赤いひとすじの痕は簡単に消えそうなほど軽くもない。
両親からも祖父母からも「顔はだいじだ」「日焼けはせぬよう」「怪我をせぬよう」「傷を残さぬよう」と、幼いころから言い聞かされ続けてきたミリアムにとっては、あまりにもおおごとだった。
(そう、お父さまはよくおっしゃっているわ。顔に傷が残るようなことがあったら、お婿さんを取れないよ、と)
「わ、わたし」
「ん?」
突然いきおいこんだミリアムは、レオンのひざに乗ったまま、彼のまだ脱いでいない外套を両手でつかんだ。
「わたし、責任をとります。あなたと結婚します」
「はい?」
初対面の子どもからの、とつぜんの求婚が理解できないレオンは、ぽかんとした表情をうかべた。
険しかった表情から、とたんに力がぬけた。
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