夢をみる少女 ⑴

「やあ弟子。気分はどうだい」

 黒い夜空の上で、ほうきは陽気に声をかけてきた。

(気分はいいよ)

「空の上で寝そべっているものね」ほうきはどこか嬉しそう。「見てよ、今宵は満月さ。月は旅には欠かせない演出だもの。よい旅の始まりだよ」

 今夜、僕とほうきはふたりきり。

 気さくに声をかけてくる黒いほうき――ロココは僕の、可愛いほうき。

 付き合いはかれこれ十四年らしい。思い返しても覚えていないが、一番近い思い出の中で、ロココはたしかにそう言っている。

 果たしてほうきは、いつから喋るようになっただろう。思い返せる思い出の中で、ロココはもう喋っていた。

 胸の中で言葉を呟くと、ロココはそれを理解する。僕らは常日頃、一心同体の友人なのだった。

「慣れない旅になりそうだけど、弟子は調子がいいようだ。よし、ここらで一度おりてみようよ」

(ロココの好きにすればいい。僕は地図すら読めないからね)

「弟子はアレッタ様に教わってないものね。きっと魔術師に、地図は必要ないということさ」

 故郷の森を離れてしばらくすると、ご機嫌なロココが空の上でふわふわと速度を緩めはじめた。僕が不思議なものを見たのは、その頃である。おかしなことに、夜空に瞬く星屑が下にもあるのだ。

(あれは、なんだろうか)

 空が下にあるのだと思った。空を飛んでいるのに。

「街明かりさ。大きな街だね。そして、優雅で美しい街みたい」

 ロココは降下した。僕は堪らず立ち上がり、夜空を見上げた。眩しくて目が痛い。

「まだ遠いけど、弟子はもう街の光に酔ったのかい? この街は金持ちの街らしい。人だって輝いているもの」

 宝飾の輝きも金銀の装飾の光沢も、僕の目には全てが眩しかった。思わず、布を巻いた顔を掻きむしってしまうほど。

(目玉を捨ててしまいたいよ)

「爪を立てちゃだめだよ。綺麗な顔に傷がつくだろう? アレッタ様を悲しませちゃいけないよ。落ち着いて」

 煌びやかな世界は、思った以上に目に煩わしい。ローブのフードをかぶって目を隠してみるが。

「……こりゃ弟子には刺激が強すぎたか。頼むから顔だけは晒さないでおくれよ……ん?」

(どうした?)

 するとロココは東に旋回。いい場所があるのだろう。

「あっちのクロックタワーの方はどうかな。まるで貧乏丸出しのボロ家がいっぱいだ。暗いよ」

 ちらりとロココが指し示す方角を一瞥した。そして、こくりと頷いた。

(ああ、いいね)

「行こう。さあ、もう布を掻きむしるのはやめて。気が気じゃないよ」

(わるい。もうしない。たぶんね)

「まったく先が思いやられるよ」

 はじめて恩師のそばを離れ、憧れたひとり旅に出たというのに。輝く街灯りに気圧されるとは情けない。

 アレッタ様も、同じように旅に出たのだろう。今は亡き恩師がおり、一人前の魔術師になるための修行の旅へ。

 それは今の僕のように十七の夜であり、空の旅から始まったのだろう。美しい、満月の夜であっただろう。多くの街を訪れ人々と出会い、言葉を交わしただろう。

 旅を終えた僕は、きっと、アレッタ様のような美しい魔術師になる。

 十七の僕は赤い魔術書を抱いて願い、旅に出たのだった。



    ◇



 石造りのクロックタワーはなんとも汚らしい。じめっとしていてカビ臭い。ご丁寧に崩れた壁に穴があり、そこからお邪魔すると着地に失敗した。

 羽織っていた黒いローブも他所行きの黒いジュストコルも。見事に埃まみれになっている。

(ああ、……お気に入りだったのに)

 仕方なく手で埃をたたいていると、

「あなた、どうして顔がないの?」

 唐突に、声がした。

 どこから声をかけられる? ロココが突入した穴だろう。ということは、外から誰かが僕に声をかけたということだ。

(……ここは三階なのに。どうやって?)

 パチンと指を鳴らし、ほうきの頭にくっついているランプに火を灯らせた。廃墟同然の心地いい内装が、ほんわりとした灯に揺れた。そして僕は、そっと振り返った。

(……殺される?)

「誰だい。弟子はいろいろと不安定でね。ぼくが代弁を」

 ロココはできるほうきだ。幼い子どものように命知らずである。胸を張って僕の前に出たのだからすごい。

 ほうきの細い身体の後ろで、僕は背中を丸めて覗いた。どうやらお隣の建物も壁に穴があいている。お互い様というやつだ。素晴らしくボロい。

 なるほど。声の主は隣の建物にいるようだった。

「わたしはリティア。ここは富の街ルピナスと呼ばれているわ」

「富の街だって? たしかに西側は煌びやかだったよ。でもこっちはボロ家しかないじゃないか」

「貧富の差があるだけ。同じ街よ」

「それにしては、差がありすぎじゃあないかい?」

 ロココは馬鹿にしたように言った。けれども、リティアという女の子は、金色の長い髪を月光に照らして柔らかく微笑んだ。

 ボロ雑巾のような服を着て、窓がわりの壁の穴に肘をつき、小さな顔を乗せて。

 僕も恐る恐る、壁の穴に近づいた。この子は怖くはない。少し、違和感があるだけ。瞳が、やけに。

「こんばんは、顔なしの人」

 顔なしとは失礼だ。しかし、屈託なく笑う女の子だった。喋るほうきも怖がらない。

 僕は黙って、こくんと頷いた。

「旅人さんでしょう? ねえ、どうして旅を? どうして顔がないの?」

 真っ黒い布を巻いて覆っている僕の顔に、リティアは手を伸ばした。布を取って欲しいのならお断りだが、僕の体は動かない。

 ここは暗くて汚いのに、リティアの目が眩しいほど煌めいていたからだ。

 驚いた。

 宝石のような、美しい瞳。みずみずしく、目が痛いほどに。動けないほどに。

 それはまさしく、みたことがない、不思議な魔法のようだった。

「旅をしているのは、弟子がアレッタ様のような立派な魔術師になるためさ」

「……まじゅつし? ご本に書いてある魔術師? ほんとうに?」

「それに、見せていないだけで、弟子には顔があるよ」

「まあ……」

 ロココが代弁すると、リティアは伸ばした手をすっと引っ込めた。その顔を見てはならないのだと察してくれたのだろう。きっといい子だ。

 けれども、

(……汚い手)

 傷だらけで汚い手をしている。

 少しの傷なら、僕は治してあげられるだろう。

 魔法で長い髪も、ボロ雑巾の服も、綺麗に整えてあげられるだろう。

 そう思い、今度は僕が黒いローブから手を伸ばした。

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