嘘つき魔術師アレッタの償い
⑧
モルスの思い出語り
十七の夜。
「僕に少しばかり、森の外に出て、修行に出向く機会をください」
恩師である魔術師アレッタ様に、僕はそう言った。
きっかけは、アレッタ様がベッドに横たわる僕をまじまじと見下ろして「おまえ、今宵で十七くらいになったかな」と、仰ったことである。
アレッタ様は続けて「バースデープレゼントはなにがいいかな」と仰った。
僕は、修行に出たいとお返しした。
不滅の魔女は皆、十七になると修行の旅に出るらしかった。要するに、街を自由に歩いたり、空を自由に飛ぶためのお許しをもらうのが、十七の夜なのだった。
「私に似て、おまえは真面目な弟子だね」
アレッタ様の綺麗なお顔がにやりと笑うのを見た。
「森の外は危ないからね」僕の白い髪を、手櫛でといてくださった。「森から出たことがない弟子のひとり旅なんて、危ないね」
「ですから、この子を連れていくのです」
「ああほうきね。弟子が大好きなほうき」
僕のほうきは焦げてしまっているが、仲が良く、相性はいい。
「ほうきだけじゃあ頼りない。ほうきはまだ子供」
「僕のほうきはまだ子供なのですか? 僕と一緒に、アレッタ様に育てていただいたのにですか? 十四年も」
「ほうきは歳を重ねたが、ずうっと子供のままだよ。まあいい。私の魔術書を持って行きなさい」
「……アレッタ様の魔術書」
その日、アレッタ様は一冊の赤い本を、差し出してくださった。
「赤い、大切な魔術書。おまえに貸してやる」
憧れの、魔術書。
「貸すだけで、あげない。魔術書は、いつか自分で装丁しなさい」
許された夜。
「僕も、自分で魔術書を……?」
「必ず、その日が来るからね」
それはつまり小さな子どもだった僕も、一人前の魔術師に手が届いたという、証。
僕にとって今宵は、記念すべき十七の夜だった。
モルスは本。魔術師アレッタ様の、赤い魔術書。
はるか昔、アレッタ様を誑かした悪い女がいた。魔術書を装丁をする際、アレッタ様はその表紙に女の顔を封じ込めたのだとか。
だから、アレッタ様の赤い魔術書は、語ることができる。
本になったモルスはしばらくして、アレッタ様に従順になったらしい。お仕置きにうんざりしたのだろう。そこは出ることもできず、消えることもできない、本の表紙という名の監獄だ。
本扉には、アレッタ様のお名前がある。ガラスペンで刻まれた、青いインクのお美しい字だ。その先にはアレッタ様の魔法の言霊が、つらつらと楽しげに綴られていることだろう。
中扉には、思い出をひとつ書いてくださった。
魔術書であるモルスの、もうひとつの役目。それは道中僕に、その思い出を語ることである。
名前も思い出も、心もない僕に。
おやさしいアレッタ様は、思い出をひとつ返してくださった。
「モルスが弟子に語ろう」
モルスは空の上で、僕が知らない、僕の思い出を静かに語った。
「魔術師が、弟子を見つけた日のこと」
◇
『私の可愛い弟子へ』
「みんな凍ってしまったのに、ひとりだけ生きてる子、だーれだ」
その日、私が呼びかけると、凍った城の地下室から子どもがひとり出てきました。真っ黒こげのほうきを持った、可愛らしい怪物です。
綺麗な顔を血まみれにしていましたが、精悍を貫き通し、涙を堪えている。あれはどう見ても、小さな怪物だったのです。
年頃は五、六歳でしょうか。酷い仕打ちを受けたのか、震えていました。しかし呼吸を整えると瞳に活力を養い、私に見惚れたようでした。
白い髪にいくつも宝石を飾って纏めた私を、目を見開いて見て、驚いてもいました。
なんとも可愛らしい。
それだから私は、笑ってやりました。
「おいで」
手招きをして、髪に飾った宝石をひとつ手に取り、躊躇いなく教えてやったのです。
「これは魔女の涙。私は不滅の魔女の、ただひとりの生き残りだからね。流れる涙が、魔法の宝石になるんだよ」
そしてまた、魔女の涙を髪に飾って見せました。子どもですから。あやしたつもりです。
すると怪物は、首を傾げて私に言いました。
「不滅の魔女なのに、どうしてほかの魔女は滅んだのですか」
「これは賢い子だ」私は賢い子どもが好きですから。「不思議だろう。私も随分長く答えを探しているよ」
事実です。おまえの想像をはるかに超える程、長い時間をかけました。
そう教えてやりました。
「魔術師様は、不滅の魔女が滅んだこたえを見つけたのですか」
「さてはおまえ、こたえを知りたいのかい」
出し惜しみする意地悪な私を見上げ、怪物はこくんと頷きました。
その顔は子どもとは思えぬほどに端正で、美しい。まんまるい純粋な瞳に、長い睫毛。真っ白い肌には、赤い血液がよく映える。
思い出せばあの頃の怪物はまだ、黒い髪をしていましたね。
愛情を注がれ、大切に育てられたのでしょう。皺の少ない詰襟のシャツと身体に合ったズボン、よく磨かれたブーツを見れば分かります。
育ちも良かったのでしょう。おかげで怪物は、私によく似て素直で、大変可愛らしい子どもに育ったのです。
人の血と欲望が生み出した、芸術作品です。とでも言いたくなるほどの、美しさを秘めて。
愛の結晶を見下ろした私は、生まれて初めて愛しさを抱いたような、新しい心を手に入れたような、良い気分になったのです。
それだから心から微笑んで、ひとつ提案してやった。
「私を泣かせることができたら、ひとりぼっちのおまえに魔女の涙を授けて、弟子にしてやる。立派な魔術師になった時、おまえもこたえに辿り着くだろう」
「ほんとう、ですか?」
怪物は刺繍まみれの私の真っ黒いローブにしがみつき、縋るように見上げました。
ひとりぼっちですから。寂しかったのでしょう。
愛情を注いでくれた両親を、失った。それはおそらくごく最近、今さっき。
「魔法は心。怖いものだからね。一人前になるまで名前も心も思い出も預かるが。さあ、私を泣かせてごらん」
ひとり取り残され、絶望したことでしょう。
これからどのように生きていくのか。
あの頃の怪物はまだ、生きる術を持たない幼い子どもだったのです。
そこへ私の誘いです。神でも降臨したかと思ったことでしょう。
私も何か良いことをした気分です。悪くなかったです。
「魔術師様、ぼくは、」
怪物は私を泣かせるために、語りました。
「皇太子がぼくの顔を気に入って、ぼくを捕まえたのです」
「悪い皇太子だ」私は広大な皇都を手をかざして見渡しました。「探してやろう。この氷像のどれかが悪い皇太子だ。見つけたら砕いてやろう」
もちろんそのつもりです。
「皇太子は狂ったように街に火をつけて、ぼくを火で炙ったのです」
「なぜだろうか」
「わからないのです……ぼくは、なにもしていないのに……」
怪物の綺麗な瞳に、涙が溢れました。
それは瞳から溢れ、大地に落ちて消えました。
怪物は、無垢だったのです。人の恐ろしさも、愚かさも、知らなかったのです。
人は無垢な怪物を追い回し、火で炙りました。その美しさに気がついた、愚かでマヌケで勇敢な皇太子如きが。
「なるほど火炙りか。おもしろい。皇太子の氷像は、やはり燃やして同じ目に遭わせよう。この地に炎を纏った矢の雨を降らせよう」
火を放った張本人は、氷になり輝き、私を恨めしそうに見ていました。つい、笑ってしまいました。私は泣かなければならないのです。
「続けて」
気を取り直し、話を耳に入れてやりました。
「怒った街の人々が、皇都に僕を助けに来たのです。でも、凄惨な殺し合いになりました。ぼくは地下室に隠れて、自分の顔を恨んだのです。どうしてこの顔は――」
美しさは時に、人を惑わせ狂わせることがあります。よく覚えておきなさい。
愚かな戦いは終わっていました。皇都は死に、故郷を失い、生きた人はいなくなったのです。氷像の群衆は、小さな怪物の悲しみを具現化した美しい芸術となりました。
いつかこの悲しみを思い出す時が来た時、思い出は少しでも美しい方が良いのです。悲惨な思い出ほど輝かしく、美しい方が良い。
しかしその代償は、まだ乳臭いような美しい怪物がひとりぼっちになることでした。
では誰が、怪物をひとりぼっちにしたのか?
「おまえをひとりにしたのは、私だね」
もちろんです。この世に私以外に、それができる者はいないでしょう。
私はおまえに出会い、思い出したのです。どうして私が、ひとりなのか。
「ぼくはひとりぼっちじゃありません。魔術師様とおともだちになりました」
感情を揺さぶられ、都を死なせたのは実に久しぶりのことでした。
魔法は心。魔法は感情。時折暴発します。
私は涙を流して、怪物を抱きしめてあげました。怪物の話に胸を、打たれたわけではないのです。
私にも、失った思い出があったのです。
怪物はそれを、返してくれた。
「……これが魔女の涙、なのですか」
私の瞳から流れた涙は、ぽろぽろと輝いて落ちました。私は宝石になった涙を一粒拾い、おまえの小さな手のひらに置きました。
「きれい、」
「飲み込んでしまえば、後戻りはできないよ」
魔法は美しく、恐ろしいものです。
「それでも弟子になりたいかい。思い出も名前も心も全て、私に差し出して」
おまえは魔女の涙を眺めて、可愛らしく笑った怪物です。魔法の原石を握りしめて、頷いた怪物です。おまえは私のように、魔術師になることを望んだ怪物です。
「あなたのお名前は、なんというのですか」
私は魔女の涙を一粒、おまえに授けた魔術師です。おまえはそれを飲み込み、思い出と名前と心の全てを、私に差し出した怪物です。
「私は不滅の魔女の生き残り、魔術師アレッタだ」
忘れるなよ弟子。おまえの思い出もおまえの心も、おまえの名前も全て私の中にある。いつか立派な魔術師になった時、おまえの中にかえってくる。
おまえは怪物。事実です。
可愛い弟子へ。よい旅を。
アレッタより愛を込めて。
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