その日、でらっくす所属の3期生Vtuber碧衣天の引退が発表された。とはいえすぐに引退するわけではない。1か月後に正式に引退となり、その日を境に『碧衣天』のチャンネルも削除される手はずとなっている。


 俺はサムネイルに『大事なお知らせ』と書かれている動画を開きながらデスクの前で抹茶アイスを食べていた。美味しいよ抹茶アイス。


 あの後色々とあった。主に恋歌絡みで色々と。彼女ももう大人であるから、感情のコントロールとか、割り切りは出来ていた。ように見えただけで実際かなり落ち込んでいたのだが。


『よー。うちの後輩が世話になったなー』

『いえ。お構いなく』


 今はボイスチャットででらっくす2期生の『宵闇アク』さんとお話をしている。宵闇さんは男である。でらっくすは何も女性限定のVtuberグループではない。最近女性ばかりと接してきたからそう思い込みそうだったが。


 宵闇さんと知り合ったのはでらっくすの事務所でのことだ。

 俺が天さんの引退を事前に知ってしまったことに関してでらっくすのお偉いさんに呼び出され、お話をした後に書面上で守秘義務の契約を交わしたのだ。

 引退することを知らせるこの配信も実はあのショッピングから1か月経っているのだ。だから、今日まで他言無用の契約を交わしたんだよ。


 さて、そろそろ遡って説明をした方が良いかな。

 あの日、俺と蒼崎さんが喫茶店で話していたことだ。



 ▼



「夢ですか」


 蒼崎さんはそう言った。夢がある。なんとも眩しい言葉だ。今時自分の将来の夢を持つ人は少ない。……のではなかろうか。俺の周りにはあまりいないが。


「そう。私は翻訳家になりたいの。人生の大きな目標はこれ」

「翻訳家……ですか」

「うん。翻訳家って言っても色々種類があるけど、私は映画の翻訳とか仕事にしたいんだよね」

「映画の……」

「そう。異なる言語同士で細かい意味まで同じ言葉なんてないでしょ?日本語はただでさえ同音異義語とか同じ意味でも違う言葉とかあるでしょ?そういうのを的確に翻訳して、見る人を楽しませたいなって」


 確かに日本語は特に語彙が多い。同じ意味の言葉や似た意味の言葉などありふれている。

 それこそ『美味しい』『美味』『うまい』『美味しいヤミー!』おっと、最後のは違った。

 という感じで外国語を的確に日本語に直すには両方の言語を知り尽くしていないといけないのではないかと、素人ながらに思う。


「素敵な夢ですね」

「そうでしょう?でも、それが現実的でないことは分かってるけどね。最終的に、私がベテランの翻訳家として大成出来て映画の翻訳とかで生活出来ればいいなーって。もっとスケールを小さくすると私の夢は、異なる言語で作られた娯楽を日本人でも楽しめるように創意工夫を凝らして翻訳する。その一端にでも関われるようなことをしたい」


 蒼崎さんは自慢げに笑う。


「だから今、頑張って勉強してるんだけどさ。趣味で始めたVtuberも思い入れが強くて。中々決心が付かないんだよね」

「そうですか」

「このもやもやした気分をちょっとでも外に漏らしたかったの」

「どうして俺に?」

「恋歌が初めてコラボした相手だからね」


 恋歌は俺で人見知りを克服しようとしてたんだったか。それは恋歌の親友である蒼崎さんも察することができる事情だろう。

 つまり親友が認めた相手だから認めると。少し買いかぶりな気がするが。まあ悪い気はしないし、俺もこのことを他言する気はない。


「そうですか。思い入れですかー」

「やっぱり二の足を踏んじゃうんだよね」

「やっぱりリスナーたちに対してとかですか?」

「……そうだね」


 ふと、俺の高校時代の校長が話していたことを思い出した。


「人って、他人に認められると幸せになるんですって」

「そうなの?」

「まあ聞いた話ですけど。人から愛されたり、認められたりするとそれだけで救われることがあるそうです」

「……」

「俺たち配信者は多くの人から愛って言うんですかね。それを貰ってるわけですよ。『おもしろい』『かわいい』『かっこいい』なんなら『草』の一言だって、言われると嬉しかったり、次の配信も頑張ろうって思います。なので、この活動への思い入れが強くなるのは必然かと」


 俺はそこまで言って一呼吸置いた。


「ですが、いずれ終わるものです。良い引き際になるように願ってますよ。蒼崎さんが夢に向かおうとするならば、誰も止めないと思います」


 まずい。上から目線で物を言ってしまったか。

 と少し後悔したが、蒼崎さんは真剣な眼差しで机の上を見ている。


 彼女なりに決心がついたのだろうか。

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