楽しい一日
気に入った服を買えてほくほく顔の雫に微笑ましさを感じながら喫茶店の客席で頼んだコーヒーを口に付ける。
時刻は正午を少し回った辺り、買い物も済んだことだし、なにか軽く腹に入れておこうということで先ほど喫茶店に入ったのだ。
「恋歌もVtuberやってるんでしょ?どう?順調?」
「順調かな」
「そう?恋歌ったら人見知りだし、コラボ配信に誘われたりしたら慌てそうだけど」
全く敵わないなと思う。
まあもう十数年の付き合いなのだから見抜かれていても不思議ではないが、だからと言ってここまでピンポイントに恋歌の危惧する所を言い当てられてしまっては立つ瀬がない。
雫の鋭い指摘に、苦笑する。
だけれども、ようやく克服の目途が立ってきたのだ。自身を持って良いだろう。
まだSNSでの告知はしていないが、明日のコラボのことを雫に言ったとしても大丈夫だろう。
「実は、明日コラボの約束をしてるんだよね」
「マジ!?」
どうやら雫としては相応に驚愕することであったらしく、恋歌の想定以上に大声を出して驚いている。
その様子に、少し心外だと口をへの字に曲げて不満げな恋歌。
「い、いや……マジで意外と言うか、びっくりと言うか……」
雫はかなりガチで驚いているらしい。信じられない物を見たかのような目線で恋歌を見ている。
これは冷静になるまで少々の時が必要だろう。
文句の一つや二つ言ってやろうかと思ったが、雫に欠片も悪意がないことは分かっている。ここは自分が大人になって堪えてやろうと若干の怒りを感じながらも押さえ込んだ。
「それで、コラボ相手はどんな人なの?」
少し時間を置いたら落ち着いたらしく、次は人見知りの恋歌とコラボをする相手に興味を示した。
「同じ大学の人で、CHIZUって言う名前で活動してる人」
「ああ~。カラメ先輩が拡散してた人!」
どうやら雫の下にも達平の情報は渡っていたらしい。SNSでカラメに拡散されていた時のことを思い出しながら頷いている。
「そう。その人とコラボすることになったの」
「へぇ~。でもその人って男の人でしょ?初めてのコラボ相手が異性で大丈夫なの?」
雫の疑問も尤もだ。人見知りなのに初めてが異性と言う接しやすいとは言えない相手、そして何よりVtuberの異性コラボはファンの中でも波紋を呼びやすいものだ。
雫も大物Vtuber。それも企業所属だ。『でらっくす』は男女混合のVtuberグループではあり、アイドル性を売りにしているわけではないにしても、そのあたりの事情は軽視できるものではない。
「大丈夫だよ。私は個人勢だし、まだそんな感じの層の人は見たことがないから」
「そう?少ないとはいえどこにでもいるものだよ?」
「平気だと思う」
恋歌自身、このコラボをきっかけにファン層を絞ってしまおうという魂胆がある。
男性とのコラボに敏感に反応し、好意を示さない者も中にはいるのであろうことは想像している。
恋歌のチャンネル、秋月ミクルは登録者5万人と個人勢Vtuberとしては中堅から上層あたりに位置しているのであろうが、配信者や動画投稿者という括りで見た際、この数字は多いものとは言えない。
十分にまだ駆け出しであるのだ。
最初の頃から男性とのコラボもするというスタンスをリスナーに示していけば、今後のファン層もそう言ったことに寛容になる人が増える。
明日のコラボ配信にはこのような打算も少しは混じっているのだ。
「友達の紹介で会ったんだけど、良い人そうだったし大丈夫」
「……そう。なら言うことはないね!」
恋歌の様子を見て、問題はなさそうだと雫も納得したようだ。
それと同時に、どこか慈愛に満ちた目線を向けているが、恋歌はそれには気づいていない。
▼
喫茶店での休息を終えた2人は、しかしこれ以上何をする気にもなれず、ただ漠然とした満足感のみが場を満たしていた。
「いやー久しぶりに会えて良かったよ」
2人は今日で1年ぶりの再会となる。しかし互いに顔が見れただけで満足してしまい体を動かして遊ぼうという気にもなれない。
喫茶店で長く話すぎてしまってもうこれ以上交わす言葉も尽きてしまったというのが正しいのか。
時刻は午後3時を回ろうとしている。
2時間も会話していたことに少しばかり驚きつつも納得する。
あの後も他愛ない世間話を繰り返したが、2人にとってかなり有意義なものだった。
足は自然と今日の待ち合わせだった駅前に向いており、心地の良い静寂が2人の間を繋いでいる。
「恋歌はさ、今楽しい?」
唐突にそんなことを言われてキョトンとする。
なにが言いたいのか、恋歌には掴み切れないが特に疑問も持たずに正直に言った。
「楽しいよ」
「そう……」
笑顔を浮かべる恋歌を横目に、雫は薄く笑っている。
「恋歌のお姉さんとして色々心配だったけど、杞憂だったみたい」
「ふふふ。そう?」
いたずらっぽく笑う恋歌を見て、やっぱり変わったと思う。
配信者活動を通して度胸が付いたのだろうか。少なくとも、雫の目にはそう映っている。
「さて、じゃあここでお別れね」
「そうだね。ばいばい」
「うん。またね。恋歌、次は私とコラボしよう?」
「もちろん!待ってるね」
そうして雫は恋歌の背中を見送る。
恋歌は自分の思い過ごしだと考えていたようだが、彼女の懸念は半分は外れで半分は当たっていた。
そう緊急性はないが、雫も“悩み”を抱えていたのだ。
彼女にとって、いや、彼女以外にもかなり重大な悩み事ではあるのだが、そう後ろ暗いことではない。それに彼女の心次第で解決できるものだ。
だがあまりに事が大きい。そのため、雫も相応に悩んでいたのだが、幼馴染の顔を見て考えていたことが吹っ飛んでしまったのだろう。恋歌の前で悟られるようなことはなかった。
「親友が前に進んだんだもん。私も前に進まなきゃね」
自らの弱点を克服しようとする親友の背中を見ながら、雫もまた、決意を固めるのだった。
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