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 美也子を引き取ると衝動的に言い放ってから1カ月。とんとん拍子で事は進み、一人暮らし限定のアパートに住んでいた諒子と家の無い美也子は、小学校が近いところにあるアパートに移り住むことになった。とは言っても諒子の稼ぎでは限界がある。結局彼女が借りたのは学校から近いだけの、建設からもそこそこ時間が経っているワンルームだった。

「ここが今日から私たちの家」

 さも自分に言い聞かせるような声色で諒子は言った。彼女が立っているのは大学生の下宿先の様なワンルームで、隣には五歳の娘である美也子が立っている。美也子は不思議そうな顔をしながら小さな部屋の中を見回してポツリと呟く。

「せまいね」

「うっさい」

「だってせまいもーん」

 即答が余程面白かったのかキャッキャとはしゃぐ美也子を見て、諒子は溜息を零す。初めて顔を合わせた日とは一変して、美也子はよく子供らしい顔を見せるようになった。

 だが、両親の死から立ち直っていないとは言わない。現に、今でも不意に諒子に抱き着いては両親を呼ぶ行為がよく見られる。その後は決まって諒子がおやつを差し出したりテレビを付けたりして何とかあやすのだが、そのスキルだけが上がって美也子の心理状態はあまり良くならないままだ。無邪気な顔と悲痛な顔をよく繰り返して、そのどちらもが諒子に美也子の母を想起させた。

(頼られるようになったって思えば、まだ良いかな)

 何とかポジティブな方向に考えを持ち直して、諒子は手荷物を部屋の床に下ろした。



 異変が起こったのは美也子が引っ越し後初めて幼稚園に行った日の事だった。諒子に出会う前、元々通っていた幼稚園を辞めさせられていた美也子はまた新しく別の幼稚園に通うようになっていた。登園初日は様子見も兼ねて諒子が昼に迎えに行く手筈だったのだが、美也子を預けてたった一時間程度でに諒子の携帯に電話がかかり、美也子を迎えに来るよう言われたのだ。

 仕事の引継ぎを終わらせた諒子は素早く幼稚園に行き、困惑する職員の中心で美也子が号泣しているのを目撃した。泣き腫らし、目元を真っ赤に染めたその顔はよく見たことがあった。両親を求め、諒子の胸にしがみついている時のものだった。

「まま、ぱぱぁ。なんでひとりにするの」

 しゃがれた声でそう言いながら諒子に抱き着き、美也子はまたもや泣き声を上げた。諒子はスーツが汚れる心配すら出来ず、美也子を抱き上げて背中をさするしかなかった。

 5分程経ってようやく美也子が泣き止んだ時に職員は諒子に説明を始めた。

 どうやら初めて見る美也子というイレギュラーに好奇心を抱いた他の園児たちが美也子に殺到。元から人見知りな性格だった美也子も美也子で、初めて見る人や物に囲まれてパニックになってしまい泣きながら逃走し、更にその過程で両親の死がフラッシュバックして叫びながら暴れた。その様子に手が付けられなくなった職員が諒子を呼び出し、今に至る。という事らしい。

 完全に自分が迂闊だったと諒子は臍を噛む。こんなに不安定な子を置き去りにするのは悪手だった。未だ状況を掴め切れていない職員に謝罪しながら、諒子はこれからのことを思案する。こうなってしまった以上、ちゃんと幼稚園に通えるだろうか。最悪の場合、ここを辞めて小学校に上がるまで諒子だけで育てるしかない。

「もし、これから通うのが厳しくなるのでしたら___」

 頭の中で様々な道を浮かばせる諒子に、職員の1人がある提案をした。曰く、幼稚園に来るのは日に1、2時間程に留め、その間は諒子とも一緒に過ごすということだ。美也子よりも年下の園児たちはよくこの方法を活用していたようで、親離れが難しくなるが、子供の精神的な負担も減るらしい。

 しかし、諒子はそれを拒否した。理由は単純明快で、彼女には仕事があるからだった。諒子が専業主婦でなくても、パートナーがいれば育児休暇も取れただろう。あるいは、半年分の貯金か。だが諒子にはパートナーも貯金も無い。従って、美也子といる時間を取れないのは明白だった。しかしこの子供を家に1人にさせることもまた危険だ。犯罪や事故もさることながら、事件の傷もまだ癒えていないのだから。

 諒子の職場に連れて行く事もできない。なればこそ、諒子が取る道はやはり現状の維持のみだった。

「ごめん、明日からも1人にしちゃうけど、それでもいい?」

 振り絞るようにして、諒子は美也子に囁きかける。対して美也子はイヤイヤと言うようにして首を振った。スーツに埋もれて見えないが、きっと彼女の顔は悲しみと寂しさに歪んでいる。いつもと同じように。

「ごめんね、ごめん。けどちゃんと、絶対にお迎えに来るから、ね?」

 こんな小さな子供が、これだけで聞き分けをよくすることは到底ない。それは育児の経験の無い諒子にもちゃんとわかっていた。それでも、彼女にはそうするしかなかった。

 その場にいた殆どの職員が持ち場に帰り、副園長と母娘だけになって、更に十数分が経った頃、美也子がようやく顔を上げた。想定通りその顔は痛々しいまでに真っ赤で、すぐに冷やさないと明日まで痕が残ってしまうだろう。そう思う暇もなく、諒子は美也子と見つめ合う。そしておずおずと、美也子がその小さな口を開いた。

「……して」

「え?」

「ゆびきりげんまんして」

 美也子は小さな小指を突き出し、半ば睨むようにして涼子を見上げる。指切りげんまん。その可愛らしい要求に一瞬毒気を抜かれた諒子だったが、それが美也子にとって重要なものだと悟ると、すぐに自身の小指を伸ばした。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」

 美也子の小さく柔らかい指、諒子の長く手入れされた指、その二つが絡み合い、離れた。


 目の前の少女は、針を千本飲み込むことと三人目の親がいなくなること、そのどちらの方が辛いのだろうか。

 諒子の脳裏によぎったその思考は、目を真っ赤にした美也子の満足そうな笑みに掠れ消えた。




 それからの諒子は多忙な日々を送っていた。朝早くに起床しては朝食と昼食の用意、洗濯、着替えなどの美也子の補助。すぐにぐずる美也子を幼稚園に送り、そのままの足で職場に向かう。碌な休息も取らないまま定時まで働き続けると、残った仕事と共に幼稚園に戻る。美也子を引き取った後は自宅に帰り、息もつかぬままに夕食の支度、風呂掃除、食器洗い、etc…。やることはまだあるのに、美也子を寝かしつけるのと同時に寝落ちてしまいそうになったのは数回ではない。

 平日がそんな感じだから休日こそはゆっくりと過ごしているとなると、そんなことは一切なかった。朝に起きる時間はとっくに固定されていて、5時には起きるようになっていたし、平日に溜めていた仕事も終わらせなければならない。買い物だって行かなくては。更に言えば美也子の遊び相手になることも忘れてはいけない。近所の公園に行ったり、家の中で絵を描かせたり、絵本を読み聞かせたり…数えたら遊ぶ方法なんてキリがないが、そのどれもが美也子を満足させるまで続ける必要があり、諒子はそれを見守る義務があった。

(あの女はこんなことをずっとやっていたのか)

 美也子の生みの親に思いを馳せながら、諒子は延々と過労死寸前と言えそうな程の忙しさに目を回した。


「美也子。ほら、大丈夫だから」

「やだ、パパとママにあいたい…」

 最も大きな課題は、やはり美也子の心の中にあった。市の総合病院でカウンセリングや定期的な検診をを受けたりはしているが、その効果はままならないものだった。投薬治療も美也子の年齢ではかえって危ういものになり、結果として諒子がその手で宥める以外に方法は無かった。職場から幼稚園に呼び出されることも幾度となくあり、その度に美也子を引き取ったことの重みを実感した。

 しかし一方で、諒子は美也子を引き取ったことに大きな意義を感じ取っていた。

 それはもしもの話を想う時のことだ。諒子が美也子を引き取らず、施設に入れられた場合の話だが、その場合、この子はどうなっていただろうか。いきなり知らない場所で、知らない子供達と、知らない大人達に世話をされることは、この子にどれほどの不安を煽るのだろうか。ましてや美也子は人見知りな性格だ。諒子ですら何日も一緒に暮らしてやっと心を開いた程なのに、そんな所で暮らして心の傷をさらに悪化させないだろうか。

 養護施設の大人達は勿論手を尽くすだろう。だが、半数以上が里親の見つからない環境下で、この子はどのような人生を送っただろう。そう考えた時、やはり諒子の背中には冷たいものが通り、そしてそうならなかったことに安堵を覚えるのだった。

 だが、安堵を覚えたところで、最悪の状況がほんのちょっと良くなっただけに過ぎないのは諒子自身がよく知っていた。

「じゃあ、私は仕事に戻るから。良い子で待ってて」

「うん…いってらっしゃい」

 美也子を宥めて少ししたら諒子は仕事に戻る必要があった。当たり前だ。この子と共に暮らすのなら、何よりも金を稼ぐ必要がある。どれだけ美也子が泣いても、その現実は頑として変わらない。結局、諒子は泣き腫らした顔の美也子を置いてけぼりにすることしかできなかった。

「…ごめんね」

 母としてするべきことが出来ない。なんとも歯痒い現実を前に、諒子はポツリと謝罪をすることしかできなかった。


「おかあさん、大丈夫?」

 そんな時、いつでも手を差し伸べていたのは他でもない美也子だった。いつの間にか諒子を母と呼び、その苦労を察してかぐずることもなくなった彼女は疲弊した諒子をその小さな手で元気づけようとした。

「大丈夫だよ」

 美也子に虐待をはたらくことはなかったが、同時にその手をとらなかった。それが幼い美也子は不満だったのだろう。折角自分が心配しているのに、そのことを無碍にされる。あくまで子供らしい自己中心的な善性を満たされないことは、不快なものだった。

「おかあさん。はい、これあげる」

「みやこ、これつくったんだ。プレゼント!」

「みんなとおかあさんかいたから、あげる」

 その結果、行き着いた先というものは何とも可愛らしい行動だった。差し伸べた手を拒否されるなら、拒否されない何かをあげれば良い。そう結論付いたのか、美也子は様々ものを工作しては諒子にプレゼントという形で渡していた。余った段ボール、紙粘土、画用紙。美也子の手が届く範囲の材料で作られたお粗末なものだが、絵や人形、家の模型、その全てに等しく諒子への親愛と感謝が込められていた。

 諒子もそれらを決して捨てず、絵は壁に貼り付け、立体型のものは収納で保管した。仕事で疲れ切った日もそれらを見て自らを鼓舞して頑張った。

「ありがとう」

 そう言われ、頭を撫でられる度に美也子の胸中は達成感に満ち、もっと母の為にと工作に励んだ。幼稚園の保育士にとても手が器用な子だと褒められる様になったのも、この頃だった。


 しかし、それだけではどうにもならないものが現実であった。精神面でどうにかなるのは創作上の話であり、諒子たちが直面しているのは紛れもない現実に他ならない。どれだけ壁が彩られても、収納が埋まっても、2人の生活に余裕なんてできなかった。

 美也子が無事に市立の小学校に入学した後、気が付いた時には諒子と美也子が共に過ごす時間は擦り減っていた。










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