第二話 噴き出す記憶の奔流

 商業施設ベイ・ハーフは、近くにある有名デパートの巨大駐車場跡に建った、五階建ての真っ白なビルだ。その外観は曲線をかたどり、川沿いにあるテナント店舗の照明と白い壁のコントラストが川面に映る。

 横浜駅からつながる遊歩道を歩きながら見える姿は、まるで白亜の豪華客船だ。すぐにも汽笛を鳴らし、風を切りながら洋上に出ていくかのように。


 私は近隣の住人しか使わない歩道橋を渡り、そこへ真っすぐにつながる遊歩道をベイ・ハーフの入り口に向かう。

 すると、遊歩道には何やら機材が並べられ、数人が作業をしていた。

 まだ、通勤ラッシュが始まる前の早朝だ。緊急事態宣言の影響もあり、遊歩道を歩く人は、ほとんどいないはずなのに。


――こんなに朝早くから何ごと?


 不審に思いながらも、その横を歩いてベイ・ハーフの入り口にたどり着いた。

 頭上には、商業施設の名前を英語で書いたイルミネーションがあるが、緊急事態宣言の影響で静かに消灯している。

 左側にあるのは曲線のガラスで囲われたコンビニエンスストアだ。えんじ色に白の大きなロゴマークが目を引く。

 店の前には木製の円形ベンチが置いてあるが、ぽっかりと空いていた。


 イルミネーションの下を通り抜けようとしたときに、若い女性に呼び止められた。


「すみませーん」


「はい?」


「今、テレビ番組のインタビューしているんですけど。少しお時間をいただけないでしょうか?」


 テレビのインタビューという言葉に少しだけ驚く。生まれてはじめてテレビに映るのだ。


――散歩の途中だし、少しくらいならいいかな。でも、こんな朝早くから本当にインタビュー?


 少しだけ不審な点もあるため、ためらいを隠せない。


「こんなに朝早くからですか? まあ、短時間でよければ」


「ええ、ちょっと事情がありまして……。それほど、お時間はいただきません。五分から十分程度です。お願いします!」


 怪しいと思いながらも、女性が手を合わせて一生懸命に頼んでくる姿に負けた。

 十分間くらいであれば、散歩で遠回りしたと思えば同じことだと思い、インタビューを受けることにした。在宅勤務で通勤時間がないため時間には余裕がある。


「じゃあ、いいですよ」


「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」


 女性に連れていかれ、通路に設置された大きなパネルの前に立つ。


 後ろにはドラッグストアのガラス張りの壁がある。ガラスの内側はロックダウンで閉店のため、照明も消えたままだ。

 その前に立てたパネルには番組の宣伝なのか、何やら仰々しい文字が埋めつくしている。


 私は、このご時世に大丈夫かと思いながらも、言われたとおりにマスクを外す。


「では、最初に、どちらから来られたんですか?」


「近くにある自宅からです」


「あぁ、そうですよね。こんなに朝早くから遠出はしませんよね」


 最初は当たり障りのない質問だったが、いくつか質問に答えていくうちに芸能人の話へと移り変わる。私は芸能界には疎いので、生半可な答えしかできない。


――そもそも、五十過ぎの人を捕まえて芸能界のインタビューをするほうが間違ってるでしょ!


「ところで、この女性を知っていますか?」


 そう言いながら、彼女は実物大の顔写真のボードを床から取り上げる。

 見たことがある女性の顔だ。会ったり話したりしたことはないが、この芸能人はなぜか受け付けない。理由はわからないが、心が拒否している。


「え〜と、笹野ささのそうさんじゃないですか?」


「はい。正解です。では笹野さんについて、どう思われますか?」


――答えづらい質問がきた。ここで『嫌いです』とは言えないし、『好きです』とも言えない。


 この芸能人は子供もいる癖に離婚を繰り返していると誰かが話していた気がする。『いい年をして何をしているんだろう』という言葉だけが、やけに記憶に残っている。


「え〜と、頑張っていらっしゃるんじゃないですか?」


――何を頑張っているのかは、言わないけど……。


「そうですか! じゃあ、笹野さんに会ってみたいと思いますか?」


――さらに答えづらいよ。いっそのこと『会いたくはない』と言ってしまいたい……。いや、ここは大人の対応をしないと!


 下手すると家族や知り合いにまで、会話を聞かれてしまう。いや、その可能性が高いと考えるべきだ。


「まあ、もし会えるのであればうれしいですかねぇ……」


――これで及第点かな? これ以上のうそはつけない。


「そうですか〜。じゃあ〜、ですねぇ……。笹野さんは――」


「だ〜れだ!」


 インタビューしていた彼女は、私の後ろに目配せするように、もったいぶった言い方をしていた。しかし、最後まで話し終える前に別の声がして会話が途切れる。

 同時に私の目には、冷たい手のひらのようなものが覆い被せられ、視界を遮られてしまう。


 そのときだった!


 頭のなかに、まったくなかった記憶が凄まじい勢いでよみがえってきたのだ。大地から突然吹き出した間欠泉のように次から次へと。留まることのない流れがゴゥゴゥと音をたてて頭の奥底からあふれ出してくる。

 それは現代の記憶ではない。まったく異なる世界の別人物のものだった。しかし、現在まで自分が生きてきた経験と遜色そんしょくない確固たる記憶だった。



 そのあと、どのようにインタビューを終えて、帰宅したのか思い出せない。

 適当にお茶を濁して苦笑いしながら退散してきたと思う。自宅に帰りシャワーを浴びながらも、あふれ出す記憶に翻弄ほんろうされながら途方に暮れていた。


「どうした?」


 浴室から出ると、家族が心配そうな顔で話しかけてくる。


「ちょっと、気分が悪くなってしまって。今日は仕事を休む……」


 とうてい仕事ができる状態ではない。緊急事態宣言のおかげで社員全員が在宅ワークということもあり、休めたのは不幸中の幸いだ。

 しかし、記憶というものは、これほどまでに多くのことを思い出せるものなのか。さきほどから三十分以上たっているというのに、いまだに止まろうとしない記憶の奔流。

 それも、現代人からは想像できない凄まじいた経験と、百年やそこらでは過ごすことのできない、長い長い人生を歩き続けていく。

 さまざまな人と出会い、別れ、そして新たな旅に出る。どこまで続くのかわからない。

 私はベッドに横たわり記憶の奔流にもて遊ばれながら、その日一日を過ごした。

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