第一章 新進気鋭《しんしんきえい》〜時流を変える新風〜

第一話 吹き抜ける新緑の花道

 エレベーターを降りて、マンションのエントランスを出る。

 まだ長袖は必要であるが、肌を刺す寒さはなくなり、外から流れ込んでくる空気が『早くおいで』と誘っている。


 この春から始めた朝のルーチン。

 緊急事態宣言が発令されてからというもの会社通勤ができず、気分転換に始めたのが朝の散歩だ。

 私はソフトウエア開発の仕事をしているため歩く機会は少なかったが、自宅にいると歩数は激減する。

 入社して三十年を超えようとしているが、これほどにも運動不足になったのは、はじめてだった。

 毎朝散歩することで歩数は五千歩を超えている。先月は百歩程度の日もあり、歩数計が壊れているのかと疑ったほどだ。通勤していたころにくべると不十分ではあるが、健康維持としてはぎりぎりの歩数だろう。


 家の近くを流れる汽水の川に沿ってつくられた公園を歩いていく。毎日の散歩のコースだ。

 この川は河口近くのため潮の満ち引きにより、満潮に近づくと水が逆流し、川面の波が河口から上流へと登っていく。

 現在は風もなく、波一つ立たないなぎの状態だ。鏡となった水面に、みなとみらいのビル群が映っていた。

 川の反対岸近くには、かもめかもが縄張りをつくりながら浮いており、白いさぎが空を駆け抜けて対岸に着地する。

 春の日差しは暖かく、心がなぎのように落ち着いていく。


 この公園は芝生と石畳が絵を描くように細長く続いており、中央には木々が左右に並んでいる。五月の暖かい朝日が当たり、新緑の葉が輝く。その立ち姿は光り輝く緑の服をまとった近衛兵のようにも見えた。


 突然、一陣の風が私の後ろから吹いてきた。左右の新緑の葉が手前から奥に向かってたなびき、小枝の擦れる音が次々と流れながら聞こえる。


「ザーァ……」


――このなかを通り抜ければ、きっと幸運が待っている。


 木立が私の前途を指し示している。新しい道へ進めと。



 私が横浜の地に住もうと決めたきっかけは、この公園だった。

 出張で横浜駅にきたとき、ふと周辺を歩いてみようと思い、たどり着いたのがこの公園だ。駅から五分しか歩いていないのに、人の雑踏も車の騒音もなくなり、子供たちの声と鳥のさえずりだけが聞こえた。

 何年か前にきた時は、バスの騒音と多くの人があふれかえっていたはず。

 それがうそのようになくなった公園は、日本一の人口を誇る政令指定都市に、ぽつりとあるオアシスだった。


――ここだったら、ゆっくりと暮らせる。


 小さいころから信州の田舎を出たいと思っていた。その私が転勤により田舎と都会を何回も行き来してたどり着いたのが、ここ横浜の地だった。


 私の名前である畑角はたかどひいろの『英』の字は『はなぶさ』、『はな』、『ひいでる』などの意味がある。

 しかし、私の人生は決して華やかでも優れてもいなかった。ニッチな産業で世界一のシェアを持つ会社に入れたため、それなりの待遇だった。四年前ようやく課長職になったものの、今期限りで役職定年になる。

『ソフトウエアとはいかに動作をイメージできるかだ』と周りの人を鼓舞しながら走り抜けてきた。しかし、実際には仲間に助けられ、背中を押されてきた。

 これまでは人を引っ張る役であったが、これからは仲間の背中を押してあげる役になろうと思う。


 公園を通り抜けると、少し遠回りをしたくなった。毎日渡っている、みなとみらい大橋とは反対にある、商業施設へ向かうことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る