夏の氷壁 雪女伝説第二章

梓 遥路

第1話

老婆は男の前に静かに膝まづき、射貫くような目でじっと男の顔を見上げた。

「もう、これで終わりにせんか?」

 90歳はとうに過ぎているだろう老婆は、低くしわがれた声で力強く言った。

「あの女は何処にいる?」

 男は老婆の問い掛けには答えなかった。深い緑色のくたびれた背広にノーネクタイ。180センチを超える鋼のような体躯は絞り込まれており、無駄な肉は一欠けらもない。無精ひげの浅黒い顔の中にある肉食獣のように、ギラギラと殺気をおびた目で右手に握りしめた大型拳銃を愛おし気に見つめている。

 コルトガバメント。かつてアメリカ軍でも正式に採用された45口径の大型自動拳銃である。20世紀初頭に設計された拳銃だが、殺傷能力が高い上に信頼性もある。装弾数が7発である事と、反動が大きい事が難点であるが、男はこの銃に愛着を持っていた。数十年来の相棒である。

「あの女は何処だ?」

 男は、何も語ろうとしない老婆の眉間にゆっくりとコルトを突きつけた。サイレンサーを装着しているため威力は半減するものの、この距離から撃てば老婆の脳みそは四方に飛び散り顔は判別がつかないほどグシャグシャになる。

「知らんな…… もう何百年も会っておらんのでな」

 老婆は静かに答えた。嘘ではない。

「例え知っていたとしても、お前に教えるつもりはない。いずれにしてもお前はわしを殺す…… 数百年続けてきた戦い、双方に何の得があった? 憎しみ合い、殺し合い、何を得たのじゃ? 何も得たものはない。いたずらに血を流し、犠牲者を出しただけじゃ…… わしは長く生き過ぎた。この世に未練はない。わしを殺して終わりにしろ。それでどうじゃ?」

「ババアの説教を聞きに来たんじゃない」

 男は嘲るように言った。

「どうしても、わしの望みは聞けんか……?」

 男は黙ったままだった。

「ならば…… 老いぼれたが、お前と刺し違える力くらいは残っておるぞ!」

 老婆が素早く立ち上がろうとしたとき、コルトのサイレンサーから乾いた音が鳴った。老婆の身体は宙に浮き、頭から鮮血と黄土色の脳みそが細かく弾け飛んだ。男の吐いた息が蛍光灯の光を受け、キラキラと白く輝いた。寒気を感じ、周囲を見渡すと部屋の中が凍り付いていた。男の左わき腹のすぐ横から、一直線に伸びた氷柱が壁に突き刺さっていた。かわすのが一瞬でも遅れていたら氷の刃は男の腹を貫き内臓を突き破っていた事だろう。

「チッ……」

 男は舌打ちし、サイレンサーの銃口を横たわっている老婆だった物に向けた。1発、2発、3発、男は続けて引き金を引いた。サイレンサーの乾いた音がこだました。全ての弾を撃ち込んでから男は外に出た。

 8月中旬。例年にないほどの猛暑、この夜も熱帯夜だった。



 彼女は、友の命の灯が消えたのを感じた。遠く離れて、幾多の年月逢わなくとも一族の間で感じ合える、いわゆる「気」のようなものがある。

 彼女を姉のように慕っていた少女の「気」だった。千鶴という名の少女だった。おさげ髪のあどけない笑顔が、今でも目に浮かぶ。最後に会ったのはいつだったか彼女の記憶も定かではないが、この何年かの間、唯一感じられる「気」だった。次第に微弱になってきている「気」だった。それが突然、激しく乱れて消えた。彼女には、それが意味する事がわかっていた。追跡者との戦いで命を落としたのだろう。

 とうとう、ひとりになってしまった。暗黒の深淵に無限に落ちていく感覚が彼女を襲った。彼女の口から嗚咽が漏れた。涙が堰を切って溢れ出した。灯りも点けない暗い部屋で、彼女は何時間も泣き続けた。

 そして、追跡者の影がいずれ自分にも迫って来る事を否定しようのない現実としてとらえるのだった。



 早瀬祐介は40代半ばだが、30歳を少し超えたくらいに見えるほど若々しい風貌をしている。彼は都内で小さな不動産屋を営んでいる。従業員は彼と同年代の営業マンふたり、20代後半の事務員がひとりである。駅前の人通りの多い場所に事務所を構えているため、業績はまずまずといったところである。

 そして、彼にはもう一つの顔があった。銀座の高級クラブのオーナーの顔である。しかし、それを知る者は数少ない。

 「クラブχ(カイ)」というその店は、真田という元暴力団組長に任せていた。年は若いが早瀬が最も信頼している男だ。

 店は会員制で、出入りできる人間を限定している。会員以外の客は、一切出入り禁止としているのだ。会員になるには現役会員の紹介が必要となる。それによって初めて入会審査の受験資格が得られる。さらに厳しい条件を満たした者だけが、入会の審査を受けられるのだ。出身地、家柄、思想、仕事、年収、賞罰等、上級のランク者だけがおよそ半年から一年の審査期間を経て、合格した者が会員になれる。それだけではない、現役会員も定期的に審査されている。店での立ち振る舞い、言動、態度が全てチェックされている。ふさわしくないと判断された者は、現役会員といえども除名は免れないのだ。厳しい規律を定め会員である事に優越感を持たせる。それで、会員同士の結束も固まり、店と共に共存共栄していくのだ。よってメンバーは、社会的地位の高い者に絞られる。政治家、医者、大手企業の役員、官僚、学者、芸能人、そして警察上層部の者に至るまで。

 早瀬は利益を求めているだけではない。この国の上位の人間とコネクションをつくり、彼らの持っている情報を手に入れ、彼らの権力を利用する事が最大の目的なのだ。それは、最愛の娘を守るための手段なのだ。



 彼女は、佐藤ひろみと名乗っていた。ありふれた苗字にありふれた名前を名乗る事で、少しでも目立たないようにしていた。最後に本当の名を名乗ったのはいつだったか、彼女自身も覚えていない。

 何処となく翳りのある端正な顔立ちを、大きな黒縁の伊達メガネで隠している。肩まで伸びた黒髪はストレート。前髪を眉の上まで降ろし、ほとんど化粧はしない。髪の毛で顔を覆い大きな黒縁メガネでポイントをつけて、顔の印象を薄くしようとする彼女なりの努力である。しかし、濃紺の事務服は彼女のそんな苦労とは裏腹に、透き通るようにきめ細かい白い肌をより一層際立たせている。今どきの若い女性の平均的な身長でスタイルはいい。既婚者を装うために左手薬指にはシルバーのリング。言い寄って来る男は少なくなった。

 中国地方の人口50万人程の中核都市に移り住んで3年になる。穏やかな気候で落ち着いた街並みが心地良い。気に入っている町だが、ひとつの場所に定住するのは危険だ。それに蓄えも減ってきた。女ひとりの贅沢とは無縁の生活とはいえ、地方の小さな町工場の給料では厳しいのが現実である。名残惜しいが、そろそろこの町を離れて金を稼がなければならない。

 また、都心に出て水商売に就こうと彼女は思った。賑やかで人口も多い都会なら身を隠しやすい。衣装は流行遅れだが、今ある物で我慢しよう。余裕ができたときに何着か新調すればいい。パーマをかけて綺麗にメイクアップし、お洒落な衣装に身を包む。そんな事を考えていると、いつしか自然に笑みがこぼれてくるのだった。

 彼女が何度か勤めたのは、いわゆる高級クラブである。客層が上品で金持ちが多い。商品単価も高額なのでホステスたちの給料にも反映される。その店のナンバーワンのホステスになれば、それなりの収入も保障される。彼女は、何度もナンバーワンホステスの座を手に入れた。それも短期間の内にである。高級クラブはどこの店も粒ぞろいの美人ホステスを揃えている。その中でも常に彼女の美貌は跳びぬけていた。彼女目当ての客が大半をしめていた。そのときばかりは自分の美しさを呪うことはなかった。ホステス仲間からの羨望と妬みの眼差しは気にしないようにしていた。勤める期間は1年間と決めていた。その間に蓄えを増やす。そして次の町に移り住み、また地味な生活が始まるのだ。



 その日、早瀬が帰宅したのは深夜零時を回ってからだった。閑静な高級住宅地の一角に建つ鉄筋コンクリートの建物が彼の自宅である。ふたり暮らしのためそれほど広くない。

 リビングルームのドアを開けると、娘の由佳がソファに腰を沈めて雑誌をめくっていた。

「お帰りなさい」

 由佳が雑誌に目を落としたまま言った。淡いブルーのパジャマの上に白いカーディガンを羽織っている。

「起きていたのか?」

 彼はダイニングテーブルの椅子に腰かけ、ネクタイを緩めた。

「うん、明日から部活が休みだから」

 由佳は顔を上げずに答えた。

「そうだったな」

 彼は、由佳の横顔を見て美しいと思った。中学一年生。幼さはまだ残っているが、少しずつ大人の女へと成長している。由佳の母親も美しい女だった。「雪の民」の女は皆美しい。

 それにしても、美しさの基準が時代の流れと共に移り変わって行くとするならば、「雪の民」の女たちは、これほどにも、その時代が求める美しさに応じえるものだろうか? 小ぶりな顔、切れ長の目、通った鼻筋、小さくて適度に厚い唇、丸くとがった顎。そして、均整のとれた姿態と透き通るような、きめの細かい白い肌。

「雪の民」の女の力は、その美しさに比例するという。美しければ美しいほど、より強大な力を持つのだ。

 由佳も例外ではないだろう。その力が目覚める日は、そう遠くないはずだ。その日が来れば平安な日々は長くは続かないだろう。自分は、追手から娘を守る事が出来るのか? どうすれば最愛の娘を守りきれるのか? 早瀬は13年前のあの日以来、その答えを導き出せないままなのである。

「お父さん」

 気がつくと由佳が横に立っていた。

「ああ、うん」

「どうしたの? ボーっとして…… もう寝るね」

「ああ、おやすみ」

「疲れてるなら、早く寝てよ。明日も仕事でしょ」

「ああ、そうするよ」

 彼は、娘が忙しすぎる父親の身を案じているのがわかった。男手ひとつで育ててきたが、いい子に育ってくれいる。亡き友との約束は果たせているようだ。このまま、普通の女性として平凡な人生を歩んでくれればいい。それが、彼のささやかな願いだった。彼は、「雪の民」と「神尾一族」の血を引く娘が、運命に翻弄される日が来る事を最も恐れていた。



 「雪の民」と「神尾一族」の戦いは千年にも及ぶ。その歴史を語るには、まず両者が何であるかを知らねばならない。


 「雪女伝説」は室町時代には日本各地で語り継がれていた。地域ごとに違いがあるが、もっとも馴染み深いのは次のような話だ。

 『ある日、木こりの親子が山に入ったところ、吹雪で下山できなくなった。そして、夜を明かすために粗末な山小屋で休んでいると、白い着物を着た美しい女が現れた。女が眠っていた父親に息を吹きかけると、父親は凍り付いて死んでしまった。次に若者を殺そうとするが、「お前は若く、美しいから助けてやる。しかし、今日のことを誰かに話したらお前を殺す」と言って去って行った。

 数年後の吹雪の晩、若者の家に雪という名の美しい娘が、一晩の宿を求めてやって来た。若者は快く雪を泊めた。やがて、ふたりは夫婦となり、何人もの子供に恵まれて幸せに暮らしていた。

 ある晩、出会った頃と変わらず、いつまでも若く美しい雪の顔を見て、あの日の出来事を思い出して話してしまう。すると、雪は悲しげな顔で「誰にも話してはいけないという約束を、あなたは破りましたね。私はあのときの雪女です。私はあなたを殺さなければならない。でも、子供たちのためにそれはできない。私はもうここで暮らせません。子供たちを立派に育ててください。」と言ってかき消すように消え、二度と戻って来る事はなかった』という話である。


 この「雪女伝説」のモデルが「雪の民」の女である。

 「雪の民」は女だけの種族である。いや、正確に言うなら「雪の民」に生まれた男は育たない。10歳の年を数える前に皆、死んでしまうのだ。ならば、どうやって種族を繋いでいくのか? 人間の男と交わりを持つのだ。この点が「雪女伝説」に付随する。

 子を産む事ができる「雪の民」の女は、何年かに一度、人里に降りてくる。そして、人間の男と交わり子供をもうけるのだ。

 「雪の民」の女は契りを結んだ男を殺さない。しかし、「雪の民」の女と情を交わした男で、以前の暮らしに戻れる者は稀である。多くの男が「雪の民」の女に魅入られ、恋しさ故に命を落とした。ある者は、雪深い山へ分け入って二度と帰って来なかった。ある者は、叶わぬ恋に絶望し自ら命を絶った。また、命は取り留めたものの、気がふれてしまう者もいた。

 さらに災厄は親族にまで及ぶ。身内に「雪の民」の女と通じた者が出たと知られれば、「雪女憑き」と忌み嫌われ、村八分にされたり村を追われたりするのだ。家族にとっては働き手の喪失と村からの疎外という二重の痛手を負う事になる。その末路は悲惨だ。

 「雪の民」の女は雪と氷を自在に操る。吹雪を起こしたり、一瞬で周囲を氷漬けにする力がある。その力は個人差があり、力が強い者ほど美しく寿命も長い。不老不死ではない。年の取り方が遅いのだ。数百年生きた者でも、外見は美しい娘のままなのだ。その力が目覚めるのは、子供から大人の女へと身体が変化を始める頃である。子供の頃は人間の子供と同じように成長していく。しかし、力に目覚めてからは、年を取り方が違ってくる。より力が強い者ほど年を取るのが遅くなり長寿になるのだ。力が強い者と弱い者を比べた場合、年を重ねるごとに外見は歴然と違ってくるのである。



 そして、この「雪の民」を駆逐する事のみを至上とした者達がいた。その者達は自らを神の末端に位置する者とし、「神尾一族」と名乗った。彼らは並の人間より寿命が長く、鋼のような肉体と強靭な精神力で「雪の民」と戦ったのだ。

 また、特筆すべきは彼らが得手とする分野で、三つの階級に分かれていた事であろう。つまり、戦闘を得意とする「剛の者」、戦略・戦術を練るのに長けた「智の者」そして、武器や道具を考案、製作する手先の器用さを持った「匠の者」である。「神尾一族」は、それぞれの得意分野を生かして分業とする事で「雪の民」を追い詰めていった。

 だが、千年にも及ぶ戦いの歴史の中で世代交代を繰り返すうちに、次第にその戦いから離脱する者も増えていった。長引く戦いに疲弊し、平穏な暮らしを求めて百姓や町民になる者が後を絶たなかった。中には特性を生かし、剣術者や忍ノ者、軍師、学者、芸術家などとして歴史に名を刻んだ者もいた。



 彼女は「雪の民」の女として生まれ、その中でも特に美しく生まれた事を、今では受け入れている。強大な力と永遠に続くかと思える天命を重荷に感じた頃もあった。しかし、それは享受しなければならない彼女の運命なのだ。誰かを恨む事で昇華されるものではない。少なくとも力は封印できる。もう、何十年も使っていない。あとは日々淡々と生きていくだけである。出来るなら、二度とこの力を使う日が訪れない事を願って。

 2年前のあの夜、最後の仲間が死んだ。彼女を姉のように慕っていた、あの少女だ。力は強くなかった。おそらく死を迎えたときは年老いていただろう。突然、「気」が激しく乱れたのを感じたのは、最後の力を放出したからであろう。そして、一瞬で消えた。「神尾一族」の追跡者と戦い、力尽きたのだろう。追跡者の一撃で千鶴の命は消えたのだ。


 

 早瀬は、数日ぶりに「クラブχ(カイ)」に顔を出した。まずまずの客の入りであった。

「昨日入った美嶺さんです」

 真田が近づいて来るなり、接客中のホステスに目をやった。早瀬もつられて目で追った。年の頃は22~23歳だろうか? 透き通るような色白の美人だった。客の扱いも慣れているようで笑顔もキュートだ。しかし、何処となく翳りを感じる。

「あの子なら、すぐにナンバーワンになりますよ」

 真田が小声で言った。他のホステスたちに聞こえないようにである。元ヤクザだが、気遣いは出来る男だ。

「ああ、他の子たちと仲を取り持ってやってくれ」

 早瀬は真田の見立ては間違いないだろうと思った。

「そのへんは、上手くやりますよ」

 真田は軽く頷いた。数年前まで、何人もの若い衆を取りまとめていた男だ。人の扱いには慣れているのだろう。生きるか死ぬかの修羅場もかいくぐってきた男である。



 バレーボール部の練習が終わって、由佳が同じクラスの真弓と帰っているときだった。突然、けたたましいクラクションが鳴り響いた。車道の方に目をやると、一台の黒い乗用車が何台もの車に衝突しながら暴走していた。やがて、その黒い乗用車はコントロールを失い、由佳たちがいる歩道の方へ向かって来るのが見えた。

「真弓、早く!」

 由佳は咄嗟に真弓の手を取り、逃げようとした。だが、真弓は足がすくんでしまったのか、向かって来るその車を見つめたまま何度引っ張っても動かなかった。

 縁石を乗り上げ街路樹を倒し、黒い乗用車が由佳たちに迫って来た。もうだめだ…… 由佳は、動かない真弓の身体を押し倒して庇おうとした。

 車は目の前に迫って来た。あと数十センチで由佳たちが轢かれるというとき、地面から何かがせり出してきた。それは、黒い乗用車を持ち上げ弾き飛ばした。車はルーフを下にしてひっくり返ってやっと止まった。

 近くにいた大人たちが、由佳と真弓の元に駆け寄り助けてくれた。ふたりに怪我はなかった。目の前に大きな透明な壁のようなものがあった。由佳は恐る恐る手を伸ばして触れた。冷たい氷の壁だった。



 彼女が、美嶺という源氏名で「クラブχ(カイ)」という銀座の高級クラブに勤めて、2ヵ月ほど経った頃だった。初夏の陽射しが厳しくなってきた日の夕刻、出勤の支度をしていた彼女は、不意に「気」の乱れを感じた。今までに感じた事のない激しく大きな「気」の乱れだ。しかし、それはすぐに消えてしまった。

 仲間がいるのか? 何かの間違いなのか? 「気」を感じたのは一瞬だった。仲間がいるのなら「気」が消えないはずである。彼女の心は大きく動揺した。



 彼女は、翌日のテレビのワイドショーを見て仲間の存在を確信した。昨日のあの時間、飲酒運転の男の車が暴走し、数台の車に衝突した弾みで歩道にいた女子中学生ふたりを撥ねそうになった。その瞬間、地面から大きな氷の壁がせり上がり車を数メートル持ち上げて弾き飛ばした。乗っていた男は重傷を負い、少女ふたりは無傷だったという事故だった。

 どちらかの少女が「雪の民」の血を引く子だ。まだ、力が覚醒していない。命の危険を感じて、無意識のうちに力が発動して身を守ったのだろう。この子たちを探さなければならない。「神尾一族」の追跡者もこの事故を知るだろう。そうなれば、少女たちが危険だ。追跡者より先に少女たちを見つけ出さなければならない。  



 男はその家の表札を確認すると、ゆっくりとインターホンのチャイムを押した。

「はい、どちら様ですか?」

 数秒たってから、女の声が返ってきた。

「警視庁生活安全課の黒沢です」

 男は深い緑色のくたびれた背広の内ポケットから警察のバッジを取り出し、インターホンのカメラの前に差し出した。

「お待ちください」

 女の声が言った。

 暫くすると玄関のドアが開き、30代後半の女が顔を出した。目の前の男の威圧感に言葉を失っているようだ。

「真弓さんは居ますか?」

 黒沢が言った。

「まだ、学校から帰っていませんが……」

 母親が戸惑い気味に言った。

「待たせて貰いますよ」

 黒沢は、不安気な母親を横目にずかずかと家の中に入った。

「あの、娘に何か……?」

「おかまいなく」

 黒沢は母親の問いかけには答えず、リビングルームのソファに深く腰を降ろした。そして、腰の後ろのホルスターからコルトを出しサイレンサーを取り付けた。

 暫くして、母親がお茶を運んで来た。膝を付き黒沢の前のテーブルに置く。黒沢は躊躇いなく母親の胸を撃ち抜いた。「雪の民」の女ではないと彼にはわかっていた。



「ただいま」

 少女の声と同時に玄関のドアが開く音がした。家の中に入って来る気配がする。黒沢は少女から見えないように壁に身を寄せた。右手にはナイフを持っている。

 リビングルームに入るなり、少女はスポーツバッグを落としガクッとへたり込んだ。目の前に胸元を真っ赤な血で染め両目を見開いたまま、こと切れた母親の亡骸があった。

「お母さん……」

 わなわなと声が震えている。黒沢は静かに少女の前に立った。

「ひぃっ……」

 少女は、息を飲んだ。恐怖のあまり声にならない。黒沢は少女の背後に回った。少女の口を塞ぎナイフを右の太腿に突き立てた。鮮血が滲んでくる。少女の身体はこわばり、死の恐怖からガクガクと震えた。黒沢はナイフを抜いた。今度は左の太腿を深く刺して抉った。

「ううっ」

 少女は激痛に身をよじった。暫く待った。何も起こらなかった。少女が「雪の民」なら何かしらの反撃があるはずだ。

「違うか」

 彼は少女の身体を乱暴に投げ出した。立ち上がってコルトを少女に向けた。

「やめて……」

 少女は、か細い声で言った。自由の利かない両足を引きずりながら、逃れようとしている。黒沢は容赦なく引き金を引いた。乾いたサイレンサーの音。1発で絶命させたのは、彼なりの情けなのだ。「雪の民」ではないが、生かしてはおけない。使命を果たすためには犠牲はつきものなのだ。「雪の民」はもうひとりの少女だ。その少女を見つける事で、彼の本当の目的を果たせるかもしれない。彼は足早にその場を後にした。



 早瀬は由佳の実の父親ではない。由佳の本当の父親は早瀬の幼馴染で、親友だった川上和也という男だ。川上は急成長した機械メーカーの技術者だった。それは、彼の功績が大きかった。「匠の者」の手腕を生かし、幾つもの機器を開発して会社に貢献した。おかげで会社は、瞬く間に業界で三本の指に入るほどになったのだ。「智の者」の早瀬とは得意分野こそ違うが、お互いに切磋琢磨して競い合ってきた間柄だった。川上と早瀬は自分たちの宿命から逃れ、戦う事を否定して生きていた。

 川上には家族があった。美しい妻と生まれて間もない娘だった。妻は「雪の民」の女だった。彼女も「雪の民」の女の力を封印して愛する夫と娘のために生きていた。

 しかし、幸せは長くは続かなかった。「神尾一族」の追手が彼らに迫ったのだ。彼の妻は夫と娘を守るために戦った。川上も妻と娘を守るために戦った。そして、追手を倒したものの、ふたりは命を落としてしまったのだ。早瀬が駆け付けたときは遅かった。川上は赤ん坊だった由佳を、早瀬に託して息を引き取った。

 早瀬は、この13年間ふたりを救えなかった事で自責の念に苛まれてきた。それ故、由佳に愛情を注いで育ててきた。もう二度と大切な人を失いたくない。由佳を守るためなら、命を投げ出す覚悟は出来ていた。



 早瀬は恐れていたときが来たと確信した。由佳に真実を話すときが来た。あの事故がマスコミで報道された以上、追手に見つかるのは時間の問題だろう。ひとまず、安全な場所に身を隠さなければならない。彼は真田に連絡を取った。



 黒沢隆彦は警視庁の刑事だ。40代後半に見えるが、とうに60歳を超えている。「雪の民」の女ほど長寿ではないが、「神尾一族」も長生きである。「雪の民」の女を狩る「剛の者」は彼ひとりとなった。彼は目的の遂行のためなら手段は選ばない。警察官になったのは「雪の民」の女の情報を得るためだった。彼には、町の平和や市民の生命と財産を守る事など一切関心はなかった。彼の目的は、ただ一つ「雪の民」の殲滅だけだ。そして、一族の間で数百年語られて来た「雪の民」の女の中で最も力を持つ楓を殺す事だった。



 真田は早瀬に大きな恩義があった。彼は数年前まで小さな組を構えていた。元暴走族や不良グループ上がりの若い衆達を束ねていた。血の気の多い連中だったが、トラブルを起こさないように彼が抑えていた。しかし、些細なことで他の組と揉め事になり、それは縄張り争いにまで発展してしまった。相手の組は大きな組織の傘下だった。その組の組員が真田の組の組員を半殺しにした。真田は制止したが、怒った仲間達は報復で相手の組員を同じ目に合わせたのだ。これ以上続けば、上の組織が黙っていない。そうなれば、若い衆達の命が危うい。真田は走り回って解決を試みた。だが、上手くいかなかった。組を畳んで若い衆達を逃がそうとしていたときに、手を差し延べたのが早瀬だった。彼は顔見知り程度の真田のために、築き上げたコネクションを駆使して話を収めたのだ。

 その後、真田は早瀬の提案で組を解散して若い衆達を更生させた。そして、彼の経営する「クラブχ(カイ)」を任されたのだ。そのときから、真田は早瀬に命を預けたのだ。



 彼女は先日の事故現場にいた。縁石は破壊され、街路樹があったであろう所は土がむき出しになっていた。事故の傷跡が生々しく残ったままだった。そして、激しくめくれ上がった歩道のアスファルト。ここから氷の壁が空に向かって突き上がったのであろう。少女は、自分以上の力を持っているかもしれないと、彼女は思った。まだ、力が完全に覚醒していないとしても、制御が出来なければ危険だ。周囲に甚大な被害を及ぼしかねない。

 学校の帰り道なら、ここからそう遠くない所に住んでいるはずだ。何としても少女を探さねばならない。

 そのとき、微かな「気」の脈動を感じた。そして、それは徐々に大きく幾度も波打つようになっていった。彼女は導かれるように駆け出した。



 早瀬は急いで帰宅した。中に入ると真夏とは思えないほどの寒さだった。由佳はリビングルームの片隅で俯いたまま膝を抱えていた。

「大丈夫か?」

 早瀬は由佳に駆け寄った。

「……お父さん」

 由佳は、ゆっくりと顔を上げた。

「ここを出るぞ。立てるか?」

 早瀬が由佳の顔を覗き込むと、彼女は力なく頷いた。

 玄関のチャイムが鳴った。早瀬は音をたてないようにそっとインターホンのモニターを覗いた。早瀬の知っている男が映し出されていた。



 黒沢には中に少女がいる事はわかっていた。返事がないのを確認してから、家の外壁に沿って裏へと向かった。一歩一歩、足を進めるうちに今まで感じた事のない高揚感を覚えた。



 早瀬はモニターから男が消えたときに冷静に考えを巡らせた。玄関は幾重もの施錠を掛けている。正面からは入って来れない。裏に回っても強化ガラスのサッシは簡単には破れない。少しの間なら時間は稼げるだろう。

 早瀬は素早くリビングルームのカーテンを閉め、由佳の肩を抱いて立ち上がらせた。そのとき、強化ガラスのサッシを割ろうするドンドンという音が聞こえた。彼は由佳を玄関の方へ行くように促した。由佳はフラフラと二歩、三歩と足を運んだ所で崩れ落ちるように倒れてしまった。

「しっかりしろ! 立つんだ!」

 早瀬が由佳を抱き抱えて立ち上がらせたとき、強化ガラスのサッシが激しく割れた。長身の男がゆっくりと入って来るのが見えた。



 黒沢は早瀬の顔を見るなり、何故なのか小さく笑みを見せた。

「まさか、こんな所でお前に会うとはな」

 無精ひげの中の目がギラギラとふたりを見つめている。

 早瀬は由佳を後ろ手で隠すように庇った。

「お父さん」

 由佳が早瀬の腕を強く握りしめた。すると、由佳の足元からフローリングの床が凍りつき、それが見る見るうちに部屋全体に広がって行った。

「お前の娘なのか…… 一族の恥さらしめ」

 黒沢は蔑むように言うと、サイレンサーのコルトを静かに構えた。

「あんたは、いつまでこんな事を続ける気だ? こんな事に何の意味がある?」

 早瀬は黒沢の目を見つめて落ち着いた口調で言った。

「聞いたような台詞を言うな」

 黒沢の指がコルトのトリガーを絞ろうとしたそのとき、無数の氷の飛礫が強化ガラスのサッシを突き破って彼に襲い掛かった。彼は氷の飛礫に撃ちつけられて体勢を崩した。



 早瀬は窓の外に美しい女が立っているのを見た。そして、咄嗟に由佳の手を引いて玄関から飛び出した。そこへ、白い高級セダンが滑り込んで来た。

「早く乗って!」

 真田が運転席から叫んだ。早瀬は素早く後ろのドアを開けた。由佳の身体を送り込み再びドアを閉めた。

「由佳を頼む。例の場所へ。後で合流する」

 早瀬は運転席を覗き込みながら言った。

「わかりました。お気をつけて」

 真田が答えた。

「必ず行くから、真田のおじさんと待っているんだ」

 由佳は無言で頷いた。



 早瀬は車を見送った。そして、美嶺の際立った美しさの秘密を理解したのだった。



「お前に会えると思っていたよ」

 黒沢は立ち上がりながら呟くように言った。氷の飛礫の鈍い痛みがあった。

「私は、あなたと争いたくない。静かに暮らしたいだけ。でも、あの子に危害を加えるなら、あなたを許さない」

 彼女は黒沢の眼を射るように見つめた。

「あんな小娘は後でどうにでもできる。お前を片付けた後でな」

 黒沢は、そう言ながらコルトを構えた。彼女は身を翻して黒沢に向かって小さく息を吐いた。すると、その息は幾つもの拳大の氷の飛礫となって彼の身体を撃ちつけた。彼は、それに耐えながらコルトのトリガーを引いた。サイレンサ-の乾いた銃声が響き、弾丸が彼女の身体をかすめて飛び、背後の家具やテレビなどを破壊した。さらに彼女は小さな息を吐いて指先で弧を描いた。粉雪が小さな渦を巻いた。やがて、それは大きな渦へと変わり、猛吹雪となって黒沢を襲った。視界を奪われた彼に向って大きな氷の飛礫が幾つも飛んで来た。それは、ヘビー級ボクサーの重いボディブローのように彼にダメージを与えた。それでも彼は倒れながらコルトを連射した。氷の飛礫が砕け散ってキラキラと舞った。

 彼女は右の肩を弾かれたような衝撃を感じた。見るとブラウスの袖が鮮血で染まっていた。それは、次第に広がっていき、右手の甲をつたった血がポタポタとフローリングに落ちた。右腕が動かなかった。

 黒沢が立ち上がり、コルトの銃口を彼女に向けた。そのとき、何かが彼の足元に転がって来た。次の瞬間、眩い閃光が建物全体に広がった。



 早瀬は彼女を支えながら隠し扉のスイッチを押した。壁が音も無く反転すると同時にふたりは中に入った。扉は静かに元通りに閉まった。三畳ほどの隠し部屋にオフロードバイクがあった。緊急脱出用に用意していたバイクだ。

 早瀬は、胸のポケットからスマートフォンを取り出すと素早くSIMカードを抜き、二つに折ってハンマーで粉々に粉砕した。さらにスマートフォンも破壊した。データの流失と追跡を防ぐためだった。そして、壁に掛けてあったジャンパーを彼女に羽織らせ、バイクに跨った。

「早く乗るんだ」

 早瀬は彼女を促した。彼女は無言でタンデムシートに跨った。

 バイクはキックペダル一蹴でエンジンの唸りをあげた。日頃から整備を怠っていない。ギヤを入れクラッチを繋ぐと力強く発進した。目の前のカモフラージュの壁を突き破り、勢い良く外に飛び出した。



 早瀬は、「クラブχ(カイ)」の古株のメンバーである開業医の元に向かっていた。彼女の傷の手当が必要だった。



「幸い弾は貫通している。出血もそれほど酷くない。骨に異常もない。しかし…… 銃創だ。医者には警察に報告する義務がある」

 医者は診察台に横たわる若い女を見ながら言った。

「…… 」

 早瀬は言葉に詰まってしまった。

「お前さんの事は信用している。こんな時間に俺の所に来たんだ。ただならぬ事情があるんだろう。詮索はしない。朝まで休んでから行けばいい」

 医者は、それだけ言うと診察室を出て行った。

「ありがとうございます」

 早瀬は去って行く彼の背に深く頭を下げた。

「俺は何も見てない」

 医者は背中越しに軽く右手を挙げて去って行った。



早瀬は、病院の待合室の椅子に腰掛けて彼女が目覚めるのを待っていた。どれくらいの時間がたった頃だろうか、人の気配を感じ目を開いた。知らぬ間に眠ってしまったようだった。見上げると彼女が横に立っていた。

「大丈夫かい?」

 彼は立ち上がりながら、彼女に腰を下ろすように促した。

「あの男と決着をつけます」

 彼女は、そのままの姿勢で早瀬の目をまっすぐ見つめた。

「そんな身体じゃ無理だ。君もあの男の恐ろしさは知っているだろう」

「これくらいの傷はすぐ治ります。あの男の目的は私を殺す事です。私が出て行かないと、オーナーの娘さんを危険にさらす事になるかもしれません」

「いいかい。そうなったとしても君のせいじゃない。君が悪いんじゃない。悪いのは大昔の愚かな因習に縛られ、陰惨な行為を続けているあの男だ」

「わかっています。でも、あの男を倒せるのは私しかいません」

「その時は俺も行く、今は傷を癒すんだ。隠れ家を用意している。今は傷を治す事を考えよう…… それと由佳に、……娘に会って欲しい。あの子の力は目覚めかけている。力の制御が出来ていない。あの子は『神尾一族』と『雪の民』の血を引いているんだ。力が暴走したらどうなるか予測がつかない…… 美嶺、お願いだ」

 早瀬は彼女の手を握りしめて頭を下げた。

「楓です。本当の名前は楓と言います。わかりました、由佳ちゃんに会わせてください」

 娘を思う早瀬の気持ちと不安に苛まれている由佳の気持ちを察して、自然と口に出た言葉だった。



 田嶋は指定した場所に車を用意して待っていた。元は真田の組の組員だったが、今は「クラブχ(カイ)」でバーテンとして雇っている青年だ。お調子者が玉に瑕だが、頭の回転が速く義理人情に厚いので真田が目をかけている。

「オーナー、美嶺ちゃんが怪我をしたって、大丈夫なんですか?」

 彼は早瀬の顔を見るなり声をかけてきた。

「美嶺ちゃん、大丈夫なの? オレ、心配で心配で、ぶっ飛ばして来たんだよ」

 彼は早瀬の返答を待たずに、彼女の顔を覗き込んだ。

「ええ、大丈夫です」

 楓は軽く頷いた。田嶋が自分に好意を抱いているのは知っていた。

「すまなかったな。暫くバイクを預かってくれ、好きに使っていい」

 早瀬は事務的に言いながら、彼にヘルメットを手渡した。

「オーナー、俺にできる事があったら何でもやります」

 田嶋は真剣な眼差しで言った。

「ありがとう。当分、店に顔を出せないかもしれない。店を頼む」

 そう言うと早瀬は楓を車に乗せて発進した。この青年を巻き込むわけにはいかない。彼はそう考えていた。彼女も同じ思いだった。



 東京都に隣接する県の山間部に早瀬の別荘がある。早瀬以外でそれを知っているのは真田だけだった。真田と由佳は、そこに身を隠している。早瀬と楓を乗せた車はその別荘に向かっていた。

 早瀬は、その道中で自分は「神尾一族」の末裔である事、由佳の本当の父親ではない事、由佳の両親の事、由佳を守るために築き上げたコネクションの事など全てを楓に語って聞かせた。

 彼女は、話を聴きながら自分は運命の糸に手繰り寄せられて、早瀬の店で働くようになったのだと思った。孤独だった自分に仲間がいた。守らなければならない幼い仲間だ。その子を守るためなら夜叉にでもなろうと彼女は決心した。



 別荘地の最も山間の離れた場所に、早瀬の別荘があった。彼らが、その洒落た作りの洋館に到着したのは日が暮れかかった頃だった。

「由佳ちゃんは、二階の部屋に閉じこもったままです。気を付けていたんですが、テレビのニュースを見たようで……」

 真田が、ふたりを迎え入れながら言い淀んだ。

 早瀬は、大丈夫だと言うように心配した面持ちの真田の肩を軽く二回叩いた。そして、楓の顔を見た。

「あの子はショックを受けている。寄り添ってやってほしい」

 彼は二階の部屋に彼女を案内した。



 早瀬は由佳のいる部屋のドアをノックした。

「由佳、入るぞ」

 彼は、そっとドアを開けた。由佳はベッドの上で俯いたまま膝を抱えていた。泣いているようだった。

早瀬は由佳の横にゆっくりと腰を下ろした。

「由佳、大事な話がある。聞いてくれ…… お前には特別な力がある。その力のせいであの男に狙われたんだ」

「そんな話、聞きたくない」

 由佳が呟くように言った。

「聞いてくれ、お前には乗り越えなければならない……」

「私のせいで……、私のせいで、真弓と真弓のお母さんが……!」

 由佳は父親の話を遮った。そして、激しく泣き出した。一瞬で室内の温度が下がり、吐く息が白くなった。

「あなたは、悪くない。あなたは、悪くない。あなたは、悪くない」

 気がつくと楓は、由佳を抱きしめ何度も繰り返していた。自分が、早瀬にかけられた言葉を少女に言い聞かせていた。彼女の目頭が熱くなり涙が溢れてきた。


 ゆっくりと時間が流れた。まるで母親に抱きしめられたかのように、誰とも知らぬ若い女の暖かさと優しさに包まれ、由佳の心は不思議なくらい穏やかになっていった。


 ふたりは泣きながら身を寄せ合った。早瀬は黙ってそれを見守っていた。


「お姉ちゃんは誰?」

 由佳がゆっくりと顔を上げた。

「私の名前は楓よ」

 楓は涙を拭って小さな笑顔を見せた。そして、早瀬の顔を見上げて任せてくださいと言うように頷いた。彼は由佳を楓に委ねて部屋を後にした。



「私たちには他の人が持っていない力があるの」

 楓が、静かに語り始めた。

「私たち……?」

 由佳が怪訝そうに楓を見つめた。

「そう、あなたと私よ。その力は秘密にしなければならない特別な力なの。だから、むやみに使ってはいけない。使っていいのは、自分を守るとき、そして他の誰かを守るときだけ。私利私欲のためや人を苦しめるために使ってはいけない力なの。あなたは、その力が目覚めたばかりだからコントロールができていない。力をコントロールする術を身につけなければならないの」

「そんな力いらない」

「私も最初はそう思った。でも、この力は私たちだけに与えられた力よ。この力の正しい使い方を学びましょう」

 楓は優しく言い聞かせた。



 早瀬は考えていた。黒沢が警察機構に所属する事は調べていた。ここまでは都内に数台隠しておいた車を乗り換えながら来た。だが、今は至る所に防犯カメラがある。それに主要な道路にはNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)も設置されている。それらを利用すれば、自分たちがここに隠れているのを見つけるのは難しい事ではないはずだ。長くは時間を稼げない。ここで黒沢を迎え撃つ事になるだろう。

 ふと目に入った窓越しの暗闇の静寂は、都会の夜の喧騒とは違った。それは嵐の前の静けさを象徴しているかのようだった。



 暫くして、楓が階下に降りてきた。

「泣き疲れたんでしょう。眠ってしまいました」

 彼女は、そう言ったきり何も話さなかった。早瀬は、その安堵の表情を見てふたりの心が通じ合えたのを感じた。

「肩の具合はどうだい?」

 早瀬は、楓の怪我が気になっていた。

「大丈夫です。私たち…… 私は怪我をしてもすぐに治るんです」

 彼女は、そう言うと軽く右腕を動かして見せた。

 早瀬は、「雪の民」の女の中で最も美しく、最も力を持つ楓という女の話は聞いた事があった。その女には、生涯関わる事などないと思っていた。しかし、その女が目の前にいる。彼には、由佳を守るために川上と彼の妻が導いてくれたのだとしか思えなかった。



 -次の日の早朝-

 早瀬は、真田に由佳と一緒に地下の隠し部屋に身を隠すように指示した。真田はベレッタの自動拳銃一丁と弾倉三つをテーブルの上に置いた。

「これを使ってください。いざという時のために用意していた物です」

「ありがとう。だが、これは君が持っていてくれ。俺には上手く使えない代物だ」

「そうですか…… わかりました。では、由佳ちゃんだけを隠して、私も一緒に戦います」

「いや、君は由佳の傍にいて守ってくれ。それと俺の身に万が一の事が起きたときは、君に由佳の後見人になってもらいたい」

「……そんな縁起でもない話は聞きたくありません」

「君にしか頼めないんだ。約束してもらえないか? もしもの時は由佳の後見人になると」

「……わかりました。約束します。由佳ちゃんの事は任せてください。でも、そうならないように私も……」

 真田の目に薄っすらと涙が滲んでいた。

「そうか、ありがとう。安心したよ。……大丈夫だ、心配するな。死にはしないさ。これが片付いたら店の女の子たちを連れて旅行にでも行こう。何処がいいか考えておいてくれ」

 早瀬は彼の言葉を遮り、笑みを浮かべながら言った。

 そのとき、2ストロークエンジン特有の甲高い排気音が近づいて来て止まった。真田は、早瀬に目配せをしながら、気配を消してベレッタを構え窓からそっと外を見た。降り立った男が、ヘルメットを脱いで近づいて来た。

「あいつ……」

 真田はベレッタを懐にしまい、呆れた顔を早瀬に見せた。早瀬には、彼がそんな顔を見せた理由の検討が着いていた。

「どうして、ここがわかったんだ?」

 真田はドアを開けながら言った。

「店長の車はGPS機能付きです。それを追ったんですよ」

 悪びれる事なく答える田嶋の声が聞こえた。

「いい加減にしろよ。遊びに来てるじゃないんだ。すぐに帰れ!」

 真田は先ほどまでとは打って変わって、頭に血が上っていた。

「まあ、そう言うな。来てしまったんだから、仕方ない。中に入れ」

 早瀬が穏やかな口調で仲裁に入った。

「そうかもしれませんが、ここは……」

 真田は納得がいかないようだった。

「今から、引き返す方が危険かもしれない。早く入れ」

 早瀬は田嶋を招き入れた。



「お父さんたちは、あの男とここで決着をつける。お前は、田嶋のお兄さんと地下室に隠れていてくれ。この別荘は頑丈に作っているから、中に居れば安全だ」

 早瀬は、由佳にそう言うと金属バットを抱えた田嶋の目を見て無言で頷いた。

 黒沢は、もう既にここを見つけたかもしれない。奴を迎え撃つ準備をしなければならなかった。

「君は休んでいてくれ。俺と真田はやる事がある」

 早瀬は楓に言った。

「私は食事の用意をします」

 楓は笑顔で答えた。

「ああ、すまないが頼むよ」

 早瀬は、その笑顔に癒された。



 早瀬たちは外の人感センサー、暗視カメラ、照明、モニターなどをチェックしていった。そして、それらが作動する事を確認すると保管庫からライフル銃を取り出した。



 黒沢は車を走らせていた。防犯カメラの映像を繋ぎ、Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)で追跡して、早瀬たちの居所を割り出した。到着までにそう時間はかからない。日が沈む頃には着くだろう。

 夜間の襲撃の方が、有利になると彼は考えていた。「智の者」の早瀬は一筋縄ではいかない。襲撃されたときの策は講じているだろう。しかし、この機会を逃すわけにはいかない。数十年、あの女を探し続けた。あの女を殺す事だけを考えて生きてきたのだ。彼は、はやる心を抑える事ができなかった。



 黒沢の乗った車は別荘地に入った。彼は、ゆっくりと車を走らせた。綺麗な建物が何軒も続く。夕暮れどきで、各戸に灯りが点き始めた。何処かに早瀬たちが潜んでいるはずだった。並んでいた建物が途切れ、舗装路が砂利道に変わった。その先は、無数の広葉樹が生い茂った林だった。彼が、車をUターンさせようとハンドルを切ったとき、その奥にぼんやりともった灯りが見えた。

「あれだな!」

 彼は小さく呟いて車の向きを変えた。そして、車一台がやっと通るほどの木々の間をヘッドライトを消して静かに進んだ。



 突然、進入路に設置したセンサーに連動したブザーがけたたましく鳴り響いた。侵入者の存在を知らせるものだ。

 早瀬は、建物の全ての防弾ガラスの窓の電動シャッターを下ろした。

「決着をつけるときが来た」

 彼は楓の目を見つめた。彼女は、ゆっくり頷いた。

 早瀬と楓は外に出た。中から真田が、入口の施錠をしたのがわかった。ふたりは背丈ほどの高さの塀に身を隠した。分厚いコンクリート擁壁にモダンアート風の装飾を施したその塀は、建物の周囲をぐるりと囲んでいる。銃撃や爆発物にも耐えられるほどの強度があるものだ。



 やがて、広葉樹の林を抜け、広々とした庭の奥に洒落た洋館が現れた。庭の照明に照らされた車のナンバーは、黒沢が追っていたものに間違いなかった。彼は車を停めてショットガンを片手に降りた。慎重に一歩目を踏み出した。そこへ無数の氷の飛礫つぶてが飛んできた。車のフロントガラスは粉々になった。彼は身をかがめ車の後ろに隠れた。

「手荒い歓迎だな!」

 黒沢が叫んだ。すると、それに答えるかのように銃声が響き、車が微かに揺れた。フロントタイヤからシューシューとエアが抜ける音が鳴った。

「チッ!」

 黒沢は舌打ちした。少しの間、辺りを静寂が覆った。


「早瀬、俺と組まないか?」

 静寂を破ったのは黒沢だった。そして、彼は続けた。

「俺とお前が組めば、この国を裏で牛耳る事だって出来る。その女の始末は俺がする。おまえの娘には手を出さない。約束する。どうだ! 乗ってみないか?」

「俺が、そんな話に乗ると思うのか! あんたも焼きが回ったな! 罪もない母子の命を奪った男の約束など誰が信じる!」

 早瀬が答えた。

「お前は、頭がいい男だと思っていたが、違ったようだな! 残念だよ」

 黒沢は、そう言いながらショットガンで庭の照明を撃ち抜いた。闇が辺りを包み込んだ。彼は、続けて別荘の入口と窓にショットガンの弾倉が空になるまで弾を撃ち込んだ。しかし、堅牢なドアと防弾ガラスの窓はびくともしなかった。すると、今度は彼が盾にした車が何発も被弾した。寒気を感じると同時に彼の身体は猛吹雪に包まれた。

「早瀬、お前は大した男だよ。だが、本番はこれからだ」

 黒沢は、そう呟くとくたびれた上着のポケットから手榴弾を取り出した。



 真田はベレッタを構えて別荘の裏口から出た。黒沢が建物正面を攻撃している隙に、闇に紛れて黒沢の背後に回り込もうとしていた。



 黒沢は凍える右手で手榴弾を握り、広葉樹の大木の根本まで走って身を隠した。左手で手榴弾のピンを抜くと、三つ数えてから塀を目掛けて投げた。彼が身を伏せると同時に手榴弾が炸裂した。カモフラージュの装飾が飛び散り、コンクリート擁壁が露わになった。黒沢は素早く立ち上がり、コルトを抜いて擁壁の裏へ回り込もうとした。彼のこめかみに、冷たい銃口が突き付けられた。

「もうやめろ!」

 真田のドスの効いた声だった。

 黒沢は動きを止めて両手を上げた。真田は彼の右手から銃を奪おうとした。電光石火で黒沢が身を翻して真田を突き飛ばした。真田の身体は、風に吹かれた落ち葉のように軽々と飛ばされて地面に叩き付けられた。コルトの連射が彼を襲った。真田は左足に激しい痛みを感じながら横に転がり、銃弾を避けるしかなかった。

 コルトの弾倉が空になった。黒沢は新しい弾倉を装填した。

「黒沢!」

 背後の声に彼が振り返ったとき、早瀬の構えたライフル銃が火を噴いた。黒沢の右手からコルトが弾け飛んだ。早瀬は続けざまに3発の銃弾を撃ち込んだ。黒沢は苦悶の表情を浮かべながら後ろ向きに倒れた。そのまま微動だにしなくなった。



「お父さん!」

 由佳が別荘から出て来ていた。爆発音を聞き、心配して出て来たのだった。田嶋が由佳を守ろうと金属バットを握りしめて傍に立っていた。

「ああ、終わったよ」

 早瀬が由佳に歩み寄ろうとしたとき、1発の銃声が響いた。早瀬はガクッと膝から崩れ落ちた。間髪を入れずにさらに2発の銃声。彼は3発の銃弾を受けた。黒沢が、横たわったまま小型のリボルバーを構えていた。

「お父さん!」 

 由佳が早瀬に駆け寄った。

「早瀬、お前には失望したぞ」

 黒沢は、ゆっくりと立ち上がりながら、くたびれた上着を脱ぎ捨てた。防弾チョッキの被弾の跡が月明かりに鈍く光っていた。


 由佳の目は、怒りと憎悪で燃えていた。黒沢を睨み付け、無意識のうちに「気」を放っていた。黒沢の正面に分厚い氷の壁がせり上がった。彼の背丈をはるかに超える高さだった。由佳が「気」を放つ度に氷の壁が現れた。黒沢は四方を氷の壁で囲まれ、身動きが取れなくなった。彼はリボルバーで氷壁を撃った。しかし、氷壁はびくともしなかった。

「お姉ちゃん!」

 由佳が叫んだ。

 その声と同時に楓は天に向かって大きく両手を広げた。瞬く間に暗雲が空を覆い、雷鳴と稲光が空を引き裂いた。そして、天高くから、ヒューヒューという空気を切り裂く音が響いてきた。無数の雹が黒沢の頭上にあった。彼が見上げたときは既に遅かった。それは、やがて幾千もの氷の牙となり男に降り注いだ。氷の牙は、男の身体を八つ裂きにした。黒沢の身体は醜い肉塊に変わった。


 戦いは終わった。


 由佳は、横たわったままの早瀬の手を握りしめていた。すぐ傍には楓がいた。田嶋は涙を拭いながら、真田に肩を貸していた。

 早瀬は力なく右手を上げると、由佳の頬を愛おし気に撫でて涙をぬぐった。

「お父さんは、もう由佳の傍には居てやれない…… これからは、楓お姉ちゃんや真田のおじさんが家族だ…… ふたりの言う事をよく聴いて人の痛みがわかる優しい大人になるんだ…… 由佳、幸せになるんだぞ」

 その言葉を最後に、早瀬は静かに目を閉じた。由佳の握っている彼の手から力が消えた。

「お父さん、いやだ、死んじゃいやだ、お父さん!」

 由佳の泣き叫ぶ声がいつまでも続いた。



 早瀬の四十九日の法要を終え、季節は秋の装いに変わろうとしていた。東京駅には、楓と由佳を見送る真田と田嶋の姿があった。

 楓は、自分が生まれ育った東北の地で由佳と暮らす事にしたのだ。もう長い間、帰っていない生まれ故郷で由佳とふたりで再出発すると決めたのだ。いずれはそこも離れる事になるだろう。だが、由佳にはそこで「雪の民」の女として、誇り高く生きていく術を学んで欲しいと思っている。

 不動産会社と「クラブχ(カイ)」は真田が継いだ。もちろん、早瀬が築き上げたコネクションも。彼は由佳の学校の編入手続きに奔走し、ふたりが住むマンションを手配した。早瀬との約束を果たしているのだ。

「美嶺ちゃん、いつでも戻って来ていいんだよ。由佳ちゃんも大人になったら凄い美人になるだろうから、うちの店で雇ってあげるよ」

 名残惜しいのだろう、田嶋が真剣な顔で言った。

「お前、調子に乗り過ぎだぞ」

 真田が、左手に持った杖で軽く叩くふりをした。



 やがて、新幹線のドアが開き楓と由佳は乗り込んだ。振り返ったふたりは、男たちに眩しいほどの笑顔を見せた。由佳が、はにかみながら手を振った。楓が小さく頭を下げた。ドアは音もなく締まり、新幹線はゆっくりと動き出した。

 穏やかな陽射しは、ふたりの旅立ちを優しく祝福しているかのようだった。






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夏の氷壁 雪女伝説第二章 梓 遥路 @kenji4008

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