第24話 タクミの思想



気がつけばいつも一緒だった。

いつも隣で笑っていたし、いつも隣で泣いていた。


なのにどうしてこうなってしまったのだろう。






──オレとマイちゃんの出会いは小学一年生の時だった。

オレは保育園でマイちゃんは幼稚園に通っていて接点がなかったから、近所に同い年の女の子が住んでいたなんて、小学生になって初めて知った。


マイちゃんは明るくて男に紛れて泥だらけになって遊んでいるような元気な女の子だった。反面、当時のオレは暗くて大人しくてあまり外遊びを好むような子どもではなかった。同じ小学校に通っていても隣のクラスだった為、関わりも薄く、根暗だったオレは自分からマイちゃんを遊びに誘うような事はしなかった。


オレの両親は仕事が忙しかった。今思えば他の家庭と比べると親と一緒に過ごす時間が少い幼少期だったと思う。幼いオレはかなり寂しい思いをした。その寂しさを誰にも何にもぶつける事が出来ずにいた。両親に気づかれないようにいつも恐竜のぬいぐるみを抱きしめて泣いていた。


オレの父親は工場で夜勤のある仕事をしていた。母親は福祉施設で介護の仕事をしていた。介護の仕事も当然夜勤があった。父親と母親は優しかった。欲しがったおもちゃは何でも買ってくれた。


でもその優しさはオレの事を愛しているからなのか、一人にさせてしまっている後ろめたさからなのか分からなかった。本当にオレの事が大切なら行かないで欲しかった。側にいて欲しかった。三人で一緒に眠りたかった。


「タクミの為に父ちゃんと母ちゃんは頑張ってるんだからね」


両親はいつもそう言っていた。そう言われると父親と母親を止める事が出来なかった。我儘が言えなかった。「行かないで」なんて言ってしまったらきっと二人とも困ってしまう。両親のその言葉が、俺の本音が喉を通って吐き出て来ないように押さえつけていた。三人で暮らしていく為ならしょうがない。オレの為ならしょうがない。そう思うしかなかった。


両親とご飯を食べてシャワーを済ませると、いつも寝たふりをしていた。そうすれば父親も母親も安心して仕事に行けるから。

でも本当は親と過ごせるご飯の時間や、シャワーの時間がずっと続けばよかったのにと思っていた。


どうしようもなく寂しかった。その夜も寂しくて寂しくて、朝にならないと帰ってこないとわかっている父親と母親を待ちきれなくて勝手に外に出てしまったんだ。絶対に一人で外に出ては行けないって言われていたのに。外は真っ暗でいつも見ている世界とは別世界だった。誰もいない道路がなんだか湿っていて、歩くとジリジリと足音が響いた。耳元を虫が通るだけで身体がビクッとした。遠くの方で誰かの家の楽しそうな笑い声が聞こえた。


気がつけば泣いていた。泣いてその場にうずくまっていた。家に帰るのも怖かった。動かないはずの壁に飾ってある絵がいつもこちらを見ていて、話しかけて来そうな気がするから。誰もいない隣の部屋が怖い。暗い廊下が怖い。洗面所の鏡が怖い。天井のシミが怖い。怖い。誰もいない家はいたって意味がない。


脚が重くてその場から動けなかった。



その時だった。

泣いて蹲っている俺の横に一台の車が停車したんだ。怖い人かな?お化けかな?って想像が膨らんで恐怖のあまり尻もちをついてしまった。


車のドアが開いのか光が差し込む。オレの頭上から明るい声が聞こえた。


「大丈夫?!何してるの?お化けが来ちゃうよ?!」


顔を上げると女の子とそのお母さんが車に乗ってた。


マイちゃんだった。



マイちゃんの顔を見たら何だかすごく安心したんだ。その時まだ親しくなかったはずなのに。ほとんど話した事もなかったはずなのに。気がついたらオレは車に乗っていて隣にはマイちゃんがいた。車に乗らないと言う選択肢はオレの中になかった。


マイちゃんのお母さんはオレの事情を察したのか、そのままマイちゃんの家に連れて帰ってもらう事になった。幼かったオレは近所の人の顔すら知らなかったけどマイちゃんのお母さん、エリコさんはオレの家の事情をそれとなく知っていたらしい。



マイちゃん達はピアノのレッスンが終わった帰りだったと言っていた。車の中から外を見ていたら丁度オレを見つけたと話していた。



家につくとご飯もお風呂も済ませて来たオレにエリコさんは「遅いし今日だけ特別ね」と甘くて温かい牛乳を飲ませてくれたんだ。


マイちゃんはお父さんとお風呂に入っていた。お風呂から上がるとマイちゃんは一目散にオレの所に走って来た。そんな様子を見てお父さんは慌てていた。


「ねぇ、ねぇ名前……タクミだよね?マイちゃんは隣のクラス!わかる?マイちゃんの名前はマイカって言うんだよ。マイちゃんってママは呼んでるよ!」


「へ、へー」


「タクミー、一緒に遊ぼうよ!」


「えっと……でも」


マイちゃんの人見知りのしない明るさにオレは圧倒されていた。


「こらーもう寝る時間だぞ」


「今日はタクミくんもうちで眠っていいからね。安心してね。タクミくんのパパとママにはおばさんから連絡しておくからね」



マイちゃんの家は暖かかった。牛乳も部屋もお父さんもお母さんもマイちゃんも心も全部。さっきまでの外での恐怖なんてすっかり忘れてしまっていた。


いつも家族皆で眠っていると言うふかふかのベッドにオレとマイちゃんは先に入る事になった。オレは緊張してずっと無愛想だっただろうに、マイちゃんはずっとニコニコして話しかけてくれた。


「タクミー、マイちゃんね、タクミと同じクラスがよかったな。だってお友達がこうやってお泊まりに来たのも初めてだし。マイちゃんはすごく楽しいよ。タクミだーいすき」


子どもの頃のそんな言葉なんてただの戯言で深い意味なんてないだろう。それでも俺は嬉しかった。その晩は何も怖くなかった。



次の日の朝、オレの母親が迎えに来た。深々と頭を下げていたのを覚えている。とても申し訳なさそうだった。


「タクミー!また来てね!」


マイちゃんはそう言って全力で手を振っていた。オレは嬉しくて、でも恥ずかしくて遠慮しがちに小さく手を振った。


家に帰ると母親は大きくため息をついていた。


「タクミ、新しいおもちゃ買ってあげようか?ほら、ロボットの!欲しがってたでしょ?」


「……いらない」


「じゃあ、何が欲しいの?母ちゃん怒らないから言ってごらん?」


「……おもちゃじゃなくて、母ちゃんと父ちゃんと一緒に寝たい……」


「何だ、そんな事ね……」



母親はまた大きなため息をついていた。


その日の夜は父親と母親と一緒に眠る事が出来た。嬉しくて嬉しくて、眠るふりを今日はしなかったから寝落ちるまで時間がかかってしまった。すっかり安心していた。


夜中に夢を見た。自分が世界で一人ぼっちになってしまう夢だった。うなされて目を覚ますと二人の姿はどこにもなかった。

結局いつもと同じように、オレが眠ったら両親は仕事に行ってしまったのだ。オレをなだめる為に一緒に眠る振りをしてくれただけだった。




オレとマイちゃんはあの日からよく遊ぶようになった。男勝りだったマイちゃんにいろいろな遊びを教えてもらった。木に登ったり、戦隊モノの真似をしたり、マイちゃんのお父さんも一緒に三人で虫をとりに行った事もあった。お父さんは自分の息子のように優しく接してくれた。おかげでオレは寂しくて泣く事が減っていったと思う。









小学六年生の時だった。


その時、オレとマイちゃんは同じクラスだった。マイちゃんとはもうすっかり仲良くなって、オレもだいぶ明るい性格になっていたと思う。


その日はいつも通り授業を受けていた。いつも通り、国語で漢字を書いて、体育でグラウンドを走って、給食のカレーを食べて……。いつも通りこのまま授業が終わって帰宅するのだと思っていた。


そんな事はなかった。いつも通り同じような日々なんて二度と来ない。五時間目の授業はいつも通りではなかった。


マイちゃんのお父さんが交通事故にあったと授業中に連絡が入ったのだ。先生は急いでマイちゃんに帰る準備をするように促していた。マイちゃんの表情は固まっていた。動けなくて先生がほとんどランドセルに荷物を詰めていた。オレはそんなマイちゃんが心配で、お父さんの事も心配で勝手に自分も帰る準備をして、先生の話を押し切ってついて行った。無神経に「早く帰れていいなー」とか言うクラスメイトを睨みつけてやった。


マイちゃんのお父さんの弟だと言うおじさんが学校に車で迎えに来ていた。先生に見送られながらオレ達はその車に乗り込んだ。オレはずっとマイちゃんの手を離さなかった。マイちゃんは何も話をしなかった。震えていた。泣きたいのをずっと我慢しているようだった。


病院は静かだった。

病室に近づくと、マイちゃんのお母さんの啜り泣く声が響いていた。


マイちゃんのお父さんは眠っているようだった。


お母さんはマイちゃんを抱きしめていた。オレはお父さんに話しかけた。


「マイちゃんのお父さん、今日は暑いね……」


「……」


返事はない。


「お父さん、大丈夫?」


「……」


「ねぇ、マイちゃんのお父さん……」


マイちゃんのお母さんがオレの肩に手を置く。お父さんは動かなかった。もう二度と返事をしてくれる事はない。


既に亡くなっていた。



一緒に虫取りに行ったお父さん。一緒にご飯を食べたお父さん。時にはお兄さんみたいだった、自分の親よりも沢山沢山話をしたお父さん。ついこの前


「タクミくん、身長伸びたなー。もう抜かされちゃうよ。マイカの事これからもよろしくね」


なんて言われたばかりだった。


マイちゃんのお父さんの優しい笑顔がオレは大好きで、また直ぐにでも起き上がって「タクミくん今年も虫とりに行くぞー」って言い出すんじゃないかって思ってしまった。


信じられなかった。信じられなくて涙も出なかった。


マイちゃんは泣いていた。大きな声で幼子のように泣いていた。オレはそんなマイちゃんの背中をさする事しか出来なかった。






それからしばらくしての事だった。


マイちゃんのお母さん、エリコさんが変わってしまったのは。新しい彼氏とエリコさんが交際を始めたのだ。マイちゃんはもう家にいられないとよくオレの家に来るようになった。オレの母親と父親は変わらず夜勤のある仕事をしていたので、学校が終わるとマイちゃんと一緒に夜ごはんを食べテレビを見るのが日課になっていた。


幼い頃と何だか逆になってしまった。


エリコさんの彼氏は酷い人だった。身長が高くて体格のよい、髭の生やした男だった。性格はマイちゃんのお父さんとは正反対の人だ。最初は優しかったものの付き合ってからすぐマイちゃんの家に入り浸るようになったようだ。お金を要求するようになった。エリコさんとマイちゃんに暴言を吐くようになった。暴力を振るうようになった。


マイちゃんの白いくて細い腕や脚には赤くて黒くて紫色のアザが日に日に増えていった。対照に、毎日浴びせられる暴言にマイちゃんはどんどん自信を無くしていった。


オレがマイちゃんを迎えに行った時、エリコさんが暴力を振るわれている時があった。だから俺は咄嗟に止めようとした。彼氏の身体を抑えようとしたが、オレは簡単に投げ飛ばされた。


エリコさんが「やめて」って言ったんだ。でもそれはオレを助ける言葉じゃなくて、彼氏を庇う言葉だった。


彼氏は笑っていた。


「あんな人でも私は好きなの。一人になりたくないの。もう、一人は辛いの。タクミくんがこの寂しさを埋めてくれる訳じゃないでしょう?だから邪魔しないで」


そう言っていた。エリコさんは一人じゃない。マイちゃんがいるじゃないか。エリコさんの気持ちが理解出来ない。なんでこんな奴の為に……。そう言葉が出かかった。でも言えなかった。彼氏が怖くて声が出なかった。そんな無力な自分が情けなかった。


遺影の中のお父さんはずっと笑顔なのに、暖かかったマイちゃんの家はもうどこにもなかった。


オレは部屋の端で耳を塞いで蹲っているマイちゃんの手を握って自分の家に向かった。


家につくとマイちゃんは放心状態のようでぼんやり壁を見ていた。


「タクミ。私はどうなるんだろう。このままママに捨てられるのかな?なんでパパは居なくなっちゃったの?パパに会いたい……」


「大丈夫。大丈夫だよ……」


「タクミは……側にいてくれるよね?」


「……うん」


オレはマイちゃんを抱きしめる事しか出来なかった。

マイちゃんの性格はこの辺りから浮き沈みが激しくなっていった。明るく話をしていたかと思えばいきなりずっと壁を見て動かなくなったり、どうすればいいのかわからなかった。オレは見守る事しか出来なかった。マイちゃんの内側はオレの目の前でぐちゃぐちゃに壊れていった。


周りに助けてくれる大人は誰もいなかった。マイちゃんのお父さんの弟さんもたまに家の様子を見に来てくれていたが、彼氏の外面が良かった為いい人だと思い込み、すっかり騙されていた。学校の先生には言いたくないとマイちゃんは言っていた。「皆には優しいパパとママがいて、それが当たり前なのに自分はそうではない。先生にこれ以上可哀想だと思われるのが嫌だ」と言っていた。


お父さんが亡くなって、寂しいからと言って急にお母さんが知らない男を家に上げるなんて、他人のオレでも状況を受け入れられないのに、マイちゃんはどれ程苦しかったのだろう。




オレ達が中学二年になる頃にはエリコさんはその彼氏と別れていた。正確にはお金を盗られて逃げられたのだ。マイちゃんは家に居やすくなったと言っていた。エリコさんとも仲良くやれていたようで笑顔も増えていった。マイちゃんの元の明るさが戻って来たような気がした。こんな穏やかな日々が続けばいいのにって思っていた。


この時くらいからオレ達の関係性は微妙に変わり始めていた。マイちゃんがオレの事をあまり好きではないのかもと感じるようになった。どうしてなのかはわからない。話しかければ普通に答えてくれるし、一緒に登校もしている。オレの家にだって遊びに来るのに気持ちはここにあらずと言う感じだった。


この頃からオレは本格的に読書を始めた。様々な本を読んだ。何かあった時にマイちゃんを助けられるように、役に立つかもわからない、実践できる訳もない医学の本から金融関係の本、料理の本から心理学、法律の本まで。知識を持っていて損はないと思った。


そして小説を読む事で、その世界に救われていた。人の気持ちを理解しようと努力した。






高校一年の時だった。あいつが戻って来たのは。


エリコさんは酷い事を沢山されたのにそれでもあいつの事が好きだと言っていた。今度はエリコさんが彼氏の家に入り浸るようになった。そしてついには家に帰って来なくなった。逆にマイちゃんはその方が楽だと呆れて笑っていたけれど。寂しさを隠しきれてはいなかった。目が曇っていた。オレ達が高校二年になった現在もエリコさんはほとんど家には帰って来ていない。


学校ではマイちゃんにはサクラという親友が出来た。サクラとはすごく相性が良いようでよく楽しそうに話し込んでいた。サクラがマイちゃんの心の支えになっていたと思う。サクラは真面目で優しくて信頼できる子だと思った。オレは安心していた。少しずつ日々の生活が安定して来ていると思っていた。なのにそのサクラがあんな事になってしまうなんて。


また目の前でマイちゃんが壊れて行く所をオレは見ていられない。


これは愛なのか執着なのかわからない。ただオレは昔みたいにマイちゃんと楽しく過ごしたいだけ。


どうしても守りたい。






──だからコウキごめん。オレはコウキを助ける事ができない。




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