ぬいぐるみが動くわけ
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ぬいぐるみが動くわけ
可愛い盛りの息子が寝ぼけ眼を擦りながら起きてきて、彼専用の手すり付きの椅子に座る、というよりも苦労しながら登って小さなお尻を載せる。
「ママ、おはよう」
「おはよう。今日もひとりで起きてこられてえらいね」
カラフルなシリアルをボウルに盛り付けてやると、息子は首を振った。
「ひとりで、じゃないよ。ダイナが起こしてくれた」
スプーンを握る息子の隣で、しきりに首を動かしたものがある。ダイナ。小さな息子よりもさらに小さい、大人の腕の中にすっぽり収まるサイズの、恐竜のぬいぐるみだ。
中には綿しか詰まっていない、筈なのに。
「そう。ダイナにお礼を言った?」
「言ったよ、ママ」
息子が隣の椅子に座らせているダイナは『満足げに』『頷き』、その緑の尾を『振った』。
私は敢えてそちらには顔を向けずに、目玉焼きとウィンナーを配膳した。テレビから、アナウンサーの声。
「今朝のトップニュースです。世界中でぬいぐるみが意志を持ったように動き出してから三日が経とうとしています。この異常事態に国は……」
聴きながら、ちらりとダイナを盗み見る。どこにでも売っている、デフォルメされた恐竜の形をした、緑色のぬいぐるみなのに……。
「ママ、ダイナが飲んでみたいって」
「え?」
息子が、ボウルに残ったミルクを、ダイナの口元に近づけていた。思わずゾッとしてボウルを取り上げる。息子はキョトンとして私を見上げ、ダイナは『残念そうに』『下を向いた』。
「だ、ダイナの体には合わないからね。ほら、ダイナはぬいぐるみなんだから」
「そっか、それもそうだね。ダイナ、仕方ないよ」
息子はダイナの背中を撫でながら「ごちそうさま」と椅子から降りた。幼稚園のお迎えバスが、そろそろ来る。ダイナを小脇に抱えて部屋へ向かう、その後ろ姿を見守りながら、私は三日前のことを思い出す。
三日前、私と夫は動き出したダイナと他のぬいぐるみたちとを眺めて、どうしたらいいのか途方に暮れていた。昨日までは息子の布団の周りに置いてあった小さなぬいぐるみたちが、起きてみたら、息子の周りで踊っていたのだ。
「夢かな」「どっちの」「ママのじゃないか」「そんな感じしないけど」「でも、ぼくだってそんな感じしないよ」
布団の中から出ることもできずに、息を潜めて様子を見ながら、夫婦で話し合った。結局、意を決して出て行って、暫くしても夢は覚めなかった。テレビをつけたら全世界のぬいぐるみたちが動き出したというニュースを放送していて、これはやっぱりまだ夢を見ているんじゃないか、という疑いは拭えない。
「ホラー映画だと、ぬいぐるみが人を殺すよね」「でもファンタジー映画なら、子供たちのよき友達になってくれるんじゃない」「SF映画だったら?」「さあ……」
息子だけはすっかり打ち解けたらしく、無邪気にダイナと遊んでいた。
窓の外に、バスが停まった音がした。慌てて外へ出ると、幼稚園の先生が降りてくるところだった。
「おはようございます」
にこやかな先生の後ろ、バスの窓から、子供たちが楽しそうに顔を出す。彼らのほとんどは、お気に入りのぬいぐるみを抱えて、それに話しかけたり笑いかけたりしている。動く小さなお友達を。
「おはようございます、先生。すみません、今すぐ連れてきます」
挨拶だけして、またすぐに部屋にとって返す。すでに着替えていた息子とダイナを、先生に引き渡す。
「先生、その……ぬいぐるみは」
息子がバスに乗り込むのを確認して、こっそりと尋ねる。ぬいぐるみは子供の友達だ。子供の友達については、子供を見守る幼稚園の先生に聞くのが一番だろう。
先生の、いつも明るい笑顔が、ほんの少しだけ暗くなる。
「どうも、お預かりしているすべてのお子さんのお宅で、動いているみたいです。ご覧の通り、子供たちは喜んで一緒に登園してますが……園でも対応に苦慮しているところです」
やはり、そうなのか。突如として意志を持ったように動き出したぬいぐるみたちに驚き困惑しているのは、他の家族も同様なのだ。
「あの、何か被害などは」
「今のところは、特に何も。本当にただ、子供たちと遊んでいるだけのようで……。そういえば子供たちの中には、ぬいぐるみに物を食べさせようとする子もいるんですが、やっぱりぬいぐるみですから、そんなことはできないみたいです。そう考えると、あれらがこちらに危害を加えることも、おそらくできないのではと思いますが……」
先生は曖昧に首を振って、そのまま行ってしまった。
アパートの部屋に戻ると、息子に選ばれなかった他のぬいぐるみたちが部屋の隅に集まっていた。何をコソコソと、と思ったけれども、彼らには人間のような五本指も歯も爪もない。有名なホラー映画のような恐ろしい真似はできないだろう。放っておくことにして、私は椅子に座って朝食を摂り始めた。つけっぱなしにしていたテレビから、聞き覚えのある声が聞こえてくる。そういえば、今日は朝から夫が出演しているのだった。
ボリュームを上げる。
「……というわけで、現在、世界を賑わせている、意志を持ったように動き回るぬいぐるみたちについて、専門家の方のご意見を伺いましょう」
アナウンサーに話を振られ、夫はメガネを触りながら答える。
「私は生物学を専門としています。生物学的に言えば、あれらはただのぬいぐるみであって、生物とは言えません。言ってみれば、そこらの石や、機械と同じです。でも、石や機械と違うのは、動力源が不明のままに動いているということです。昨日までただのぬいぐるみだったものが動き始めたのですから、これは未知の動力源が存在しているのだとしか言えないでしょう。しかも、全世界のぬいぐるみたちが一様に、ですからね」
メガネのツルをいじる癖は、緊張している時に出る仕草だ。昨晩も電話口で愚痴を漏らしていたことを思い出す。よくわかっていないことについて、よくわかっていないんです、と説明するのは、相手によっては非常に緊張するものなのだとか。
「そうそう、三日前から、世界各国のクリエイターたちが、自分でぬいぐるみを作って、それが動くかどうかを試しているそうなんですが……」
「ええ、存じ上げております。私も気になってインターネットに張り付いたんですが、興味深いことに、作られたぬいぐるみの間には、動くものと動かないものがあるんです。これは全国の玩具屋からの報告ですが、玩具屋に売られているぬいぐるみでも、動くものと動かないものに分かれているらしいんです。どうやら、子供たちが試しに触れて遊んでみたり、子供でなくとも、大人が少し手に取って吟味したりした、売り場の最前列に陳列されているものが、動き出しているそうなんです」
ここ二日間、家に帰らず大学に篭りきりだった間に、そんなことを調べていたのか。
アナウンサーは興味深そうに大きく頷いた。
「ということは、……つまり」
「はい。あのぬいぐるみたちの未知の動力源、もしくは動作するための条件の一つとして、人間の存在、それとの触れ合いがあるようなんです」
なるほど。確かにあのあと、試しに私が作ってみた編みぐるみはピクリとも動かなかった。作ってすぐ様子を見て、何も起こらなかったからそれ以上触ることもなく放置してしまったのだ。
「では先生、今後はどのような方向性で研究されていくおつもりでしょうか」
「あれは生物学の研究対象ではないのですが……、ただ個人的にも興味がありますので、引き続き、人との触れ合いがぬいぐるみにどのような作用を及ぼしているのか、突如としてそれが作用し始めたのはなぜなのか、といった点について、調査していきたいと思っています」
「わかりました。先生、ありがとうございました」
夫が画面から退場した。きっとそろそろ、疲れたという電話がかかってくるに違いない。
シリアルをつつきながら番組の続きを見ていると、案の定、夫から着信があった。
「番組、見たよ。あんなこと調べてたんだ」
「うん。でもあんなことくらいしかまだわかっていないのに取材なんて、引き受けるべきじゃなかったと後悔してるよ」
夫はため息まじりに言う。苦笑いしてそれに返そうとしたとき、幼稚園からも着信があることに気がついた。一度、夫との通話を切って、それを受ける。普段、園から連絡なんて、あまりないのに何だろう……。
電話越しに、さっき話したばかりの先生の、切羽詰まった声がした。
「息子さんが……」
その先の言葉を聞きながら、全身の血の気が引いていくのがわかった。先生が伝えてくれた病院の住所と電話番号を大急ぎでメモしながら、カバンとコートを引っ掴む。玄関のドアを開けて出ていく前に振り返ると、ついさっきまで動いていたぬいぐるみたちが、そんなこと嘘だったかのように、くたりと床に落ちていた。
もう二度と、動かないような予感がした。
ぬいぐるみが動くわけ tei @erikusatei
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