柔い風が頬を滑った。貴女のいない春が来た。

 お世辞にも「綺麗」なんて言葉に相応しい季節じゃないでしょう。そう言った私に切なく微笑んだ貴女は、あの時何と返そうとしたのだろう。アスファルトに残る砂利、思い出された空の缶ビール、踏み潰された煙草の吸い殻。私は今でも、春にあんな言葉は似合わないと思っている。けれど確かに、貴女の横顔だけは美しかった。

 貴女の目に、春はどう映っていたのだろうか。貴女は何を見て何を感じ、なぜこの季節を「綺麗」と言い表したのだろうか。私にはそれが一向に分からない。否、分からなかった。

「──あぁ、そうか。貴女はずっと、空を見ていたから」

 私のような人間に、澄んだ眼の貴女は似合わない。幾度となくそう思ってきた。貴女がいってしまった日、悲嘆に暮れる心の奥底で「貴女も私と同じだったのかもしれない」なんて淡く期待した。それなら縋ることも許される気がしたから。けれど、やはり違ったようだ。今この瞬間、私の眼前で儚く揺れる桜を見て得心がいった。その奥に広がる青に、その先に居るはずの貴女に思いを馳せる。貴女の見ていた景色を前に、私の足は竦んでしまった。この場所を、春を汚したくないと願ってしまった。

「隣にはまだ、いかせてくれないのですね」

 その眼差しにも似た眩さを、大切に抱えて行く算段をつけよう。いつか雲を昇れる日まで、決して溢さず歩けるように。

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