第3話

 年が明けて授業が始まったと思えばすぐに試験があり、それが終わると就職活動が本格的に始まった。内定をもらうのに思っていたよりも時間と労力を必要として、春休みとその後の新学期でほとんどの時間を費やしてしまった。ようやく卒業後の進路が決まり、研究が本格的に始まったのは克己君や先輩たちがとっくに卒業してしまった後だった。新学期になって人数が減ってしまったラボは少し寂しく感じたが、実験に熱心に取り組む人たちにとっては、設備を使う時間が増えて研究が捗っているようだった。雨の日でも研究室に訪れている人はそれなりにいて、その証拠に廊下にはいくつもの傘が広げて干されていた。自分も周りに倣って広げておく。今日はようやく実験の結果が出る日だった。DAMシステムにショウジョウバエを入れて10日目となるが、その内の3日間は概日リズムを形成させ、その後の7日間で睡眠パターンを計測していた。

 実験の結果はエクセルへと変換され、そこから先輩達の発表でよく見たタイプのグラフが出来上がる。大事なことは野生型との比較だ。条件をそろえ、狙った一部を変えることでその影響が結果として現れる。セミナーで発表をすれば飛び交う質問の中には必ずと言っていいほど実験手順についての質問が出る。実際、最上さんが初めて実験を行った時は、光の点灯・消灯によって概日リズムをつくる時間を1日としていたそうだが、その後のセミナー発表では概日リズムの形成日数が少ないのではないかと指摘をもらったそうだ。予想以上に事細かに容赦なく質問が飛んでくる発表のためにも、実験の条件は手順と共にできるだけ実験ノートに記録をしていた。


 この結果はどうなのだろう。出来上がったグラフを見て、すぐに最上さんから以前にもらったデータを開いた。最上さんの研究でも野生型のハエの睡眠実験は行われていたため、グラフを見比べる。

「うーん。」

 実験に関しては何度も参加させてもらって手順は見て覚えてはいたが、いざ自分一人でやるというのは初めてでやはり自信がなかった。野生型の睡眠パターンは最上さんのグラフと当然同じになるはずだが、違うようにさえ感じてしまう。sclamp変異体についての睡眠パターンの解析は他では行われていないので、ここからは誰も見たことのない未開の領域に足を踏み入れることになる。手本となるものはどこにもなく、自分なりに探っていくしかない。出した答えが合っているかどうか誰も教えてくれないのだ。出てきたsclamp変異体のグラフを野生型と比べながらまじまじと見つめる。明期と暗期の境目には野生型と同様に明瞭に谷ができていて、それは多くのハエが起きていることを示している。しかしsclamp変異体ではその谷は浅く、また、野生型では眠っているはずの他の時間帯も多くのハエが起きていた。グラフのカーブは全体として起伏の小さいなだらかな印象だ。これが正しい結果とすれば、この違いはsclamp遺伝子の変異から生じていることになる。しかし、これは予想とは違う結果だ。sclamp変異体ではHigタンパク質がシナプスに局在していることから、hig変異体のような短い睡眠を多くとるようなパターンにはならず、野生型と同じ睡眠パターンをとると思っていたのだ。だが、やはり野生型と違っている方が面白い。少しの間、画面を眺めていた。時間は過ぎて行くが、このまま自分一人で見ていても結果や考え方が変わるわけでもない。周りを見渡してみれば研究室には1人しかいない。向かい合わせの机の隙間からそこにいる人が誰なのかとじっと見ていると、視線に気づいたのか目があってしまう。同期の黒井さんだ。

「あの、ちょっとこのデータ見てくれないかな。」

ハエの飼育部屋に行けば院生がいるだろうが、朝からそこにいる人たちは大抵外せない実験をしているので声を掛けるのは気が引けて、目の前にいた彼女に声を掛けた。唐突すぎるコミュニケーションに、今は大丈夫?、と配慮の言葉を後から付け足す。幸いにも時間を気にすることはなさそうで、快くこちらのデスクまで歩いてきてくれた。

「おはよう。ごめんね、急に。」

「大丈夫だよ。森川君の研究とかはあんまり詳しくないけどいいの?」

彼女はアセチルコリン受容体Dα5の局在量変化についての研究を行っていた。同じ研究室内でも研究内容は関連しているが違ってくる。

「いいんだ。グラフに差があると言えるかどうか、僕だけでは判断しかねるなって思って、どう思うか見てほしいんだ。」

自分の研究内容は実験計画としてセミナー内で発表をしたことがあり、内容に曖昧な部分があっても彼女は一応知っているはずだ。パソコンの画面を見せて、野生型とsclamp変異体の睡眠パターンのグラフだと説明をする。すると先ほどまで自分がしていたような唸り声をあげながら首をかしげる。

「どうだろう。最上さんがしていた睡眠パターンの研究だよね。野生型は前とほとんど同じだと思うけど、sclamp変異体は野生型と全く同じとは言えないような気がするね。」

やはり初めにグラフから受けた印象と同じようなことを彼女も感じているようだった。

「最上さんはこのグラフだけじゃなくて睡眠の長さや回数なんかの棒グラフを出していなかったっけ。あと、このグラフのn数は?」

以前の最上さんの研究と比較し、実験の精度を見つつ、まだ出していないグラフや、詳細な質問をしてくる冷静で論理的思考を持った人だと感じる。

「確かに、そのグラフを出さないと。個体数はこれだよ。」

実験には野生型と3種類のsclamp変異体の計4種類を用いていた。Sclampを作る遺伝子の一部を欠いた欠失変異にはsclampΔ12とsclampΔ21がある。それぞれの変異と、sclamp遺伝子を含む染色体領域を大きく欠失したDf(3R)Exel6182とを掛け合わせた子を用いた。さらにsclampΔ12とsclampΔ21を掛け合わせた子も実験に用いた。いずれの場合も、2本の相同染色体のどちらにもSclampを作る遺伝子がないという状態にしている。

① 野生型 n=13

② sclampΔ12/Df(3R)Exel6182 n=7

③ sclampΔ21/Df(3R)Exel6182 n=11

④ sclampΔ12/sclampΔ21 n=8

n数を記録した画面を見せると、彼女は再び考えこんでいた。

「n数が少ないんじゃないかな、もう少し増やして実験すればもっと正確なデータが取れると思う。後で先生にも見てもらったら?」

「そうするよ。ありがとう。」

他の人がセミナーで出すようなはっきりとした結果が出せないことに、少しだけ落ち込む気持ちを心のどこかで感じた。


 教授の部屋は研究室のすぐそばにあって、今どこにいるのかがプレートの矢印で分かる。幸い今は在室のところを指していて、扉のノックに教授の声が返ってきた。

「失礼します。」

「あぁ森川君、どうしたの。」

「今お時間大丈夫ですか。DAMシステムの実験結果が出たので見ていただきたくて。」

「そうですか、是非見せてください。」

 以前に面談に使った椅子に座り、自分のノートパソコンに転送したデータを教授に見せる。今度はn数をグラフ内に表示し、睡眠量と睡眠回数、一回当たりの睡眠回数を棒グラフにして出した。

「なるほど。これは死んだ個体のデータは除いていますか。」

「はい。さっき黒井さんにも見てもらったんですけど、やっぱりn数が少ないですかね。」

「確かにそうですね。睡眠パターンを調べるのに多いに越したことはないでしょう。このn数だとまだまだ1匹が数値に与える影響は大きいですからね。」

「実験は失敗ですかね。」

あからさまに暗い声を出してしまった。やはり上手に取れたデータだとは言えないのだろう。

「まあ大成功ではないかもしれませんが、まだ初めての実験でしょう。失敗して当たり前ですよ。それに失敗といえるほど大きく外れてはいないと思います。使っているハエの系統もちゃんと準備されているし、実験の流れもわかったのではないですか?」

落ち着いて現状を整理すればそこまで悪いことではないと思う。たった一回の実験で答えが出ると結論を急いではいけない。もっと長期的に研究を行っていこう。

「ありがとうございます。もう一度やってみます。」

「納得するまで何度でもやりましょう。また、何かあれば話を聞かせてください。」

帰る頃には傘はすっかり乾いていた 。


 梅雨の季節を越えて、初めての実験からさらに2度実験を行った。実験を重ねるごとにデータは同じような値を示すと考えていたが、実際にはそううまくはいかなかった。実験の結果は何故か不安定で、有意差が見られないときもある。逆に大きな差がついた結果も出ていたため、全体を総合的に見ればsclamp変異体は野生型と異なる睡眠パターンを示すという印象だ。つまり、Sclampタンパク質は睡眠に影響を与えるという説が頭の中に浮かんだ。実験まえに立てた仮説とは違ったが、その仮説の正否の前に、今は実験の不安定さが問題だ。同じ内容の実験を繰り返してグラフに差が出るのは不思議なことで、いま一つその原因がつかめない。しかし、そうのんびりと言ってられないのは、セミナーでの発表が迫っていたからだ。プログレスレポートという進捗状況の報告を行う必要があり、自分の番が回ってきていたのだった。

「プログレスレポートを発表します。よろしく願いします。」

 以前、自分の研究テーマが決まった際にセミナーで研究計画の発表を行ったが、実際に実験のデータを発表するのは今回が初めてだ。先輩たちの発表のレジュメを参考にしながらパワーポイントでスライドを作った。発表のメモを一言一句書き出しておいてよかったかもしれない。院生の先輩や同学年の4回生しかいないのに、緊張してスライドを見ても説明の言葉が飛んでしまっていた。スクリーンよりもパソコンの画面を必死に追いながら、気づけばスライドショーが終わっていた。

「以上です。」

最後に締めの言葉を放ち、ようやくみんなの方を振り返る。スクリーンを映しているプロジェクターからの光のおかげで表情は見えなかったが、拍手が上がるだけで安心できた。

「質問はあるかな?」

 教授が放心しきった自分の代わりにその場を取り仕切ってくれた。その言葉を皮切りに挙手をして質問となる。

必ず聞かれるであろう、そして核心的な質問が投げかけられた。

「sclampΔ12とsclampΔ21はsclamp遺伝子のほとんど同じような欠損だと思いますが、それぞれの結果の間で有意差がついているのはなぜでしょうか。」

発表の説明ではあまり触れないようにしていたが、院生はグラフをよく見て質問したようだった。他のみんなもその質問に合わせて、配布したレジュメのページをめくっている。

「実験は何度か行ってsclampΔ12とsclampΔ21の間に有意差が出ない時もありました。僕の実験の仕方が何か間違っているかもしれないので、もう一度試してみようと思っています。」

「何かその原因になりうることは分かっているんですか。」

 暗がりの中を歩くように周りが見えず、狭い視野の中で実験してきたので、質問されるとあっけなく自分のウィークポイントにたどり着いてしまう。

「外部からの衝撃でショウジョウバエが目覚めてしまったのではと思っています。」

「うーん。DAMシステムでの実験は同時に行っているんですよね。外部からの刺激が加わったなら実験中の全てのハエに影響が出るから部分的に有意差が出るとは考えづらいと思います。系統は違っても、Sclampの変異体ということは共通していますしね。」

 その場を切り抜けるためだけのでまかせは論破されてしまう。本当の原因は分からない。そうなると、今まで十分に考えたこともなかっただけに、ここですぐに分からないとは言いづらく、黙りこくってしまう。

 正直、自分よりも教授や大学院生、先に研究に着手している同期の方が知識は当たり前に豊富だ。なぜ一番知識が浅い自分に聞くのだろうと思った所でハッとする。分からないからみんなの知恵を貸してほしいのだと思うと同時に、これは自分自身の研究であることに気づく。自分がしている研究のはずなのに、他の人の方が詳しいなんてあっていいのだろうか。確かにまだまだ知らないことはあるだろうが、そのまま知識もなく考えもせずに研究をして誰が答えを出すのだろうと思う。自分の研究について知ろうとしない人に、実験をしていないみんなが納得する結果など出せるはずがない。

「すみません。本当はまだはっきりと原因は分かっていません。思い当たる節がないかまた自分で探ってみます。」

「わかりました。ありがとうございます。」

「一人で考えるのもいいですが、みんなで考えてみましょう。逆に星岡君は何が原因だと思いますか?」

声を掛けてくれたのは教授だった。

「なんでしょう。例えばハエの入っているチューブが場所によって傾きがあったり、通気性が違ったりすることもショウジョウバエの習性から微妙な差異に繋がるかもしれません。」

「なるほど、あり得るかもしれませんね、他の人はどうでしょう。」

教授は次々に名前を呼んで当てていく。手元のノートを急いで開いて、挙げられた可能性について箇条書きでメモを取る。

「黒井さんはどうですか。」

「具体的な原因について私はよくわからないですが、もう少しデータを増やして明期と暗期でのグラフを出して比べてみれば、どこで差ができているのか原因が特定しやすくなるかもしれません。」

「いい考えですね。原因特定に限らず、実験の質を向上させることにもなりそうです。後は、DAMシステムのチューブに移し替える際に翅を傷つけてしまっていることも考えられますね。」

何時間考えても自分では思いつかなかった発想や課題解決の方法などが、次々と出てくることに深く感動する。困った時にサポートをしてくれる先生の優しさにも温かさを感じた。

「自分で考えることは一番重要なことではあります。が、せっかく研究室にはみんながいて、こうしてセミナーで実験を共有していますから集合知識に頼らない手はありません。幸いみんなは若く柔らかい頭を持っていますから、様々な角度から発想が出てくるはずですよ。

あと、分からないことは分からないと素直に言ってもらって構いません。変にわからないことをわかると言ってそのままにするよりも、ずっと良いことです。無知は悪ではなく、無知であることを知ることは研究の出発点であり動機にもなります。」

先生の言葉はいつも未熟な自分に寄り添ってくれる。その優しさで前向きになれる気がした。



 バイアルのスポンジ栓の隙間に麻酔装置の先を差し込んで、二酸化炭素を注入する。ショウジョウバエの動きが止まるのを確認して、スポンジ栓を外し台の上にそっと出した。実験ノートに書かれた赤文字を思い浮かべながら、翅を傷つけないようにショウジョウバエをピンセットで摘まむというよりも乗せるようにしてDAMシステムの実験用チューブに移し替えた。

「よし。」

 いい感じだ。以前も注意していなかったわけではないが、今回はより一層傷つけないよう移し替えることができたはずだ。実験中に死んでしまう個体も減ってn数も増やせるかもしれない。

 成虫はほとんどチューブに入れてしまって、残ったバイアルには幼虫と蛹だけが残った。初めに見た頃の気持ち悪さはもはや感じることもなく、長い作業の疲れからかバイアルを少しずつ動く幼虫をただ眺めていた。小さなバイアルの中で目覚め、成長し、やがて死ぬ。時には実験に使われてしまう。成虫を新しいエサの入ったバイアルに移し替える時、古いバイアルに残された幼虫、蛹、成虫は冷凍されて、そのまま命が失われる。実験で使うよりもよっぽど多く捨てているはずだ。

「君らはどんな気持ちなんだろう。」

 それは現段階では分かりようもないけれど、少なくとも自分がハエの立場ならこんなに残酷なことはないと思う。このバイアルは捨ててしまうけれど、中の幼虫も実験に使えればもう少しだけ延命できたのかもしれない。実験チューブの中で蛹になり、羽化し、動き回っては赤外線を通過し記録を残してくれるのだろうか。羽化したばかりのハエは細いチューブに頭をぶつけながら元気に動き回るのだろうか。それとも蛹からようやく抜け出して、しばらくはエネルギーを使い果たして動かないのだろうか。

 いや、待てよ。

 羽化したての個体と羽化後しばらくしてからの個体の睡眠量は同じと言えるのか。実験では成虫を特に区別することなくDAMシステムにかけていた。それこそが、データのばらつきを生んでしまっていたのではないだろうか。十分に可能性はある。実験計画を練り直してみよう。その場をすぐに片付けハエ部屋を後にした。


 実験ノートに羽化後の日数をそろえて実験を行う手筈を考えてみる。どうすれば羽化後の日数をそろえることができるだろう。そしてこれまでの実験の結果の揺らぎを説明することができるだろうか。

 まず、羽化後日数をそろえることは幼虫や蛹の時期から個別に取り分けて管理をすることで、羽化のタイミングを掴むことができる。ただn数を確保するのは少し難しいかもしれない。それに概日リズムの形成に少なくとも2日は必要になるから、羽化1日目からの計測はできない。羽化後すぐのハエだけでなく日数をずらしたものも計測すればいいかもしれない。そこで違いが見られれば、羽化後の日数が睡眠パターンの違いを生じることが示せるはずだ。実験に至るまでの準備は、前回までの実験と比べて周到に行う必要がある。しかし、それでも実現不可能な話ではない。解決の糸口が見えれば後はそれを実行するだけだ。それが見えただけでも大きな進歩で、不安だった気持ちが一気に期待へと変わった。


 実験計画を練り、羽化後の日数をそろえたショウジョウバエを準備してDAMシステムにかける。n数の確保とショウジョウバエの管理が段違いにシビアとなるので、毎日研究室を訪れた。DAMシステムに入れるまではほとんど付きっ切りで、その分、アルバイトの給料は減ったし、自分の家は散らかりっぱなしだった。ようやくDAMシステムに入れられた時には、この実験が上手くいきますようにと祈らずにはいられなかった。


 居ても立っても居られないけれど、あまり気にしないようにして、いつしか睡眠の計測期間が終わった。結果を見れば、一目瞭然だった。羽化後日数をそろえた実験ではsclampΔ12とsclampΔ21の有意差は出ない。どうやら成功したみたいだった。背もたれに深く体重を預ければ、肩に入っていたちからがどんどんと抜けていく。深い呼吸で身体がふわりと温かい。

 目の前の些細なことかもしれない。本来の研究の目的は、sclamp変異体と野生型との睡眠パターンの比較で、まだまだ全体の一部を見ているのに過ぎない。けれども、どうすれば信頼できる定量結果が出るのか原因を探って、こうかもしれないという仮説を立てた。その仮説の検証法を考え実行し、ようやく信頼できる結果を生み出せたのだ。研究はまだまだこれからだが、自分で考えて乗り越えたという事実がとてつもなく嬉しかった。誰かに憧れて、その人になろうとしていたけれど、この経験は間違いなく自分自身の力で、思考で、自分で成し遂げたものだ。だがそれだけではない。克己君と話した時に、自分のしたいことを選択しなければ、最上さんに実験を教わっていなければ、セミナーで質問された時に自分で考えることの大切さに気付けなければ、今この感情は抱くことはなかっただろう。研究を牽引し、指導してくれた教授や、先輩が研究を行っていたからこそ、今日ここで僕自身がこの研究テーマで実験を行えている。

 いやそれだけじゃない、実験に使う器具の発明や関連する研究の情報があったからこそだろう。今の自分の知識を作っている教科書なんかもそうだ。これまでの人類が積み上げだ知識がなければこの選択をすることはなかったかもしれない。

そして、ふと思う。みんな暗闇の中を渡ってきた。これが正解なのかどうかわからない。学校で習うこれが正解だよと教えられる事実は、一つ一つ暗闇の中から見つけられた風景だったのだ。今日自分が見つけたことのように、一歩ずつ迷いながら探されてきたものだ。

 これは未来にも繋がっていくのだろう。これからも自分の研究は続く。それは今日の些細な発見が自分を支えるからだ。この成功から自分の研究は広がっていくのだろう。睡眠パターンの解析が、研究室の他の研究のヒントになるかもしれない。いつか重大な発見に結び付く可能性だってある。直接的な関与でなくても、自分たちが論文を読んで実験計画の参考にするのと同じように他の実験の参考になったりする。また、睡眠はほとんどの生物に共通するので、他種の動物の研究であったとしてもショウジョウバエの研究成果を参考にするだろう。

 壮大だろうか。けれど、その一部は確かに、今日ここにあったのだと言える気がする。



 ほとんど休むことがなかった夏休みも終わり、研究室に後輩が入ってきた。緊張した面持ちで自己紹介を行う彼らはちょうど一年前の自分がそこにいるようだった。同時に研究は佳境に入っていた。sclamp変異体では、睡眠時間の総量が変わらないが睡眠回数が増え、短い睡眠が増えることがデータから明らかになった。この睡眠のパターンはhig変異体の睡眠と似ていたため、今度は2種の変異体に対して条件をそろえて睡眠の実験を行った。それとは別に、Hig やSclampタンパク質が発生のどの段階で睡眠に影響を及ぼすのかを調べていて、今回の発表はその点がメイントピックだ。脳の形成過程に必要なタンパク質が合成されないことによる脳構造の変化が短い睡眠を引き起こすのではないかという考えだ。温度を上げるとHigの発現が誘導されるハエの系統を作成し、蛹の脳形成の段階ではHigを発現させ、成虫時にはHigを発現させずにその時の睡眠パターンを調べるという、少し手の混んだ実験も計画していた。計画を練ったはいいが、実行するにはHigの発現を確認するために解剖技術も必要だった。加えて、毎週の研究室のセミナーは進捗報告だけでなく論文発表もある。その準備に追われながらも実験を行おうとしていて段々と手が追い付かなくなっていた。

その慌ただしい毎日の中、プログレスレポートの発表中に起きたことだった。

「詳しくないので間違っていたら申し訳ないんですが、明期と暗期の境目での睡眠が特に減少しているのは、ショウジョウバエが光を感知できないという可能性は無いでしょうか。」

その発想はなかったな。

 脳を解剖して染色の蛍光を見るのであれば、うまくいかなった場合にそれなりに原因は限定されてくるだろう。しかし、行動を丸々扱うようなスケールになれば、実験方法だけでなく、遺伝あるいは環境による要因はいくらでも考えられるだろう。

「光を受容できないという可能性ですか、それは考えたことがなかったですね・・・。」

これが正しいとすれば、これまでの研究が全て覆されてしまうかもしれない。納得できるような反論を思いつかない。

「ショウジョウバエの眼の色はどうだったでしょう。」

教授が声を出した。眼の色か、確かに光を感じる器官だから、その色は見え方に関係しそうだ。ショウジョウバエ目の色は野生型であれば赤いが、白眼の変異系統も実験で良く使う。

「sclamp変異体は確か白色です。」

睡眠の異常がsclamp遺伝子の変異ではなく、眼の色による可能性が出てきて、一気に暗い気持ちになった。


セミナーから数日たった後、

「落ち込みますよね。実験が無駄になったのではないかと。私も投稿した論文が審査を受けて突き返されてくると、否定された気持ちになりますね。」


「そうですね、ガクッときました。初めから分かっていればよかったんですけど。」

親指がグッと掌に食い込むのを見ている。

「確かにそうかもしれません。初めから分かっていればもちろん実験に組み込めました。それでも、前回の発表はとても良かった。高度な質問がいくつも出るということは、それだけ実験が内容を伴って進んでいることと、基礎的な説明をきちんとできているからだと思いますよ。そしてあの質問に答えることができれば、より一層真実に近づくことでしょう。着実に進んでいますよ。無駄ではないです。」

そうだ、自分の考えを進めて真実を知りたいから研究をしているのだ。改めて再確認する。最終的に間違ったことを発表しても意味はない。

「仮説に沿った結果を出すのが研究ではありません。結果が仮説を証明するのですよ。」

 本当の結果を探そう。ここで足踏みしているほど時間は残されていないはずだ。大学を出る頃には外はすっかり暗くなっていた。街灯の明かりが歩み行く先を照らしていた。





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