第4話
自分の発表が近づくにつれ、他の人の発表が耳に入らなくなっていた。卒業発表は同時多発的に各教室で行われる。学部全体で行われる大規模な発表だ。1分間のショートトークは大きな会場で行われ、そこから気になった発表を教室それぞれに聴きに行くというようなものだ。プログラムは綿密に組まれ、発表はテンポよく行われる。隣の教室でも発表が終わったのかちょうど拍手が聞こえてきた。きっと今頃発表者は心を撫で下ろしているのだろう。
「以上で発表を終わります。ありがとうございました。」
前の発表が終わり、ざわつく会場をすり抜け発表の準備へと取り掛かる。練習は何度も行って、想定される質問もいくつか答えを用意している。準備はしてきたはずなのにやはりいつまでたっても緊張するものだ。ぎゅっと締め付けられる心臓に耐えながら一歩ずつ踏み出した。
「僕はショウジョウバエの変異体における睡眠パターンについて研究を行っています。」
先生は発表の時には、誰にでも研究の重要性がわかるように説明しなさいとよく言うが、今日はまさに自分の研究を知らない人に向けた卒業発表だった。同学年の研究を行っている人も、研究室のみんなのように予備知識があるわけではない。研究に用いる動物がラットやカエルなどのショウジョウバエ以外の動物であったり、そもそも植物であったりして研究分野がまるで違う。話さねばならない研究の背景や基礎的な事柄は多いが、時間は限りがあり発表自体が20分、質疑応答が10分設けられており、超過はプログラムの進行上基本的に許されない。卒業論文には、これまで行った実験や考察を詳しく記したが、これまで得られたデータを全て限られた時間で発表するのは非常に困難だ。
研究室に配属されて恐ろしく時間の流れが早い1年半が経った。ただ時に流されたというよりも研究への没頭で自らその速さを増していたような気がする。
「sclamp変異体ではHigが局在していることから、当初の実験の目的として、その睡眠パターンが野生型と同じ傾向を示すかどうか調べました。実験方法はDAMシステムという測定器を用いて、羽化後の日数をそろえたショウジョウバエに対して概日リズムを3日間かけて形成させ、その後に睡眠パターンを7日間測定しました。」
シナプス間隙の模式図を用いてHig、Hasp、Sclampの関係性について紹介し、さらにDAMシステムの原理について、その測定器の写真を交えて説明する。薄暗い部屋の中でレーザーポインターでスライドを指し示しながら話を進めていく、その緊張感にもはや周りの目も気にならなかった。時刻通りに開始された発表時間は時計を見れば、この時点で10分になろうとしている。基礎的な実験の背景と方法について伝えるだけでも、当然これくらいの時間にはなる。後は実験の結果と考察だ。
「こちらが実験結果です。sclamp変異体における睡眠パターンをグラフにしたものです。横軸が時間、縦軸が睡眠を行っているハエの割合になります。横軸で黒く表示している部分は暗期、それ以外が明期です。結果として、sclamp変異体では野生型と比べて睡眠の総量に有意差が見られませんでしたが、短い睡眠が増えていることが分かりました。これはhig変異体の睡眠パターンと同じような結果を示しており、Sclampの欠損はHigと同じく睡眠に影響を及ぼしていることを示しています。」
使用したハエの系統やグラフの見方など聞き手が理解するために必須な内容は省略することができない。矢継ぎ早に睡眠の量や回数を定量化したグラフを見せ、結論を伝える。話はまだ終わらない。
「さらに予備実験として、野生型の眼の色が赤色であるのに対し、実験に用いたsclamp変異体の眼は白色でした。この眼色の違いが睡眠パターンに影響を与えると正しい測定ができないので、眼が赤色のsclamp変異体を作成し実験を行いました。その結果がこちらのグラフとなり、赤眼のsclamp変異体でも野生型と比べて有意差が出ていることが分かります。この結果からSclampタンパク質は睡眠パターンに影響を及ぼすと言うことができます。」
これが1年半探した答えだった。
眼の色を赤にしたsclamp変異体を作成し、DAMシステムにかけることができて結果が出た時、睡眠パターンは同じように短い睡眠が増えていた。結果的に当初の自分の推測は間違っていたが、真実を何とか見つけ出すことができた。それも、より確実性の高い真実に。
「そしてこちらが、脳形成段階のみにHigを発現させた個体の睡眠パターンの解析結果です。しかしこちらは一度しか行っておらずn数も少なく、さらにはHigを発現させないために低温状態を保っていたため、活動性そのものが低下してしまい睡眠パターンに差が出にくい条件になっている可能性があります。そのため、実験方法の改善をしたのちに計測する必要があります。」
年末年始の休息が実験に費やす時間を短くしてしまったが、計画していた内容は何とか行うことができた。とても精密な実験とはいえなかったが、期限間際に計画したことを先生はぜひやろうとハエの変異系統を取り寄せてくれて、その努力を無駄にすることなく結果まで出せたことは本当に良かったと思う。ちらりと聴衆を見れば、教授が見える。ここまで研究を進められたことに感謝の気持ちが溢れた。
「これで発表を終わります。ご清聴並びに研究に協力してくださった皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。」
これは台本には無かったけれど、ただ純粋な気持ちを言葉に加えた。
「お疲れ様です。森川さん。」
「ありがとう。」
「自分も来年はこの場で発表しないといけないですもんね。」
いくつかの教室で同時に発表があったが、教室に人は十分に集まった。なんどもセミナーで発表をしたおかげで、初めて発表をしたあの頃とはまるで違った発表になった。
「町田君も何回も発表すれば大丈夫になるよ。これから嫌になるほど発表しないといけないだろうし。」
「いやもうこの前の発表で十分すぎます。」
ガチガチに固まっていた町田君の研究計画の発表は、彼には悪いが記憶から消すことは難しいだろう。
「まぁ、これからこれから。」
「そうですね。頑張ります。先輩の研究もきっちり引き継ぎますね。」
「うん。いい結果が出ることを楽しみにしているよ。」
途中までしか行えなかった実験は彼の研究テーマになった。いつしか、まだ隠されている真実を彼が見つけてくれることを期待している。
「大平研の小林裕也です。よろしくお願いします。」
裕也の発表が始まった。
「本当に短い間でしたが、ありがとうございました。」
「では最後は森川君ですね。」
「はい。1年半、3回生とは半年とさらに短い期間でしたが、ありがとうございました。
僕は実験が上手くいかないことが多くて、一つの正確な結果を出すのに時間をかなり費やしました。ですから実験は計画をよく練り、その計画以上に準備しておくことが大切です。それに、専門分野に関連する授業を取っておくことも、正確な推論を立てることに役立つと思います。」
実験だけでなく私生活も考慮しなければならない、もっと早く動き出すことは重要なことだ。就職活動が長引いていれば研究に使える時間はもっと短かっただろう。失敗をカバーできるだけの準備があれば精神的にも安心できる。
もっと広い知識があれば見方も変わるし、せっかくの大学の講義を役立てることができる。体系的な知識の理解は、細部の理解をより深くしてくれる。自分は、専門的な知識は教科書で調べるか、先輩たちや先生に聞いて調べていたが知っているのなら時間の節約にもなっただろうと今更思ったのだ。
何を伝えるべきか考えていたが、自分の失敗を後輩に伝えることが、これからの成功に繋がるはずだと思った。
「この1年半で僕が分からなかったことがこれから院生の方々や3回生たちが先生を筆頭に発見していってくれることを応援しています。そして、僕が研究を続けられたのは皆さんがいたからだと思います。本当にありがとうございました。」
頭を下げれば長い拍手をもらうことができた。ここで受け取る自分に向けられた最後の拍手だった。
「お疲れさまでした。皆さんいい発表だったと思います。一年半と短い期間でしたが研究のことを少しは理解できたでしょうか。実際には、研究の入り口から中を覗いて少し歩みを進めただけです。研究を通して知れば知るほどわからないことが増えていって、分からないことがなくなることはありません。これから社会に出て働く人がいれば、他大学の大学院に行く人がいたり、このラボでもう2年間修士課程を過ごす人もいますね。どんな道に進もうがきっとまたわからないことだらけなのでしょう。しかし皆さんは、そのわからないことを調べ、解決につなげる方法を学んできました。ですからどこに出ても、問題を乗り越えるために考えることができると私は思います。」
事実と感想を分けて話す先生らしい言葉が心にしみた。この優しい言葉を聞くのももう終わりだと知る。何度励まされただろう。そしてこの研究生活で学んだことは、研究だけではない。負けそうなときにも諦めないこと、諦めないために自分で考え抜くこと、その自分の在り方は自由であること、そして、その自分は周りのおかげで今居られること。これは当たり前のことかもしれない。けれど、自分はそのことにやっと気づけた気がする。
僕の研究はここで終わる。しかし、世の中の進歩には、これからも研究は不可欠でずっと続いていくだろう。自分がその場にいなくても、1年半かけた研究が後輩に繋がって、いつか大きな発見の一部になれることを祈っている。
それを正解だと言い切れるまではどれだけ大変なのだろう。しかし、それを成し遂げて、世界に科学的知識が積み上げられる。世の中が築かれるのだ。そんな当たり前のことに、自分自身で研究するまで気がつかなかった。
3月に入っても冷たい風が吹いて寒い京都で、まだまだ長袖が活躍する。退去予定の4年間暮らした部屋を訪れたのは克己君だった。
克己君は大学院を卒業後に高校の先生になり、大阪で暮らしている。人に教えることがとても上手だった彼にとって天職だろう。少なくとも僕はそう思う。
社会人になって忙しい中でも引っ越しの手伝いをしてくれると手助けに来てくれた。
克己君は大学院を卒業後に高校の先生になり、大阪で暮らしている。人に教えることがとても上手だった彼にとって天職だろう。少なくとも僕はそう思う。
「弘樹。久しぶり。」
「克己君。ありがとうね。元気だった?」
1年間見ることのなかった彼を部屋に招き入れる。あまり変わっていない部屋に懐かしさと引っ越しの大変さを感じているようだった。
「元気だったよ。卒論読んだよ。いい研究になったんじゃないか?」
彼に完成した卒業論文を送っていた。読んでいる暇などあるのかとおもっていたが、読み切ったようだった。彼は満足そうな笑顔を浮かべていた。
「うん。途中の研究もあるけど。」
研究が途中で終わることはよくあることというより、ほとんどがそうだ。一つ分かれば、分からないことが次々に出てくる。本当の意味で研究に終わりはない。
それでも、いい研究になったと自分でも思うよ。」
これは自信をもって言える。この1年半は自分にとって大切な時間であったと。
「弘樹なんか変わったか。」
「どうだろう、わからないけど、少し成長したかもしれないな。」
「そうかもな。」
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