十五話
知らないわけない。この人は絶対にノアだし、ノアならあたしを忘れるなんてこと、絶対にないはずだ!
「あたし……ミリアムだよ? 憶えてるでしょ?」
恐る恐る聞いてみると、ノアはこっちをじっと見ながら言った。
「悪いけど、知らない」
全身から力が抜けそうだった。どういうことなの? 何であたしを忘れてるの? もう過去のことは憶えてないって言うの?
「おいシバー、茶番はよせ」
男が呆れた顔で言った。
「茶番じゃありません。俺は本当に――」
「上司を甘く見るなよ。お前は幼馴染みを見た瞬間、わかりやすく表情を変えた。無意味な嘘をつくな」
「………」
……嘘、だったの?
「邪魔者の僕は消えよう。それじゃあ、二人でゆっくり積もる話でもしてくれ」
微笑みを残して、男は扉をぱたりと閉めて部屋を後にする。静まり返った空間には、あたしとノアが向き合うだけだった。
「……本当は、憶えてるの?」
「………」
ノアは押し黙ってた。
「何か言ってよ、ノア」
奥歯を噛み締めるような仕草をしてから、ノアはその口を開いた。
「忘れるわけ、ないだろ」
この言葉に、あたしの中には安堵と痛みが流れた。あの事件を忘れられるはずがない。
「何で嘘なんか……」
「ミリアムは、もう俺に関わったら駄目だ。……そっちこそ、どうしてこんなところに来たんだ」
「ノアに、ずっと謝らなきゃいけないって思ってた」
「謝るって、何を」
「決まってるでしょ? あの事件……ノアは、お父さんを殺した犯人じゃないんだから」
そう言うと、ノアは驚いた目であたしを見つめた。
「何言ってんだ。あれは――」
「ノアじゃないって初めからわかってた」
「違う。おじさんを殺したのは俺だ」
あたしは首を横に振った。
「殺してないよ。殺したのは――」
「言うな! 言わなくていい……」
ノアは悲しそうな眼差しだった。そこに優しさが滲む。
「倒れたお父さんを見つけた時、あたしは真っ先に弟の心配をした。手も服も血まみれで、怪我をしてるんじゃないかって思ったから。でも怪我はなかった。その後、立ち上がったノアを見て、不思議に思ったの。血だらけのナイフは握ってたけど、服にアロンほど血が付いてなかったから。人を刺せば返り血で汚れることは知ってた。貧民街じゃそういういざこざは日常茶飯事だったでしょ? あたしも見かけたことはあったし。そこで気付いたの。ノアはナイフを持ってたけど、刺したんじゃないって。行方不明になってから、あたしはその時の状況を整理して考えた。それで出た答えは、お父さんを殺したのは、弟のアロン……そうとしか考えられなかった」
アロンは自分のしたことに震えながら、今もあたしにずっと告白し続けてる。僕が殺したと、罪を犯した直後から……。
「そうなんでしょ? ノアは犯人じゃない」
ノアの表情は苦しげに歪んでた。
「……ミリアムが気付かなくていいことだったのに」
「ナイフを持ったり、あたしの前から消えたり……何で自分が疑われるようなことしたの?」
「疑うも何も、おじさんは俺が殺したようなもんだから」
「でも殺してない」
「いや、殺したんだよ。……あのナイフ、俺のだったんだ」
「え?」
あたしはてっきり、家にあったものが使われたんだと思ってた。お父さんならナイフの一本ぐらい持っててもおかしくなかったから。
「事件の数日前に、俺がごみ捨て場で拾ったもんなんだ。これで遊びに行った先の邪魔な草や枝を切ろうと思って。昔はよくそういう場所で遊んでたろ?」
あたしは頷いた。子供の頃は野生動物みたいに野原や森を駆け回ってた。
「かばんに入れて持ち歩いて、アロンと遊んだ日に、それを見せてやったことがあった。その時は大して気にもしなかったけど、今思うと、アロンはナイフに興味を持ってた。かっこいいとか、今度貸してとか、ナイフを手に取りたがってた。まだ幼いアロンには危ないから、俺は貸すつもりはなかったんだけど……」
するとノアの表情が暗いものに変わった。
「事件前日に、それがなくなってることに気付いた。家の中を探したり、よく通る道端を探したり……一日探しても見つからなかった。そこでふとアロンのことを思い出したんだ。遊びや話してる最中にあいつがこっそり持ってったのかもしれないって。その日は遅かったから、翌日にたずねることにした。それで家に行った時に……」
目を伏せたノアの言葉が詰まった。
「あの光景を、見たのね」
「……おじさんはもう倒れて死んでた。その前でアロンが、俺のナイフを握ったまま立ちすくんでたんだ。血にまみれて、怯えきってた。とりあえず俺はナイフを取り上げて、アロンをおじさんから離して座らせた。アロンが殺したのは明らかだった。どうやって守ってやれるか、必死に考えた。でもそこにミリアムが帰って来て……絶対に俺が疑われると思った。そう思うと動くに動けなかった。でも瞬間的に閃いたんだ。俺が犯人になれば、アロンを守れるんじゃないかって」
「自分のことは考えなかったの? 警察に捕まるかもしれないんだよ?」
「もちろん考えたさ。家族に、ミリアム……皆と離れるのは寂しかった。胸が張り裂けるぐらいに辛かった。だけどあの場ではそうする以外にないと思ったんだ。今もその判断は間違いじゃなかったって思う」
あの時、あたしに見せたノアの表情には、そんな覚悟の気持ちが表れてたんだ。あの人が言ってた自己犠牲的思考……。
「あたし、謝らないと……ノアが犯人じゃないって知りながら、警察に何も言わずに、そのまま……」
「それでよかったんだ。ミリアムが言わなかったおかげでアロンは助かった」
「いいはずないよ。ノアに無実の罪を押し付けて、人生をめちゃくちゃにした」
シモンさんはノアのせいで、あたしの人生がめちゃくちゃになったって言ったけど、本当は逆なんだ。あたしがノアの人生を狂わせてしまった。
「めちゃくちゃか……でも俺はいずれ、同じ道をたどってたと思うんだ。アロンの代わりに、俺がおじさんを手にかけて」
「どういうこと? 何でノアがお父さんを殺さなきゃ……」
首をかしげたあたしをノアは真っすぐ見てくる。
「じゃあ、アロンはどうしてあんなことをしたのか……ミリアムは知ってるんだろ?」
聞かれてあたしはどきりとした。弟が父を殺した動機――それは、当人とあたし以外の人間が知るはずのないことだと思ってた。
「……ノアは、まさか、知ってるっていうの?」
「何となく、推測でだけど。……俺がナイフの使い道で、もう一つ考えてたことがあるんだ」
「……何なの?」
「あのナイフで、ミリアムを守ってやりたかった。おじさんの、暴力から……」
あたしは息を吸い込み、ノアを見つめた。黒い瞳も、こっちを見透かすように見つめてくる。誰にも知られてないと思ってた。知られたくないとも思ってたのに……。
「……いつ、わかったの?」
「一緒に遊んでる時、ミリアムの手足にあるあざを見てわかった。最初は遊びの中で作ったあざだと思ってた。でもそれにしては多い気がしてた。ミリアムは運動神経がいいから、何かにぶつかったり転んだりすることはあんまりなかったし」
「そう……やっぱり、服で隠しきれなかったのか」
ノアの言う通り、あたしは父に理不尽な暴力を受けてた。部屋にごみが落ちてれば、掃除出来てないと叩かれ、質問に曖昧な返事をすれば、はっきり言えと蹴られる。ただ機嫌が悪いだけで、髪をつかまれて引きずり倒されることもあった。とにかく、父がいつどんな時に爆発するのか、それがわからないあたしは毎日怯えて暮らすしかなかった。今思うと、父は母の気持ちが他へ向いてることに気付いてたんだろう。夫婦の仲が壊れるのを止められないことに、父はそのやり場のない苛立ちをあたしに向けてたんだと思う。だからって父を理解するつもりはない。子供に手を上げて憂さを晴らすなんて、最低の親だ。
「異変は他にも感じてた。夜になると、ミリアムの家からおじさんが怒鳴るような声が聞こえてきたり、俺がミリアムの家に遊びに行きたいって言うと、露骨に困った顔を見せたり。遊んだ後も、なかなか家に帰ろうとしなかっただろ。暗くなるぎりぎりまで俺といようとしてた。アロンと一緒に」
あたしも弟も、出来るなら家に帰りたくなかった。だから暗くなるまで外で遊んでたかった。そうして帰れば、また父の目に怯える時間が始まる。暴力の標的は主にあたしだったけど、時にはアロンにも向いた。床に水をこぼしただけで、父は弟を蹴り飛ばした。あたしはすかさずかばいに入って、代わりに暴力を受けた。そんなあたしに、弟は泣きじゃくって悔しさを口にした。今度は僕が姉ちゃんを守ると。でも七歳の子供には無理なことだ。それからもあたしは弟をかばい続けた。
「決定的だったのは、ミリアムが顔に大きなあざを作った時だ。泣いて、なかなか見せようとしなかった」
「見られたくなかったの。誰にも、特にノアには……」
あの時のノアは、あざが何で出来たのか聞かずに慰めてくれるだけだった。すでに気付いてたんだ。あたしの身に何が起きてるのかを。
「暴力を受けてるんだって確信があった。それが治まらないようなら、ミリアムに頼まれなくても、俺がどうにかしようと思ってたんだ。拾ったナイフを使って。でもそれはアロンに先にやられた。……アロンは、おじさんの暴力に逆らって、ああしたんだろ?」
あたしはうつむいて、小さく頷く――弟に聞いたわけじゃないから、実際のところはわからない。でも弟が父を殺す理由なんてそれしか思い当たらない。自分の身を守ろうとしたのか、あるいはあたしに暴力を振るうなと脅したのか。どっちにしても弟は父に抵抗して、ノアから盗んだナイフを突き刺したんだ。苦しみから逃れるために。でもそれは、さらなる苦しみに落ちるだけだった……。
「皆の人生を狂わせたんだ、あたし……」
「違う。ミリアムのせいじゃない」
「ノアは罪をかぶって、アロンはあたしを助けようとしてあんなことしたのかもしれない。……今アロン、ミューベン養護院にいるの。あの日から精神障害を負って、昔みたいに笑ったり話したりも出来ない状態で過ごしてる」
「アロンが? そう、なのか……」
「あの日に戻れるなら戻りたい。アロンを引き止めて、ナイフを取り上げて、あんなこと絶対に止めたい。だけど神様じゃなきゃそんなの無理だから、あたしは謝るしかない。ノアを犯人のままにした責任を――」
「俺に謝って何の意味があるんだ。ミリアムは俺が犯人じゃないって警察に駆け込む気はないんだろ? そんなことすればアロンが犯人だってばれる。それは望んでないことだろ?」
あたしは何も返せなかった。ノアに罪を押し付けた罪悪感はあっても、警察にそれは間違いだと真実を告げる勇気はない。もし言えばアロンが捕まることになるからだ。弟はあたしにとって唯一の家族で宝物だ。失いたくない、守るべき存在……こんな自分が卑怯だとわかってる。弟のために罪をかぶってくれたのに、そんなノアをあたしは見捨てる選択をしたんだから。今までどれほどの優しさを受けてきたか。ノアには恩しかない。でもその恩も、弟には代えられない。ノアが言った通り、あたしの謝罪には何の意味もないんだ……。
「……そんな顔するな。ミリアムが責任感じる必要はないし、それでいいんだよ。俺はおじさんを殺した犯人だ。あの時にそう覚悟した」
「本当に、それでいいの?」
ノアはふっと自虐的な笑みを浮かべた。
「あれは無実の罪だけど、俺自身はもう何度も罪を重ねてる犯罪者だ」
「犯罪者って、一体何を……?」
「窃盗、偽造、傷害……細かいものを含めれば数え切れない。悪党相手に、って言っても言い訳にはならないだろうけど、でもルメディオに……シャロンさんに拾われて、俺はよかったと思ってる」
「シャロンさんって?」
「ミリアムを案内したあの人だ。事件の後、俺が当てもなく街をさまよってた時に声をかけて世話してくれたんだ。シバーって名前はあの人が付けてくれた」
そうか。ノアは失踪した後、あの人に拾われて……長いこと見つけられなかったわけだ。でも犯罪をさせるなんて――
「ルメディオって、どういう団体なの? 一般的には謎が多いみたいだけど」
「それはミリアムでも言えない。掟なんだ。活動目的は一切口外してはならないってね」
「犯罪集団、なの?」
聞くと、ノアはかすかに笑った。
「世の中には、悪を請け負う存在も必要なんだ。世間にどう思われようとも……」
ノアは真剣な表情になってこっちを見た。
「だから、ミリアムはもう俺に関わるな。知らない者同士でいたほうがいい」
「犯罪者になったから、初めにあんな嘘言ったの? だったらあたしだって犯罪者だよ。罪着せて、アロンかばって、真実を隠した……ノア、本当にごめんね。あたしが全部押し付けたせいで、一人で抱え込ませることになって……。あの人、シャロンさんも気にしてた」
「……シャロンさんが?」
「見込みはあるのに、このままじゃ長生き出来ないって」
これにノアは小さく息を吐いた。
「そうか。そんなことを……。あの人には返し切れない恩があるし、何でも話してきた。事件のことも、俺が犯人じゃないことも」
やっぱり事件について、あの人は全部知ってたんだ。だからあたしが復讐しないってわかってた。
「でも、ミリアムにそんなこと言うなんてな。……もしかして、そのためにシャロンさんは俺にミリアムを会わせたのか?」
「周りの人間を頼ってほしいって。あたしも、償いじゃないけど、ノアのために出来ることをさせてほしい」
警察に真実は言えない。だけどその代わりに、ノアのために精一杯の力になってあげたい。自分を犠牲にしすぎないように。
「……その気持ちだけ、貰っとく」
呟くように言ったノアに、あたしはすかさず言った。
「あたしを関わらせたくないから? それとも部外者だから? だとしたらどっちも違う。さっきも言ったようにあたしにも罪はある。部外者は部外者だけど、でもシャロンさんが任務で使った便利屋との打ち合わせなら掟に触れないって言ってた。あたし、その便利屋で働いてるの」
「……セビンケルの従業員なのか?」
「うん。いろいろあってお世話になってる。部外者でも、便利屋なら堂々とノアの力になれる。……お願いだから、あたしを避けないで。出来ることは限られるし、頼りないかもしれないけど、何もかも抱えないで、あたしの手も借りてみて。ノアが望むなら、喜んで貸すから」
「ミリアム……」
あたしは笑いかけた。
「また昔みたいに、一緒に駆け回りたい。途切れた思い出を、つなぎ直したい……」
笑ったつもりが、気付いたら視界がぼやけて、あたしは涙を流してた。泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙がこぼれてくる。
「アロンと三人で、瓦礫の山を登ったり、草むらに虫取りに行ったり――」
ノアの腕がおもむろに動いたと思った瞬間、あたしはその中に強く抱き締められた。
「わかったから、泣くな」
「ノア……ごめん」
「謝らなくていい。……俺もミリアムも、まだお互いが必要みたいだな」
「え……?」
ノアはあたしの頭に手を添えて、鼻の先から見つめてくる。
「ここの掟は破れない。自由に会うのも無理だ。それでも、時々ミリアムを頼ってもいいか?」
「うん……遠慮しないで言って。あたしはいつでも準備しとくから。ノアのために、いつでも……」
微笑んだノアは、またあたしを抱き締めてくれる。心地いい体温を感じながら、その耳元であたしは言った。
「長生きしたければ、もう無理して突っ走らないで」
ふっと笑ったノアの吐息が、あたしの首筋をかすめた。もう大丈夫だ――根拠はないけど、そんな気がした。
こうしてあたしは長年の目的を果たした。そして、ここから新しい目標が立った。便利屋としてノアの、ひいてはルメディオの力になることだ。たかが一従業員のあたしがどれだけノアのために動けるかわからないけど、頼っていいかとノアは聞いた。あたしはもう守られる立場じゃないんだ。それに応えられるように、もっと勉強して、一人前の便利屋になって、ノアを支えることが出来れば、あたしにとってこんなに嬉しいことはない。
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