魔法少女アヴェンジャー

アンリ

第1話

 街角の路上、三人の男が悪意のこもった目で木更を睨みつけている。

「女の子相手に三人がかりとは参っちゃうね。か弱い東堂木更ちゃんは大変困ってしまうわけですが」

 向かい合う木更は、オレンジのパーカーに紺のショートパンツのどこにでもいる十五歳の少女だった。大の大人三人相手に、木更は一切怯んだ様子を見せない。

 巨漢が両手をあげて突進してくる。その速度は、世界最高峰の短距離走選手すら凌ぐ。

目の前の巨漢が、どうしてそんな超人じみた真似ができるのかといえば、理由は明白。この男が魔法使いと呼ばれる存在だからだ。男の左手の薬指にはまった指輪がその証左。全身を巡る魔力が、男の肉体を超人の域にまで引き上げている。

 だが、それは木更も同じことだった。この程度の相手ならなんてことはない。

 掴みかかる手を躱し、顎に拳を入れてかち上げる。そのまま右足を巨漢の腹に突き入れる。木更より二回りも大きな体が転がり、禿頭の男がそれに巻き込まれて倒れる。

「このっ!」

 残された髭面の男が激昂し、迫ってきた。

「一人一人で来ても各個撃破されるだけだって」

「うるせぇ!」

 木更の助言を煽りと受け取ったのか、青筋を立てて殴りかかってくる。大振りの攻撃なんて喰らうはずもない。躱すのと同時に足払いを繰り出し、髭面の体勢を崩す。

その場でくるりと回転し、その勢いを利用し蹴りを放つ。蹴り飛ばされた髭面の男が、立ち上がろうとしている巨漢にぶつかり、三人仲良く倒れ伏すことになった。

「大人しく指輪さえ渡してくれるのなら、危害は加えない。怪我する前に従ってくれると、ひじょーに助かるんですが?」

 立ち上がる三人の瞳には、さっきよりも強い悪意が込められていた。残念ながら、木更の降伏勧告に従ってくれる気はないらしい。

 禿頭の男が、一歩前に踏み出た。

「こんなガキ相手に本気出すのも大人げねぇと思ったが、ここまで舐められちゃあ仕方がない」

 左手の指輪が燐光を放つ。魔法行使の合図。こうなっては、穏便に済ませるのは難しそうだ。

「見よ! これが俺の、マジカルメリケンサックだ!」

 意気揚々と禿頭の男が叫ぶ。

「うわぁ……いや、馬鹿にしてるわけじゃないんだけど……うわぁ」

 木更の口から呆れ声が漏れる。

 その両手に装備されているのは、確かにメリケンサックだった。胸の前でガンガンと打ち合わせている。多分、威嚇のつもりなのだろう。

「ふはははは! 一撃であの世へご招待だ! 食らえぃ!」

 拳を握り、脇で構えたまま駆けだしてくる。間合いに入ったところで、一直線に拳を繰り出してきた。

「わざわざ宣言してくる馬鹿正直さに免じて、一つ指南してあげるけど」

 最小限の動きで男の拳を躱し、そのまま腕を取る。勢いに逆らわず、背負い投げでアスファルトに叩きつけた。

 禿頭の男が、潰れた蛙のような声を出す。

「自慢のそれも、当たらなければ何の意味もないでしょ。少しは工夫しなって」

 背後を振り返る。巨漢と、少し遅れる形で髭面の男が左右挟み撃ちの形で迫ってきていた。

 左から迫る巨漢の腕を取り、髭面の男を巻き込むように振り回した。巨漢を投げ捨て、壁に叩きつける。すぐさま倒れ伏した髭面の男の腕を取り、捻り上げた。

「指輪の力を全然使いこなせてない。それじゃ私みたいな、か弱い女の子にも勝てないよ」

「何がか弱いだ、この化け物!」

「むむっ! 遵法意識どころかデリカシーも欠けてるとは、実に救いがたし」

 無力化した男たちの手から指輪を外していく。これがなければ、魔法使いもただの人間だ。

 三十年と少し前、突如として世界に出現したこの指輪は、文字通り世界を一変させた。指輪を媒体として発現する魔力により増幅された身体能力、そして熟練の魔法使いが行使する魔法は人間を戦闘兵器に変える。

魔法使いが己の欲望のままに力を振るえば、それを止められるのは同じ魔法使いしかいない。魔法使いは、なまじ強大な力を持っているため、警察力の抑止が効かず、日本の殺人事件に

よる死亡者数は、今や当時の五倍に増加。それなりに無法の時代だ。

「指輪の不法所持に、強盗罪。残念だけど、情状酌量の余地はないね」

 ポケットから携帯を取り出し、履歴から長谷川の番号を探す。電話をかけると、すぐにつながった。

「やあ、サラマンダー。いつもながら見事な手際で感心するよ」

「なんでこちらの状況を知ってんのさ、長谷川」

「後ろ後ろ」

 振り向くと、曲がり角から顔だけひょこっと出している男がいた。暢気にこちらに手を振っている。

 木更は電話越しに続けた。

「指輪は外したから、もう危険はない。さっさと搬送手続きを進めてちょーだい」

「了解」

 その後、長谷川が事前に呼んでいたらしく、すぐに駆け付けた警察が男ら三人を拘束し、車両に放り込んでいく。警報を鳴らして撤収していく警察を見送った。

「あ、待って待って」

 帰路に着こうとしたところを、長谷川に呼び止められる。

「ちょっと話があるから、あそこのファミレスに入らない? まだ朝ご飯も食べてないでしょ」

「食べる前に緊急ってことで呼び出されたからね」

「悪かったって」

「気にしなくていい。私だってやむを得ない事情だとわかってるよ」

「ところで、木更ちゃん。実は今月も厳しくてですね」

 懐をぽんぽんと叩いた後、手のひらを合わせ、祈るようなジェスチャーをする長谷川。一回り以上年下の相手に懇願するその姿は、なんとも物悲しい。もうこの長谷川貴文という男と二年ほどの付き合いとなるが、どうにも掴みどころがない。

「マル魔の刑事さんは忙しいから、お金を使う暇なんてないと思うんだけど」

 警視庁魔法対策防衛科。通称、魔防課。警察組織の中でも、魔法使い関連の事件の捜査を担当する部署に、長谷川は所属している。

 暴力団関連の事件を扱う暴力団対策課がマル暴と呼ばれることになぞらえて、魔防課はマル魔とも呼ばれている。魔法使い関連の犯罪が年々増加傾向にあることに伴い、最近はものすごい激務に追われるブラックな部署だ。

「何に使っていると思う~?」

 三十代でありながら、妙にかわい子ぶりながら長谷川が尋ねてくる。なかなかに気持ちが悪い。

「くたびれた大人の癖して、面倒な言い方をしないでもらえると助かるかな。ちょっとイラっと来る。うっかり手が出るところだった」

「結構毒舌だよね、木更ちゃん……それはもう、酒ですよ酒。こんな激務、飲まずにやってられますかってんだ。それに、宵越の銭は持たない性分でね」

 駄目な大人の見本だった。

「な、情けない」

「木更ちゃんこそ、お金は持て余してる方なんじゃないの? 結構な額もらってるし」

「それはそうだけど」

 木更は形式上、魔防課に所属する長谷川の部下ということになっている。だが、もらっている給料は長谷川よりも多い。ややこしいことだが、これは魔防課という組織の在り方が原因だ。

マル暴は暴力団員に対抗する意味も踏まえて、強面の課員が多いというが、魔法使い相手にはそんなもの何の意味も持たない。実質的には、抑止力となる木更たち課付きの魔法使いが主軸となって動き、長谷川達正規の職員がそのサポートに回るという役割となっている。言ってしまえば、高い給料は魔法使いへのご機嫌取りのようなものだ。

木更はお金が目当てで戦っているわけではないが、安い給料で命がけの戦いに巻き込まれようとする人間など普通はいない。

「十五歳に奢ってもらうアラサーという体面は気にならないの?」

「体面じゃ腹は膨れないからね」

「正直者は嫌いじゃないけどさぁ」

 平日朝のファミレスは人もまばらで、待つこともなく席に着くことができた。

 適当に注文を済ませ、携帯を起動する。一通り通知を確認し、緊急の用件がなかったため、携帯をポケットに戻した。

「相変わらず忙しそうだね、長谷川は」

 長谷川が苦笑する。

「そうだね。ここ最近は特に。組織的犯罪も増加傾向。我々小市民は脅えるばかりさ」

「だからこそ私がいる」

「正義の魔法使いサラマンダー様は頼もしいね」

「その呼び名はあまり好かないんだけど」

「僕はぴったりだと思う」

 注文の品々がテーブルに所狭しと並べられていく。パスタにドリア、ピザにグラタン、加えてハンバーグだけで二百グラム近くはありそうなミックスグリル。ドリアを除いて、すべて木更の分だ。

「いつも思うけど、その小さな体のどこにその量が入るんだい?」

「魔法使いは燃費が悪い」

「それにしたって、木更ちゃんのは格別だけどね」

 てきぱきと目の前の料理を片付けていく。そんな木更の姿を見て、長谷川は珍獣でも見るような眼をしていた。

「大食いチャンピオンを目指すといい。木更ちゃんならきっと世界を獲れる」

「嫌だ。食べたい時に食べたいだけ食べるのがいいんだよ」

 最後のピザ一切れを口に放り込む。水で一息ついたタイミングで、長谷川が「さて」と切り出した。

「ほんの数日前のことなんだけど、殺人事件があってね。それに関する話になる」

 木更の協力者である長谷川が気になると言えば、魔法絡みだと推測が付く。

「ガイシャは柊和人。某有名私立大学の三回生。高身長高学歴イケメンの、個人的に鼻もちならない男。父親はキャリア組のエリートってなんだそれ、嫌みですか?」

「長谷川の感想はどうでもいいよ」

 木更の言葉に、長谷川は少し肩を落とす。

「この柊って男、魔法使いだったらしい。ついでに、かな~り後ろ暗い事情持ちらしいけど、まあ今は関係ないから忘れてくれ」

 妙に気になる物言いだったが、そう言われたのならわざわざ詮索することもない。

「となれば、犯人は同じ魔法使いだろうね」

「そういうこと」

 長谷川は頷いて肯定する。

「犯人が特定できているなら、私が対処するよ。危険人物を放っておくわけにはいかない」

「いや、それはそうなんだけどね」

 長谷川の顔に躊躇の色が現れる。

「どうやら、このホシがアヴェンジャーらしいんだ」

 その名前には聞き覚えがあった。

「イカれた大量殺人犯の噂は、私も知ってる。都市伝説じみた存在だけど、ちゃんと実在するんだ」

「アヴェンジャーの仕業と目される殺人事件は五十件を下らない。世に出てないだけで実際はもっと多いだろう」

 人が魔法を手にしてから、殺人事件はそれまでとは比較にならないほど増えている。それにしても一人で五十件以上は異常に過ぎる。

「とんだ怪物じゃん」

「そう、怪物だ」

 長谷川が渋面を作る。

「魔防課に所属している魔法使いのうち、すでに五人がアヴェンジャーと交戦しているが、誰一人歯が立たなかった」

 楽しくもない長谷川の報告が続く。

「殺されこそしなかったものの、全員指輪を奪われてしまった。大量殺人犯の癖して、殺すより面倒な方法を取っているのはどんなわけがあるのか」

「殺人鬼の心理なんて考えてもわかりっこない」

 続けて、木更は問いかけた。

「アヴェンジャーの素性はどこまで掴めてるの?」

「容姿以上の情報はないね。木更ちゃんと同じ、中学生くらいの歳で黒ずくめの少女らしい」

 意外だった。アヴェンジャーという仰々しい名前や、大量殺人犯というイメージから、凶悪面の大人の男性を想像していた。

「ずいぶんと可愛らしい死神だね」

「君が言うかね……彼女は神出鬼没で、その足取りを辿れなかった。運良く現場で遭遇しても、誰も敵わないのだから追跡も不可能」

「手詰まりじゃん」

「そうでもない。やっと尻尾を掴めそうなんだ」

 長谷川は得意げに口角を上げる。

「今回の事件はS区で起きたものだけど、それ以前にもN区でアヴェンジャーによる殺人事件が三件、五人が殺害されている」

 S区とN区は隣接しており、アヴェンジャーはその近くを拠点としていると推測が立つ。だが、それだけでは情報があまりに少ない。

「重要なのは、殺された五人とも高嶺一派の人間であるってことだ」

「高嶺一派か」

 高嶺京香をトップとする、魔法使いの集団が高嶺一派だ。徒党を組んで犯罪に走る魔法使いは珍しくないが、高嶺一派はそういった半グレ紛いの連中とは一線を画する。

「最悪の連中だ。いまどき魔法使いこそ至上だなんてふざけた選民思想を振り回して、好き勝手暴れてる。あいつらのプロバガンダに影響されて、犯罪を犯す魔法使いも多くいるから始末に負えないよ」

「彼らは、一般人に味方する魔法使いも標的にしている。厄介なことに、属する魔法使いは粒ぞろいだ。噂によると、アヴェンジャーすら凌ぐ者もいるという」

 木更は頷く。

「私も構成員の一人と最近やり合ったばかりだ。結構苦戦させられたっけ」

「神出鬼没のアヴェンジャーが、この近辺で留まっているのは、おそらくは高嶺一派を標的としているからだ」

「一方で、仲間を殺されてる高嶺一派もアヴェンジャーを放ってはおかないだろうね。アヴェンジャーが高嶺一派を標的としているなら、両者が激突する可能性は十分にある」

 木更の言葉に、長谷川は我が意を得たりというように頷く。

「木更ちゃんは話が早くて助かるよ」

 だが、妙な違和感がある。その正体に気づき、口にする。

「シリアルキラーの動機は、異常心理に基づく快楽殺人の場合が多いっていう。その欲求を満たすためだけならば、わざわざ高嶺一派に手を出す必要はない。殺すのに手間取るうえ、報復されるリスクもあるしね」

 長谷川がキョトンとした目でこちらを見ていた。

「そんな鳩が豆鉄砲食ったようなあほ面してどうしたの?」

「木更ちゃんってほんとに十五歳なんだよね?」

「年齢詐称をしたことはないよ」

「いや、何かと言動が大人びてるというか、年相応じゃないというか。別に他意はないんだけど」

「か弱い少女でいることを許してくれる世界じゃないからね」

 長谷川がバツの悪そうな表情になる。このまま押し黙っても気まずくなるだけだから、話題を戻す。

「アヴェンジャーはおそらく何らかの目的があって動いているとみるべきかな。問題は、その目的が何なのか、だけど」

「殺人犯の心理なんて僕らにはわかりっこない、だろう?」

 先ほどの自分の言葉を返される。これ以上考えたところでどこまでいっても推測に過ぎず、答えなど出るはずもない。

「漫画とかでもよくいるじゃないか。俺より強い奴に会いに行く、みたいな。そういう強者が強者を求めるみたいな欲求があるんじゃない?」

「それはないと思うけど」

 長谷川の軽口に毒気を抜かれる。良くも悪くも気の抜けた男だ。

「どちらも危険な相手だが、この機を逃す手はない。アヴェンジャーも高嶺一派も一網打尽にする。そのために木更ちゃんの力を貸してほしい」

 長谷川の瞳に強い意志が宿る。

 両者が仲良く潰し合ってくれるなら万々歳だが、その過程で無辜の人々への被害が出る可能性は高い。ならば、大人しくしているわけにはいかない。木更の答えは決まっていた。

「任せて」

 やるべきことは、いつだって明確だ。

「力なき人々を傷つけるやつらを私は許さない。私の魔法は、そのためにあるんだ」

「君は、本当に大人だね」

 長谷川は、穏やかに笑っていた。しかし、すぐにその顔が引き締まる。

「警戒すべきは、彼等だけじゃない。今S区付近には、危険な魔法使いが潜んでいることがわかっている。殺した相手の心臓を奪うとされる心臓食い、無秩序に銃殺を繰り返す乱射魔。どちらも、厄介な相手だ。魔防課からも、すでに被害が出ている」

「……頭が痛くなってくるね。世界平和は遠そうだ」

 長谷川が顎を引き、肯定する。

「魔法使いが出現して、たった三十年ぽっちで世界は大きく変わった。個人が警察力、いや、軍事力さえ凌駕しうる力を持つことができる」

 長谷川が言う。

 魔法使いは、しばしば兵器に例えられる。弱い魔法使いですら、警察の手には余る。強い魔法使いともなれば、戦車や戦闘機にすら対応してみせるだろう。

「それがどれだけ恐ろしいことなのか、ほとんどの人間が真に理解できていない」

 木更は、己の左手の指輪に目をやる。それは魔法使いの証。魔法を行使するための媒体だ。

 三十と数年前、日本ではノストラダムスの大予言とやらが大流行していた頃、突如として魔法使い、というよりこの指輪が現れたらしい。

 木更がこれを手に入れたときもそうだったが、本当に何の前触れもなく、どこからともなく現れるのだ。まるで、意思を持ち、持ち主を選ぶかのように。

「恐ろしいことだ」

 長谷川の視線は、目の前の木更ではなく、どこか遠いところに向けられているようだった。


◆◆◆


 下からは人の喧騒が絶え間なく聞こえてくる。視線を向ければ、駅入り口を中心に途切れ目のない人波。誰もが忙しく歩を進めるのを見て、今日が月曜日であることを思い出す。

一応は女子中学生の身分なのだが、最後に登校した日はもうわからなくなるほどに昔のこと。加えて、職業柄のこともあり、木更の曜日感覚はかなり曖昧だ。

 長谷川と別れ、木更はターミナルビルに来ていた。と言っても、ビル内でもビル前でもなく、ビルの屋上にいるわけだが。下を歩く人のほとんどが、高さ六十メートルの地点で足を投げ出して座る人間がいるなんてことは考えもしないだろう。ただ気づく人は気づけるくらいの高さではあるので、目を凝らせば、驚愕に慌てる人や携帯をこちらに向け撮影している人もちらほらと見かける。

長谷川から「SNSで話題になってる」と注意されたことがあるが、木更とて目立ちたくて、増してや伊達や酔狂でこんなところにいるわけではない。

 木更の『仕事』は、長谷川から事件発生の連絡を受けてから始まる。自分勝手に動くよりも、長谷川の情報網に引っかかった対象を追う方がはるかに効率的なのだ。

だからといって、街中をぶらぶらしているのもなんだし、家でじっとしているのも性に合わない。ならば、より多くの人が集まる駅前を監視できるこのターミナルビルの頂上にいることが最善と考えて、半年前くらいから時間があるときはそれなりの頻度でここに訪れている。

 ただし、今となってはそんな理由関係なく、ここは木更のベストプレイスとなっている。自分だけしか訪れない、というか来ることのできない場所という特別感もあるし、単純に何度も訪れているうちに愛着が湧いた。

 携帯を開き、ブラウザを起動する。『アヴェンジャー』と打ち込むと、サジェストで魔法少女と出てきた。ネット掲示板のスレッドをまとめたサイトにアクセスする。

キャッチャーなタイトルの記事が並ぶ中で、最新の記事は柊和人殺害の事件とアヴェンジャーの関連について触れる記事だった。目を通していくと、アヴェンジャーは魔法使いを優先的に狙うため、彼女の犯行だと推測する書き込みが見られた。

それ以外は、ネット特有の無責任かつ明確な根拠のない書き込みが続くのみで、役に立つ情報は得られそうになかった。

 ブラウザバックし、下の記事を見る。内容は、S区の暴力団事務所が皆殺しにされるという凄惨な事件だった。こちらもアヴェンジャーの仕業と目されているらしい。長谷川からの報告にはなかったが、忘れていたのだろうか?

 他の記事を読んでも、アヴェンジャーの素性に迫るような情報は一つもなかった。冷静に考えれば、警察である長谷川から手に入る以上の情報がネットで見つかるわけもないのだが、まあ別に期待していたわけでもない。

湧いてきた眠気を我慢せず、大あくび。ゆっくり口を閉じ、来訪者に語り掛ける。

「ここに私以外の人が来るのははじめてだ。何の用?」

 振り向いた先には、一組の男女。男の方は、上背のある、二十代前半くらいの精悍な青年。手足はすらりと長く、カットソーシャツにジーンズと、気取らない服装が彼によく似合っている。芸能人と言われれば、木更は信じるだろう。なんというか、妙に雰囲気のある男性だった。

女の方は、ペロペロキャンディを持ったゴスロリ衣装という妙にメルヘンな少女。髪型もツインテールにして、ご丁寧にカチューシャまで身に着けている。かわいいはかわいいが、明らかに色物の類だ。あんなの漫画でしか見たことない。少なくとも、木更には真似のできない恰好をしていた。

 なかなかに個性派ぞろいだ。どちらも、左手の薬指に指輪をはめている。そもそもこのターミナルビルの頂上までつながる一般通路はないため、ここに普通の人間が来れるわけもないが。

「あんたがサラマンダーね?」

 ゴスロリ少女が話しかけてくる。

「そう呼ばれることもあるけど、質問に質問で返すなって教わらなかった?」

「うっざ」

 射るような視線が木更を刺す。確かな敵意が込められているのを肌で感じる。

「うちの田村……田中だっけ? 私たちの仲間もあんたにやられてるんだよね。そのツケを払ってもらいにきたってわけ」

「田宮だぞ」

 隣の男が訂正する。

「ああ、なるほど。高嶺一派ね」

 ちょうど、最近交戦した高嶺一派の構成員の名前が田宮だった。

「ならば、私もあなたたちに用がある」

 立ち上がり、二人の方へ向き直る。標的の方からやってきてくれるなら好都合だ。

「田宮のことはおいといて、正義の味方気取りのあんたは前から気に入らなかったんだよね~」

 ゴスロリ少女が残虐な笑みを浮かべる。

「まあ慌てるな」

 青年がゴスロリ少女を制する。

「炎の魔法少女サラマンダー、その強さはかねがね聞いている。俺の強さを試すには、願ってもない相手だ」

 ずいっと青年が前に出る。

「俺は秋吉琥太郎。最強目指してんだ。以上、よろしく」

「何を呑気に自己紹介してんの。殺すんだから、そういうのいらないでしょ」

「こっちのメルヘンは桜江桃。見ての通り、愉快なやつだ。性格はまあ、お察しの通りだ」

「話を聞けって! あと誰がメルヘンだ!」

 桜江と呼ばれた少女が憤慨する。あの恰好をして自分をメルヘンと思っていないのはちょっとどうかと思う。

「東堂木更。あなたたちみたいな思いあがった魔法使いを取り締まってる。以上、よろしく」

 こちらも名乗っておく。秋吉は愉快げに笑っていた。

「そういうわけで、お前は下がってろ。俺がやる」

 秋吉の言葉に桜江が突っかかる。

「秋吉って馬鹿なの? 二人がかりでやればいいじゃん。なんで一人で戦う前提なんだよ。脳みそプラナリア以下?」

「それはちょっと違うだろ。タイマンで勝てなきゃ意味がない。あと、口悪いなこの野郎」

 ゴスロリ少女がこれ見よがしに舌打ちするも、秋吉と呼ばれた青年に気にした様子はない。

「やるにしても、あたしに譲ってよ。ちょっとばかし強くて美少女だからって、世間じゃちやほやされてるそうだけど、気に食わない。そういうのはあたしでいいじゃん」

「うわっ、清々しいほどの僻みだ。女は怖いね」

「は? ぶっ殺すよ」

 うえっ、とわざとらしくえづいてみせる秋吉。

「そう言って、本当に実行しかねないのが質悪い。この前も、肩ぶつかって絡まれた相手殺ったろ。忘れてないからな」

「正当防衛です~」

 きゃるん、と両手を顔の前で揃えてかわい子ぶる桜江。

「ピーカブースタイルか。もっと脇を引き締めた方が良いぞ」

「いや、そういうのじゃねえから。このボクシングバカ」

 秋吉と桜江のやり取りを前に、見てるこっちの方がじれったくなってきた。

「もめてるようだし、私が良い解決策を提示してあげるよ」

 左手の指輪を起動。発せられた燐光が輝きを増し、木更の体を包みこむ。全身に力が迸り、カフェインとは比較にならない覚醒感がやってくる。

「二人ともまとめてぶちのめす」

 木更の宣言に、桜江の顔は見る間に引きつり、秋吉は愉快げに笑う。何かと対照的な二人だ。

 こちらから戦いの幕を切る。まずは、桜江から鎮圧するべく、彼女との距離を詰める。

「つれないな、サラマンダー」

 直進する木更と桜江の間に、秋吉が割って入る。左手を前に、右腕を後ろに構えている。次の瞬間、顔に大きな石を投げつけられたような衝撃。高速の左ジャブだ。

連続して放たれるそれを両手を交差させて防ぐ。腹部に鈍い痛み。秋吉の左拳がめり込んでいた。

木更の両手が下がり、顔が露出したところに、狙いすましたかのように右ストレートが叩き込まれた。

「ちっ!」

 反撃の右拳が空を切る。軽快なステップワークで、秋吉が後ろに飛んだのだ。

 危険を察知し、左に転がる。先ほどまで木更のいた場所に、巨大な半透明の槍が突き刺さる。

「誰の許可得て避けてんだよ」

 桜江が両手で二本目の槍を持ち上げているのが見えた。全身を大きく使って投擲された槍が、高速で迫る。

 即座に身を起こし、さらに左に逃げる。鋭い痛み。右腕を槍が掠めたのだ。

 魔力で強化された嗅覚が、甘い匂いをかぎ取る。

「これはまさか、飴? おかしな魔法を使う」

「せいか~い♪ おかしな魔法じゃなくて、お菓子の魔法。せっかくのプレゼント、ちゃんと受け取って、さっさと死ねよ」

 桜江の減らず口には付き合わず、秋吉の方に向き直る。

「そっちのあなたはボクサーかな? 褒めたくはないけど、良い打撃だったよ」

 口端から零れる血を拭う。最後の右ストレートが、体の芯にまで効いている。

「光栄だ。世界を嘱望されるくらいには強かったんだぜ」

「何それ、聞いてないんだけど」

「言ってないんだからそりゃそうだろ。ネットで調べりゃ出てくるぞ」

「うっそ、あんた有名人なの⁉」

「そこそこね。二百人に一人は知ってるレベルってとこか?」

「び、ビミョー……」

 秋吉と桜江が軽口を叩き合う。

「有望なボクサーなら、魔法に頼らず世界を目指せばいいのに。なぜ犯罪に手を染める必要があるのさ」

 疑問を素直に口にすると、秋吉の表情にわずかながら陰が差した。

「こっちにもいろんな事情があってね」

 秋吉は、話は終わりだとばかりに再度構える。

「ついでに、女の子に拳を振るうのは感心しないよ」

「返す言葉もないが、それは今更だろう。俺だって殴るなら男の方がいいさ。望むなら、手加減でもしてみせようか?」

 木更の軽口に秋吉は苦笑する。

「でっかいお世話!」

 木更は大声で吐き捨てた。

 油断していたわけではないが、初手は完全に出鼻をくじかれた。だが、何ともならない相手ではない。

 秋吉目がけて疾走。待ってましたと言わんばかりに、肩口から最短距離を辿って、高速の左ジャブが放たれる。これは躱せないし、一発躱したところで速射砲のごとく連発されるため、意味がない。代わりに、左拳をはじき返してやるつもりで、首元に思いっきり力を込めた。

脳を揺らす鋭い衝撃に襲われるも、歯を食いしばって耐える。のけぞりかけた体を前に倒し、秋吉の内側に潜り込み、右の拳を繰り出す。

 木更の額と衝突した左拳を痛めたのか、秋吉の表情に苦悶の色が見えたが、すぐさま木更の攻撃に感応し、後ろに回避。だが、逃がさない。追随するように、木更は跳ねた。

全速での体当たりは、確実に秋吉を捉えた、はずだった。

 消えた、そう錯覚するほどの速度で秋吉は横に飛んでいた。目標を失った木更は、たたらを踏んでしまう。

 足元に不自然な影。上を向くと桜江が飛び上がっているのが見えた。人間がすっぽりと入ってしまいそうなほどに巨大なガラスのマグカップを手にしており、中には橙色の液体がなみなみと入っていた。オレンジジュースに見えるが、碌な代物ではないだろう。

「ばっしゃ~ん」

 真下の木更めがけ、マグカップが投げつけられる。コンクリ床に激突し、割れたマグカップのガラス片と橙の液体が無秩序に散乱する。横に飛んで回避するも、ガラス片は木更の肌を切り裂き、液体が触れた箇所は激痛に苛まれていた。

液体に塗れたコンクリ床がぐつぐつと泡立っている。強酸の刺激臭が鼻をつく。まともに浴びていれば、木更の全身は溶解していたに違いない。

「よう、さっきぶり」

 立ち上がろうとしたところに、秋吉が文字通り一瞬で距離を詰めていた。すでに右拳が構えられている。

 反射で上げた腕が、偶然右ストレートの軌道に重なった。本職ボクサー全力の一撃が、防御ごと木更を弾き飛ばす。追うように、粉末をまき散らしながら四角形の何か飛んでくる。目がおかしくなければ、あれはクッキーだろう。縦横一メートルを超える大きさとなれば異常だ。

 飛ばされながらも、足を振り上げ、激突寸前でクッキーを蹴り上げる。足に伝わる感触からして相当な硬度。まともに食らえば、ただでは済まない威力だったに違いない。だが、恐れるべきは他にある。

「秋吉、あなた少し速すぎない?」

「遅いのは罪だからな」

 魔法使いの肉体が魔力で強化されているにせよ、秋吉の速度は異常に過ぎる。瞬間移動じみた高速移動は明らかに魔法によるものだ。

 思わず、舌打ちが出る。魔法の種類は千差万別であり、必ずしも戦闘に向いたものばかりではない。癖の強い能力も多々あるのだが、高速移動はシンプルに有用かつ強力な能力だ。

「あれあれ、どうしちゃったの、サラマンダー。大したことないじゃーん」

 桜江は、余裕しゃくしゃくと言った感じで笑っていた。少しむかつく。

「なんで魔法を使わない。舐めるのは構わんが、それで死んでは元も子もないだろ」

 対して、秋吉の表情には困惑と落胆が伺えた。寒々とした言葉を告げてくる。

「舐めてなんかいない。私の力は安易に振るっていいものじゃないから」

 魔法使いは、魔力を使い、身体能力を超人の域に強化することができる。さらに、経験を積んだ魔法使いは、その魔力に己の形を与えることもできる。秋吉琥太郎では高速移動として発現し、桜江桃ではお菓子を武器とする魔法として発現した。

「やってやろうじゃん。死んでも化けて出ないでね」

 木更の両手両足を無骨な装甲が覆う。装甲が熱を帯び、炎を宿す。

「そう来なくっちゃな」

 秋吉の声色は嬉しそうだった。

 正面に右手を突き出す。宿した炎が勢いを増し、激しくうねり、二つの炎の渦と化して、桜江と秋吉に殺到する。

 桜江は大質量のゲル状の物体、おそらくはゼリーを放射し、炎を抑え込もうとする。だが、ゼリーは炎に触れた先から炭化していく。

「ちょ、洒落になってな」

 桜江は慌てて横に飛ぶが、完全に回避しきれていない。左肘から肩口まで衣装の下の肌が露出し、肌が焼けただれていた。

 炎から免れていた秋吉が高速で接近。閃光の右ストレートが木更の顔面を捉える。強烈な一撃を食らいながらも、右拳を返す。秋吉は瞬時に木更の側面に潜り込み、追撃に移行。

「うおっ⁉」

 装甲から放射された炎が、秋吉の追撃を阻む。距離を取ろうとする秋吉めがけ、右手に生成していた火球を投げつける。秋吉はそれを回避してみせるが、想定の範囲内。

「爆ぜろ」

 火球が弾ける。指向性を持った無数の炎弾が、秋吉に殺到する。

 完全に回避するのは不可能な距離とタイミング。しかし、秋吉は高速移動と持ち前の反射神経で被弾を最小限にとどめていた。

 足に力を込める。呼応するように、炎がごうごうと燃え滾る。地を蹴る勢いは先ほどまでとは比較にならず、木更は弾丸と化して桜江に迫る。高速移動でいなしてくる秋吉よりも、桜江の方が御しやすい。

 左手の火傷に顔を歪めながらも、桜江は巨大なペロペロキャンディーを構え、力任せに振るう。左手の装甲でそれを受け止めると同時に、装甲へ魔力を集中。業火が飴を瞬く間に溶解させた。

「ふざけんなこのブスーー」

「一つだけ言っておかなきゃいけないことがある」

 桜江が次の一手を打つ前に、その華奢な両手首を掴み上げる。装甲の熱に焼かれ、桜江が絶叫する。

 両手を放し、三日月蹴りを桜江の横腹に入れる。崩れ落ちるところに、アッパーカット。桜江の身体が宙を舞い、ビルのコンクリ床に叩きつけられた。

「食べ物で遊ぶな。これは一般常識だ」

 地に伏した桜江にびっと指を指す。秋吉の方を見ると、彼は笑っていた。

「いいね、噂に違わぬ強さだ。ワクワクしてきた」

 炎を体のあちこちに浴びてはいるが、戦闘続行に支障はないと見える。

 仰向けに倒れている桜江の方を見る。どうやら気を失ったようで、立ち上がる気配はない。

 戦いの場にそぐわぬ電子音。出所は、秋吉からだ。

「……どうぞ、お構いなく」

「なんというか、締まらなくて悪いね」 

 促すと、素直に秋吉はポケットから携帯を取り、呼び出しに応えた。

「はいはい、どうも我が愛しのご主人様。こちら天下の大拳豪。どのようなご用件でございますでしょうか?」

 秋吉が電話先の何者かと話し出す。

「何が来るって? よく聞こえんから、もう一度」

 背筋を氷柱で突き刺されたかのような悪寒。振り向くと、この屋上に来訪者がもう一人。木更と同じくらいの歳と思われる少女だった。黒のシャツ、黒のスカートとスパッツ、全身黒ずくめという異様な出で立ち。

同性である木更が見惚れるほどに整った顔立ちは、艶やかな黒髪も相まって、人形を思わせる美しさ。可憐な見た目とはまるで似つかない圧迫感に、脳が混乱する。

「アヴェンジャー」

 答え合わせのような、秋吉の独白。その顔には、獰猛な肉食獣の笑みが浮かんでいた。

 秋吉が手にした携帯を投げ捨てる。アヴェンジャーの目前に急速接近し、高速の拳打を矢継ぎ早に繰り出す。

アヴェンジャーは獣のごとき俊敏性と反応で、秋吉の拳打を回避、あるいは両腕でいなすことで直撃を許さない。木更がさばき切れない速射砲ですら、アヴェンジャーには届かない。

 秋吉の笑みが、より一層獰猛さを増す。

 速射砲の回転がさらに上がった。離れている木更でも目で追うことがやっとの拳打は、獣の反応をもってしても回避しきることはできない。少しずつ、秋吉の拳がアヴェンジャーを捉えだした。

 秋吉の渾身の右ストレートを、アヴェンジャーが交差した両腕で受ける。後方に弾き飛ばされるも、寸前で自分から後ろに飛んだらしく、アヴェンジャーは体勢を崩すことなく着地してみせた。

「黒ずくめで、何よりこの対峙するだけで背筋が凍るような威圧感……君がアヴェンジャーに違いないな?」

「貴方と戦うつもりはない」

 鈴を転がすような凛とした声は、アヴェンジャーのものだった。

「私の目的は、桜江桃ただ一人」

 冷淡に告げるアヴェンジャーに対し、秋吉はどこまでも不敵だった。

「桜江を殺りたかったら、俺の屍を越えていきな」

「邪魔をするなら無事は保証しない」

「願ってもない。稀代の殺人鬼にして、最強と謳われる魔法使いアヴェンジャー。君を倒すことができれば、俺も最強を名乗ってもいいだろう」

「そう」

 アヴェンジャーは、無表情で告げる。

「できるだけ早く諦めて」

 再び、秋吉が高速で移動。アヴェンジャーの斜め左前方から切り込む。最短距離を走る右ストレートはアヴェンジャーを捉えることはなかった。足元に沈んだアヴェンジャーの足払い。踏み込んだ左足を狙って繰り出されたそれを、秋吉は足を浮かせて回避する。

だが、アヴェンジャーは地に手をつき、足払いの勢いそのままに軸足を浮かせ、秋吉の腹を狙った蹴りに移行。片足を浮かせた不安定な姿勢からの回避は間に合わないと判断した秋吉が、左手で受ける。

 痩躯の少女の蹴りに、大柄な秋吉の体勢が崩される。重い蹴りだ。

 アヴェンジャーがくるりと身を翻し、地に足を着ける。そのまま追撃の左拳を放つが、秋吉は瞬時にアヴェンジャーの左腕の外側に潜り込む。秋吉の右フックは今度こそ、アヴェンジャーの顔面を捉えた。

「えっ……⁉」

 驚愕の声が木更の口から漏れる。少女は衝撃が来るその刹那、首をひねってパンチの威力を殺してみせた。

 右の大砲を放ち、がら空きとなった秋吉の腹に、アヴェンジャーの裏拳。秋吉の身体がくの字に折れた。間髪入れず、アヴェンジャーが右ストレートを繰り出す。

刹那、秋吉はアヴェンジャーの右手を横から叩き、拳の軌道を逸らしてみせた。同時に、軽快なステップでアヴェンジャーとの距離を放す。

「あ、危ねぇ……バケモンかよ」

 秋吉は呆れたような笑みを浮かべていた。

 秋吉の体技は見事の一言に尽きる。ボクサーとして世界を嘱望されていたと言っていたが、その言葉に嘘偽りはないだろう。それに加えてあの高速移動があれば、鬼に金棒だ。だが、それ以上に少女の体技は常軌を逸している。

「すごい」

 思わず賞賛の言葉が口を衝いて出る。秋吉は木更と戦った時よりもさらに速度を増していた。それにもかかわらず、少女は秋吉と互角以上に渡りあってみせた。おそらくは、魔力による純粋な身体強化のみで。

「サラマンダーといい、自分よりもずっと年下の女の子がこうも強いってのはな……どうにも自信がなくなる」

 だけどまあ、と秋吉が笑う。

「最強なんて酔狂なもの目指してるんだ。泣き言は言ってられんか」

 秋吉の闘志には、一切翳りがない。

「さて、第二ラウンドだ」

 秋吉が構えたとき、すでに木更は動き出していた。両手に魔力を込め、前方に突き出す。放たれた火炎が、秋吉とアヴェンジャーに殺到する。秋吉は高速移動で、アヴェンジャーは獣の俊敏さで、火炎放射を回避していた。

「高嶺一派にアヴェンジャー。どちらも逃がしはしない」

「乱戦か。それも悪くない」

 秋吉は相も変わらず愉快げに笑う。

 アヴェンジャーの氷凍の瞳がこちらを見据えていた。向かい合うだけで、背筋に寒気が走る。

 相手が怪物だろうと、臆するわけにはいかない。ここで止めなくてはさらなる惨事が引き起こされる。木更の心に呼応するように、装甲の炎が燃え滾る。

 アヴェンジャーが突進してくる。木更は迎え撃つため、右手を振るい、炎の波を展開する。殺人鬼は止まらなかった。左手の指で右腕を切り裂く。ありえない量の血液が奔波となって放出された。

 体重にも左右されるが、人間が死に至る出血量はおよそ二リットル。そんな常識が馬鹿馬鹿しくなるような血の奔流は、明らかに魔法の力によるものだ。血と炎の波が相殺。その上を飛び越え、アヴェンジャーがこちらに迫る。左手を突き出し、炎の渦を生成。空中のアヴェンジャーに向けて放つ。

いくら怪物じみた運動能力を誇ろうと、空中では高速で迫る炎を回避しきれない。アヴェンジャーの左腕を炎が飲み込んだ。白磁の肌が見る間に焼け焦げていく。

 この機は逃さない。着地したアヴェンジャーめがけて、炎を纏った右手を振るう。

 強烈な衝撃。アヴェンジャーの左拳が木更の側頭部を殴りつけた。

 完全に意識外の一撃だったため、踏ん張りが効かない。ありえない、どうして焼かれた左腕で攻撃ができる?

「東堂木更」

 揺れる脳に、凛とした声が届く。

 喉元に、アヴェンジャーの右手から伸びる血の刃が突き付けられている。見れば、彼女の左腕は白く綺麗な肌を取り戻していた。

「あまりがっかりさせないで。貴方の炎はこんなものじゃない」

 落胆の声。地に膝をつく木更を尻目に、すでにアヴェンジャーは隣のビル向けて駆けだしていた。

「ま、て」

 地に転がった木更はせめてもの抵抗で、火球を生成。アヴェンジャーの背中向けて投げつけるが、あえなく回避される。

 ビルの淵でアヴェンジャーが立ち止まった。

「逃げた桜江を追う。今日はここまで」

 はっとして見ると、いつの間にか意識を取り戻していたのか、桜江はすでにこの場を離脱していた。自分の迂闊さに苦いものを感じつつ、視線をアヴェンジャーの方へ戻す。復讐者の眼が、こちらを覗き込んでいた。

「貴方には期待している」

 隣のビルに飛び移るアヴェンジャーの姿は、あっという間に見えなくなっていた。

「ここまで、か」

 背後の秋吉が残念そうにぼやいていた。

「俺も引き時だな。君には悪いけど、あれとやり合った後じゃ、少々物足りない」

 秋吉の言葉に、木更は歯噛みする。悔しいが、事実として今の木更はアヴェンジャーに及ばない。

「あなたまで逃がすつもりはないけど」

 立ち上がり、秋吉と向かい合う。秋吉はいやいや、と手を振った。

「誰であろうと、俺の速さには追い付けない」

 秋吉がたんっと地面を蹴り、屋上から飛び降りる。

「機会があれば、またやろう。今度はタイマンでな」

 急いで駆け寄り、屋上から降りた秋吉の姿を探すが、見つからない。

 人込みに紛れてしまったら追跡は困難。何より、高速移動のできる秋吉に追いすがること自体至難の業だ。

「……くそ」

 こみ上げた虚しさを吐き出す。

 何一つ成果を挙げられないどころか、倒したはずの桜江さえ取り逃がす始末。自分の無力さをひしひしと感じさせられる結果となった。

 秋吉とアヴェンジャーという、自分と同等かそれ以上の力を持つ強敵の出現、そして敗北という事実が木更の心に暗い影を落とす。

 ポケットから携帯を取り出す。先ほどの戦いが原因で、画面にひびが入ってしまっていたが、問題なく電源が入る。

 履歴の一番上の番号に電話をかけた。


◆◆◆


 ドゴンと景気の良い音が響く。

 パンチングマシーンの筐体の液晶に、過剰な演出とともに数字が表示された。

「に、二八五キロ……」

 後ろでこちらの様子を見ていた男性が、驚きの声を漏らしていた。

 マシンが名前の入力をアルファベット三文字で求めてきたので、KSRと入力。もちろん、木更でKSRだ。

 ランキングが表示される。二八五という記録はランキングでも二位に大きく差をつけてのトップだった。

 魔法使いは、全身に魔力を通すことで人の限界を超えた力を発揮する。だが、そうしなければ常人と変わらないといったこともなく、魔力を通していない状態でも一般人では及ばない程度の身体能力は発揮できる。魔力で強化された名残なのだろうと木更は適当に納得している。

 アヴェンジャーと秋吉を取り逃した後、すぐに長谷川に連絡。簡単な事後聴取を済ませ、その場を離れた。

 アヴェンジャーに敗北したことのショックが、思った以上に応えていた。あそこに留まっている気になれず、街中を目的もなくぶらつき、今はゲームセンターに来ている。

特段、ここが良いと思ったわけではないが、少しは気晴らしになるかと思い、ふらっと立ち寄ってみた。

 募る苛立ちをパンチングマシーンにぶつけてみたのだが、別に気持ちは晴れてくれない。

「……帰ろ」

 誰にともなく、呟く。

 こういう時に限って、大した事件も起きない。起きてほしいわけでもないが、気を紛らわせる何かが欲しかった。

 店を出てふらふらと歩いていると、ぐうっとお腹が鳴った。携帯で時間を見ると、もう一四時。そういえば、昼ご飯を食べていない。

 適当にその辺の店に入ろうかと思ったところで、それに気づいた。

 銀の髪が目立つ誰かが道端でうつ伏せに倒れている。動く気配もない。急いで駆け寄り、身を起こさせ、体勢を仰向けにさせる。綺麗な少女だ。目鼻立ちがはっきりしており、その銀髪も相まって、日本人離れした美貌だ。

「大丈夫ですか?」

 肩をやさしく叩き、呼びかける。

「お」

 少女が言葉を紡ぐ。聞き逃さないように耳を澄ませ、次の言葉を待つ。

「お腹減った」

「は?」

 次の瞬間、少女のお腹から獣の唸り声のごとき爆音が鳴り響いた。


「ありがとうございます。あなたは命の恩人です」

「……どういたしまして」

 まさか、一日に二回も食事を奢ることになるとは思わなかった。

 ご近所迷惑極まりない腹の虫を鎮めるために、すぐ近くのラーメンに少女を運び込んだのだが、よく食べること食べること。すでに丼四杯を平らげている。しかも、ぜ~んぶ大盛。隣で二杯を片付けた木更も大概だが、まるで人間ブラックホールだ。ラーメンは飲み物だと言わんばかりに流し込む姿は、いっそのこと気持ちが良い。

 見目麗しい女の子が見せる、圧倒的な暴食。店員も周囲の客も、目を丸くしてこちらの様子を伺っていた。

 そして、五杯目を平らげ、少女が両手を拝むように合わせた。

「ごちそうさま。大変おいしゅーございました」

 店内から、惜しみのない賞賛の拍手。誰もが彼女の食べっぷりに心打たれていたのだ。

「なんだこれ」

 思わず呆れ声で独り言ちる。

「あ、私、アンナと言います。よろしくです」

「東堂木更。大した者じゃないから明日になったら忘れていいよ」

 今更の自己紹介を済ませる。少女は目を輝かせていた。

「知ってます! 私、あなたのこと」

「お、おお……⁉」

 テーブルの対面から、がたんと身を乗り出し、顔を近づけてくる。予想外の反応に、木更は面食らってしまう。

「東堂木更、炎の魔法少女サラマンダー! 私もぜひぜひお会いしてみたいと思ってました!」

「そんなに食いつかれると、さすがに恥ずかしいかな」

 それはともかく、気になることがあった。

「あなたも魔法使いなんだね」

 アンナの左手の薬指には指輪がはめられていた。同じ魔法使いの直感で、ただの装飾品でないことがわかる。

 年々数を増やしているとはいえ、人口に対する魔法使いの比率は微々たるもの。早々魔法使いに遭うことなんてないのだが、奇妙な巡り合わせだ。

「はい! それなりに強いと思いますよ。サラマンダーさんほどじゃないとは思いますけど」

「その呼び名はやめて。木更でいいよ」

「はい、木更さん!」

「さんも付けなくていいからね」

「りょーかいです、木更」

 ニコニコと答えるアンナ。天真爛漫なその姿に、思わずこちらもつられて笑ってしまう。

「ところで、民間人の指輪の所持は禁止されてるんだけど、あなたのそれは大丈夫なのかな?」

 魔法使いは文字通り法外な力を持つため、木更のような特別に認可された者以外の指輪の所持は原則として認められていない。魔法使いという存在を管理し、社会秩序を維持するための措置だ。アンナが許可を得ていればいいのだが、そうでない場合は規則に従い、没収する必要がある。

「あ~……」

 アンナが困惑の笑みを浮かべる。

「試しにこれ、引っ張ってみてください」

 アンナが左手を差し出す。言われたとおり、木更は指輪を引っ張った。しかし、まるで体の一部となっているかのように、全く抜ける気配がない。

「私と同じだ」

 木更が得心したように言う。

「よほど相性がいい証拠だ。こうなる魔法使いは、だいたい強い。自画自賛ってわけじゃないけど」

 木更はアンナの手を包み込むように握る。

「これも何かの縁だ。あなたが魔防課に来てもらえると助かるんだけどね」

「ま、魔防課?」

 手を握られているためか、少しアンナは頬を紅潮させていた。

「魔法使いとして、治安維持に努めるお仕事。いわゆる正義の魔法使いってやつだね。ブラックな職場だけど、給料はいいよ」

 魔防課所属の魔法使いは、慢性的に人手不足。自分から面倒ごとに首を突っ込もうとする人間はそうそういないのだ。

「あはは、お誘いは嬉しいですし、今日のお礼も返したいのですが……私には無理です。そういうのは向いてません」

「冗談だよ。気にしないで」

 ぱっと手を放す。小動物を思わせるその雰囲気からして、明らかに荒事には向いていない。いくら人手不足でも、この子を巻き込まなくてはいけないほど魔防課も困窮しているわけではない。

「命なんてそう簡単に懸けるものじゃない。危険に身を置くのは、私のように何も失うもののない人間が適任なんだ」

 自嘲気味に言うと、アンナが寂しそうな顔をする。しまった、と思い直し、手振りでおどけてみせる。

「ごめんごめん、暗い話をするつもりじゃなかったんだ。今のは忘れてちょーだい」

 そんな木更に対し、ちょっと固さは残るが、アンナは微笑みで応えてくれた。その視線が積み重ねられた丼に向かう。

「木更様、折り入ってはお願いがあるのですが」

 もじもじといじらしい仕草とともに、アンナが問いかけてくる。自らの小動物的な可愛さを最大限に生かしているようで、同性である木更でさえ思わず可愛いと思ってしまう。

「なんだね、アンナくん?」

 わざとらしく気取って返してみる。

「本当に! 本当に申し訳ないんですが……杏仁豆腐も頼んでいいですか?」

 メニューを指差しながら、おそるおそるアンナが言う。木更はふっと口角を上げて答えた。

「好きなだけ頼みな、お嬢さん」

 ハードボイルド気取りで、控えめに親指を立てる。主人に尻尾を振る犬のごとく、アンナは満面の笑みを浮かべた。

 思わぬ出会いが、良い気晴らしになった。運ばれてきた杏仁豆腐を食べ、口福に破顔するアンナを見ていると、木更の胸のもやもやが取れていくようだった。


 しっかり杏仁豆腐もおかわりした悪い子アンナとともに、ラーメン屋を出る。

 結構な額をもらっているとはいえ、自分の食べた分と合わせてかなりの出費だ。

 アンナがぺこりと頭を下げてくる。

「本当にごちそうさまでした。いずれお金はお返しします」

「いいよ、これくらい。これでもお金だけは有り余ってる。可愛い女の子に食事を奢るのは礼儀ってものでしょ?」

「木更は人たらしの才能がありますね」

 くすりとアンナが笑う。

「でもダメです。ちゃんと今日のお金は返します。借りっぱなしは嫌なんです」

 そう言ってアンナがポケットから携帯を取り出す。たどたどしい手つきで画面を操作し、画面を木更に見えるように差し出してくる。

 そこにはQRコードが表示されていた。有名なSNSサービスのもののようだ。

「その、私見ての通りハーフでして……それだけが理由とは思いませんが、友達がいないんです」

 アンナが照れくささと寂しさが入り混じったような表情で呟く。

「木更さえよければ、私と友達になってくれませんか? 出会った日にこういうこと言うのはおかしいとはわかっていますし、私なんかが木更の友達なんておこがましいとは思うのですが」

 あたふたとしながら、アンナは早口で捲し立てた。

 なるほど、傍目から見てもアンナは美少女だ。最上の織物を思わせる銀の髪、吸い込まれそうな翠玉の瞳は神秘的なまでの美しさ。それに加えて、小動物的なその可愛らしい顔立ちは、同年代の女子から見れば、嫉妬の対象になっても不思議ではない。男子からしても、どこか近寄りがたさを感じてしまうというのも想像できる。その結果として、友達がいないということは割と有り得ることなのかもと木更は結論付けた。

まさか、いじめられているようなことはないだろうかとも心配した。しかし、今日会ったばかりの相手にそこまで踏み込んでも仕方がないし、邪推に過ぎないと口にすることはなかった。

 木更も携帯を取り出し、流れるような手つきで操作。携帯のカメラでアンナのQRコードを読み込む。

 登録が完了したことを確認し、SNSのサービスとして提供されているスタンプを送付する。木更が選んだのは、挨拶をする猫のスタンプだ。

「好きな時に連絡してちょーだい。立場上、返信できない時もあるけど、ちゃんとチェックするから」

 ぱあっとアンナの顔が華やいだ。嬉しそうに、自身の携帯を操作している。

「よろしくお願いします!」

 SNSのメッセージ画面に、猫が中指を立てて挑発するスタンプが送られてきた。絶妙に腹立たしい顔をしている。

 アンナは、あわわと取り乱していた。

「ご、ごめんなさい! 間違えました!」

 慌てふためくアンナに、ちょっとばかりいたずら心が湧いてしまった。

「この~……」

 アンナの肩をつかみ、右手の人差し指でアンナの頬をぐりぐりしてやった。

「悪い子にはお仕置きだ~!」

「ご、ごめんなさい! ごめんなさ~い!」

 泣き笑いで訴えかけてくるアンナは、なかなかに嗜虐心をそそられる。いかん、変な道に目覚めてしまいそうだ。十分満足したので、アンナを解放してやる。

「友達がいないって言ってたけど、それは私も同じなんだ」

 そう言い、木更は頬を指先で掻く。

「二年前から、私は学校を辞めて魔防課に所属している。そのせいで、昔仲良かった子たちとも疎遠になっちゃってね」

 年若い少女たちの交流など、少し時間が空いてしまえば離れてしまう程度の不確かなものでしかない。最初こそ木更に気を使って連絡を取ってきてくれた友人も、一か月も経てば連絡が途絶えてしまうくらいだ。

 そんなことをいちいち木更は気にしてはいないが、やはり同世代の友人がいないというのはちょっぴり寂しさもなくはないのだ。

「今日から私たちは友達だ」

 にかっと笑う。アンナもこくこくと何度も頷いていた。


◆◆◆


 晩春の夕方。陽が傾き、金色に輝く残照の空の下、木更は帰路に着いていた。

 我ながら少し浮ついているのが分かる。嫌なこともあったが、良き出会いもあった。

 アヴェンジャーに高嶺一派。どちらも頭の痛くなる案件だ。しかし、平和な日常を守るためには負けてなどいられない。また明日から頑張ろう。

 ポケットの携帯が振動。確認すると、長谷川からの着信だった。メッセージでの連絡でないことから、おそらく急ぎの用件であることは想像がつく。まさか気合を入れ直したそばから厄介事が舞い込んでくるとは。

 とりあえず電話に出ると、耳に長谷川の声が飛び込んできた。

「木更ちゃん、ごめん! 今どこにいる?」

「もうそろそろ家に着く頃かな」

「ちょっと距離があるけど、君なら問題ないな……申し訳ないんだけど、この後位置情報を送るから、急ぎその場所に向かってほしいんだ!」

 かなり焦った様子で、長谷川が言う。飄々としたあの男には珍しいことだ。それだけまずい事態が起こっていることはすぐに把握できた。

「何があったのさ」

 緊急の事態だからこそ、問いはシンプルにした。間を置かず返事が返ってくる。

「ヤクザの事務所が魔法使いに襲撃され、皆殺しにされた」

「はあ⁉」

 叫ぶ意味は全くないが、思わず叫んでしまっていた。

 泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、一難去ってまた一難。似た意味の諺が次々に頭に浮かぶ。こうも厄介事が重なるなんて、今日は厄日に違いない。

 同時に、木更の脳裏に過るものがあった。

「いや待て。似たような事件が最近あったらしいけど、何か関係あったりする?」

「君はやっぱり鋭いね……話は後だ。近場にいた民警の魔法使いが交戦中だが、全く相手にならないらしい。今なお被害は拡大している」

 民間警備会社、略して民警。アメリカで言うPMCにかなり近い。魔法使いの振るう暴力に対しては、警察力では抑止にならないため、民間の魔法使いが治安維持の一助を担っている。防衛省の管轄下にあり、一応違法ではないらしいが、日本におけるその立ち位置はかなり黒寄りらしい。だが、魔法使いという脅威に対し、国も手段は選んでいられないというのが実態だ。

 ついでに言うと、運よく指輪を手に入れ、遊び半分で民警に所属する人間は後を絶たない。覚悟もなしに危険な敵に立ち向かい、あえなくその命を落とすなんてことは珍しくもない。

 確かに長谷川の言う通り、悠長に話をしている場合ではないようだ。

 すぐに長谷川から目的地の位置が送られてくる。木更の地点からは、十キロ前後の距離。今から向かっても後の祭り、というのは普通の人間の話だ。

 指輪が起動し、全身に魔力が迸る。両手両足に装甲を纏う。足から炎を噴出し、宙に浮かぶ。勢いを調整し、体勢が安定したところで一気に出力を上げる。空を切り裂くように、木更は高速で飛翔する。

「誰も彼もふざけやがって」

 何気なしに独り言ちる。不意にアンナの屈託ない笑顔が思い出された。

「どこの誰かは知らないけど、この街で勝手はさせないよ」

 決意を新たに、木更は目的地を目指した。


 長谷川から伝えられた地点に近づく。異様な光景が木更の目に映った。

 一人の女性の周囲に散らばるのは、複数の死体。おそらく彼女と交戦した民警の魔法使いのものだろう。今更死体を見たくらいで驚きはしないが、この嫌悪感に慣れるものではないし、慣れてはいけないものだ。

 足の炎を上手く操り、着地。この事態の首謀者たる女性と向かい合う。

 綺麗な女性だった。この凄惨な場にありながら、木更はそんなことを考えてしまった。十六か十七くらいの歳に見える少女は、同性である木更でさえ見惚れるような美しさを備えていた。返り血を浴びてなお、その美しさに翳りはない。ベージュのジャケットを羽織ったトラッドスタイルでありながら、艶やかな黒髪に凛としたたたずまいは、どこか大和撫子という言葉を想起させる。

「一応聞いておくけど、これはあなたの仕業ってことでいいんだよね?」

「ご明察の通りです」

 自らの所業に、何の呵責も感じていないらしい。人を殺して全く心を痛めていないということが、木更には信じられなかった。

「なんで? 暴力団の件だって看過できないけど、今あなたが殺したのは民警の人間なんだよ? 全員が全員褒められた理由でなったわけじゃないだろうけど、それでも誰かを守るために戦ってる人たちなんだ」

 木更は不快気に問いかける。木更の怒りなどどこ吹く風、女性はさもありなんとばかりに口を開いた。

「私は正義を為しました。その私に手向かってくるならば、容赦はできかねます」

「イカレてるよあなた」

 木更は思わず吐き捨てる。

「私も魔防課にいるから、何度か見たよ。確信犯というか、自分の正義に盲目な人間は本当に面倒なんだ。自分の異常性を自覚できていないから、平気でこんな残忍な事件を起こす」

 一番厄介で、相手にしたくない手合いだ。歯止めを失った人間は何をしでかすかわからない恐怖がある。

 交渉は、するだけ無意味だろう。さっさと無力化して、長谷川たちに引き渡すのが最善だ。

「釈明は取調べの場で聞かせてもらう。その綺麗なお顔に怪我したくないでしょ?」

 女性の視線が鋭さを増す。木更の挑発が、彼女の気に障ったらしい。

「武に生きる私に対し、その言葉は侮辱に等しい」

「怒った? そんなの私の知ったことじゃないよ」

 売り言葉に買い言葉。

「名乗りなさい、不心得者。この柊玲が、貴方に正義を示してみせましょう」

 殺意が明確な圧力をもって、木更に叩きつけられる。気後れはない。

「正義ね。良い言葉だ」

 あえて皮肉めいた笑みを浮かべてみせる。

「だけど、口にしてしまえばこれほど軽い言葉もない」

 その言葉は、的確に柊の琴線に触れたようだ。その美貌が鬼の面のごとく歪む。

「名乗られた以上は一応名乗り返しておくけど、私は東堂木更。サラマンダーの方が通りは良いかもね」

 柊の顔に驚愕の色が見えたが、一瞬で影を潜めた。

「そうか、貴方が……」

 代わりに、思慮の色が表れた。どうやら向こうはこちらのことをご存じらしい。

「貴方の噂は聞き及んでおります。私と同じく正義の執行者であると、共感すら覚えていましたが……誠に残念でなりません」

「有名人は参っちゃうね」

 うげっ、と木更は顔を顰めた。こんな危険人物に自分のことを知られているというのは、あまり愉快なことではない。

「おしゃべりが過ぎたかな」

 ゆっくりと歩み寄る柊。木更は魔力を足に集中させて備える。開戦の火蓋を切ったのは木更、ではなく柊だった。

 木更が一気に飛び込もうとした刹那、すでに柊はこちらの懐に潜り込んでいた。速い。秋吉のそれとは方向性が違うが、驚異的な速さだった。戦いを重ねた者なら、相手の動きをその気配からある程度察知することができる。柊には、その気配をほとんど感じ取れなかった。不意を突かれたことを差し引いても、恐るべき身体操作だ。

 脳内のアラームが最大音量で鳴り響く。だが、回避は間に合わない。

 左の掌底。捩じりこむように放たれた一撃が、木更の小さな体を吹き飛ばした。踵で地を捉え、何とか倒れるのを防ぐ。

「大したものですね。撃ち込まれる瞬間に合わせ、自ら飛ぶとは」

 柊の言う通り、木更は自分から後ろに飛ぶことで直撃を免れていた。それでもなお、撃ち込まれた腹部には、内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような痛みと不快感。この二年間生温い鍛え方はしていなかったつもりだが、柊の一撃はあまりに凶悪だ。

 油断していたわけじゃないが、なるほど、強敵らしい。

 接近戦は危険と判断し、両手に火球を生成。それを重ね合わせ、巨大な火球とした。

「せーの」

 豪快に火球を放り投げる。一直線に柊に向かい、あえなく回避される。だが、これは木更の予定通りだ。

「まだまだ!」

 パチンと指を鳴らす。火球が弾けることで、無数の炎弾となる。秋吉相手にも使ったが、この技は相手の不意を突きやすい。戦闘不能にするまでの効果は認めなくとも、一定以上の効果が見込めるため、木更のお気に入りだった。

 柊に炎が着弾する刹那、閃光のごとき柊の蹴りが放たれた。炎がかき消される。一発一発は小さいとはいえ、風圧だけで炎を防ぐとは、どんな蹴りだ。

 だが、それよりも恐れるべきはその反応速度。間近で弾けた炎の弾に対応してみせるなど、あの秋吉にさえできなかったことだ。いや、何か変だ。言いようのない違和感を木更は抱いていた。

「この程度は、児戯に等しい」

 涼しい顔で、柊が呟く。そして、木更との距離を詰めるため、こちらに駆け出してきた。彼我の距離があっという間になくなる。このままではまずいと判断し、即座に右に飛び退く。

「なっ⁉」

 柊は木更の動きにぴたりとついてきていた。柊の左拳が、木更の顔めがけて放たれる。首を倒すことで、間一髪回避に成功。冷たいものが背筋を走る。だが、まだ危険な間合い。続けざまに、右の上段蹴りが飛んできた。頭部を守る右腕の防御が間に合った。

 側頭部に強い衝撃。歯を食いしばって何とか耐える。

 無我夢中で、右手の装甲より炎を放射。それすら読んでいたかのように、柊が後ろに逃れる。これで間合いを遠ざけることができた。

「どんな身体能力さ……」

 状況から分析するに、地に残された柊の左足が跳ねあがり、防御を越えて、踵から木更に襲い掛かったのだ。想像はできるが、そんな技を可能にする柊こそ恐ろしい。

「柊家は古来より続く武門の家柄。そして、私はその歴史上最高傑作と呼ばれています。例え、噂に名高いサラマンダーが相手であろうと、遅れを取るはずもありません」

「漫画だね」

 違う世界の話を聞かされているようだが、柊が手強い相手という事実だけは間違いない。

「天に与えられし武の才と、私の魔法が併せれば、私に敵などいません」

「へえ、大した自信じゃん。どんな魔法なの?」

「私の魔法は、云わば第六感、いや、超直感といった方が適切かもしれませんね。貴方の行動が、私には手に取るようにわかります」

 冗談めいた質問に、答えが返ってきたことで木更は驚きを隠せなかった。

 嘘を言っている可能性が即座に頭を過ったが、確かに炎弾への反応といい、木更の動きに完璧に追従してみせたことといい、しっくりくるものがある。

「解せない、という顔をしていますね」

「そりゃそうでしょ。馬鹿正直に答えるなんて、さすがに舐めてくれすぎじゃない?」

 別にプライドが許さないなんて言う気はないが、コケにされれば腹も立つ。

 柊は理解できないとばかりに、不思議そうな顔をしていた。

「聞かれたから答えたまでです。己の魔法を隠すような狭量は、私の強者としての誇りが許さない」

 確かにネタをばらしたところで、どうこうなるようなものでもないのは確かだが、己の力量に余程の自信があるようだ。

「それは世間一般じゃ、驕りって言うんだよ」

 憎まれ口を叩く。

 面倒な相手だ。優れた身体能力と技。そこに魔法による超反応が加わるとなれば、厄介に過ぎる。

「木更ちゃん!」

 背後から聞き慣れた声。

 一瞥すると、長谷川が魔防課の魔法使い数人を引き連れて、こちらに向かってきていた。

「多勢に無勢のようですね。彼のサラマンダーを相手にしながら、この人数差はさすがに分が悪い」

 柊は冷静に分析していた。

「あの憎きアヴェンジャーを討ち滅ぼすまで、私は止まるわけにはいかない」

 その眼には、確固たる決意、そして燃えるような憎悪が宿っていた。

 柊はこちらに背を向け、脱兎のごとく走り出した。

「一日に何度も逃がしてたまりますかってえの!」

 強く地を蹴り、柊を追う。だが、全速で進む木更の前に飛び出してくる人影があった。そのままでは激突するため、慌てて横に身を倒すことで免れる。柊の仲間かと思い、すぐさま向き直ると、その男は虚ろな目でその場に立ち尽くしていた。

 ややあって、追いついた長谷川が何かに気づいたように口を開く。

「明らかに様子がおかしい。そして、こういう魔法には覚えがある」

「高嶺京香か」

 なるほど、と木更は納得する。伝え聞いた高嶺の魔法なら、今の状況にも説明がつく。そうであるならば、この男性は被害者に過ぎない。

 柊の姿を見失っていた。今から追っても無駄骨で終わるだろう。陽も間もなく落ちる。追跡は危険が大きいと判断し、断念する。

「木更ちゃん、無事で何より」

 一息ついた長谷川が、話しかけてきた。

「無事だけど、あの女、好き勝手蹴る殴るしちゃってくれて。あーっ! むかつくー!」

 苛立ちを吐き出すように叫ぶ。地団駄を踏もうかと思ったが、さすがにみっともないのでやめておいた。手痛い攻撃をもらってしまったが、身体のどこにも支障はない。

 さて、と気を取り直す。

「あの女、柊玲って名乗ってた。柊って苗字と、暴力団の皆殺しって件が妙に引っかかっててね」

 長谷川が顎を引いて肯定する。

「君も感づいているように、柊玲はアヴェンジャーに殺された柊和人の妹だ」

 予想はしていたので、特段の驚きはない。長谷川の話が続く。

「柊玲が引き起こした今日の件と合わせて、このS区で間を置かずにヤクザ襲撃事件が二件。どちらも同じ組の系列だ」

「一件目の犯人はアヴェンジャーって噂されているらしいけど、実際は柊和人の犯行だったってところかな」

 長谷川が目を丸くする。

「その通りだけど、よくわかったね。ちょっとした探偵だよ」

 子芝居めいた拍手。別段嬉しくはない。

「柊和人には後ろ暗い事情があるって言ってたのを思い出してね」

 ファミレスで聞いた話だった。特段気に留めていたわけではないが、勘が良い感じに働いたようだ。

「柊和人は、行き過ぎた正義漢だったらしい。指輪を手に入れたことで、増上慢になっちゃったんだろうね。自分の正義にそぐわない人間、要は気に入らない人間を何度か手にかけていたようだ」

「嫌なところで似た者兄妹だったってわけか」

 もしかしたら、兄の意思を継ぐなんてくだらないことを考えているのかもしれない。そうであるならば、これからも柊玲による殺人が繰り返される危険性が高い。

「事情を整理すると、あの柊玲は柊和人の妹。兄同様気に入らない人間を、粛正と称して殺している」

 ここから先が重要だ。

「そして、その背後には高嶺がついている可能性が高い。アヴェンジャーの打倒という目的の合致で手を組んだってところかな」

「手を貸していた以上は、そう見るべきだろうね」

 長谷川が唸り声を出す。木更も同じ気持ちだった。質の悪いやつらが手を組むと、面倒くささは二倍じゃ済まない。

「柊玲の中じゃ、私が悪で、高嶺が正義ってなってんの? どんな価値基準だってのさ」

 何が正義だ悪だのはどうでもいいが、それはそれとして文句の一つも言いたくなる。

 はあ、と嘆息した後、真面目な話をすることにした。

「ちょっと楽観的なことを言うけど、柊玲に勝つだけなら、そう難しくはないと思う」

 攻撃を一方的にもらう結果に終わったが、そういうだけの根拠はある。

「柊玲の戦闘技術と、超直感による先読みが手強いのは間違いない。だけど、それだけなら対抗する手段はいくらでもある」

 木更として、この二年間で潜り抜けた修羅場の数は両手の指では数えきれない。単純明快に強力、かつ応用力の高い炎の魔法をフル活用すれば、だいたいの事態は乗り越えられる。

 いくら直感が優れていようと、柊は接近戦しかできない。それでいながら、秋吉ほどの速さを持っているわけでもない。うまく立ち回れば、どうとでも対処は可能なのだ。

 だが、一つだけ大きな問題がある。

「ただ、それをするなら生かして捕らえるのは不可能だ。殺す気でやんなきゃいけなくなる」

 長谷川が押し黙る。重苦しい空気が場を支配した。

「私の魔法は、簡単に人を死に至らしめる力がある。魔法使いであろうと、調節を誤れば一瞬で灰にしてしまいかねない。実際に私は」

「木更ちゃん、そこまでにしとこう」

 長谷川が会話を区切る。気を使われたのだ。

「今日だけで、もう二回も激しい戦闘を行っている。日も暮れたことだし、帰ってゆっくり休んでくれ。あっ、身体に異常があるなら病院に連れてくけどどうする?」

 少々早口で、長谷川が捲し立てる。そんな様子がちょっとおかしくて笑ってしまう。

「確かに、然しもの木更ちゃんもしんどいや。アヴェンジャーに高嶺一派。課題は山積みだ」

「木更ちゃんは強いけど、今回の案件はかなりハードだ」

 長谷川が考え込む。ややあって、何らかの結論に至ったようで、再び口を開いた。

「やっぱり、頼れる仲間が必要だね」

「魔防課のみんながいるじゃん」

 即座に突っ込みを入れる。

「いや、それはそうなんだけどさ。今S区で動ける中で、君が背中を安心して預けられるような者がいるかい?」

「うっ……」

 良くないことに、答えに詰まってしまった。頼りないとまで言うつもりはないが、ただでさえ慢性的な人手不足な魔防課。優秀な魔法使いは、他の案件で手一杯のことが多い。結果として、動員できる魔法使いは、強敵と戦わせるには心許ない。

「……手段は選んでいられないか」

 長谷川が小声で何やら呟いていた。

「とりあえず、僕の伝手を当たってみる」

「そこそこに期待して待ってるよ」

 お疲れ様、と長谷川が労いの言葉をかけてくる。

 今日はいろいろありすぎて、さすがに疲れた。帰ってさっさと眠りにつくことに決めた。

 日は西の地平に傾き、街は闇色に染まっていく。

 長い一日だったが、これは始まりに過ぎない。激闘の日々の予感が、木更の胸に去来した。


◆◆◆


 アヴェンジャーや高嶺一派と接触して、数日が経過。お昼前、木更はなぜか病院に来ていた。いわゆる療養型の病院だ。外壁はいかにも年季の入った汚れ方をしているが、評判自体は悪くないらしい。

 別に体調が悪いというわけではない。どういう経緯かは知らないが、協力者と引き合わせたい、と突然長谷川が言い出したのでここに来ている。しかし、病院で引き合わせようとする長谷川の神経がよくわからない。

 正面玄関にある窓口で手続きを済ます。どういう伝手があるのかはわからないが、長谷川が手を回しているようで、ここらへんはスムーズだ。まもなく手続きが完了し、受付で教えられた部屋へ向かう。

「失礼します」

「失礼するなら帰ってくれ、というのはつまらない冗談か」

 木更の挨拶に応えたのは、意外な人物だった。

「秋吉……⁉」

 高嶺一派の一人。先日戦って間もない相手である秋吉が椅子に座していた。

 思わぬ邂逅に身を強張らせる木更に、秋吉は両手を上げて戦意がないことを示す。

「そう身構えるなよ、サラマンダー。まさかこんなところで戦うつもりはないだろう」

 状況を掴めていない木更に、秋吉が語りかける。

「まあ、なんだ。君やアヴェンジャー相手に逃げ帰ったのが、高嶺の癇に障ったらしい」

 やれやれと言わんばかりに、秋吉は首を振る。

「そんなときに、どこから俺の居場所を掴んだかは知らないが、あの長谷川って刑事に誘われてな。元々、俺は強いやつと闘えさえすれば良いんだ。アヴェンジャーの狙いも高嶺のようだし、こっちにつく方が良い闘争に巡り合えそうだと考えたわけだ」

 唖然として秋吉をまじまじと見つめる木更に対し、秋吉は快活に笑った。

「というわけで、よろしく頼む」

 秋吉が握手を求めて、手を差し出してくる。

「いや、ありえないでしょ。何当たり前のように、和解する感じになってんのさ」

 木更が冷静に指摘する。長谷川が誘ったとのことだが、あの男はいったい何を考えて秋吉を取り込もうなどと考えたのか。

「そう冷たいことを言うな。拳を交わし合った仲じゃないか」

「拳を交わし合った仲だから警戒してるんだよ」

「価値観の相違というやつか」

 話が噛み合わず、木更は開いた口が塞がらないでいた。

 ポケットから携帯を取り出し、長谷川の番号にかける。電話はすぐにつながった。

「そろそろ電話が来る頃だろうと思ってたよ」

 長谷川の第一声は、こちらの行動を見透かしているようだった。少しイラっとしたが、構わず続ける。

「協力者に会いに来たのに、秋吉がいるんだけど。高嶺一派の」

「だから、そういうことさ。彼が協力者で間違いないよ。昨日の敵は今日の友というだろう? 人の関係は移ろいやすいものさ」

「柔軟な考え方は嫌いじゃない。それはそれとして、バチバチに戦り合って間もない相手と、今日から仲良しこよしで手を組めというのは無理があると思うんだけど」

 長谷川の主張に、木更は喰ってかかる。すぐに長谷川の反論が返ってきた。

「木更ちゃんの力を疑いはしない。それでも、僕たちが相手にしなくてはいけない敵は相当に危険だ」

 その声には、先ほどまでにはない真剣さがあった。

「我が魔防課はいつだって人手不足。少しでも有力な魔法使いは引き込んでおきたいのさ」

 それに、と長谷川が続ける。

「その病室に女の子が寝ているだろう。その子がいる限り、彼は我々の味方でいてくれるよ」

「は?」

「詳しくは秋吉に聞いてくれ」

「ちょ、ちょっと」

 呼び止めようとするも、空しく通話は切られてしまった。長谷川の言う通り、部屋には少女がベッドで眠りについている。

「その子がいる限り、私たちの味方でいてくれるってことだけど、どういう事情?」

 秋吉に問いかけると、彼の瞳はかすかに不平の色が窺えた。

「一応言っておくと、俺の妹ではないし、増してや年下の恋人ということもない。まったくの赤の他人。少なくとも、彼女は俺のことを何も知らない」

「赤の他人ならば、わざわざお見舞いに来ない」

 秋吉の顔が歪む。快活な彼らしくない、重苦しい雰囲気を纏っていた。

「この子は俺のせいでこうなっている。もう一年は目を覚まさない」

「秋吉のせい?」

「そう。ここに来てるのは、懺悔みたいなもんだ。どこまでいっても自己満足に過ぎないってのはわかってるんだがな」

 木更も秋吉にならって、椅子に腰を下ろした。

「敵同士ではあるけど、病院ではノーサイドだ。何はともあれ、事情を聞かせてもらってもいいかな」

「会って間もない俺のことなんて、興味も湧かないだろうに。若いんだから、もっと面白い話をした方がいい。例えば、君に彼氏がいるのかとか」

「そういうのセクシャルハラスメントだから、気を付けてね」

「コンプライアンスってやつか。厳しいね」

 話題を逸らす冗談を切り捨てる。

「一応、秋吉のざっくばらんな素性は長谷川から聞いてる。元ミドル級ボクシングの……何たらかんたらチャンピオンだったんだっけ?」

「なんだそりゃ。東洋太平洋チャンピオンだ。アジア圏の王様だから、それなりに凄いぞ」

「それそれ。だけど、交通事故に巻き込まれて、後遺症で左腕が神経麻痺。ボクサーを引退するしかなかったってことまでは知ってる」

「結構言いにくいことをはっきり言うんだな」

 秋吉の苦笑いに、木更は不敵な笑みでもって返す。

「気を使ってあげられるほど、気安い関係でもないからね」

 秋吉は押し黙る。ややあって、その重く閉ざされた口を開いた。

「男の自分語りほど退屈なものはないが、少し語るとしよう」

 木更は素直に秋吉の話を待った。

「俺には才能があった。世界王座だって当然のように届くものだと信じて疑わなかった」

 トントン拍子で東洋太平洋王座についている実績がある以上、自惚れでないことは木更も理解している。

「間違いなく、ボクサーとしての最盛期だった。世界前哨戦を控えた俺は、交通事故に遭い、後遺症で左腕に神経麻痺だ。今でも指輪がなければ、この左腕を自在に動かすことはできない」

 当然、ボクサーとしての復帰は不可能だ。

「まあ、交通事故と言っても、別に轢かれたわけじゃない。居眠り運転のトラックが信号無視して突っ込んできたんだ。全くふざけてる」

 秋吉の視線がベットの上の少女に移る。

「ちょうどその進路にあの子がいた。俺は天才だったから、素早く反応して駆けだした。ギリギリのところで、トラックの進路から助けるところまではよかった」

 自嘲気味に秋吉が言う。

「問題はその後だ。あの子を抱えて飛んだ俺に、その後のことを考えるだけの余裕はなかった。結果として、俺は左半身から地面に落ち、左腕はこの様だ。彼女は頭部を強く打ちつけ、昏睡状態に陥ってしまった」

 後悔がその顔に暗い陰を落としていた。きっと、数えきれないほど後悔したのだろう。

「再起不能になったのは、構わない。自分で選択した結果に過ぎないからな。けど、ボクサー生命を犠牲にしてまで、一人の女の子を救えなかったのはさすがに堪えた。救おうとするなら、ちゃんと責任もって救ってみせろって話だ」

「でも、秋吉がいなければ、彼女は死んでいたかもしれないわけじゃん。秋吉が責任を感じることじゃない」

「理屈だけで言えば、そうなんだろうな」

 秋吉は同意する。

「だが、君とて本当にそう思っているわけじゃないだろう。好き好んで危険に身を晒し、誰かを助けようとするような人間ならば」

「……そうかもね」

 自分で言っておいてなんだが、おそらく秋吉と同じ立場にいたならば、木更も自責の念に駆られていただろう。誰かを守りたいと思い、魔防課に所属している木更だからこそ、秋吉の後悔が痛いほどにわかってしまう。

「結局のところ、問題はそこじゃない。俺自身が納得できてないんだ。いっそ、誰かが咎めてくれたなら、とさえ思うよ」

 少女の親族でさえも、秋吉を非難しようとはしなかったのだろう。自責の念は、完全に行き場を失っていた。

「俺は半端者だ。手に入れようとしたもの、守ろうとしたものを全て取りこぼした。結局、俺は何一つ成し遂げちゃいない」

 秋吉は拳を強く強く握る。

「この指輪を手に入れて、魔法が使えるようになったときは、思わず笑った。一年前にこれがあれば、全て上手くいっていたのにってな。神様ってやつも、間が悪い。悪すぎる。たらればに意味なんてないとわかってはいるが、恨み言は出てきてしまう」

 己の身を切るような秋吉の独白は続く。

「他にやることなんて何もない。せっかく魔法使いになったのだから、最強なんてものを目指してみようと思ったわけだ。どこまで行っても自己満足にすぎないが、このまま何も成し遂げずに終わったら、俺は俺の存在価値を見出せない」

 そういえば、秋吉とはじめて会ったとき、彼は最強を目指していると確かに言っていた。

「この力で人助けをしようとは思わなかった。すでに一人を取りこぼしていたからだ。堕ちるならば堕ちるところまでと、高嶺のような外道とも手を組んだりもした。あいつの情報網はなかなかに便利だったからな。自分で言うのもなんだが、半分自棄だった」

 少女を救えなかったという後悔は、抜けない楔として秋吉の心を蝕み続けていたのだ。

「戦ってみてわかった。アヴェンジャーは、俺の知るどんな魔法使いよりも強い。あれに勝つことができれば、きっと俺は自分を認めることができる。満たされることのなかった心を、やっと満たすことができる」

 秋吉は小さく息を吐いた。

「この子がいれば俺が味方でいるってのは、そういう取引を長谷川と交わしたからだ」

「取引?」

 秋吉の言葉を反芻する。

「あの男は協力の交換条件として、この子の治療を約束した。現代医学では治せなくとも、魔法ならば治しうる。その伝手を当たってみる、とな」

「それ、は」

 木更は次の句を継げずにいた。それを察したように、秋吉が言う。

「期待しても徒労に終わるだけ、と考えているのだろう?」

 無言が肯定となった。

「魔法使いが増加傾向にあるとはいえ、それでも人口比で言えば微々たるものだ。その上、魔法は千差万別。特定のカテゴリの魔法使いを探すのも一苦労だというのに、治癒の魔法なんてものを使えるのは極端に数が少ない。それも、外傷を治すのが精々といったものばかりだ」

 秋吉の理解は正確だった。千差万別な魔法の中でも、治癒に該当する魔法を使える人間は本当に数限られているのだ。

 だが、と秋吉が続ける。

「駄目で元々。これ以上状況が悪くなるでもない。別に高嶺に借りがあるわけでもないし、強敵と戦えるならば俺はそれでいいからな」

 秋吉は小さく息を吐いた。

「つまらない話を長々と悪い。俺が語れるのは、これくらいのものだ」

 秋吉の話が終わり、少しの沈黙。

 次に口を開いたのは、木更からだった。

「ちょっとかける言葉が見つからないけど、大変だったんだね」

「君が気にすることではない。これは俺の問題だ」

 同情など要らないと、そういうことだろう。これ以上踏み込むべきではない。

「だいたい事情を理解してもらったと思うが、俺と組むにはまだ抵抗があるか?」

「そりゃ抵抗はあるけど、もういいよ。慣れ合わない程度によろしくね」

 木更は仕方ないとばかりに頷いた。

 秋吉が話を切り替える。

「今後の方針だけど、俺たちはアヴェンジャーと高嶺たちを追うってことでいいんだよな?」

「そうだけど、秋吉は高嶺の居場所とか知ってるんじゃないの?」

「いいや。あいつは基本的に複数の拠点を転々としているからな」

「なるほどね」

 易々と尻尾を掴ませてくれるような間抜けではないらしい。

「ああ。そういえば、桜江っていたろ。あのメルヘンなやつ」

 今思い出したかに秋吉が言う。当然、木更も覚えていた。

「あの悪趣味な女ね。忘れたいくらいだけど、残念ながら覚えてる」

「あいつも君相手に無様を晒して、隠れるようにどこぞへ逃げ出したらしいぞ」

「大した小物っぷりだね。呆れを通り越して尊敬するよ」

「気持ちはわからんでもないがな。高嶺は役立たずには容赦がない。無能と判断すれば、即座に切り捨てるようなやつだ。女王様のご機嫌を損ねれば、どんな目に遭わされるかわかったもんじゃない」

 それはともかく、と秋吉が会話を切り替える。

「高嶺たちよりも、俺はアヴェンジャーのことが気になる。あの子は桜江を狙って、俺には見向きもしなかった」

「殺人鬼の考えなんて、想像するだけ無駄だと思うけど」

「いいや、あれは快楽殺人鬼とは違う。何か明確な行動指針の下、行動してる……ように思う。うまくは言えないが」

「どうしてそう思うのさ?」

「そりゃ、拳を交わした相手だからだ」

「いや、当然のように言われてもね。木更ちゃんに、そういうのはいまいち理解できませんよ」

 特段の意味があるわけでもないだろうと結論付けた木更は、それ以上深堀はしなかった。

「まっ、焦る必要はない。どう考えても高嶺とアヴェンジャーは反目し合ってる。必ずどちらかが先に動くさ」

 話を切り上げ、秋吉が椅子から立ち上がる。

「今やるべきことは一つだろう?」

 何が面白いのか知らないが、秋吉は白い歯を見せて笑っていた。


◆◆◆


 緑あふれる都内の庭園。吸い込む空気は実に清々しい。ここはS区有数の名所であり、人通りも多く、賑わっている。病院からここまで、準備運動ついでに走ってきたが、同伴する秋吉は息一つ切らしていない。大したものだ。基礎体力がしっかりしている。普段から鍛えていないと、とてもこうはいかない。

「ほらよっと」

 秋吉が自販機でミネラルウォーターを二本購入し、一本を無造作に投げてきた。片手で掴み取る。我ながらナイスキャッチ。内心でガッツポーズを決める。

「ありがと」

 素直にお礼を言う。

「水分補給だけはしっかりな」

 蓋を開け、ミネラルウォーターに口をつける。火照った体に、よく冷えた液体が心地よい。

「やあやあ、お二人さん。どうやら打ち解けてくれたようだね」

 一息ついているところに話しかけてきたのは、長谷川だった。

 木更は目つきを細め、長谷川に詰め寄った。小声で話しかける。

「秋吉から聞いたけど、治癒の魔法使いなんて心当たりあるの?」

「あるよ」

 当然だと言わんばかりに長谷川が答える。

「意識不明の重体を治せる魔法なんて聞いたことがないんだけど」

「何とかするさ。君は心配しなくてもいい」

「吐いた言葉には責任が伴うってことだけは忘れないでね」

 念を押すと、長谷川は薄い笑みを顔に貼り付けていた。どこまでも飄々としている長谷川に、これ以上の追及は無駄だろう。

 軽く準備運動を済ませた後、秋吉が口を開く。

「さてと、それじゃさっそくやるとしようか」

 秋吉が手にしていたミネラルウォーターのボトルを地に置く。

「そうだね。本当は人気のないところにすべきなんだろうけど、ここならばのびのびと戦える」

 木更も、ボトルを長谷川に預け、秋吉と相対する。

 指輪を起動し、構える。秋吉も、オーソドックスなファイティングポーズを取る。互いに準備は整った。

 長谷川が待ったを入れる。

「えーっと、始まる前に再確認。互いに魔法はなし。純粋な身体強化のみで戦うこと。僕が合図したら即座に戦闘をやめること。ちゃんとルールを守って、楽しく戦うこと。以上」

 長谷川が説明を終え、距離を取る。魔法を制限されていても、近場にいては巻き込まれる危険性がある。戦う者同士が優れた魔法使いであるならば、なおさらだ。

「いくよ」

 立ち上がりはゆっくり。木更は秋吉に向けて、歩を進める。秋吉の間合いに入る直前、木更は加速して懐に潜り込もうとする。

 しかし、そう簡単にはいかない。秋吉お得意の高速左ジャブ。両手を盾にして、被弾は覚悟で進む。しかし、秋吉の左拳の軌道が変わった。木更の防御を回り込むようなフックが、木更の側頭部を襲う。体勢を崩されたその隙を逃さず、秋吉の右ストレートが飛んでくる。

 左手による攻撃は多少もらってもいいが、利き手である右の大砲をまともにもらうわけにはいかない。隙ができれば秋吉はきっと右ストレートを打ってくる。想定はしていたので、木更は素早く左手で秋吉の右手をかちあげた。タイミングを合わせられるかどうかは賭けだったが、うまくいった。

 秋吉の顔に驚愕が見えた。この至近距離。絶好の機会を逃しはしない。右の拳を、秋吉の腹部に向けて突き出した。

 今度は木更が驚愕する番。木更の右手を、秋吉の左手が受け止めていた。

 互いに、即座に次の行動に移る。木更は左の膝蹴りを、秋吉は右のショートアッパーを繰り出した。同時に被弾。強烈な一撃が木更の脳を揺らすが、何とか耐える。

このままでは危険だと判断し、すぐさま後ろに飛び退く。ほぼ同じタイミングで秋吉も背後に下がっていたようで、秋吉とは大きく距離を離している状態となった。最初の攻防は、痛み分けといったところか。

「やるね。さすがは東洋太平洋チャンピオン様」

「元、な。あんまり凄さもわかってないだろ」

 軽口を叩き合う。

 修練が目的とはいえ、秋吉との戦いは白熱したものとなった。高速の左ジャブで距離を測り、右の大砲を打ち込む機会を窺う秋吉。対して、木更は多少の被弾も覚悟で、好機を逃さず攻撃を重ねていた。

秋吉の重厚な格闘技歴から来る戦闘技術は瞠目に値するが、魔法使いとしての戦闘歴は木更の方が上だ。第一線で戦い続けてきた経験が、秋吉と渡り合うことを可能にしていた。

 ほとんど互角の戦いが繰り広げられ、攻防は激しさを増す一方だった。

 拳がぶつかり合い、互いに大きく弾き飛ばされた。すぐさま、次の攻防に移るために体勢を整える。

「ここまでにしようか」

 長谷川が、二人の間に割って入った。

 不完全燃焼だと言わんばかりに、秋吉が不平を漏らす。

「止めてくれるなよ。今盛り上がってきたところなんだ」

 子供のように無邪気に、それでいて獣のように獰猛に、秋吉は笑っていた。

「二人とも白熱しすぎだ。これ以上は訓練じゃなくなってしまう。それに、ほら」

 長谷川が周囲を見渡すように促してくる。

 言われて見れば、木更たちを中心として、見物客が集まってきていた。

「魔法使いの喧嘩なんて今じゃ珍しくもないが、あまり目立ちすぎるのも良くないだろう」

 長谷川の指摘ももっともだ。周りが見えていなかったことに、木更は自省する。

「休憩にしよう」

 木更が言うと、仕方がないとばかりに秋吉は頷いた。

 長谷川からミネラルウォーターを受け取り、口に含む。疲れた体に、水分が染みわたる。

 一息ついたところで、木更は口を開いた。

「本当に強いね。秋吉の方が一枚上手だった」

 木更は、自分の分析を述べる。

「秋吉はボクシングだけで戦っているのに、ほとんど互角だった。自惚れてるわけじゃないけど、それなりに強いって自負があったから、ちょっと落ち込むよ」

 木更は手足を使っての攻防を行っていたが、秋吉の攻撃は両の拳のみだった。それが秋吉にとって最適化されたスタイルであることはわかっている。だが、ボクシングルールの制限がある状態でも互角ということは、単純な戦闘技術で秋吉の方が一歩先を行っているということに他ならない。

「そう嘆くこともない。君だって、大したもんだ」

 秋吉は自慢げに鼻下を擦りながら、そう言った。

「ボクシングだけで戦うってのは、必ずしも不利な条件とは限らない」

 秋吉の持論が展開される。

「選択肢を絞り込むことで、必然的に選択までの時間が短縮される。刹那の間で攻防を行う魔法使いにとって、その恩恵は決して小さなものじゃない」

「なるほどね。思考の最適化ってことか」

 木更は納得する。魔法使いの戦いは、刹那の世界。秋吉の言う通り、一瞬の判断が勝敗を分ける世界なのだ。

「いや、待てよ。それならば、もしかして……」

 秋吉が何かに気づいたように思案に耽る。

 思考の邪魔をするのもなんとなく気が引けたので、長谷川に話を振る。

「どうだった?」

 雑に感想を求める。

「うーん、素人目にはなるけど、出力は木更ちゃんの方が上で、立ち回りでは秋吉の方が上って感じかな」

 長谷川の感想は的確だろう。多少の被弾をもらっても強引に攻めることができたのは、出力が木更の方が上だったが故。加えて、立ち回りでは上を行かれているのは、木更自身も認めていることだ。

「思った通り、木更ちゃんの訓練相手として、秋吉は最高だ。魔法抜きでも、木更ちゃんに追いすがることのできる相手なんてのは、そうそう見つからないからね」

「それは光栄だ。俺も良い経験させてもらってるよ」

 考え事が終わったらしい秋吉が会話に入ってくる。

「魔法使いとしての戦歴で言えば、俺はまだまだ新米だからな。模擬戦とはいえ、強敵との戦いは願ってもない」

「もう敵ではないでしょ」

「おっと、ついうっかり」

 木更が突っ込みを入れると、秋吉はおどけてみせた。味方と言うほど信用を置けるわけでもないが、秋吉の人柄は好感を持てるし、あえて警戒するような真似は要らないと感じていた。

「で、大事なのは、アヴェンジャーに勝てるかどうかなんだけど」

「あー……」

 秋吉が、言葉を選んでいるかのように少し難しい顔をする。

「まあ、ご機嫌取りをしても仕方がないからはっきり言うが、アヴェンジャーには勝てないだろうな」

 直球の答えが返ってくる。

「あの子は、ちょっと常軌を逸してる。出力、身のこなし共に俺たちよりも上だ」

 秋吉の言う通り、魔法抜きのスペックだけを比較すれば、アヴェンジャーは明確に格上だ。

「シンプルに速くて、硬くて、強い。だけど、それ以上に得体が知れない」

「君もそう思うか」

 木更の言葉に、秋吉が同意する。

「得体が知れないって、どういうこと?」

 一人だけ話についてこれてない長谷川が、疑問の声を上げる。

「優れた魔法使いは、己自身の魔法を紡ぐ。だけど、行使できる魔法は一人につき一つだ」

「魔法使いの大原則だね」

 木更の説明を受け、長谷川が頷く。

 もちろん、その魔法の汎用性によってできることの幅に違いはある。例えば、桜江の「お菓子」の魔法は、そのカテゴリ内でかなり応用の効く戦い方を可能としていた。だが、そのカテゴリを外れた使い方ができるわけではない。

「だけど、アヴェンジャーは、系統の違う二つの魔法を使っている。血液操作と肉体の超速再生だ」

「へ?」

 長谷川が間抜け面になる。無理もないことだ。二つの魔法を行使するなど、聞いたことがない。

「実際に俺とサラマンダーが見てきたから、間違いない」

 秋吉が証人として言う。

「どちらも己の肉体に作用する魔法ではあるけど……ふむ」

 長谷川が考え込む。

「あくまで仮説に過ぎないけど、アヴェンジャーは解離性同一性障害。要は、多重人格者なのかもしれない」

 ややあって、その考えを口にする。

「原則には、何事も例外がある。多重人格の魔法使いは、その身に全く異なる魔法を有することがあると聞いたことがある。めったにない例には違いないけどね」

「なるほど」

 木更は相槌を打つ。

「一人の魔法使いに一つの魔法、というより、一つの精神に一つの魔法ってわけか」

 そこに、秋吉が異を唱える。 

「拳を交えれば、相手のことはなんとなく理解できる。戦い方から、そいつの生き様が垣間見えるからだ。アヴェンジャーはおそらく本気じゃなかったからあまり自信はないが、少なくとも多重人格って感じではなかったな」

 秋吉お得意の、拳を交わせば相手を理解できる理論が飛び出した。

「さっきは適当に流したけどさ……一般的に殴り合いで他人を理解することはできないよ?」

「えっ?」

「……もしかして、本気?」

「いや、本気も何もないと思うが」

 心底不思議そうな顔をする秋吉。木更は呆れ顔になる。

「質問を変えるけど、正気?」

「……なんか、憐れまれてるような気がするんだが」

「残念だけど、私は今、秋吉の脳の実在を疑っている」

 子芝居じみてきたので、話題を変えることにした。

「アヴェンジャーの魔法の秘密がなんであれ、勝たなきゃいけない強敵って事実は変わらない」

 血液の魔法はどこまでの汎用性があるかわからないが、木更の炎を真正面から相殺するだけの効果がある。

それに加えて、超速再生は厄介な魔法だ。たたでさえ有効打を与えるのが難しい相手なのに、ダメージを与えたそばから回復されてしまうのなら、やりにくいにもほどがある。無論、魔力が尽きるまでという限界があるだろう。だが、生け捕りにしようとするならば、相当な苦戦を強いられることになるだろう。ただでさえ、地力は上を行かれていることもある。

「だいぶしんどいなぁ……」

 思わず、泣き言が漏れる。そんなこと言ってる場合でもないわけだが、しんどうものはしんどいのだ。

 さて、と秋吉が言う。

「そろそろ続きと行こう」

 秋吉が、再び構えを取る。しかし、長谷川が待ったをかける。

「いったんここから離れよう。やっぱり屋外での訓練は目立ちすぎる」

「確かにね」

 木更は周囲をぐるりと見渡す。こうも野次馬もとい見物客が多いと、気が散ってしまう。

「それなら、ここからそう遠くないところに、俺の馴染みのボクシングジムがある。そこにお邪魔するとしよう。今となってはリングも狭苦しく感じるがな」

 秋吉がそう提案する。

「いきなりお邪魔してリング貸してもらうの? さすがにそれは厚かましいんじゃない?」

「こちとら元東洋太平洋チャンピオンぞ?」

「権力にまたがる男の人ってかっこ悪いよ」

 木更の諫言が効いたようで、心なしか肩を落とす秋吉。感情表現が分かりやすい男だ。

「さあ、そうと決まればさっさと移動しよう」

 長谷川がぱんと手を打ち鳴らす。訓練を再開するために、秋吉の案内に従い、馴染みらしいボクシングジムに向かうことにした。

 

◆◆◆

 

 長谷川たちと別れ、特段木更が出向かねばならないような案件もなかったので、木更は大人しく帰ることにした。

 現在、その道中。

「いちちちち……いくら練習とは言っても、可憐な少女の顔をこうも殴りますかね、秋吉のやつ」

 痛みの残る頬を手で押さえ、独り愚痴を零す木更。

 秋吉との模擬戦闘は、周囲に近しい実力者がいなかった木更にとっては、願ってもない。それはそれとして、こうも殴られては文句も言いたくなるというものだ。木更としても遠慮なく戦ったので、痛み分けではあるのだが。

 秋吉は手加減なんて言葉とは無縁の男であるようで、こちらがまだ中学生程度の女子であることなどお構いなしだ。男女平等と声高に謳われる世の中ではあるが、秋吉は良くも悪くもその理念を体現しているように思える。

 木更個人としては、そういう秋吉の気質は嫌いではない。むしろ、好ましくさえ思う。戦いに身を投じる以上、性別は言い訳にならない。

 秋吉は、自らがどこまで高みを目指せるかを試すために、ただ真っ直ぐであるだけなのだ。拳を交わしたから、なんて言うつもりはないが、この短い付き合いでもその実直さは伝わってきた。

「負けてらんないや」

 シュッと拳を前に突き出す。

「何に、ですか?」

 後ろから可愛らしい声。

 はっとして振り向くと、そこには笑顔のアンナがいた。しかし、木更の顔を見て、慌てた様子を見せる。

「ど、どうしたんですか、その痣!」

「ああ、これ?」

 木更は、顔の痛む場所を指さして言う。

「ちょっと訓練が盛り上がってね。心配しなくても、一晩寝ればすっかり元に戻ってるよ」

 魔法使いは自然治癒力一つとっても、常人とは一線を画する。その回復速度には個人差があり、魔力の多寡によって左右されるのだ。魔法使い有数の出力を誇る木更ならば、大抵の傷は一日もあれば回復する。アヴェンジャーの魔法による超速再生はさすがに異常に過ぎるが、あれは例外中の例外なので、比較する意味はない。

「それはそうでしょうけども……」

 アンナも魔法使いだから、そのあたりは理解しているのだろう。それでも、不安を隠しきれていないようだった。

 連絡先を交換して数日の相手をここまで心配するのは、この子の優しさの表れだろう。つい笑みが零れる。

 アンナの頭に手を置き、ぽんぽんと優しく叩く。

「よしよし、私のことを心配してくれているのかい? アンナは優しい子だねぇ」

 なんとなくおばあちゃん口調になってしまったので、真面目な口調に戻す。

「このくらいの傷なんて今更気にもならないし、気にしていられる立場でもないからね。大丈夫、私は強いから」

 それを聞いて、アンナは少し寂しげな影をその目に宿した。

 暗い話をしていても仕方がない。木更は別の話をすることにした。

「せっかく会えたことだし、このままどっかご飯でも食べに行く?」

「そうですね」

 アンナは小さく手を打ち鳴らした。

「今日は私に付き合ってもらえますか?」

 

 木更とアンナは近場のスーパーに立ち寄っていた。アンナは手際よく、生鮮食品を買い物かごの中に放り込んでいく。

「アンナの手料理には興味あるけどさ。やっぱりそこらへんのお店に入って食べた方が、手間もかからなくて良くない? 食材を余らせてもなんだしさ」

 アンナは、この前ラーメン屋でごちそうになったお礼がしたいと、手料理を振る舞うと提案してきた。それはいいのだが、やっぱり外食の方が何かと都合がいいと思ってしまう。

「自分で作る方が栄養バランスも良いですし、安く済みます。第一、木更と私二人で、食材が残るなんてことあると思います?」

「それを言われると、う~ん」

 アンナは言うまでもないが、木更自身も大概の大食いだ。魔法使いは平均以上の健啖家が多く、その中でも木更たちは群を抜いている。結構な量を拵えても、アンナの言う通り食べ残すなんて事態にはまずならないだろう。

「木更はちゃんと自炊してますか?」

 アンナの問いに、木更はさっと目を逸らす。ぴゅーぴゅーと下手な口笛を吹いてみせると、アンナは呆れ顔でこちらを見ていた。

「その反応、そんなに後ろめたい食生活してるんですか?」

 誤魔化してもしょうがないので、正直に答えることにする。

「コンビニと外食三昧。一応野菜はしっかり取るようにしてるよん」

 人差し指で頬を掻きながら苦笑する。一人暮らしというのもあるが、年頃の女子としては褒められたものじゃない食生活であるという自覚はあった。

「体は資本。健康は健全な食生活から、ですよ」

 アンナが頬を膨らませながらぷんすかしている。餌を口に入れたままのハムスターのようで可愛らしい。それを口にしたら怒られそうなので、胸の内に留めておいた。

 アンナは手慣れた様子で買うべきものを選んでいく。調味料コーナーに寄ったところで、木更の方に向き直った。

「煮物も作ろうと思うんですが、何か足りてない調味料はありますか?」

「調味料かぁ」

 少しだけ考えて、すぐに木更は答えた。

「何が足りてないのかわかんないや。多分醤油くらいはあったと思う」

 あはは、と笑う。対照的に、アンナは若干引き気味になっていた。

「だいたいわかりました。とりあえず必要そうなものは全部買いましょう」

「面目ない」

 別に謝る必要もないはずなのだが、なんとなくアンナの圧に負けて謝っていた。

「……さすがに、調理器具の類はありますよね?」

 訝し気に尋ねてくるアンナ。

「いくらなんでもそりゃあねぇ。調理器具くらいある……はず、多分、おそらく、メイビー」

 自信なさげに答える。長谷川が、実際に使わなくともとりあえず買っておいた方がいいというので、揃えた器具があったはずだ。

 アンナはこれ見よがしに嘆息した。

「大人になった木更のことが、今から心配になってきました」

「よ、よせやい」

 仕事で忙しくて、割と私生活はおざなりにしているため、強く反論できなかった。

「それにしても、アンナは手慣れてるね。そんなに普段から料理することがあるの?」

 自分と同じくらいの年では珍しいと思い質問すると、アンナの顔にわずかながら影が差したような気がした。

「はい、家では私が作ることが多いんです」

 そう言うアンナの顔には、暗い影は見当たらなかった。見間違いだったのかもしれない。

「ねえアンナ」

「はい」

「お菓子買ってきていい?」

 スーパーで自炊のための買い物などしたことないため、何を買うべきかなど全然わからない。木更は暇を持て余していた。

「夕食もあるんですから、あまり買いすぎちゃダメですよ」

 お母さんみたいなことをアンナが言う。甘いものは別腹だから、そこらへんの心配は無用なのだが。

「はーい」

 素直に返事をして、木更はお菓子売り場に向かった。

 

 所変わって、木更のマンション。

 テーブルに所狭しと並べられた料理を、二人はぺろりと平らげた。

 木更は自分のお腹をぽんぽんと叩き、満足げに椅子に背中を預けていた。

「満足満足大満足」

 味には別段うるさくない木更だが、アンナの作る料理にはとても満足した。決して豪勢な献立ではないが、地に足がついた美味しさというか、家庭的で落ち着くような味というか、とにかく木更はアンナの料理が気に入っていた。

 首だけアンナの方に回す。

「アンナ、うちの専属シェフにならない? 報酬は弾むぜぃ」

「ふふ、満足いただけたようで何よりです」

 食後のお茶を楽しんでいたアンナが、にこりと微笑みを返す。

「でも本当に大したもんだよ。アンナは将来きっと良いお嫁さんになるね、私が保証する」

 はっと思い直す。

「いや、うちのアンナを嫁にやるなんてとんでもない。お父さん絶対許しませんよ」

「ど、どういうことですか……?」

 食後の幸福感で、思考がおかしくなっていた。よくわからないことを口走っている。

 時計を見ると、もう夜もいい時間になっていた。

「せっかくだし、今日は泊ってく?」

 木更はそう提案した。アンナは目も覚めるような美少女だ。夜一人で帰して、危険な目に遭う可能性は十分にある。

「お気遣いは嬉しいですけど、お邪魔になるのも申し訳ないです。それに、一応私も魔法使いですから」

 アンナの言う通り、いざとなれば指輪の力で暴漢相手だろうとどうにでもなるだろう。だが、それはそれでやっぱり気が引けるもので。

「あ」

 肝心なことを忘れていた。

「アンナは学校があるのか」

 明日は平日。学校なんてしばらく離れていたから、すっかり失念していた。

「いえ、そっちの心配はないんですが……」

「あれ、そうなの?」

 木更は意外そうに言う。

「はい。ちょっと事情がありまして」

「ふーん」

 深入りすべきではないと判断し、追求は避ける。人間誰しも触れてほしくないことはある。藪蛇でアンナの機嫌を損ねたくはなかった。

「じゃあ、いいじゃんいいじゃん。着替えとかは貸すし、予備の布団もあるから。女子二人仲良くお泊まり会と洒落込もうよ。もちろん、予定が入ってるなら無理にとは言えないけど」

 同年代の子と一緒にいる機会などなくなってしまった木更にとって、アンナと過ごす時間は悪くなかった。早い話が、ちょっと浮かれ気味なのだ。

「ふふ、そうですね。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

 そう言って、アンナはぺこりと頭を下げてきた。

「そうこなくっちゃ! ……残念ながら、娯楽の類は皆無な部屋だけどね」

 部屋をぐるりと見回して言う。

 木更の部屋は、率直に言って殺風景だ。趣味を窺わせるようなものは何一つなく、独身男性の部屋の方がまだ彩りがある。別に散らかっているわけでもないのが、さらに生活感のなさを感じさせる。娯楽になりうるものといえば、申し訳程度に置かれたテレビくらいだ。

「職場の人にも、もう少し華やかさがあった方が良いって言われちゃってね」

「わ、私は飾り気がないのも良いと思いますよ?」

「フォローありがと。でも私は別に気にしてないよ」

 木更にとって、この二年はすなわち戦いの日々だった。家に帰ってきてから何かするほどの体力も余裕もなかった。そんな生活に慣れてきた頃には、何か趣味や娯楽に手をつけようとも思わなくなっていただけのことだ。

「家なんて、寝て休めればそれ以上は必要ない。私の本分は戦うことだから」

 それに、と付け加える。

「今日は可愛い可愛いアンナちゃんもいっしょにいることだし」

 冗談めかして笑うが、アンナは真剣な目で木更に向き合っていた。

「あの……実は私、木更に聞いてみたいことがあったんです」

「いいよ。答えられることなら、なんでも聞いて」

「木更は、どうして戦っているのですか」

 思わぬ問いに、少し面食らう。

「魔防課がどういうところか私は知りません。それでも、とても危険な仕事であることは理解してます」

「そうだね」

 木更は小さく首を縦に振った。魔防課に所属する魔法使いの死亡率は、残念ながら非常に高い。それが人手不足に拍車をかけている。

「位高ければ徳高きを要する、と言います。あなたはとても強いから、弱い人々を守るために戦うのですか?」

 答えに迷いはない。戦う理由なら決まっている。

「少し長くなるけど、いい?」

 アンナがこくこくと元気よく頷いてくれたので、話し始める。

「二年前まで、私はどこにでもいる普通の女の子だった。何一つ不自由なく、とまではいかなくとも、満ち足りた生活を送っていたよ」

 不思議と、とても遠い過去のことのように感じられる。

「あの日は両親と出かけていた。大人気のテーマパークで家族水入らずの時間。間違いなく、私は幸せだった」

 それだけは昨日のことのように鮮明に思い出せた。この先も絶対に忘れることはない。

「犯人は、爆弾の魔法使い。思想なんてものも別にない、国際指名犯。壊したいから壊す、暴れたいから暴れる、犯したいから犯す。暴力衝動の塊のような人。十数年前から被害を出しているにもかかわらず、ずっと捕まっていなかった。質が悪いことに、狡猾なうえに、ものすごく強かった。あちこちで爆発が起こり、飛散した鉄片が瞬く間に命を奪っていった。両親は、私の目の前で爆風に巻き込まれたよ」

 脳裏に焼き付いた悪夢もまた、鮮明に思い出せてしまう。

 アンナは顔を硬く強張らせていた

「私もそのときいっしょに死ぬはずだった。だけど、突然現れた指輪が私を光で包み込み、爆風から守った。それが魔法の指輪だって理解した後は、もう無我夢中だった」

 ただただ目の前の敵を倒すことだけしか考えられなかった。

「魔法使いになったばかりで、加減なんてわかるはずもない。私は両親を奪われた怒りと憎しみに呑まれて、犯人を骨まで灰に帰すほどに焼き尽くした」

 自嘲気味に笑う。未だに心の整理ができていないのだ。当時の木更は、遊園地の惨状の中で、家族を失った悲しみと虚しさに呑まれていた。

「私さ、魔法使いに憧れていたんだ。私も魔法を使って、誰かの役に立てたらいいなくらいに思ってたんだ」

 だけど、木更は知ってしまった。魔法がもたらすのは、希望の光だけではないということを。

「今でも魔法が憎いわけじゃない。魔法が人を殺すんじゃなくて、人が人を殺すんだ。それはそれとして、大きすぎる力は、ときに人を惑わせてしまうことを、身をもって知った」

 力におぼれた人間が引き起こす悲劇は、枚挙にいとまがない。誰もが、力に対して謙虚ではいられるわけではないのだ。

「そこからはいろいろあって、魔防課に拾われた木更ちゃんは正義の魔法使いとして悪をばったんばったん倒してるってわけ」

 重い雰囲気を和らげるために身振り手振り交えおどけてみせたが、アンナを困らせてしまうだけだった。自分には冗談のセンスというものが欠けていると、木更は少しだけ気を落とす。

 こほんと咳ばらい。

「大いなる力には大いなる責任が伴う。魔法という不条理を振りかざすやつらを許さない。私はそういう存在になろうと決めたんだ」

「そうですか」

 アンナの声は重く、静かだった。

「木更の悲しみは木更だけのもの。私が、安易に語るべきではありません。だけど、あなたの過去はあまりにも悲劇的です」

「ありふれた悲劇だよ」

 魔法犯罪は、その数のみならず、凶悪性・悪辣さも年々増してきている。魔法によって大事なものを奪われた人間はいくらでもいるのだ。そんな中で、木更だけ不幸自慢をする気はさらさらなかった。

「だからこそ、私は戦う。誰かが大切な何かを失わずに済むように。悲劇がありふれているこの世界を、少しでもまともにするために」

 あの日指輪に選ばれ、生き残った木更の存在意義。そのためなら、この命を懸けることに何の躊躇いもない。

「東堂木更ちゃんの身の上話、ご清聴ありがとう」

 アンナの入れてくれたお茶をすすり、のどを潤す。

「あなたは善き人です」

 慈愛に満ちたアンナの目が木更を見ていた。

「会えて本当に良かった。あなたなら、私の望みを叶えてくれる」

 意味深なことを口にするアンナ。望みとやらがなんなのか気になり、木更は質問する。

「私にできることなら叶えてあげたいけど、アンナの望みってなんなのさ」

「今は秘密です」

 そう言って、アンナは口元に指を立てた。別に隠さなくてもいいように思うが、まあ何か事情があるのだろう。

「暗い話は切り上げましょ。さてさて、それじゃ木更ちゃんにとっては二年ぶりのガールズトークと洒落込みますか」

 アンナはこくりとうなづいた。

「今日は夜更かししちゃいましょう。とことん付き合いますよ。木更のいろんな話、聞かせてください」


 夜もすっかり更け、時計の針はすでに頂点を回っていた。

 アンナは床に敷かれた布団から、ゆっくりと身を起こし、ベッドで眠りに落ちている木更の側へと歩み寄った。

 客人であるアンナを床で眠らせるわけにはいかないと、木更はアンナにベッドを使うよう勧めてきた。しかし、疲れているであろう木更こそベッドを使うべきであると、アンナも反論した。

 二人の口論は、たかがベッドの譲り合いだというのに、白熱したものとなった。互いに強情なものだから、一歩も退こうとしなかったのだ。年柄にもなく論理立てて言いくるめようとしてくる木更に対して、アンナは恩人への無礼はあってはならないという感情論で攻め立てた。最後は木更が折れて、今の位置関係になった。

 木更の寝顔を覗き込む。会話を切り上げてベッドに横になったのはつい先ほどのことだが、すでに木更の意識は深く沈みこんでいるようだった。アンナといっしょにいるときは微塵も感じさせることはなかったが、やはり魔防課の仕事で疲労しているのだろう。

 木更の穏やかな寝顔を見ているうちに、湧き上がる衝動。駄目だ、今はこれに従うわけにはいかない。大きく深呼吸を数度、気持ちを落ち着かせる。

「あの日、木更と出会ったこと。あれは偶然ではありません……思っていた形とはちょっと違いましたけど」

 木更が聞いているはずもない。それでも、アンナの口は懺悔する罪人のように言葉を自然と紡いでいた。

「あなたと仲良くなって、あなたの信念を聞いて、確信しました。やはり、あなたでなくてはいけない」

 木更の戦う理由を聞いたからこそ、アンナは強く感じていた。

 本当のことを知ったとき、木更はきっと悲しむだろう。ずきりと胸が痛む。こうして親しくなること自体、木更を、そしてアンナ自身を苦しめる結果をもたらすだろう。

これは試練だった。この先、いかなる悪意にも吞まれることのないように。過去の縛鎖を踏みにじって、木更を進ませなくてはならないとアンナは決意を新たにする。

「私は、あなたに殺されなくてはならない。私という罪人は、あなたという善き断罪者に裁かれなくてはいけないんです」

 アンナは泣きそうな顔で微笑んだ。裁きの時は、そう遠くはない。

「それでも、今は、今だけは、この安穏に浸ることを許してください」

 懺悔の言葉は、誰にも届くことはない。

 窓の外に視線を向ける。厚い雲が空を覆い、月光は世界に届かない。アンナの心のうちのように、暗く陰鬱な夜だった。

 

◆◆◆

  

 高層ビル群にも見劣りしない見事な欅が並び立つ街道を、木更と長谷川は歩いていた。

 路に転がる小石を蹴り、木更は口を開く。

「アヴェンジャーと高嶺一派の居場所はまだわからないの?」

「動ける人材総動員してるけど、なかなか尻尾がつかめない」

 長谷川の報告を受けて、木更はしかめっ面になる。駅のターミナルビルでの交戦からしばらく経つが、捜査に進展はないことがもどかしくなる。

「後手を踏んでばかりはいられない。こっちから攻めていかなきゃいけないんだけど」

「手掛かりはなし。こうして地道な調査を行っているわけだ」

 前を歩く長谷川が、木更の方に向き直った。

「次は勝てるかい?」

 その問いが、棘として木更に突き刺さる。

 長谷川はとりつくろうように続けた。

「君は弱くはない。むしろ、魔防課の最高戦力と言っていいだけの強さがある。君のおかげで、街の平和は保たれてきたと言っても言い過ぎではないと思ってる。だけど」

「アヴェンジャーには勝てなかった」

 自虐の言葉が口から漏れる。握る拳にも思わず力が入る。

「私も自分の無力さは、痛いほどに噛みしめてるよ。くよくよしていても仕方がないけど、また戦うことになったとき、勝つイメージが浮かばないんだ」

 これまでも、当時の自分よりも格上の相手と戦うことがなかったわけではない。どんなときも最終的には勝利を収めてきたが、今回の相手は厄介に過ぎる。

 長谷川は、悩む木更に朗らかな笑みで応えた。

「心配はいらない」

 確信めいたその物言いが気になって、木更は問いかけた。

「その自信はどこから来るの。私自身勝てるかどうかわからないって言ってるのにさ」

 長谷川は変わらない調子で言う。

「よく言われることだけど、結局のところ、魔法使いの強さって、ほとんどそのまま心の強さだと思うんだ。発現する魔法はそれぞれ違うけど、君たちの魔力はそのまま精神力の強さを示していて、揺るがない心こそ強い魔法使いの条件なんだってね」

「案外正しいかもしれないって私も思うよ」

 信念のある魔法使いは強い。これまでの戦いの経験からも、木更は何気なしに感じ取っていた。無論、心の強弱なんて主観でしかない以上、その説が正しいかは水物に過ぎないのだが。

「だからこそ、木更ちゃんはきっと誰よりも強い魔法使いになれる。君は、誰よりも真っすぐで折れない信念を持っているんだから」

「お誉めに預かり至極光栄だけど、私自身がそうは思えないんだよなぁ。アヴェンジャーにも負けちゃったし」

「それはきっと、木更ちゃんが本気じゃないからさ」

「本気じゃないって、私が?」

 反射的に聞き返す。

「君はその小さな体に宿す強大な力の危険性を自覚している。だからこそ、犯罪者に対しても、ちゃんと振るう力の量を調整しているだろう?」

「まあ、うん」

 気の抜けた返事を返す。

「本気を出せば君は誰にも負けないさ。だけど、君のその節度が枷になっているんだ」

「節度と言えば聞こえはいいけど、要は甘いってことでしょ」

 嫌な自己分析をする。

「誰かを守るためには、仕方のないこともあるって言う人もいる。だけど、私は人殺しを仕方ないで済ませたくはない」

「木更ちゃんの考え、僕は嫌いじゃないよ」

 長谷川が薄い笑みを浮かべていた。

「とにかく、僕にとっては木更ちゃんが一番強い魔法使いってことさ」

「そこまで言い切られると、悪い気はしないというか、ごまかされてる気がしないでもないけど、う~ん」

 木更は、気恥ずかしそうに髪をわしゃわしゃとこねくり回す。

 ややあって、再び口を開いた。

「アヴェンジャーの信念なんてものは想像もつかないなぁ」

「単なる快楽殺人目的ではないだろうね。事件の被害者が、例外なく魔法使いであったことも無関係じゃないと思う」

「え、初耳なんだけど」

「言ってなかったからね」

「結構重要な情報じゃん。報連相は社会人の基本だって、偉い人が言ってたよ」

「最近判明したばかりだから、そこは容赦してほしいかな」

「なるほどね、そりゃしょうがないや」

 そんな会話をしていると、街道の先、その存在に気づいた。

 手入れがしっかりされた栗色のセミロングの髪の美女。赤のパンツスーツがこれほど似合う存在も珍しい。切れ長の目が、値踏みするように木更を睥睨していた。

 彼女のことを、木更は知っている。

「高嶺京香!」

「お初にお目にかかる、サラマンダー。お前とは是非とも会ってみたいと思っていた」

 高嶺が栗色の髪をさらりとかき上げる。すぐ近くにあるレトロな雰囲気の喫茶店を指差した。

「立ち話もなんだ、そこの喫茶店に入るぞ」

「呑気なものだね」

 木更は指輪に魔力を通す。臨戦態勢は整った。隙を見せれば、一気に片を付ける。

「やめておけ。お前だけならともかく、その冴えない男を庇いながらは戦えんだろう」

「木更ちゃん、周りを見て」

 緊迫感のこもった長谷川の声で、木更も違和感に気づく。往来の人だかりが、いつの間にか木更や高嶺たちを取り囲むように位置取っていた。ぐるりを見渡してみると、十人はいることがわかる。皆、魂の抜けたような虚ろな目をしていて、とてもじゃないが正気には見えない。

「私の魔法は、支配。弱者は、私の奴隷となる。この高嶺京香に相応しい、強者の魔法だ」

 木更は状況を即座に理解する。この人たちは、高嶺の魔法によって操られているのだ。

「わざわざ自分の魔法を教えちゃうんだ。あまり賢い行動とは思えないね」

「生憎と、そのような卑小さは持ち合わせていなくてな。脆弱な人間も、私の魔法にかかれば、魔法使いにも対抗しうる一端の兵隊となる。魔法使いの支配だろうと造作もないことだがな」

「偉そうに解説ありがとう。わざわざ教えてもらわなくても知ってるけどね」

 長谷川から聞いていたために、高嶺の魔法のことは理解していた。

 高嶺がふんと鼻を鳴らす。

「ついてこい。悪いようにはせんよ。私に従う限りはな」

 高嶺が踵を返し、喫茶店に向かう。隙だらけだが、長谷川を庇いながら戦うの避けたいし、何より操られているだけの一般人を傷つけるわけにはいかない。おそらく、高嶺もそこまで意図しての余裕だろう。

「……長谷川、私の側を離れないでね」

「かっこいいね。うっかり惚れちゃいそうだよ」

 こんな状況でも軽口を吐く長谷川は、なかなかに大物だ。

「ついでに聞くけど、もしあの喫茶店を壊したときの損害は魔防課で持ってもらえるかな?」

「良くて始末書。悪くて、僕が始末されるってところかな」

「悩ましいラインだね」

「木更ちゃん、職業倫理って言葉を忘れないでね?」

 長谷川が恐る恐る聞いてくる。

「わかってる。一応聞いただけだよ、一応」

 考えようによっては、これは好機だ。敵の頭がわざわざこちらの目の前に現れてくれたのだ。ここで捕まえることができれば、高嶺一派は崩壊する。

 高嶺がレトロな雰囲気の喫茶店に入る。続けて、木更たちも喫茶店に入るが、高嶺に操られた人々は店外で待機していた。そのことを訝しんでいると、席についた高嶺が話しかけてきた。

「どうにも勘違いしているようだが、私は戦いに来たのではない。茶の席では、互いに無粋な真似は控えるべきだと思わんか?」

 店内には、木更たちと高嶺を除いては、奥の席にサングラスをかけた男が一人いるのみ。外しているだけかもしれないが、指輪もはめていない。普通にお茶を楽しみに来た客と見るべきか。高嶺に誘われてここに来ている以上、油断は禁物だろう。

 木更は、高嶺の対面の席に座り、長谷川も続いて席に着いた。

 それぞれが注文を終える。悠長にお茶を楽しもうというわけではない。ただ、来店した以上は、何かしら頼んでおかないと、という気持ちが働いた。店員が下がったところで高嶺が語り出す。

「改めて名乗っておこう。私は、高嶺京香。いずれこの世界を正す救世主となる者だ」

「だいぶキマってるね。もしかして、薬もやってんの?」

 高嶺が失笑する。成熟した大人が、無知な子供を嘲るような笑みだった。

「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」

 高嶺の言葉の意味を理解できずにいると、長谷川が口を開いた。

「ソクラテスの言葉だね。行動的知識を持つ者こそ優れた人間であるってことだったかな、確か」

「長谷川も意外と博学なんだね。で、高嶺は何が言いたいのかな? 学のない私にはさっぱりなんだけど」

「それに答える前に、魔法はどこから来たのか、お前は考えたことはあるか?」

 高嶺の問いに、木更が呆けた顔になる。

「興味深いね」

「長谷川、こいつの戯言に付き合う必要はーー」

「いいじゃないか、聞くだけなら損はない」

 長谷川に言われ、しぶしぶ木更も高嶺の話を聞くことにした。

「単刀直入に言えば、魔法とは異世界の力だ。異世界とこちらの世界がつながったことで、流れ込んできた理が指輪として形を成し、我々に力を与えている」

「立派立派。よく考えたね、褒めてあげるよ」

「嘲弄するのは構わんが、これは事実だ」

 至極真面目な顔で高嶺は語る。呆れ交じりに、木更は会話を続行する。

「世界に魔法が広まった今でも、異世界なんてものが観測されたことは一度もない。仮にそれが本当だとして、何をもって信じろって言うのさ? まさか、自信満々に語っておいて根拠はありませんなんて通らない」

「別に信じろとは言っていない。どう思うかはお前の勝手だ」

「根拠がないなら、それらしいこと言ってごまかさないでよ」

 水掛け論が続く。木更にしてみれば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

 高嶺は、素知らぬ顔で持論を展開する。

「七面倒だから過程は省くが、向こう側の世界は滅びた。宇宙が熱的死を迎えたわけではない。魔法生物同士の戦争によって滅びたのだ」

「魔法は、世界を滅ぼしうる力と言うのかい?」

「その通りだ」

 長谷川が神妙な顔で尋ねると、高嶺が頷いた。

「無力な人間どもは、脆弱な倫理観を振りかざし、それに感化された魔法使いが自ら己に首枷をつけて、同じ魔法使いの邪魔をする。何もかも間違っている。だから、間違いを正す。私が、魔法使いによる魔法使いのための世界を作ってやる」

 熱を帯びた高嶺の声。他者を強引に魅了しようとする女王蜂の声だった。

「しかし、向こう側が歩んだ滅びの道を、この世界でも繰り返させるわけにはいかない」

 革命者としての高嶺の演説が続く。

「支配者たる資格、魔法を持つ私が導かねばならん。その義務が私にはある。優れた魔法使いによる統治を実現し、世界を正しき方向へ導く。その責を果たせるのは、この高嶺京香を置いて他にはない」

 高嶺の言葉には、理性的な力強さがあった。言っていることは何一つ理解も共感もできないが、少なくとも冗談を言っているわけではないことが木更にも感じられた。

「是非ともお前には、私たちの仲間になってもらいたい」

「は?」

 木更は焼けつくような眼差しを高嶺に向ける。

「秋吉と桜江を退けたお前の力は評価に値する。私と同じ強者の側の存在だ。弱者たる人間どもに良いように利用されるべきではなく、私と共に覇道を歩むべきなのだ」

「ありえない。月並みで悪いけど、死んだほうがマシってやつだ」

「ふむ」

 店員が注文した飲み物を持ってやってくる。高嶺は、自分の紅茶を一口飲み、ほうと息をついた。

「やれやれ、無粋な輩も来たようだ」

 言うや否や、高嶺は席から飛び退いた。全く同時に、木更は長谷川を抱えて跳ねた。

 耳を覆いたくなるような衝撃音。飛来した半透明の巨槍が、ガラスの壁をぶち抜き、高嶺の座っていたところに突き刺さった。槍は、高嶺に操られた護衛を二人引きずっていた。高嶺を守ろうとしたのかもしれないが、虚しく半身を削り取られており、すでに事切れている。

 割れたガラスの先、そこにいる人物に向かって木更は叫んだ。

「何のつもりだ、桜江桃!」

 襲撃者は、お菓子の魔法使いである桜江だった。桜江は、二本目の飴の槍を構え、店内の高嶺に向けて投げつける。槍は、立ちはだかる護衛を貫いてなお、勢いを落とさず高嶺に迫る。しかし、涼しい顔で高嶺はひらりと槍を回避した。その手には、紅茶のカップを手にしており、中身も一滴たりとも零していない。

 桜江は、こちらまで聞こえる舌打ちをして、木更に呼びかけた。

「さっさと手伝いやがれ、サラマンダー! 高嶺を殺すんなら今しかねぇんだよ!」

 その内心の焦りを現すかのように、桜江は捲し立てる。

「手強いには手強いが、あたしとお前が組めば勝てない相手じゃねぇ!」

 木更には、意味が分からない。なぜ仲間である桜江が高嶺を殺そうとするのか。

「なるほど、実にお前らしい判断だ」

 高嶺が呆れ笑いで桜江に言う。

「敗北の咎を恐れ、こそこそと隠れていたお前は、サラマンダーを殺すことで失態を帳消しにしようとした。しかし、当の標的は何故か私と仲良く卓を囲んでいる。もはやサラマンダーを狙っても意味がないと考えたお前は、彼女と協力し、私を殺す方針に切り替えたわけだ」

「したり顔でうるっせぇんだよ。ぶっ殺すぞこのアマ!」

 桜江は不愉快さを露わに、中指を突き上げる。焦りのせいか、明らかに冷静を失っているのがわかる。

 木更は脳をフル回転させる。確かに、高嶺を仕留めるということだけを考えるならば、この混乱は好機とも言える。しかし、依然として長谷川を巻き込む危険がある。それ以上に、桜江は高嶺の護衛たちの犠牲を厭わない。無辜の人々を無闇に死なせるわけにはいかない以上、桜江を止める以外の選択肢はなかった。

「木更ちゃん」

「わかってる」

 悠長に状況確認している余裕はなく、長谷川との意思疎通を簡潔に済ませる。

 桜江は、三本目の槍を創り出していた。高嶺の護衛が、女王を守らんと立ちはだかる。

 木更は、自身の手足を装甲で覆った。槍が放たれる前に桜江を止めるべく、両手に魔力を集中させる。

「全く、どいつもこいつも小賢しい」

 欠伸でもするかのような呑気さで、高嶺が告げる。すると、護衛たちが高嶺の前から退いていく。

「これで話はシンプルになっただろう。私を殺せるか、試してみるといい。今度は外さないように、よく狙え。不安なら、後ろを向いていてやろうか?」

 泰然自若。高嶺は、紅茶をあおり、至極どうでもよさげに言う。それが、桜江の神経に障ったようで、怒りを露わに高嶺を睨みつけていた。

「ナメやがって。そのムカつく面吹き飛ばしてやる」

 木更は考える。高嶺がどれだけ強力な魔法使いであるとしても、この余裕は不自然に過ぎる。何が起ころうと、自らの安全を確信しているようだった。

「愚かだな、桜江。狙われる危険もありながら、私はこうして姿を現した。なぜその理由に考えを巡らせない」

「だ、か、ら、うるせぇって言ってんだよ!」

 激情のままに叫ぶ桜江を、高嶺が嘲笑する。

 飴の槍が放たれる。高嶺は、回避どころか微動だにしない。高速で迫る槍は、しかし高嶺のすぐ目の前で、時が止まったかのように静止。

 長身の男が、貫手で槍を止めていた。黒のレザーコートを羽織り、サングラスをかけている。店の奥の席に座っていたあの男だった。

 高嶺が口角を上げて言う。

「紹介しよう。彼の名は、羅號。この世界の王となる存在だ」

 威風堂々。その男の様からは、そんな言葉が自然と頭に浮かんだ。

「これは返そう」

 羅號が、飴の槍を持ち替え、片手で投擲した。唸りをあげて、槍は桜江に向かう。

 桜江が身を転がし、回避する。身を起こす桜江に、羅號が肉薄していた。

「ちぃっ!」

 桜江の手に巨大なペロペロキャンディーが現れる。桜江は豪快に振り抜き、羅號の頭に殴りかかった。

 硬質な破裂音。砕かれたのは、羅號の頭蓋ではなく、桜江のキャンディーの方だった。羅號は全く揺るぐ様子を見せない。

 桜江の顔が驚愕に染まった瞬間、羅號が右腕を構えた。そのまま無造作に拳を振るう。桜江は両腕を交差させ、それを受けようとする。受けた桜江の身体が浮いた。次の瞬間、弾けるように桜江は吹き飛ばされ、背後のビルに叩き込まれた。

 比肩するもののない強烈な一撃。ビルに叩きつけられた桜江は、意識を失っていた。羅號は悠々と桜江に近づいていく。うつ伏せのまま動かない桜江の背中に、羅號の右手が深々と突き刺さった。無造作に腕を引き抜かれ、その手の中に握られているものの正体に気づく。心臓だ。

 羅号は桜江の心臓を口に運び、あろうことか噛り付いた。筋肉の塊である心臓を、獣のごとく食い千切る。凄惨な光景を前にして、総毛立つ寒気に襲われる。

「どうだ羅號?」

「苦い。我には合わんな」

「くく、菓子の魔法を使うからといって、心臓まで甘いというわけではなかったか。しかし、性格の歪んだ桜江には相応しい評価だ」

 平然と会話を続ける高嶺と羅號。理性的な狂気に、木更は圧倒されていた。

 心臓食い。数日前、ファミレスで長谷川から聞いた名前を思い出した。

 木更は、両手に込めていた魔力を解き放つ。炎の嵐が、羅號めがけて殺到する。

 羅號は、涼し気な顔をしてその場を離れようとしない。俄かに、大きく息を吸い込んだ。

 爆音。鼓膜が破れるかと思うほどの大音量は、信じられないことに羅号の喉から発せられていた。己が絶対的強者であることを誇示するかのように、強烈な威圧感を放つ咆哮。それは易々と木更の炎をかき消した。

「まさか、そんなことが」

 隣の長谷川は、驚愕で顔を強張らせていた。

 木更は、恐怖を振り払うように駆け出した。右拳の装甲に炎を宿し、羅號の頬に叩き込む。巨木を殴ったかのような手ごたえ。羅號は、木更の攻撃を物ともしていなかった。

「気骨ある娘だ」

 羅號は、木更の胸倉を掴み上げ、無造作に放り投げた。圧倒的な剛力により、途方もない勢いで地面に叩きつけられそうになる。辛うじて、受け身が間に合った。頭から激突することは避けられたが、緩衝材となった左腕の皮膚はただれ、夥しい量の血が零れていた。

「木更ちゃん!」

 慌てて長谷川が近寄ってくる。

「大丈夫……大丈夫だけど、参りましたね、こりゃ」

 身を起こし、木更は応えた。

 こちらは長谷川を守りながら戦わなくてはならないのに、相手は強大な魔法使いが二人。増してや、そのうちの一人には、木更の炎が全く通用していない。

「そう慌てなくともいい。最初から詰んでいるんだよ」

 余裕綽々で高嶺が語る。憎々しいが、状況は最悪だ。

「羅號という絶対的存在の下で、私がこの世界を導く。我らの力を以てすれば、決して不可能ではない」

 高嶺は、木更に向けて手を差し出した。

「なあ、サラマンダー。それだけの力を持ちながら、人間どもの尺度に合わせ、縮こまって生きるのは窮屈とは感じないか? 弱者のための法に縛られることなく、己が力を存分に振るってみたいと思ったことは本当にないか?」

 木更を誘惑しようとする悪魔の囁き。

「共に来い。私の理想は、お前を必要としている」

 絶体絶命の危機。この誘いを断れば、きっと命はない。答えは一つしかなかった。

「くどい。私の魔法は、誰かを守るためにある。他者を虐げるあなたとは、決して相容れない」

 木更の答えに、高嶺は鋭い視線で返す。

「ならば、死ぬしかないな」

「いい加減女々しいよ、高嶺。四の五の言わずにかかってきなって」

 高嶺の威圧にも、木更は決して怯みはしない。恐ろしくないわけではない。ただ、それ以上に譲れない意地がある。

「私は寛大だ。強情なお前に、猶予をやろう」

 逆上することもなく、高嶺は努めて冷静に告げる。

「そう遠くないうちに迎えを送る。私たちの軍門に下るも良し、誘いを断り、殺されるも良し。後はお前次第だ」

 高嶺が羅號に呼び掛ける。

「帰ろうか。手間を取らせてすまないな」

「気にすることはない。この店の茶は素晴らしかった」

「それは何よりだ」

 二人は、悠然と木更の横を通り過ぎる。ややあって、羅號が長谷川の方を振り返る。不思議そうな顔をしていたかと思えば、得心したように口を開いた。

「気配が薄くて気づかなんだが……なるほど、同郷の士だったか」

 長谷川は何も答えず、似つかわしくない剣呑な目つきで睨み返していた。

 去り際に、羅號が一言だけ告げた。

「我等が道に立ち塞がるべからず。さもなくば、死あるのみ」

 やがて、高嶺と羅號の背中が見えなくなった後、木更は大きく息を吐き、その場に尻餅をついた。

「ごめん。本当は追わなきゃいけないんだけど」

「いや、正しい判断だった。今あの男と戦うのは無謀だ」

 長谷川が言う通り、あの羅號という男は化け物だ。生物としての格が違うとでも言わんばかりの、圧倒的な威圧感。桜江の遺体に、目を向ける。まともに戦り合えば、木更も同じ末路を辿っていたかもしれない。

「ねえ、長谷川。指輪なしで魔法を使えるなんて話聞いたことある?」

「当然というか、聞いたことないね」

「羅號ってやつ、指輪をしてなかったんだ」

 自分で言っていて、木更も信じられなかった。

「トゥリングって線は? 正体を見破られないよう、指輪を隠したかったのかもしれない」

「あれだけの力を持ちながら、そんな小細工を弄する必要はないでしょ。それに、あいつは何というか、上手く言えないけど、異様だった」

 長谷川も神妙な顔で思案する。ややあって、口を開いた。

「謎は多いけど、確かなことが一つ」

 木更は頷き、先の句を継いだ。

「厄介ごとは増えるばかりだ」


◆◆◆


「よう、我が愛しき専制君主様」

「何の用だ、秋吉」

 高層ビル群に囲まれ、窮屈ささえ感じる街並み。蟻のように人が絶え間なくうごめく街路で、秋吉琥太郎と高嶺京香は向かい合っていた。

「人前にめったに姿を見せないあんたが現れたって話を聞いてな。今度はどんな悪だくみをしているのかと思って、顔を出してみただけだ」

「そうか。不愉快だ、死ね」

「おっと、相変わらず俺たちは相性が良い。今日もグッドコミュニケーションに成功してしまった」

 高嶺の罵声に、秋吉はどこ吹く風といった感じに答える。

 高嶺は、見た目は文句なしに美人と言える。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。ただし、綺麗な花には棘がある、をこの上なく体現しており、性格がとにかく苛烈だ。とても十八歳には見えない威圧感がある。切れ長の目が、不愉快気に秋吉を見ていた。

「遊び回ってないで、さっさと戻ってこい。お前は強者、こちら側の存在だろう」

 高嶺が秋吉に呼びかける。秋吉は、しっしっと手を振って拒絶の意思を見せた。

「俺はあんたの情報網を利用し、あんたは戦闘用の駒を求めた。利害関係の一致があったから組んだだけだ。今となっては、あんたと仲良くする理由はねえよ」

 対する高嶺は小さく息を吐いた。

「お前のような存在こそ、我が理想のために必要なのだがな」

「まだ魔法使いによる魔法使いのための世界、なんて夢物語を追っているのか」

 秋吉は辟易していた。

「自覚があるかどうかわからないから、この際はっきり言ってやる」

 耳を小指でほじくりながら指摘する。

「お前の恐ろしいところは、本気でそんな夢物語を語れるところだ。自分の理想のためなら、他者を踏みにじることなんて何とも思わない、高潔で傲慢な暴君だ」

「否定はせんよ。しかし、お前は夢物語だの言える立場ではないだろう」

 高嶺の反論に、秋吉は皮肉めいた笑みを浮かべる。最強を目指すなんて秋吉の目標自体が、夢物語に近いことを理解していた。

「後ろのそいつを倒せば、最強ってやつに近づけるかもな」

 高嶺の背後、泰然として佇んでいる羅號に秋吉は視線を向けた。

 秋吉は魔防課の人間より連絡を受け、高嶺が現れたという現場に向かった。結果としてそれは徒労に終わったのだが、サラマンダーが羅號という相手に一蹴されたと、興味深い話を聞くことができた。サラマンダーは秋吉の知る魔法使いの中でも、五本の指に入る実力者。そのサラマンダーが一蹴されるような相手など、アヴェンジャー以外に想像さえしていなかった。その圧倒的な強者に対する好奇心もあって、ここまで来たのだ。わざわざこんなところまで四方山話をしに来たわけでない。

「お前の力は認めているが、彼とは比較にならん。無駄死にするだけだぞ」

 高嶺が諫めるように言う。それがまた、秋吉にとっては愉快ではなかった。

「こんな場じゃなければ、今すぐにでも戦り合いたいところなんだがな」

「おや、随分と聞き分けが良いじゃないか」

 高嶺がほくそ笑む。

「俺にも分別ってやつはあるんだよ。サラマンダーたちにも悪いしな」

 今は周囲に人が多すぎる。強者と戦うことができれば満足な秋吉でも、誰彼構わず巻き込むほど分別がないわけでもない。

「私の理想が夢物語なら、お前の理想は自己満足に終わる。最強の魔法使いなど定義しようがないからだ。億万一、お前が羅號やアヴェンジャーに勝つことがあったとしてもな」

「そうだろうな」

 素直に認める。

 発現する魔法は、個々人によって千差万別であり、それぞれの相性というのもある。無理やりにでも決めようとするなら、最強と噂される魔法使いを集めて戦わせ、生き残った者を最強とするくらいしかないだろう。それでもなお、誰も知らないだけで、アメリカンコミックのスーパーヒーローのような、圧倒的な力を持った魔法使いが隠れているという可能性も否定できない。

 しかし、秋吉にとっては、それは問題ではなかった。

「だけど、それでいいんだ。俺は欲しいのは、他ならぬ自己満足だからな」

 高嶺の目は、理解の及ばぬものに向けるそれだった。

「お前は変人だな」

「あんたにだけは言われたくないね」

 高嶺の嫌味を返して、秋吉は続ける。

「別に口論がしたくて来たわけじゃないが、あんたの理想は決して叶いやしない。世界に対して喧嘩を売ろうなんて、単なる自殺行為に過ぎない」

 秋吉自身高嶺に組していたこともあるのは、別にそれで構わないと思っていたがためだ。強い相手と戦えればそれでいいのであって、高嶺の理想に賛同したことなど一度もない。

「おまけに、あんたのお仲間は、もうほとんど残っていないはずだ」

「足りていない脳みそで余計な心配をするな。私の目的は、強大な組織を築くことではない。私の思想を世に広め、賛同者を増やすことだ。強力な同志は大歓迎だが、極論を言えば、羅號さえいれば後はどうとでもなる」

 それに、と高嶺が続ける。

「すでに二人、優秀な魔法使いを引き入れている。奴らならサラマンダーにも引けは取らん」

「へえ」

 それは興味がある。その言葉が本当なら、相当に腕の立つ相手だ。実際見てみるまでは何とも言えないが、期待してもいいだろう。

「結構なことだが、どれだけ圧倒的な個の暴力を有していようと、それこそ無駄死にで終わるだろうよ。賢いあんたなら、十分に分かっていると思うんだがな」

「子供じみた夢を追っている癖に、案外つまらないことを言うのだな」

「余計なお世話だ」

 互いに皮肉をぶつけ合う。

「ちょうどいい。新入りの紹介でもしておくか」

 高嶺がそう告げた後、秋吉は素早く後ろに飛び退いた。

 破砕音。先ほどまで秋吉がいた地点に、それは降ってきた。ベージュのジャケットを羽織ったトラッドスタイルの美少女が、拳を街道の舗装に突き入れ、地を砕き割っていたのだ。

 群衆が異常事態に気づき、蜘蛛の子を散らしたかのように慌てて逃げ惑う。あっという間に、秋吉たちの周囲には誰もいなくなった。

「高嶺殿、ここは私にお任せください」

 現れた少女は、高嶺の前に立つ。その姿は勇ましく、主君を庇う武士のようだった。守る相手が高嶺じゃなければ良い構図だったのだが、と秋吉はとりとめのないことを考える。

「そうさせてもらおう。その男に、少しお灸を据えてやるといい」

 そう言い残し、高嶺は羅號と共に歩き去ろうとする。秋吉もそれを止めはしなかった。目の前の相手の殺気からして、大人しくしていてくれるはずもない。

 秋吉は、向かい合う少女に話しかける。

「写真で見るより美人さんだな、柊玲」

 長谷川から事前に教えられていたので、秋吉は相手の正体を掴んでいた。名前を呼んでも、柊玲は無反応。

 構わず、秋吉は語り掛ける。

「高嶺と組むのだけはやめた方がいい。集団自殺に付き合わされているってのは、傍から見れば相当馬鹿馬鹿しいぞ」

 実経験も踏まえて、アドバイスする。秋吉のことを知る人間からすれば、どの口が、とも言いたくなるだろうが、自分のことは棚に上げておいた。

「高嶺殿は善良の徒ではないことは承知しております。それでも、あの御方は私の復讐を肯定してくれた」

「柊和人の復讐か」

 彼女の兄である柊和人は、アヴェンジャーに殺されたことを秋吉は知っていた。

「だから、手を組んだのか? あいつは犠牲を厭わない。多くの人間を踏みにじって進むことになる」

 秋吉の問いかけに、玲の目が一瞬揺らぐ。

「全てはアヴェンジャーを討ち果たしたからのことです。後は、私の正義に従うまで」

 秋吉は顔に憂慮の色を浮かべた。

「俺がどうこう言うのも野暮だけど、碌なことにはならんぞ」

「それでも、私はこの道しか選べません。私の胸に宿る暗い激情を消すには、アヴェンジャーへの復讐を果たす以外にないのです」

 これ以上の問答は意味がないことを悟り、秋吉は構えを取る。右手を顔の横に置いた、秋吉にとって最も馴染んだファイティングポーズ。

 同時に、指輪を起動。思考が一気にクリアになっていく感覚。秋吉はこの感覚が嫌いではなかった。全身に力が満ち満ちていく。

「柊玲、参ります」

「えーっと、秋吉琥太郎だ。よろしく」

 名乗りを上げた柊玲に対し、どう返答するか秋吉は、少し悩んだ末に適当に返すことにした。

 戦いがはじまる。仕掛けたのは、秋吉。持ち前の圧倒的な速度で、間合いを詰める。

 高速の左ジャブの連打。しかし、柊玲は最小限の動作でそれを回避。反撃の正拳上段突きが、秋吉の顔めがけて放たれる。

 秋吉は撃ち込まれる瞬間、首をひねることで衝撃を受け流す。スリッピングアウェーの要領だ。今度は秋吉の番。返しの右ストレートを繰り出したが、柊玲を捉えることはなかった。

 視界から、柊玲が消えた。秋吉は考えるよりも早く、左腕を体の横に備えた。

 衝撃。左腕の骨が軋む。流れるような動作で、体を沈ませた柊玲の蹴りだ。秋吉の動きが止まるが、柊玲も隙を晒した姿勢のため、追撃に移れない。結果、互いに距離を離すように、すぐさまその場を飛び退いた。

「卍蹴りってやつか。超直感の魔法の恩恵があるとはいえ、大したもんだ」

 痺れる左腕をぷらぷらと揺らす。

「秋吉殿こそ、お見事です。完璧に決まったと思ったのですが」

 柊玲は強者の立場から、賞賛の言葉で答えた。少なくともこの攻防は、柊玲に一歩上を行かれた形だ。

「これならば、退屈はしなくて済みそうだ」

 にっと秋吉は笑う。

 柊玲は、超直感による先読みに加え、修めた武術による高い戦闘技術を誇る強敵と聞いていた。今の攻防で、その評に偽りがないこと、そして秋吉の想定以上の難敵であることを確信した。

 相手が強敵であればあるほど、秋吉の闘志は燃え上がる。

 違和感。高嶺たちが立ち去っていた方角とは逆方向、秋吉の背中から言いようのない圧迫感を覚えた。向かい合う柊玲の視線も、秋吉の後ろに向けられていた。その瞳には、燃えるような憎悪。

「秋吉殿」

 静謐に、玲が問いかけてくる。

「容姿を伝え聞いたのみですが、私にもわかります。あれがアヴェンジャーなのですね」

 玲の見つめる方向には、黒ずくめの少女。肌を刺すような悪寒には、覚えがある。思わぬ邂逅に、秋吉は困惑を隠せないでいた。

「ああ。見間違えようもない」

「そうですか」

 柊玲は怨敵に巡り合えたことで、凄絶な笑みを浮かべていた。

「どうやら、俺への興味を失ったらしいな」

 すでに柊玲の瞳に、秋吉は映っていなかった。

「しばしお待ちください。私が彼女を殺した後、再び秋吉殿と仕合うことをお約束致します」

 ゆっくりとアヴェンジャーが会話できるくらいの距離まで近づいてきていた。

「よくぞ現れた、アヴェンジャー。我が兄、柊和人の仇を取らせてもらう」

 アヴェンジャーの眼差しは、問いかける玲にではなく、秋吉の方に向けられていた。

「よくよく、貴方とは縁があるようだ」

「全くだ。意外と、運命の相手だったりしてな」

 秋吉は冗談めかして、アヴェンジャーと親し気に見える会話を交わす。

 刹那、玲が颶風と化して駆けだした。その速度は、秋吉も舌を巻く程。アヴェンジャーと玲の左腕が交差し、ぶつかり合う。受けたアヴェンジャーの足元、アスファルトに大きく亀裂が入る。それだけの衝撃、それだけの破壊力を玲の突進は備えていた。

「余所見とは、随分と余裕だな、復讐者。私は眼中にないとでも!」

 玲が吠える。大和撫子を思わせる普段の穏やかさは鳴りを潜め、その顔に鬼の相を宿していた。

「破ッ!」

 空を切り裂くような玲の声が発せられる。同時に、鋭い右の正拳突きがアヴェンジャーの左脇腹を穿った。アヴェンジャーの身体が弾けるように浮く。体勢を崩すことなく着地したが、アヴェンジャーは喀血していた。。

 玲が追撃に走る。対し、アヴェンジャーが口から赤い何かを吐いた。それは、血の塊。アヴェンジャーは、口の中の血を魔法で凝固させ、吐き出したのだ。正確に目を狙って放たれたそれを、まるで予期していたかのように玲は回避する。互いに攻撃の届く間合い。玲の右上段蹴りが放たれた。アヴェンジャーの左腕が、頭部を守るように割って入り、玲の蹴りを受け止める。

 だが、玲は止まらない。地に残された左足が跳ねあがり、踵からアヴェンジャーに襲い掛かる。後頭部に直撃。然しものアヴェンジャーも、予想外の一撃に体がよろめく。着地した玲は、隙を逃さず、左掌底をアヴェンジャーの腹部に叩き込もうとする。しかし、アヴェンジャーは宙に飛び上がり、回転。勢いを利用した右踵落としを放つ。

 視界の外から放たれた攻撃を、玲の右手が完璧に掴み取った。遅れて飛来する左踵も、同様に左手が受け止める。

 玲はそのまま、アヴェンジャーを地に叩きつけた。間を置くことなく、アヴェンジャーの身体を豪快に投げ捨てる。頭からアスファルトに激突する寸前、アヴェンジャーは両手を地に置き、柔軟に畳むことで、後転につなげた。

 柊玲は、磨き上げられた技と魔法による危険予知をもって、アヴェンジャーとも互角以上に渡りあっていた。アヴェンジャーには再生の魔法がある以上、負傷自体は物ともしないだろうが、それも無限には続かない。

「兄の無念、ここで晴らす!」

 玲の魔力が、研ぎ澄まされていくのを肌で感じる。その様、名工の刃のごとく、凄烈な闘気を纏っていた。

 玲とアヴェンジャーが、全く同時に駆けだした。互いの攻撃が届く間合いに入る。

 先手はアヴェンジャー。吹き荒れる嵐のごとき拳打が、玲に襲い掛かる。だが、寸でのところで、玲には届かない。単純な身体能力、速さはアヴェンジャーの方が上だ。しかし、磨き抜かれた玲の戦闘技術、そして事前に危機を察知する超直感が、アヴェンジャーの攻撃を捌くことを可能にしていた。

 嵐の連打の中の、ごくごく僅かな間隙。ここでしかないという絶妙なタイミングで、玲の左鈎突きがアヴェンジャーの腹部に叩き込まれる。続いて放たれた右正拳突きがアヴェンジャーの矮躯を吹き飛ばした。

 秋吉は、思わず舌を巻く。全身を連動させ、自身の力を無駄なく攻撃に乗せる。口にするのは簡単だが、実行するのはこの上なく困難な、武の極意。玲は、それを体現していた。それ故か、玲の放つ一撃は、他の格闘家にはない美しさがある。

 超直感による危険予知も、秋吉の想像以上に優れた代物だった。アヴェンジャーの攻撃を完璧に凌いでいる。このまま戦いが続けば、いずれはアヴェンジャーの魔力も尽きる。まさかまさか、アヴェンジャーが負けるなんてことが起こりうるのか。

 体勢を立て直したアヴェンジャーは、自らの左手の平から肘までを、右人差し指で深く切り裂いた。

「なっ……⁉」

 異様な光景を前に、柊玲が戦慄していた。

 アヴェンジャーの腕から滴る血液が、形を成していく。鋭い穂先をした血の槍が、明確な指向性を持って、玲へと放たれた。音を置き去りにして進む槍とて、柊玲の超直感の前にはあえなく回避される。だが、それでは終わらなかった。血槍が意志を持っているかのように、引き返してくる。当然、その先には柊玲の姿。

「追尾か、 小賢しい!」

 玲は身を翻し、再び槍を躱す。だが、槍の勢いは衰えることなく、どこまでも玲を追っていく。

 危険を予知できる玲とはいえ、高速で追尾してくる槍を回避し続けるのは至難の業だ。徐々に、血の槍は玲の身体を捉えだした。今はまだ、かすり傷を負う程度に止まっているが、いずれは捕まる。埒が明かないと踏んだか、それを操るアヴェンジャーに向けて駆けだす玲。槍が迫るよりも早く、アヴェンジャーとの距離を詰める。そして、アヴェンジャーの目前で、強く強く踏み込んだ。

 玲の流れるような体捌きに、秋吉は思わず息を呑んだ。全身を連動させ、一切力を逃がすことなく放たれる右拳。玲の内包する力の全てが集中し、ただ一点、アヴェンジャーの胸部を撃ち抜いた。あばら骨の砕ける音。武の結晶たる一撃は、アヴェンジャーの痩躯を容赦なく吹き飛ばす。ただし、残念ながら痛み分けだ。

「ぐっ……!」

 玲は膝を折り、脇腹に手を当てる。アヴェンジャーは玲が迫る中でも、血の槍を止めなかった。結果、まともに玲の渾身の一撃を食らうことになったが、背後から襲い掛かった槍が玲の脇腹を貫いたのだ。

 危険予知で槍を回避することもできたはずだが、玲はアヴェンジャーを仕留めることを優先した。だが、アヴェンジャーには、再生の魔法がある。今の攻撃で殺せてなかった場合、不利になるのは玲の方だ。

 地に伏せていたアヴェンジャーが、ゆっくりと立ち上がってくる。武の極致たる玲の拳は、秋吉が相手ならば、おそらく即死させるだけの威力を秘めていただろう。それだけの威力をもってしても、仕留めきれないアヴェンジャーこそ怪物か。

 蹲る玲に、アヴェンジャーが近づいていく。秋吉は、割って入るようにアヴェンジャーの前に立ちふさがった。

「何度も言わせないで。貴方と戦う気も、その理由もない」

「もういいだろう。勝負はついてる」

 アヴェンジャーの能面に、呆れの色。少女が感情を表すのを、秋吉ははじめて見た。

「貴方は魔法について、どう思う?」

 よくわからない問いかけ。

「どうと言われると難しいが……俺にとっては、希望そのものだ。この力があるから、俺はまだ戦える。俺が俺であることを許してくれている」

 素直に内心を吐露する。これがなければ、秋吉はただ無気力な日々を送っていたに違いない。少なくとも、魔法があったからこそ秋吉は救われている。それは、紛れもなく事実だった。

「私にとって、魔法とは不平等だ」

 アヴェンジャーが静かに語る。

「魔法を持つ人間にとっては、確かに希望と言える。それだけの力を私たちに与えてくれる。だけど、それを持たない者にとっては、希望ではなく絶望、あるいは恐怖にもなりえる」

「そうだな」

 アヴェンジャーの言葉を秋吉は首肯する。持つ者、持たざる者の格差を、魔法という力は生み出してしまった。誰が望もうと望むまいと、不平等という問題は、世の中に埋めがたい軋轢を生む。魔法使い至上主義を語る高嶺なんかは最悪の例だ。

「異世界の理が流入し、この世界を捻じ曲げ、多くの不幸を生み出す。そんな理不尽を私は認めない。だからこそ、柊玲は死ぬべきだ」

 話は終わりということらしく、アヴェンジャーが再び歩みを進めてくる。秋吉は、玲の方に向き直り、全速で走り出した。蹲る玲を脇に抱え、そのまま逃走する。

「あ、秋吉殿⁉ なぜーー」

「黙ってな。舌噛むぞ」

 暴れようとする玲を押さえつける。負傷もあってか、全身に力が入っていないので楽なものだった。

「その傷で強がるな」

 後ろをちらっと振り返る。アヴェンジャーは追ってきていなかった。例え人間一人抱えた状態でも、鬼ごっこなら秋吉に分があると判断したのだろう。無造作に街中を数分ほど駆け回り、適当な裏通りに入ってから玲を降ろした。

「ここまでくれば、大丈夫だな」

「恨みます、秋吉殿」

 荒い息で、玲が言う。魔法使いの肉体は、傷の治りも早い。アヴェンジャーのそれとは比較にならないが、傷を塞いで安静にしていれば、命に関わることはない。

「後は自分で何とかしてくれ」

 途中で調達した包帯を柊玲に渡した。

「お待ちください」

 去ろうとすると、柊玲が呼び止めてきた。怪訝気に秋吉の様子を窺っている。

「なぜ、私を助けたのですか? 貴方にとって、私は敵のはず」

 秋吉は頭をぼりぼりと掻きながら口を開いた。

「さすがに目の前で死なれるのは後味が悪いだろ……これを恩に感じてくれるんなら、馬鹿な真似はもうやめにするんだな」

「高嶺殿を裏切れ、と?」

 柊玲の答えに、秋吉は首を横に振る。

「それだけじゃない。兄の後追いもだ」

 柊玲の方眉が跳ねた。

「それは……できかねます。兄は、私にとって正義の象徴だった。私は、柊和人の妹として、その正義を完遂しなくてはならない」

 瞳に迷いの色を窺わせながらも、柊玲は毅然と言う。

「君の事情は知らんが、兄を尊敬していたんだな」

 だが、と秋吉は告げる。

「君には迷いがある。今更後戻りもできんのだろうが、半端な覚悟で人殺しの道を歩むんじゃない」

 柊玲に背を向け、今度こそその場を去ろうとする。

「それでも……それでも、私は」

 迷う少女の独白にも、秋吉は振り返らなかった。後のことは、彼女自身が決めなくてはいけないことだ。

 

◆◆◆


 魔防課所属、東堂木更の朝は早い、ということもなかった。

 部屋の時計が指し示すのは、午前九時。今日は土曜であるから、別に遅い時間と言うわけではない、だが、仕事柄、早起きが習慣化している木更が起きる時間にしては、遅すぎる。

 別に惰眠を貪っていたわけではない。夜の仕事が想定以上に長引いたのだ。年々増加する魔法犯罪を前に、夜落ち着いて寝ていられないなんてのは、ままあることだった。

 少年少女の深夜労働は法で禁止されている。だが、国としても治安維持のために、強力な魔法使いは喉から手が出るほどに欲しいらしく、木更の深夜の仕事もいろいろな手回しが事前にされているらしい。長谷川曰く、法的にはグレーでもなんでもなく普通にアウトだとか。

政治というのは、何かと面倒だと木更は思う。少年少女さえ戦いに駆り出される現状には、無数の抗議の声が上がっている。それに対し、とある国会議員が「魔法使いと人間を同列に語るべきではない」と発言し、物議を醸したなんてこともある。

 自分には関係ないと、思考を切り替える。一応は休日だが、いつどこで犯罪が行われているかはわかったものじゃない。だから、朝起きてはじめにすることは、携帯の通知のチェックだ。

 魔防課関連の通知は来ているが、出動要請の連絡は来ていない。この朝だけでも平和で結構なことだ。やがて、SNSに連絡が来ていることに気づく。送り元は、アンナ。食い倒れの少女からのお誘いの連絡だった。


 木更は、アンナの要望で大型のショッピングモールに来ていた。今は映画を見終わって、シアターを出てきたところだ。

「これ使って」

「ううっ、すいません」

 涙の止まらないアンナにハンカチを渡す。今流行の恋愛もの映画をチョイスしたが、切なくビターな終わりであったため、感極まって泣いてしまったらしい。木更もつい目頭が熱くなってしまったのは内緒だ。

 映画の感想を交わし合いながら、あてもなく歩き回る。良い映画だったから、会話も弾む。同年代の子と遊ぶのは、木更にとっても久しぶりのこと。意外なくらいに楽しんでいる自分がいることに、木更は気づいた。

 カフェが見えてきたので、とりあえず立ち寄る。映画の前に腹ごしらえは済ませていたので、軽食で十分だろう。いや、アンナには足りないかもしれないか。

 互いにケーキセットを頼み終え、アンナが口を開いた。

「今日はごめんなさい。急に誘ってしまって」

「いいよ。今日は予定も入ってなかったし。アンナお像様の頼みとあっちゃ断れない」

 アンナからの連絡は、要約すれば「いっしょに遊びたい」とのことだった。可愛らしい要請に、特に急ぎの用事もない木更は付き合うことにした。最近は何かと悩みの種ばかり増えている現状、木更にとっても良い息抜きになっている。

 それぞれのケーキとドリンクが届く。木更はチーズケーキ、アンナはショートケーキ。ドリンクは、ともにミルクティーにした。

 木更は、さっそくチーズケーキに手をつける。しっとりとした生地から、濃厚なチーズの旨みが広がっていく。そこにミルクティーを含むと、ほのかな甘みが優しくチーズの後味を優しく包み込む。木更は、口福にほうと息をついた。そして、仰天。アンナの皿に乗っているはずのショートケーキがなくなっている。よく見れば、アンナの口元にクリームがついている。

「アンナ、ショートケーキは飲み物じゃないよ」

「はい。もちろんですよ? 変な木更ですね」

 駄目だ。伝わっているようで、伝わっていない。テーブル備え付きの紙を取り、対面のアンナの方に身を乗り出す。クリームのついたアンナの口元を拭う。

「これでよし」

 拭き終わって、席に腰を下ろす。アンナは嬉しそうにはにかんでいた。

「なんか、こういうの良いですね。友達って感じがして」

「どちらかと言うと、お母さん、むしろ恋人って感じじゃないのかな。いや、私にそっちの気はないんだけどさ」

 木更もさっさとチーズケーキを片付ける。アンナはちびちびと飲んでいたため、ドリンクはほとんど同時に飲み終える。食後の小休憩を挟み、会計することにした。

「ここも私が支払います」

「別に気にしなくていいって、いや本当に」

「そうはいきません。ラーメン五杯分と杏仁豆腐を奢ってもらった恩を返せてませんから」

 木更は、気にしなくていいと何度も言ったのだが、アンナは想像以上に強情だった。

「こういう言い方すると嫌味かもだけど、給料は結構もらってる方なんだ。別にお金使う趣味もないし」

「そういうのはダメですよ。まっとーな大人になりません」

 アンナが頬を膨らまし、怒りを表現する。それに、と彼女は続ける。

「木更は、友達です。友達だから、対等でいたいから、借りたものはしっかり返すんです」

「照れくさいこと言うじゃん。へへっ……」

 頬が緩むのを止められなかった。二年前のあの事件から、かつての友達と疎遠になっていた木更にとっては、これ以上なく嬉しい言葉だった。

 適当にショッピングモールの中を歩き回っているうちに、ゲームセンターを見つける。

「木更! ゲーセン行きましょう、ゲーセン!」

 見るからにテンション高く、アンナが木更の手を引く。

「はいはい、かしこまりましたよ、お嬢様」

 アンナが真っ先に向かったのは、クレーンゲームのところだった。木更は、したり顔で笑った。

「この木更ちゃん、クレーンゲームには一家言ありましてね」

 それを聞いて、アンナも笑う。挑発的な笑みだった。

「なら、どちらが先に取れるか」

「勝負だね」

 二人の間を、見えない火花が散っている、ような気がする。

 選んだのは、大人気アニメのキャラのぬいぐるみが景品の台だ。

 先攻はアンナ。百円を筐体に投入し、ゲーム開始。操作ボタンに触れる前から、筐体の中をじっくりと覗き込んでいる。ややあって、アンナが操作ボタンを押した。まずは横方向への移動。一番近くのぬいぐるみの正面にぴたりと止める。縦方向へ移動するボタンを押す前に、アンナは筐体を横から眺める。観察を終え、意気揚々とボタンを押した。ぬいぐるみ真上でアームが展開される。ゆっくりと下降し、ぬいぐるみを掴んだ。

「あ~!」

 アンナが悔しそうに叫ぶ。ぬいぐるみは無情にも、アームからするりと抜け落ちていく。

「まだまだですねぇ」

 後攻、木更の番だ。流れるような動作で百円玉を投入。すぐさま、横方向のボタンに手を置いた。

「ふふん、私とて黙って見ていたわけではないのですよ。今のアンナの操作で、全部理解した。もう目を瞑っていても取れるよ」

 完璧なタイミングで止める。迷いのない手つきで、縦方向のボタンを押す。

「ここ!」

 真正面から少し手前でアームを止める。下降したアームがぬいぐるみを掴み取った。計算は完璧。

「あ」

 虚しくも、ぬいぐるみはこぼれ落ちる。ぬいぐるみの笑顔が、木更を鼻で笑っているように見えた。ぬいぐるみ、ついてはそのデザイナーに悪意はないだろうが、ちょっとイラっと来た。

「残念でしたね」

 言葉とは裏腹に、アンナはにこにこ顔だった。天使のような顔しといて、なかなかに良い性格をしている。

「……アームが弱すぎるんじゃないかな」

「言い訳は情けないですよ」

「うぐっ……!」

 勝負を継続。結論から言うと、決着はつかなかった。

「やめよう。私たちは今、底なし沼に片足を突っ込んでいる。進めば、確実な破滅が待つだけだ。戦略的撤退」

 木更の提案に、アンナも同意する。

「ちょっとばかり大袈裟ですが、そのようですね。ここは引き分けで手を打ちましょう」

 互いに五百円を投入し、一回分お得の六回プレイしたわけだが、一向に取れる気配がない。もう一歩、というところで届かない。完全にメーカーの手のひらの上で踊らされている。

「まあ、ぬいぐるみ取っても邪魔になるだけだからね」

「敗軍の将、兵を語らず、ですよ」

「言ってくれるじゃん」

 アンナの脇腹を小突く。

「次はあれ、プリクラ取りましょう!」

 アンナがプリクラコーナーの方を指差す。

「プリクラかぁ。取ったことないや」

「私もです。はじめて同士ですね」

 撮影ブースに入り、操作台の支払口に四百円を入れる。機械の音声案内に従い、操作を進める。アンナと木更で、鏡合わせでピースの姿勢で撮影。お待ちかねの落書きタイムだ。

「よくわからないけど、とりあえず盛っておこうか」

「毒を食らわば皿まで、ということですね」

「それはなんか違う気がするけど」

 木更が突っ込みを入れる。

 好き勝手落書きを入れ、アンナの頭には犬耳をつけてやった。それを見たアンナは、木更の頭のところに猫耳をつけてきた。

 出来上がったものを、さっそくプリントアウトする。出力された写真を手に取り、アンナはにへらと相好を崩していた。自分もだらしない顔をしているんだろうな、と木更は思った。

 

 ゲーセンを出て、再びショッピングモール内を放浪する。気になった店があれば入る、というように、あてもなく歩き続けた。ファッション、雑貨、グルメ、サービス、エンタメと多彩なジャンルの店舗が二百店舗以上揃っているこのショッピングモールは、目的などなくとも退屈はしなかった。

 楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。気づけば、もう夕方になっていた。

「今日は本当にありがとうございました」

 アンナが、ぺこりと頭を下げる。

「こちらこそありがとう。久々に良い感じに息抜きができたよ」

 木更がそう返すと、アンナが寂しそうに笑った。

「本当に楽しかった」

 思い出を慈しむかのような、アンナの優しい声。

「私は、あなたをずっと前から知っていました。お話に出てくるような、正義のヒーロー、サラマンダーとして。あの日出会い、こうしていっしょに過ごすことで、等身大のあなたを知ることもできました。私の思っていた通り、あなたは本当に善良な人です」

「急に褒めちぎっても、出てくるものはないよ」

 木更が、手を振り答える。ややあって、アンナは意を決したように口を開いた。

「木更、お願いがあります」

「はいはい、アンナお嬢様のお願いなら、だいだいのことは叶えてあげますよっと」

「私を殺してくれますか?」

 聞き間違い、ではなかった。困惑しながら、木更は言う。

「えっと、それは冗談、なんだよね。そういうのはやめたほうがいいーー」

「私は、あなたとは違います。誰かを傷つけるだけの異常者なんです」

 天真爛漫なアンナとは思えない、冷え切った表情。

「あなたから両親を奪い、あなたに殺された人。壊し、奪い、犯すことでしか自分を救えなかった哀れな人。彼は、私の父です」

 突然の告白に、木更の思考が追い付かない。息が苦しい。

「私は、父が日本人である私の母を強姦して、生まれた子供です。それだけでも罪深いのに、私の中にも父と同じ、醜い獣の暴力衝動が宿っていた」

 アンナの指輪が光り出す。彼女の右手に握られていたのは、その可憐さにはとても似合わない、無骨な拳銃。

「何とか抑えようとはしたんですよ? だけど、膨れ上がるこれをどうにかできるほど、私は強くなかった」

 白魚のような指が、引き金にかかる。木更は、アンナに向け、咄嗟に手を伸ばした。

「やめて!」

「ダメなんです。私、トリガーハッピーなんです」

 伸ばした手は、届かなかった。アンナは跳躍し、宙に身を置いていた。

 乾いた銃声。発射された弾丸が、無情にも通行人の命を奪う。異常に気付いた群衆が、散り散りに逃げていく。

 左右から男が二人、地に降りたアンナに迫っていた。高嶺一派との接触があったことから、陰から木更を監視していた魔防課の魔法使いだ。

 右から迫る相手に対し、アンナは拳銃を向ける。文字通り一瞬で、三発の弾丸が発射された。頭に一発、胸に二発。即死だ。

 左から大柄の男が間合いに入る。拘束しようと両手を広げ、アンナに掴みかかった。しかし、アンナが掴まれるよりも早く、男の方へ踏み込み、肘鉄を男の腹に突き入れる。体勢を崩した男に襲い掛かる、四発の弾丸。胴と胸にまともに受け、男は呆気なく倒れ伏した。

「私を殺して止めて下さい。もう私じゃ私を止められないんです」

 アンナは、今にも泣きだしそうな顔をしていた。銃口が、木更に向けられる。放たれた弾丸は、木更の頬を掠め、薄く血が流れる。

「わけわかんない。全然わかんないよ」

 ぐちゃぐちゃになった感情が、木更の胸をかき乱す。

「殺す理由が必要なら、他にもあります。私は、高嶺さんの仲間です」

 追い打ちのように、アンナが告げる。

「本当は、高嶺さんに命令されていたんです。木更を勧誘して、駄目だったら殺せって。だけど、木更は善き人だから。あなたなら、私を止めてくれるって、救ってくれるって信じて来たんです」

 祈るようなアンナの声。そこに込められた悲哀を、木更は感じ取った。

「冗談じゃ、ないんだ」

「はい。殺されるならば、私はあなたに殺されたい」

 マル魔の魔法使いとして、木更のやるべきことは明確だった。

 激情を振り払うように、木更は駆け出した。これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない。これ以上、アンナの手を汚させるわけにはいかない。

 手足に装甲を纏う。ショッピングモール内は、蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ惑う人々で、大混乱。攻撃手段として炎を使えば、彼らを巻き込むことになりかねない。

 木更は、炎の波を前面に展開した。それを目くらましに、すぐ近くのテナントに転がり込む。そして、足から炎を噴出。戦闘機のごとく、空を駆ける。ショッピングモールの内装を利用し、アンナの視界を遮るように回り込む。ある程度接近したところで、足の炎の勢いを増す。弧を描くように、アンナに迫る。

向けられる銃口。その射線上に重なるように、左手を前に翳す。装甲に着弾。間一髪で、被弾を免れる。

 近接戦闘の間合いに入った。突撃の勢いに任せ、拳を振るう。アンナは、木更の下を潜るように前転し、回避。中距離で、互いに背を向けた状況。木更は両手から着地。同時に、両手に魔力を集中し、解放。手から炎を噴出し、その反動で、背後に飛ぶ。

今振り返ったばかりのアンナの右手に蹴りを入れる。熱を帯びた装甲の蹴りに、アンナの顔が苦悶に歪む。木更の狙い通り、アンナは銃を手放した。今度は足から着地し、すぐさまアンナの右腕を取る。そのまま、肘固めに移行。

「大人しくして。これ以上やるなら容赦はーー」

「違いますよ、木更」

 右腕を極められた状態で、アンナは時計回りに動き、左の蹴りを放ってきた。顔面に向けて迫る蹴りを、右手を挟み込み、受ける。しかし、肘固めは解かれてしまった。アンナの肘が、木更の脇腹に突き入れられる。体勢が崩れた木更の左腕を、アンナが掴み取る。そのまま、力に任せた一本背負い。木更は、背中から地に叩きつけられる。

衝撃に襲われながらも、咄嗟に頭部を両腕で庇う。木更の頭を狙って、アンナの蹴りが放たれた。装甲の上からでも、腕がきしむ。アンナはお構いなしとばかりに、足を振り抜く。木更の小柄な身体が、蹴り飛ばされる。

「忠告などせず、私の腕を折るべきだったのです」

 出来の悪い生徒を叱る教師のような、アンナの戒めの言葉。

「アン、ナ」

 蹴り転がされた木更は立ち上がり、アンナと向かい合う。アンナは周囲をぐるりと見渡した。

「避難するには、十分な時間はありました。周囲の人を、これ以上慮る必要はないでしょう。その炎で、罪深き私に、裁きを与えてください」

 穏やかな笑み。落とした拳銃が、アンナの手に引き寄せられた。

「ありのままの私を、受け止め、壊してください」

 神へ贖罪を乞うように、アンナは告げた。対して、木更は疲れた笑みを湛えていた。

「私さ。こんな仕事してるから、誰かといっしょに……友達といっしょに遊ぶのって、久しぶりでさ。最近は何かと頭の痛くなるようなことばかりだったし、本当に楽しかったんだよ」

「私もです。その気持ちに嘘はありません」

「そんな私に、友達を殺せって言うんだ?」

 木更の問いかけに、アンナは一瞬の躊躇いの後答えた。

「私が救われるために、あなたが善き断罪者であるために、必要なことなのです」

「この……分からず屋!」

 叫ぶとともに、装甲から炎を燃え滾らせる。

 その射撃は、点ではなく、面の攻撃。アンナの握る、たった一丁の拳銃から、弾幕が展開されていた。理を超えた連射だった。

 すでに、木更は動いていた。足の炎を爆発に等しい勢いで噴出。先ほどのように、すぐ近くのテナントに身を投げ込む。内装を利用し、アンナの死角から飛び出した。瞬間、木更の眉間を弾丸が撃ち抜いた。

「……っ⁉」

 アンナが驚愕する。撃ち抜いた木更の身体が、炎となって霧散した。炎の分身による目くらましだ。

 木更は、その隙を逃さない。全速力で、反対方向からアンナに迫る。だが、すぐさまアンナは照準を合わせてくる。激しさを増すアンナの銃撃は、もはや防ぎきることは叶わない。左肩口に被弾するも、構ってられない。右手からアンナに向けて炎を放つ。それが回避されることも織り込み済みで、避けた先へ突撃する。アンナの腕を掴み、地に叩きつける。

アンナが拳銃を手放したのを確認し、そのままアンナの上に覆い被さった。右手をアンナに向ける。後は、炎を放てば、アンナの命は終わる。

 躊躇っている場合ではない。この子は、壊れている。ここで殺さなくては、更なる犠牲者を出すことになる。痛いほどにわかっている。それでも、木更は撃てなかった。

「残念です」

 脇腹に衝撃。アンナの右手に引き戻された拳銃から放たれた銃弾が、木更を穿っていた。身体に力が入らなくなり、横に倒れてしまう。これは、まずい。致命的な一撃だった。撃たれた箇所が熱い。どくどくと血が流れ出ている。

 アンナがゆっくりと立ち上がり、木更を見下ろす。

「あなたの優しさを否定する気はありません。私は、そういうあなただからこそ、好きになったんですから」

 それでも、とアンナは続ける。

「優しさは枷にしかなりません。他者を踏みにじってでも、あなたは進まなくてはならない」

 木更とて、理解はしている。頭では、アンナを殺すしかないとわかっていた。それでも、脳裏に浮かんだアンナの笑顔が、木更を止めていた。

「近いうちに、私たちは田宮さんが入れられている留置所を襲撃する予定です。高嶺さん曰く、田宮さんはどうでもいいそうですが」

 そう告げると、アンナは踵を返し、その場を離れようとしていた。

「私は、あなたの覚悟を信じたい。だから……待っています、木更」

 去り際に、アンナの瞳から涙が零れ落ちているのを木更は見た。汚泥のように黒い感情が湧きあがる。

「くそ……くそっ!」

 自らに降りかかる不条理が、何よりも自分の弱さが気に食わなかった。

「ちくしょう……っ!」

 あふれ出る涙は、木更が気を失うまで止まらなかった。


◆◆◆


 墨汁をぶちまけたような、黒い夜。長谷川貴文はすっかり古びたマンションに帰宅した。ただでさえ、この闇夜よりもブラックな職場で働いているわけだが、最近は高嶺一派の足取りを追うために、いつに増して忙しい。暗澹たる気持ちで長谷川は嘆息した。

 ドアのカギを開け、自室に入る。消していたはずの電気が点いている。リビングの椅子に、黒ずくめの少女が腰かけていた。

「やあ、お疲れ様」

長谷川が呼びかけた相手は、事件の渦中にあるアヴェンジャーだった。

「おかえり。早速で悪いけど、少しばかり疲れがたまっている。鋭気を養うために長谷川のご飯を所望する」

「天下のアヴェンジャー様が、弱音を吐くなんて珍しいこともあったもんだ。明日は、嵐で来るかもね」

 アヴェンジャーは、やれやれと言わんばかりに答えた。

「私は、万能でもなければ、無敵でもない。強敵との戦いは、確実に私の精神、魔力を擦り減らす」

 言われてみれば、いつものごとく能面のように無表情であることには違いないが、わずかながら疲れの色が窺える。付き合いの長い長谷川にしかわからないような、些細な変化ではあるが。

 アヴェンジャーは、会話を続ける。

「柊玲と交戦したけど、残念ながら邪魔が入って逃してしまった」

「知ってるよ。秋吉が逃げに回ったんじゃ、いくら君でもどうしようもない。彼女は強かったかい?」

「兄とは持って生まれた天稟が違う。かなりの実力者だった」

「もったいない。兄と同じ道を選ばず、世のため人のために力を振るっていれば、少しは世界も良くなっただろうにねぇ」

「仮定の話は虚しいだけだ。私は私の法に従い、柊玲を殺す」

 アヴェンジャーが言うと、長谷川は重々しく首を振る。

「彼女は、君のルールに真っ向から反しているからね。兄の影響のようだけど、恨み言の一つでも言ってやりたくなる。もう死んでるけど」

 たはは、と笑ってアヴェンジャーの反応を待つ長谷川。返答はないので、続ける。

「復讐は復讐を生み、連鎖していく……彼女も、君が生み出した復讐者と言える。因果なものだね。実際のところ、そのことについては、どう思ってるのかな?」

「どんな反応を期待しているかは知らないけど、私のやることは変わらない」

 アヴェンジャーに揺らぎはなかった。

「復讐が復讐を生むこと自体、何ら問題じゃない。世界が滅ぶその時まで、永劫に繰り返せばいい。むしろ、それこそが健全な営みというものだ」

「なかなか斬新な意見だ」

 相変わらず、この復讐者は超然としている。

「東堂木更の容態は?」

 アヴェンジャーが話題を変えた。長谷川は難しく眉を顰めて答える。

「最悪の事態は免れた。本気で肝が冷えたよ。彼女を失えば、全てが台無しだからね」

「そう。安心した」

 表情に安堵の色は伺えないが、アヴェンジャーなりに木更の心配をしていたらしい。

「刑事である僕と君が協力関係にあるなんて、木更ちゃんが知ったら怒るよなぁ……怒るだけじゃすまないだろうなぁ」

 台所に向かいながら、長谷川がぼやく。リビングからの反応はなかった。彼女は、あまり無駄話と言うものを好む質ではないことは承知しているが、それでもちょっぴり寂しさを感じる。

 気まぐれな来訪者がいつ来ても良いように、いつも食材はそれなりのものをキープしている。彼女が来ることが事前にわかっていれば、もう少し融通が利くのだが、まさか携帯で連絡を取り合うわけにもいかない。それが元で、この関係がバレてしまうような真似は避けなくてはならない。

 てきぱきと調理を進めていく。思えば、こちら側に来て料理を始めた頃から、だいぶ腕を上げたと思う。誰かの役に立つのが好きという自身の性分にも合っていたのだろう。最初は、食にうるさい相棒にダメだしされることも多々あったが、その悔しさで続けているうちに、一番の趣味と言えるくらいには好きになった。彼女の舌を満足させるのも一苦労で、金銭の消費もなかなかのものだ。

 完成した料理をリビングに運ぶ。今日の献立は、牛肉のしぐれ煮とイワシのつみれ汁に、きゅうりと大根の浅漬け。仕事帰りにしては、十分以上の働きをした。

「ご飯が進むこと請け合いだよ。我ながら、良い仕事をしたもんだ」

 別に汗を掻いてはいないが、額を拭う仕草をしてみせる。すでにアヴェンジャーは飛びかかる勢いで料理に箸を付けていた。顔を突っ込むようにして食べている。

「行儀が悪いよ」

「長谷川のご飯が美味しいのが悪い」

「そ、そう言われると、怒りにくい! なかなか策士だね」

 苦言を呈するも、アヴェンジャーは構わず食事を続ける。その様が微笑ましくて、つい口走る。

「やっぱり親子……というのが適切かはともかく、そういうところは、陽凪によく似ている。彼女も本当によく食べたっけ」

 アヴェンジャーが食事を止め、こちらを見ていた。その瞳には、興味の色があった。

「長谷川が、あの人のことを口にするの、久しぶりに聞いた」

「君があまり興味を示さないからね」

「それに関しては、私に非があるか」

 アヴェンジャーが淡白に言う。

「今までは互いに話そうとも聞こうともしなかった。だけど、聞かせてほしい。あの人のことを」

 長谷川は不思議そうにアヴェンジャーを見る。

「どういう心境の変化だい?」

「もうじき私の役割は終わる。だから、なんとなく聞いておきたい気分になった。これも一つの、感傷というものかもしれない」

 尋ねると、アヴェンジャーは静かに答えた。長谷川は苦笑する。

「感傷か。失礼を承知で言うけど、らしくない言葉だ」

「気にする必要はない。私は、そうあるべきなのだから」

「それはそれで、寂しいものだよ」

 ふう、と小さく息を吐く。

「あの羅號って男に出会ってしまったものだから、ちょっとばかりノスタルジーに浸っていた。どうにも、今日は口が軽そうだ」

 感傷に浸っているのは、長谷川も同じなのだろう。席を立ち、冷蔵庫から缶ビールを取り出して戻る。

「人間が昔話をするときは、酒のお供が相応しいという。僕もその流儀に習うとしよう」

 よく冷えたビールの蓋を開ける。炭酸の弾ける小気味いい音を耳で楽しみ、ぐいっとビールを嚥下する。心地よい喉ごしに満たされた後、長谷川は口を開いた。

「はじまりの魔法使い、陽凪は僕にとっての太陽だった。向こう側の世界が魔物によって危機に晒されたとき、彼女は何の躊躇いもなく、僕の呼びかけに応えてくれた」

 堰を切ったように、言葉があふれ出る。

「何につけても脅えてばかりの僕に、いつだって馬鹿みたいに笑いながら勇気づけてくれたよ。長谷川なんて名前も、最初は彼女が勝手につけたものだったんだ。とんだ能天気なお馬鹿さんを呼んでしまったって、後悔すらしたっけ」

 懐かしさがこみ上げてくる。久しく、胸の内に秘めていたものだ。

「だけど、彼女は比類なき魔法の才能、つまりはどんな困難、障害にも挫けることのない、強靭な心の持ち主だった。絶望的な状況に置かれても、彼女はいつだって僕の想像なんか超えて、乗り越えてきたんだ」

 そんな彼女に、いつしか長谷川は憧れていた。人間風に言うのならば、惚れていたと言ってもいいだろう。

「いろんな冒険があった。大陸を渡るために、果てしなき無限の蒼海ではクラーケンと戦った。たどり着いた先にあった、枯れ果てた終末の大地では、暴走するオームを鎮めるために奮闘したっけ。遙かなる天空にそびえ、魔界へと続く魂の橋では、番犬たるケルベロスと死闘を繰り広げた。つらく苦しいことなんて数えきれないほどあったけど、それ以上に喜びとワクワクでいっぱいだった。僕らの側には、いつだって太陽のような陽凪の笑顔があったから」

 それは、宝物のような思い出だった。その記憶は、今でも色あせることなく、長谷川の心に根付いている。この先、悠久の時が経とうと、決して忘れることはないだろう。

「ファンタジー小説を読み聞かされている気分だ」

 アヴェンジャーがぽつりと呟く。

「陽凪は、まさしく物語の主人公だったよ」

 何度転んでも立ち上がる存在を主人公というのなら、陽凪以上にその素質を備えた者はいないと断言できる。未来の行方を照らし続ける太陽として、彼女は在り続けた。

「戦いを経て成長した陽凪は、魔物の頂点たる魔王すら打倒して見せた。世界は救われ、ハッピーエンド……ここで終われば、良き物語だったんだけどね。運命の筋書きは、君も知る通り、最悪の駄作に成り下がった」

 そこまで言って、長谷川は口を閉じた。アヴェンジャーは、続きを待っているようで、じっとしていた。もう一度ビールをあおる。

「やっぱりやめておこう、思ったより長話になりそうだ。せっかくの料理が冷めてしまう」

 アヴェンジャーは首を縦に振り、肯定した。

「そうしよう。そんなにつらそうな顔をされては、私も先を催促する気にはなれない」

「……すまない。君に気を遣わせてしまうほど、ひどい顔してたか。我ながら、情緒が不安定だ」

「続きは、長谷川が話す気になったら話してくれればいい」

 話は終わりと、互いに料理に手を付ける。我ながら、良い出来だ。美味い料理は、疲れた心を心を癒してくれる。実益を兼ねた趣味を見つけられたことは、僥倖だった。

 アヴェンジャーや木更ほどではないが、長谷川もそれなりの健啖家だ。炊飯器の中のご飯が、おかずとともにどんどん減っていく。おかずもご飯も二人分などとは言わず、大量に作ったのだが、あっという間に片付いてしまった。明日の朝の分も、別に用意しないといけないが、これで少しでも彼女の疲労回復につながるのなら、安いものだ。

 食事を終え、長谷川は話の糸口を切る。

「さっきの話の続きってわけじゃないけどさ。本当に久しぶりに、向こう側の住人に会ったんだ」

 脳裏に浮かぶのは、木更を圧倒してみせた羅號のことだ。

「あれは、僕なんかとは格が違う。神秘の結晶たる、上位存在と呼ばれる者。誰もが畏れ敬う、向こう側における神に最も近い存在が彼等だ。表立って、歴史に姿を現すことは一度もなかったんだけどね。滅びた世界の住人であるがゆえに、この世界では本来の姿でいることができず、枷をはめられた状態に等しい。加えて、この世界には神秘が満ちていないから、本来の力の半分も出せないだろうけど、それでもなおその神威は圧倒的だ」

 人間の魔法使いとしては上澄みの実力者である木更ですら、現時点では到底及ばない。

「あれは本来、人間に手を貸すような質じゃない。上位存在というのは、どいつもこいつも超然主義の極みだからね。それがどういうわけか、高嶺と手を組んでいる」

 理由はわからないが、羅號が敵であるという事実こそが重要だった。

「君と高嶺が対立する以上、衝突は免れない。そして、その時はおそらくそう遠くないうちにやってくる」

「私と比べて、どちらが強い?」

 アヴェンジャーが、静かに問いかけてくる。

 枷をつけられた羅號と、人間の魔法使いの最高峰たるアヴェンジャー。これ以上なく有利な条件にも関わらず、答えに詰まる。

「当然、君さ……って、根拠もなく答えるほど、僕は無責任でも楽観主義者でもない。はっきり言って、相当に分が悪いだろうね」

「そう」

 自らの劣勢を告げられても、アヴェンジャーは平静だった。意外には思わない。挫けぬ精神こそが、彼女の強さの根源なのだから。それに、彼女が勝てるかどうかなど、気にするまでもない。

「陽凪から連綿と受け継がれた魂、アヴェンジャーに敗北はない。君たちの正義は、何人たりとも折ることはできない」

「正義、か」

 アヴェンジャーが、長谷川の言葉を反芻する。

「その言葉はあまり好きじゃない。優しいものを踏みにじるから」

 長谷川は、目を丸くする。あまり自己表現する方ではない彼女にしては、珍しいと思ったからだ。

「そうか」

 言われてみれば、なるほど、確かに。

「そうだな」

 長谷川は、改めて肯定する。

 夜は更けていく。深く深く沈みこむ闇の中で、月光は世界を導く道しるべのごとく、際立って輝いていた。


◆◆◆


 病室にいるのは、木更一人。わざわざ木更のために手配された特別個室は無駄に広いが、それがかえって妙な息苦しさを感じさせる。

 空いた窓から吹き込み、カーテンを揺らす風の音だけが耳に届く。

 アンナの凶弾を受けながらも、木更は事なきを得ていた。通常の人間であれば、確実に死に至っていた傷。しかし、木更の強大な魔力による肉体の生命力と治癒力がそれを防いでいた。

 すでに傷は癒えている。重症だったために、安静を取って入院しているだけだ。このまま戦いに出ても何ら支障はない。少なくとも、身体面だけを言うならば、の話だが。

 今も、魔法使いによって苦しめられている無辜の市民がいる。暢気に休んでいる暇などありはしない。そうわかっていても、どうしても気持ちが奮い立たない。心に空いた風穴から、闘志が抜け漏れていくような感覚。原因は明白だった。

「……アンナ」

 屈託なく笑う彼女のことが頭に浮かんで離れない。

 二年前、木更から両親を奪った仇の娘。あまつさえ、高嶺と手を組んでいる。だが、木更の胸にアンナへの憎しみは湧いてこない。その正体を知っても、腹を銃弾で撃ち抜かれてもなお、木更は彼女を友人だと思っている。彼女の笑顔を、そして自身の暴力衝動に苦しむ彼女の涙を見てしまったからだ。

 アンナを救いたいと、心から思っている。だけど、それを自身の立場が許さないことも重々に理解していた。

 長谷川が以前口にした乱射魔は、ほぼ間違いなくアンナのことだろう。ショッピングモールの凶行に加え、それ以前にも殺人を繰り返しているのであれば、重刑が科されることは間違いない。

 自らの暴力を止めてくれる相手として、アンナは木更を求めていた。木更の手で殺されることを望んでいた。それは、社会秩序を乱す魔法使いから人々を守るという、木更の使命にも反するものではない。それが最善の道なのだろうと木更も頭ではわかっている。それでも、アンナをこの手にかけるということが想像もつかない。

「私は、どうすれば」

「何を迷うことがある。殺せばいい。貴方の炎はそのためにあるのだから」

 独り言に返事があった。それも入り口からではなく、窓の方から。

 桟の上に、アヴェンジャーの姿があった。この病室は十二階にあるが、魔法使いの身体能力なら造作もないことだ。

「そちらは入り口じゃありません。面会許可状はお持ちでしょうか? あと、ここ十二階なんだけど」

「冗談を言える元気はあるようで安心した」

 憮然と言う木更に対し、アヴェンジャーは泰然としていた。ただでさえ、虫の居所が悪いところに望まぬ来訪者。木更はこれ以上なく苛立っていた。

「ついてきて」

「は?」

 突然のアヴェンジャーの誘いに、木更の口から間抜けな声が漏れる。アヴェンジャーはそれ以上の言葉を発すること書く、木更に背を向けて窓から飛び去って行く。

「なんだってのさ……!」

 木更は検診衣からいつもの服装に急いで着替え、窓から飛び出した。


 病院のすぐ近く、スポーツ施設も備えた公園にアヴェンジャーは佇んでいた。遅れてきた木更は、彼女と向かい合うように立つ。

「もう少し開けた場所が好ましいけど、充分でしょう」

 アヴェンジャーの纏う空気の質が変わった。向かい合うだけで、全身に寒気が走る。復讐者への恐怖が、重圧となって木更を襲う。

 負けてられるか。自身の恐怖を振り払うように、拳を強く握った。

「戦り合うってんなら構わないよ。この前の決着をつけてやる」

 正面から現れるのは予想外だったが、いずれは戦わなくてはいけない相手だ。ならば、ここでケリををつけてやる。

 木更は指輪を起動し、身体中に魔力を迸らせた。そして、両手両足に装甲を現出。それを見て、アヴェンジャーは嘆きの目になった。

「貴方はまだ覚醒めていないのね」

 呆れの色を帯びた声。復讐者の物言いは、訳が分からない。

「目ならとっくに覚めてるよ。お目目ぱっちり。いつも通りのかわいい木更ちゃんでしょうが」

 指で瞼を広げながら言う。我ながらくだらない冗談に、返答はない。

「あまり時間は残されていない。少々荒療治だけど、本当の貴方を呼び起こす」

 颶風と化して、アヴェンジャーが疾走。あっという間に、彼我の距離を詰められる。一瞬反応が遅れただけで、懐に潜り込まれた。

 木更は眼下のアヴェンジャーに対し、左膝を繰り出した。しかし、アヴェンジャーの右腕がそれを受け止めていた。腹部への強烈な圧迫感。頭突きが叩き込まれていた。

 すかさず、アヴェンジャーの左拳が突き上げられる。天を刺すような鋭いアッパーを、間一髪のところで顔を引いて躱す。そのまま上半身を反らし、慣性に身を委ねる。両手を地に着け、そこを支点にくるりと後ろに飛ぶ。宙を舞う木更は、足から炎を噴出。着地を待たずに突撃。裂帛の気合とともに、真正面から肉薄する。

 互いの拳がぶつかり合った。アヴェンジャーの拳が砕ける感触。装甲を纏った木更の拳とかち合えば、いかなアヴェンジャーでもこうなることは免れない。しかし、拳砕けてもアヴェンジャーは退かない。互角の打ち合いで、互いの拳が弾かれる。

 木更は足の炎を巧みに操作し、即座に方向転換。いったんアヴェンジャーから距離を置き、着地する。打ち合った右腕が痛みを訴えていた。戦闘に支障が出るほどではないが、この打ち合いは木更の不利に終わった。

 血に塗れたアヴェンジャーの手が見る間に再生していく。前回の戦闘で煮え湯を飲まされた、超速再生の魔法だ。結果だけ見れば、アヴェンジャーは無傷。

「魔法使い随一の身体能力に加えて、超速再生の魔法は反則でしょ」

 木更は小さく舌打ちをする。愚痴の一つも言いたくなるというものだ。アヴェンジャーは、シンプルに強すぎる。小細工が一切ないが故に、隙がない。要するに、攻略の糸口が見えなかった。間違いなく、木更より格上の相手だ。

 泣き言は言っていられない。格上の相手だからといって、一歩も引いてやる気はない。魔防課の魔法使いとして、退路などない。これまでも、そしてこれから先も。

 再度、木更は飛ぶ。高く高く、アヴェンジャーの手の届かない上空に。そして、右手に魔力を集中させ、逆巻く炎の渦を放つ。荒ぶり猛る豪炎がアヴェンジャーへと高速で迫る。しかし、炎の渦はあえなく回避される。アヴェンジャーの身体能力なら、当然のようにやってのけるだろう。それくらいは想定済みだ。

 木更はすでに復讐者のすぐ近くに迫っていた。炎の渦を放つと同時に、その中心を最速で飛んできたのだ。炎が壁となり、再生能力を持つアヴェンジャーといえど迂闊には近寄れない。炎の波を絡めとるように、左拳に纏わせる。正拳突きとともに、纏った炎を打ち出した。それすらも、アヴェンジャーの驚異的な俊敏性により当たらない。流石の一言に尽きるが、それすらも想定内だ。

 木更は左手の親指と中指を弾く。炎が弾け、無数の炎弾となり、アヴェンジャーに殺到する。はじめてアヴェンジャーの顔に驚愕の色が見えた。秋吉ですら回避しきれなかった連携。柊玲には凌がれたが、あの時とは炎の総量が比較にならない。然しものアヴェンジャーであっても、回避は不可能だ。

 アヴェンジャーは避けるのを諦め、両手を前で交差させた。高密度の魔力を木更は感じ取る。刹那、アヴェンジャーの全身に炎が着弾。全身を覆う高密度の魔力が、木更の炎の威力を減衰していた。露出した肌と衣服がところどころ焼け焦げているが、アヴェンジャーの瞳から闘志は消えていない。

 火傷はすぐに回復していくが、木更は確かな手ごたえを感じていた。今の攻防で木更は魔力を大きく消耗したが、アヴェンジャーも相当の魔力を使ったはずだ。

 魔力には限界があり、肉体を超速再生させるほどの魔法は、消費も決して小さくはないはず。それに加え、アヴェンジャーは木更の炎から身を守るために使った魔力はかなりの量だった。再生能力を持つアヴェンジャー相手は短期決戦が望ましいが、長期戦になってもこのペースでいけばいずれは削り切れる。

 しかし、今のは不意打ちのようなものだ。次は通用しないだろう。だが、木更の手札はまだまだある。魔法使いになってからの二年間を無為に過ごしてきたわけではない。戦いに次ぐ戦い、その中には格上との戦闘などいくらでもあった。それを乗り越えてきた木更の戦闘術は、高い次元で磨き上げられていた。

 勝てない相手じゃない。いや、勝てる。

 木更は自信とともに口を開く。

「三下の言い回しだけど、降参するなら今のうちだよ。相手が大量殺人犯だろうと、無抵抗の相手を手にかけるような真似はしない」

「ずいぶんと甘いことを言うのね」

 復讐者の嘆きの声。諭すような口調が気に障った。

「私はあなたのような殺人鬼とは違う。あなたを裁くのは法であって、私じゃない。人が人を裁くなんてあってはいけないんだ」

 秩序の側に立つ人間として、自らの判断で裁きを執行するなどあってはならない。職務上の正当防衛まで否定する気はないが、魔防課に所属する人間、強大な力を持つ魔法使いとして最低限の倫理だ。

「いい加減、自分を偽るのはやめにしなさい。貴方は、私と同じだ」

「は?」

 木更は気色ばむ。大量殺人鬼と同類扱いされて、愉快な気持ちになれるわけもない。

「寝言は寝て言えっての!」

 直径三十センチメートル大の火球を次々に生成し、矢継ぎ早にアヴェンジャーへと投げつける。獣のごとき俊敏性を持つアヴェンジャーは、軽やかな動きで被弾を許さない。回避しながらも、確実にこちらとの距離を詰めてくる。もう少しで、互いの間合いに入る。木更は、両手の装甲に炎を纏い、一歩を踏み出す。そして、敵への最短距離を走る右ストレートを繰り出す。

 アヴェンジャーは、それを読んでいた。木更の右拳を左手で掴み取る。

 炎を纏う装甲に直に触れれば、激痛に苛まれる。しかし、アヴェンジャーは何の躊躇いもなく選択した。そのまま木更を引き込むように、アヴェンジャーは後ろに倒れこんだ。そして、地に背中が着く前に、木更の腹を蹴り上げる。槍でも突き入れられたかのような強烈な蹴りに、木更の体は空中に放り出される。

 なんとか姿勢を安定させ、下を見る。木更は目を見張った。アヴェンジャーは両手をそれぞれ反対の肘を掴むようにし、一気に両腕を切り裂いた。流れ出る血が、四本の線として紡がれ、木更に向けて放たれた。

「くっ!」

 高速で迫る血の流星。木更は炎の噴射により、それを回避。そのまま方向転換し、アヴェンジャーへ突撃しようとする。しかし、嫌な予感に振り向けば、四本の流星はこちらを追尾してきていた。

 炎の波を展開し、三本まではかき消すことができた。だが、残りの一本が木更に迫りくる。左腕を振るい、それを弾き、防御に成功する。

 だが、あまりにも大きすぎる隙を作ってしまっていた。すでにアヴェンジャーは、空中の木更の側にまで飛び上がってきていた。首根っこを掴まれ、地面に投げつけられる。

 目まぐるしい展開に意識が追い付かず、反応ができない。木更はあえなく、背中から地面に打ち付けられた。

「貴方は誰よりも強い。だけど、今の貴方は腑抜けてしまっている」

 地に伏せる木更を見下ろしながら、アヴェンジャーが告げる。

「なぜ全力を出すことを躊躇うの? そんな装甲で自分の炎を抑えつけてまで、誰かを殺すことが恐ろしいの?」

「うるさい!」

 木更のことをわかった風に言う、この女のことが何から何まで気に入らなかった。

 上体を素早く起こし、アヴェンジャーに肉薄する。炎による牽制を交えながら、接近戦に挑む。隙の大きな蹴り技は使わず、炎を纏う両の拳によって攻め立てる。秋吉の言っていた、選択肢を絞り込むことによる思考の最適化。加えて、秋吉との訓練によって、木更の拳闘術は確実に練度を上げていた。

 それでもなお、アヴェンジャーという頂には届かない。単純な身体強化のみでも秋吉と渡り合うこの相手は、被弾を許さない。それどころか、木更の猛攻を前にしても、どこか余裕さえ窺える。

 誰かを守るなら、誰よりも強くなくてはならない。その思いで強くなったというのに、この体たらく。自分の不甲斐なさが、どうしようもないほどに腹立たしかった。

 振りがわずかに大きくなった木更の右ストレートを、アヴェンジャーの左腕が弾く。そのまま、蛇のように木更の右腕に絡みつき、動きを封じてくる。そこに、不可避の右拳が木更の顎をかちあげる。意識が持っていかれそうになるも、なんとか繋ぎとめる。

 アヴェンジャーは止まらない。追撃の右蹴りが木更の左脇腹に叩きこまれた。公園の柵を越えて、ビルの壁に体が叩きつけられる。衝撃に、木更の肺から一気に空気が吐き出される。いや、空気だけじゃない。血もいっしょに吐き出していた。

 負傷した木更に対し、アヴェンジャーは悠々と歩みを進めていた。慎重になっているわけではないだろう。余裕を見せているだけだ。

「今の腑抜けた戦いを続けるならば、貴方は確実に死ぬことになる」

 凛とした声が、揺れる意識に響く。復讐者による死の宣告だった。

「その迷いは枷にしかならない。誰かを守るなら、いずれ誰かを殺す覚悟を求められる。そのくらい、貴方ならば十分に理解しているはずだ」

 壁に背を預ける木更の目前まで、アヴェンジャーは近づいて来ていた。その氷凍の瞳が、木更の内心を覗き込むように向けられていた。

 木更は目を逸らしかけ、しかしアヴェンジャーの瞳を真っ向から睨みつけた。

「知ったようなこと言わないで!」

 木更は激情を吐き出すように、声を荒げた。

「言われなくたってわかってる! こんな中途半端じゃ、何もかも取りこぼすだけなんだってことくらい……それでも、あの日のことが忘れられないんだ」

 一度吐き出してしまえば、言葉は止まらない。

「二年前のあの日、両親の仇を取るために、私は全力で戦い、勝った。同時に、自分の秘めた力が、どうしようもなく危険であることを理解した」

 木更の顔に深い懊悩の色が刻まれる。

「本当のことを言うとさ……あのときの私はどうかしてた。怒りに悲しみに憎しみに、感情がぐちゃぐちゃで、ただ相手を殺すことを考えていた。犯人を焼き殺したとき、ざまあみろって思った。私の大事なものを奪ったのだから、当然の報いだってね」

 自嘲の笑みを浮かべる。

「人殺しを正当化する論理などないし、あるべきじゃない。復讐を容認した時点で、私は善を騙ることを許されなくなった」

 覚悟もなくその手を汚したことは、木更にとって拭いようのない過ちだった。

「失うものなんて何一つ残っていない。そんな私が力を手に入れたのは、人助けをするためなんだって思って、戦い続けた」

 それでも、木更の胸中には黒い靄が残り続けていた。

「人を殺すことが怖いってのもちょっと違う。力に溺れることこそ、怖いんだ。それは、いつか歯止めが利かなくなるだろうから」

 力を持つことによる優越感がないと、木更とて心の底から言うことはできない。感情を否定することができない以上、理性で自分を律するしかない。だが、大きすぎる力は人を惑わす。それにいつか呑まれないとも限らない。

「何言ってんだ私は……こんなこと、あなたに言っても仕方がないのに」

 内心を思い切り吐き出したことで、木更は冷静さを取り戻した。

「貴方の苦しみは理解した。それは、正しい苦しみだ」

 アヴェンジャーは、理解の色を示す。その瞳には、復讐者らしからぬ優しさを携えていた。

「貴方は間違っていない。だけど、世界の方が間違っている以上、いずれ貴方は圧し潰されることになる」

「……そうかもしれない。それでも、力に溺れた怪物になるのだけは、ごめんだ」

 自らの中途半端さゆえに、アヴェンジャーを越えられない。それが弱さだというのならば、甘んじて受け入れるしかない。すでにこの手が汚れていようと、それだけは譲れない。

 アヴェンジャーは何かを思案するように目を閉じ、ややあって再び開いた。

「迷いを吐き出したことで、少しはすっきりした? ……戦いはここまで。戻りましょう」

「どういう魂胆?」

 木更はアヴェンジャーの意図を掴みかねていた。突然来訪してきて、戦って、木更に忠告めいたことを口にして。いったいこの復讐者は、何が目的なのだろうか。

「貴方に知ってほしいんだ。私たちが戦う意味、私たちが復讐者である意味を」

 そう言って、アヴェンジャーは数歩歩いた後、木更のいた病院に向かって跳躍した。軽々と十二階にある病室の窓に足をかけ、その中に入っていった。

「私が仲間に通報するとか、考えないのかな」

 ぽつりと呟くも、そうしようとは思わなかった。

 アヴェンジャーが戦う意味。復讐者を名乗るその意味を、木更は知りたいと思っていた。


「悪いけど、もてなしの品はないよ」

「必要ない」

 木更は病室のベッドの上、アヴェンジャーは来客用の椅子に腰かけていた。

 さっきまで戦っていた相手と、大人しく同席しているという奇妙な状況。魔防課の人間としてはあるまじき事態だが、それ以上に彼女に対する興味が勝っていた。

「まず、魔法という力の成り立ちから説明する」

 いきなり重要な話が始まった。

「魔法は異世界の力。私たちが着けるこの指輪も、向こう側の世界で滅びた魂が、無念のうちに結晶化したものだ」

「……高嶺も同じこと言ってたけど、もしかしてグルだったりしない?」

「それはないけど、好きに疑ってくれて構わない。これは、貴方の負荷を減らすための前置きに過ぎないのだから」

 アヴェンジャーの言っていることはよくわからないが、とりあえず続きを聞くことにした。

「この宇宙が百億年を超える歴史を持つように、向こう側の世界も悠久の歴史を持っていた。平和な世界とまで言う気はないが、そう簡単に滅びるようなことはありえない、はずだった」

「高嶺は、戦争で滅びたとか言ってたっけ」

 木更は、高嶺の言葉を思い出した。

「この世で最も恐ろしいものは、人間の悪意だ」

 アヴェンジャーの言葉には、重みがあった。

「向こう側の住人は、良くも悪くも純粋だったらしい。争いこそあれど、それはあくまで生命の営みの一環に過ぎなかった。邪悪な魔物が跋扈し、世界が危機に陥ることはあっても、それすら自然界の摂理の枠からははみ出してはいなかった」

 だが、とアヴェンジャー続ける。

「激しさを増す魔物の侵攻を前に、向こう側の住人はこちら側の世界から救世主を呼ぶことを決断した。二つの世界をつなげて、はじまりの魔法使いを呼び出した。それが、最悪の結末を呼び込むことになるとも知らずに」

「よくわからないけど、壮大な話だね」

 木更は、情報の洪水に困惑していた。

「彼らは勝った。はじまりの魔法使いは、世界を救った。だけど、向こう側の住人は、つながったこちら側の世界を知ってしまった。そこに蔓延る人間の悪意を目の当たりにしてしまった」

 アヴェンジャーの表情には、憂愁の陰があった。

「純粋すぎた彼らは、疑うことを知った。騙し、裏切り、殺し合うことを知った。悪意はあっという間に伝播して、世界を巻き込んだ。そして、悪意が魔法という大いなる力と結びついた時、それは世界を滅ぼすだけの脅威となった」

「こっちの世界でいうと、核戦争が実現したようなものか。とんでもないね」

 しかし、アヴェンジャーは首を横に振った。

「そんなものじゃない。例え、今世界が核戦争に突入したとしても、人類の数十億は生き残る。世界が終わるようなことはない。だけど、向こう側はほんの一握りの生命を除いて死に絶えた。世界は汚染され尽くして、生き残った者もこちら側に来ることを選ぶしかなかった」

 木更は息を呑む。目の前の少女に、嘘を言っているような感じはない。こんな面白くない冗談をする意味もない。

「その生き残りが、証人となった。あの羅號も、生き残ったうちの一人だ。向こう側の住人であるがゆえに、指輪を必要としない」

 木更は驚き、同時に納得した。指輪を着けずとも、あの異様なほどの力を持っていたのはそういう事情があったからということだ。

「魔法という大いなる力には責任が伴うことを、私たちが絶対的な恐怖をもって知らしめる。その覚悟が、私たちにはある」

 そう語るアヴェンジャーの目には、確かな決意が宿っていた。何があっても自分を曲げないという、強い信念。この少女の強さを支えるものを、少しだけ理解できたような気がした。

「あなたの想いはわかった。だけど、その話を聞いたからって、私に協力しろとでも言うの?」

 わからないことは多くとも、真摯に語る相手を無下にするほど木更は愚かではない。しかし、協力するかどうかはまた別の話だ。

「言ったでしょう。これは、前置きに過ぎないと」

 アヴェンジャーは、椅子からゆっくりと立ち上がり、ベッドの上の木更へと近づいていく。

 事情を知ったとはいえ、仲良くできるような間柄でもない。木更は、警戒を強めた。

「安心しろとは言わないけど、今更危害を加えたりはしない。そのつもりなら、機会はいくらでもあった」

 アヴェンジャーの言う通り、その気があったのならば、木更は当の昔に殺されている。今命があること自体が、アヴェンジャーの言葉の裏付けとなっていた。

 アヴェンジャーが両手を出し、木更の右手を優しく握り込む。

「私は、血液操作と超速再生の魔法が使える。だけど、それは私の魔法であって私の魔法ではない」

 謎かけのような、矛盾した言葉。

「これから、貴方は私の全てを知ることになる。貴方がどのような結論を出そうと、私は受け入れる。そこまでが、私の役目」

 アヴェンジャーの指輪が起動。

「これが、私の魔法」

 共鳴するように、二人の指輪が輝きを放つ。

 アヴェンジャーの、彼女たちの記憶が、走馬灯のように流れ込んでくる。その喜怒哀楽の全て、彼女たちの絶望が、木更の脳髄を焼き尽くすように襲い掛かる。

 おぞましかった、気がおかしくなりそうだった。自分が覚悟と呼んでいたものの軽さに、泣き出したくなった。それでも、その光景から目を逸らすことができなかった。

「そうか」

 そして、木更は理解した。理解してしまった。アヴェンジャーの戦う意味を。彼女たちが、復讐者たる意味を。

「私の役目は終わり。貴方の選ぶ道が、私たちの道と交わることを願っている」

 そう言って、アヴェンジャーは入ってきた窓から去っていく。病室に一人残された木更は、笑っていた。

 頭の靄が取れたような爽快感。もう木更に迷いはない。

「そうだ。私たちは魔法使いにとっての絶望、恐怖、そして」

 自らのあるべき道が、はっきりと見えていた。


◆◆◆


 東京都でも西寄りのT市にある拘置所。そこに、異常なまでの厳戒態勢が敷かれていた。

「機動隊の専門組織である銃器対策部隊が三十人。魔防課と民警合わせて、十五人。たかだか一犯罪組織を相手にするには、壮観に過ぎるね」

 長谷川を除き、総勢四十五人による防衛体制。

 これほどの人数が動員されているのは、高嶺一派に属していた田宮がこの拘置所に入れられたことに端を発する。

 ご丁寧にも、高嶺からこの拘置所を襲撃するという犯行予告があったのだ。

「高嶺は本当に来ますかな?」

 銃器対策部隊の小隊長たる警部補が、長谷川に問う。

 気持ちはわからなくもない。わざわざ予告などすれば、当然警察側は警戒する。田宮を奪還する難易度を上げるだけなのだ。そんな中で本気で襲撃をかけるような連中は、普通はいない。

「普通なら、余程の馬鹿でも来ない。だけど、来るでしょうね」

「ならば、敵は余程の狂人ですか」

「違いない」

 警部補と二人して苦笑する。長谷川には、確信があった。これだけの戦力を用意していようと、高嶺は必ず来る。あの羅號が高嶺に付き従っている以上、これでも少なすぎるくらいだ。それを口にするのはさすがに憚られるが。

 やがて、拘置所の正面入り口の方向から、一人の男が近づいてくることに気づく。

 黒のレザーコートを羽織り、サングラスをかけた長身の男。見間違えるはずもない、羅號だ。高嶺一派の仲間を誰一人携えることなく、真っ向から襲撃をかけてきたのだ。

「その場で静止し、伏せろ!」

 警部補が大声で警告する。羅號は、我関せずと歩みを止めることはなかった。

「それ以上近づけば、撃つ!」

 最終警告。当然のごとく、羅號は従いはしない。

 凄まじい短機関銃声。耳元で爆竹を鳴らされるような激しい響き。四OOメートル毎秒で射出される弾丸が、毎分八OO発の速度で発射される。魔法使いの肉体だろうと粉々にしてみせる、はずだった。

 羅號は、揺るがない。弾丸の雨嵐の中を、散歩でもするかのような気軽さで進んでくる。九ミリメートルパラベラム弾は、異界の上位存在たる彼には、何の効力もなさなかった。

 銃撃を行う機動隊の面々に、動揺の気配が現れる。

「退け! 俺たちが出る!」

 魔防課の隊長が、このままでは埒が明かないと判断し、隷下の魔法使いたちに指示を出す。機動隊の武装が通じない以上、その判断は正確だ。

 民警の魔法使いも混ざっているため、一糸乱れぬ統率というわけにはいかないが、連携の取れた動きで羅號に迫る。

 最も体格に優れた魔防課の隊長が、自ら先陣を切る。彼の魔法は、剛力。魔法使い共通の身体強化に止まらず、その筋力を増強する、単純ながら強力な魔法。木更を除けば、魔防課の魔法使いの中でも有数の、優れた格闘戦力だ。

 彼は、魔法の力を遺憾なく発揮し、その筋肉を強大に隆起させる。脚の筋力も強化されていることで、彼は肉弾戦車と化していた。小細工など一切ない。ただ、有り余るほどの力を眼前の敵にぶつけるのみ、と言わんばかりの突撃。

「ぬぅん!」

 剛腕が振るわれ、羅號の腹に叩きこまれた。

「悪くはない」

 その剛撃を以てしても、羅號は怯まなかった。それどころか、撃ち込んだ方が苦渋に顔を歪めていた。どうやら、拳を痛めたようだ。羅號の鋼の肉体が、隊長の剛腕に打ち勝ったのだ。

「邪魔だ」

 目の前で呻く隊長に向かって、羅號が右手を振り下ろす。その腕が振るわれた部分、隊長の体が文字通り削り取られた。袈裟懸けに肉体をこそぎ取られ、隊長だったものは無残な肉塊と化して、地に落ちた。

 羅號の手には、赤黒く染まった心臓が握られていた。大きく口を開け、手にしたそれを食い千切る。心臓食いの饗宴だった。

 誰かが叫んだ。それが、機動隊の誰か、あるいは民警か魔防課の魔法使いによるものだったかどうかはわからないし、誰が発したものだろうと大した違いはない。だが、その叫喚にも近い奇声は、その場にいた者たちの恐怖を煽るにはこれ以上ないものだった。

 民警の者たちはもちろん、国を守るという崇高な使命感の下、日々厳しい訓練に耐えてきた者たちでさえも、隊長の死を目の当たりにして、錯乱状態に陥っていた。

 無理もない。こちらは、魔法使いも含めた四十五人の大部隊。たった一人の魔法使いを相手に、負けることを想定していた者などいるはずもない。

 平和ぼけしていた彼らに、途方もない現実感を以て、死が突き付けられる。増してや相手は、この場で最も高い戦闘力を持つ隊長を歯牙にもかけない規格外の怪物。この状況で覚悟を決めて、立ち向かう決断ができる者などそうそういるものではない。

 逃げ出そうとする者、何とかその場を取りまとめようと奮闘する者、混乱のままに羅號に挑みかかる者。こうなっては、もはや連携も何もありはしない。各々が、恐怖に駆られて、好き勝手に行動を取る。

 そんな烏合の衆を前に、羅號は鬱陶しさを露にしていた。

「下らぬ」

 羅號の行動は単純だった。散り散りになる部隊の人間たちに接近し、その腕を振るう。圧倒的な脚力と腕力でそれが行われることで、一振りごとに命が一つ奪われていく。

 戦闘ではなく、蹂躙。圧倒的な人数差を容易に覆す、個としての暴力の極致。羅號は、人の形をした天災だった。暴風雨を前に虫は成すすべもないように、弱者たちの命が蹴散らされていく。

 間違いなく今ここが、この現代日本で最も命の軽い場所となっていた。


「……これだけの人数を揃えても、こうなるか」

 死屍累々。無数の死体が山となり積み重ねられた中で、その場に立っているのは長谷川と羅號の二人だけだった。

「同郷の士……今は長谷川か。立ち塞がるならば、容赦はしないと言ったはずだが」

 これだけの大虐殺を成し遂げておきながら、羅號には疲れの色は一切見えない。己の所業に対し、全く気に病んでもいないだろう。上位存在の精神構造は、その他の生物とは一線を画する。

「僕も殺すかい?」

「京香と我の道に立ち塞がるのであれば、等しく死を与えるのみ」

「随分と高嶺にお熱のようだ」

 長谷川は軽口を叩いてみるが、状況は非常によろしくない。魔法の存在によって、警察力を超える力を個人が持つことができるようになったとはいえ、同じ魔法使いが束になっても相手にならないのでは対策のしようがない。理解はしていたが、羅號の力はあまりにも隔絶していた。

「ちなみに、君たちのお仲間、田宮だったらもうここにはいないよ」

 最悪の事態も想定したうえで、田宮は他所の拘置所に移送中だ。狙われていることがわかっていて、むざむざ標的をこの場に残しておくこともない。

「それがどうかしたのか?」

「……あー、やっぱりそういうこと?」

 予想はしていた。羅號、いや高嶺が田宮の奪還を目的にしているのは確かだろうが、別にそれに拘泥してはいない。その力を誇示することが最大の目的なのだろう。

「君の暴力は、異常に過ぎる」

 長谷川は、淡々と述べる。ここで羅號を止めることができなければ、いずれこの暴力は世界を巻き込むことになるだろう。長谷川としても、何としても倒しておかねばならない相手だった。

「古来より伝わるこういう言葉がある。目には目を、歯には歯を」

「同害報復か」

「へぇ、君もなかなか勉強してるね」

 ハンムラビ法典の一説を、向こう側の住人である羅號が知っていたことに少し驚く。重要なのは、ここからだ。

「圧倒的な暴力には、圧倒的な暴力を」

 それに感づいたらしい羅號が、空を見上げる。そこから迫るのは、赤い大鎌を背負った黒い影。小さな死神が羅號めがけて飛び掛かり、血で構築した大鎌を振るった。

 羅號は鎌の先端を手で掴み取り、そのまま握り潰す。アヴェンジャーは慌てることなく、羅號の腕を蹴りつけることで、後ろに跳躍する。

 追うように、羅號が駆ける。アヴェンジャーが空中にいるうちに捉えるつもりだ。アヴェンジャーは右手を突き出す。放たれたのは、血の濁流。羅號は真正面からそれを浴びることになった。

 アヴェンジャーの魔力が込められた血液は瞬時に凝固し、羅號の動きを止める。

「小賢しい」

 足止めに成功したのはほんの一瞬。羅號は即座に血の拘束を砕き、抜け出した。だが、十分すぎる時間だ。アヴェンジャーは着地し、体勢を立て直す。

「復讐者よ。相見えるこの時を待っていたぞ」

 まとわりつく血の欠片をはたき落としながら、羅號が口を開く。

「貴方は、この世界では新参者だ。過去の亡霊が、我が物顔で居座られては困る」

 アヴェンジャーが皮肉を返す。長谷川も羅號と似たような立場であるため、思わず苦笑してしまった。

「過去の亡霊か。なるほど、確かに我はそう呼ばれても仕方がない」

 羅號は、不敵な笑みで応えた。

「だが、そういう貴様はどうなのだ? 貴様こそ、過去に縛られた亡霊のようなものではないか」

 アヴェンジャーは押し黙る。どうやら、羅號はアヴェンジャーの抱える事情についても知っているらしい。そうでなければ、こんな言葉は出てこない。

「託された願いは、呪いにも等しい。貴様の在り方はひどく歪で、直視に堪えぬ。ここで引導を渡してやるこそ、救いというものだ」

 羅號から放たれる圧力は、それだけで人の心を折るに足る暴威を備えていた。並みの魔法使いなら、怯えて逃げ出してしまうだろう。だが、向かい合うアヴェンジャーの精神力はその程度で揺るぎはしない。彼女こそ、陽凪が願いを託した存在なのだから。

「こちら側にのこのこと逃げ出してきた敗北者が、偉そうに語らないでほしいものね」

「くはは! 言ってくれるものだ」

 羅號が、豪快に笑う。

 戦いが始まった。ぶつかり合うのは、個の武力の極致。この先のことは、長谷川も全く予想のつかない領域。天災にも等しい二人の戦いの結末は、神のみぞ知るところだろう。

 だが、長谷川は確信していた。最後には、彼の信じたものが勝つと。不安などなく、疑う理由も、心配する意味もない。

「彼女たちは負けない。君の魂を受け継ぐ存在なのだから」

 長谷川は、神に祈りを捧げる巡礼者のごとく、穏やかな笑みを浮かべていた。

「そうだろう? ……陽凪」

 そうして、最愛の人の名前を呼んだ。


◆◆◆


 T市から中央自動車道で移動する小型護送車。秋吉は、一人の青年と同伴していた。高嶺一派に所属していた田宮だ。サラマンダーに逮捕され、T市の拘置所に入れられていたが、高嶺の襲撃予告に伴い、別の拘置所に護送されている最中だ。

 同時期に組織にいなかったこともあって、秋吉と田宮に面識はなかった。仮にあったとしても、共通の話題が高嶺では、どうまかり間違っても楽しい話になることはない。秋吉が一時高嶺と手を組んでいたことも、田宮の方は知らない。そのため、秋吉はこれ幸いと口を閉じておくことにした。

 あくびが出る。法定速度をきっちり守って走る護送車の中は、良くも悪くも退屈だ。見える景色は代り映えせず、ただただ画一的な景色が広がるだけだ。今日が決戦の日と長谷川から聞かされていたが、今のところ何かが起こるような気配はない。

 後ろから勢いよく迫ってくるトラックがあった。明らかに法定速度を超過している。追い越し車線を走っていたそのトラックは、護送車の前に割り込んできた。走行中にもかかわらず、リヤドアが開かれた。そこに立つのは、二人の少女。一人は、先日拳を交えた相手である柊玲。もう一人は、サラマンダーと交戦し致命傷を負わせたという、銃の魔法使いアンナ。

 アンナの手には、銃が握られていた。秋吉はすぐさま指輪を起動する。次の瞬間、銃声が響く。弾丸は、正確に運転手の頭を撃ち抜いていた。秋吉は田宮の首根っこを引っこ抜くように掴み上げ、後部座席のドアを蹴破る。コントロールを失い、暴れ走る車内から、思い切りよく外に飛び出した。生身の田宮が地面に激突しないよう、一応配慮してやる。

 秋吉たちが抜け出て間もなく、護送車が遮音壁に激突。

「退屈を望んでいたわけじゃないが、手荒い歓迎にも程がある」

 田宮を放り投げ、近づいてくる二人に向かい合う。事態を理解できていないらしい田宮は、慌ててその場を離れようとする。しかし、アンナの放つ銃弾が田宮を捉えた。腹を撃たれた田宮が、苦悶の表情で倒れ伏す。

「何をしている」

 柊玲はアンナの行いを咎めるも、アンナに気にした様子はない。

「高嶺さんから、生かしておけとは言われていませんので」

「だからといって、殺していい理由にはならないはずだが」

 諫言する柊玲に、アンナは首を横に振る。

「あの程度で人は死にませんよ……今日まで我慢したんです。木更に救ってもらうこの日までは。この衝動は、木更に思い切りぶつけると決めてるんです」

 美しい顔立ちでありながら、ぞっとするような笑みをアンナは浮かべていた。

「俺の言葉は受け入れられなかったようだな」

 柊玲に問いかけるも、彼女は答えない。しかし、その表情には未だに迷いが窺える。

「半端な覚悟は捨ててきたのかとか、小言はたくさんあるが、ここまで来てごたごた言っても仕方がないし、柄じゃない」

 戦い慣れたファイティングポーズ。秋吉は、対話をしに来たのではない。戦いに来たのだ。

「そっちの可憐なお嬢さんもいっしょにやるか? 俺は卑怯とは言わんぞ」

 手招きで挑発する秋吉に、アンナは優雅な微笑みで返した。どうやら、秋吉はお呼びではないらしい。聞いていた通り、サラマンダーに異常な執着を抱いているようだ。警戒を外すわけにはいかないが、意識を柊玲に集中できるのは助かる。

 初手から飛ばしていく。柊玲に向けて、秋吉は鋭く切り込んでいく。瞬時に、互いの拳が届く距離。秋吉は左右コンビネーションで攻め立てる。だが、柊玲には当たらない。やはり、柊玲は厄介な相手だ。超直感の魔法が冴え渡っていた。

 隙とも言えない秋吉の連打の合間に、柊玲は反撃の拳を放ってくる。だが、それも秋吉には当たらない。視界に映る柊玲の顔に、わずかながら驚愕の色が見えた。

 至近距離で行われる高速の打撃戦。型の決まった演武のように、互いの攻撃が当たらない。両者ともに見切りが完璧で、紙一重のところで相手の攻撃を凌いでいるのだ。無駄な動きなど一つもない。あれば、それが致命的な差になり得ることを理解しているのだ。

 だが、この膠着は崩れることになる。秋吉の拳が柊玲を捉えだした。両腕でいなすことで直撃は許さないものの、少しずつ、それでも確実に秋吉が優勢になっていく。

 ついに、秋吉の左が柊玲の額に命中した。すかさず、追撃の右ストレートを繰り出す。ぐらつく柊玲だったが、左腕でそれを受け止める。さすがに大砲の被弾は許してくれないらしい。

 一息つくために、秋吉は距離を取る。思った以上に、うまくいった。

「以前よりも遅い、はずなのに」

 訳が分からないとばかりに疑問を口にする柊玲。

「簡単なことだ」

 秋吉は、あえて説明することにした。

「俺の魔法は、高速移動だと皆思っている。俺もそれを否定しなかったからな」

 だが、事実は違う。

「俺の魔法は、加速。移動速度の向上に回していた分のリソースを、思考の方に回したのさ」

 種明かしをする。サラマンダーとの訓練の時、思考の最適化こそ戦闘で重要であることを自分で言って気が付いた。これまでは攻撃と移動の時にしか魔法を使っていなかったため、他の用途を特別検討してもいなかった。高速化された思考は、見てから最適な行動で相手を迎え撃つ、いわゆる後の先を可能にしていた。超直感によって相手の機先を制する柊玲の戦い方は、先の先と言えるだろう。どちらが優位かは一概には決めることはできない。

「互いの見切りが完璧であれば、速度に勝る俺が上回る」

 リソースを思考に回している分、普段の速度は出せないが、その必要はない。秋吉にしてみれば、少しだけ相手の速度を上回ることができればいいだけの話なのだ。

 柊玲は、苦虫を潰したような表情。今度は、柊玲の方から距離を詰めてきた。先ほどと同様の打撃戦が展開される。超直感による柊玲の立ち回りは、簡単には攻略できない。だが、秋吉には刹那の領域の戦いにあってなお、柊玲の動きがはっきりと見えていた。

 秋吉が繰り出した右フックが空を切る。ここぞとばかりに放たれる柊玲の右上段蹴り。秋吉は左腕を盾にして防御。しかし、これでは終わらない。続けざまに柊玲の左足が跳ね上がった。 

変形の左上段踵蹴り。秋吉は慌てず、身体を深く沈ませることでそれを回避した。

着地した柊玲に、素早く追い迫る。基本のコンビネーションであるワンツーを繰り出す。ほとんど同時に放たれる左右の拳が、柊玲の顔面をまともに捉えた。追撃の左拳こそ躱されるものの、この戦いではじめてのクリーンヒット。柊玲が距離を取ろうとするも、秋吉が詰める速度の方が速い。

 秋吉の魔法は、加速。思考に割り振っていたリソースを拳に乗せて放つ、渾身の右ストレート。最速の一撃が、柊玲を撃ち抜いた。だが、柊玲は歯を食いしばって耐えていた。

どれだけ強烈な攻撃でも、来るとわかっていればそれなりに持ち堪えられる。超直感を持つ柊玲は、回避しきれないと判断し、その衝撃に備えていたのだろう。

彼女の両腕が秋吉の右腕を掴み取った。右ストレートで弾かれた勢いを利用して、秋吉の体を地に引きずり込む。秋吉の右腕と頭部を挟み込むように、柊玲の両足が回される。三角締めが極まった。

 勝利を確信した柊玲が笑みを浮かべる。確かに、完璧に極まっている。このままでは、秋吉の意識は締め落とされるだろう。

「おおおおおおっ‼」

 秋吉は全身に力を籠め、咆哮を上げる。地に着けた左手を支えにして、柊玲を右腕に絡みつかせたまま立ち上がる。そして、柊玲の体を地面に叩きつけた。

 高速道路の固い路面に叩きつけられた衝撃で、柊玲の両手が秋吉の右腕から離れる。勝敗は誰の目から見ても明らかだった。

 それでも、柊玲は立ち上がる。

「まだ続けるのか?」

 その瞳には、闘志が残っていた。しかし、ダメージは決して軽くはないはず。このまま戦っても、結果は見え切っている。

「私は、アヴェンジャーを殺すまで、止まるわけにはいきません……」

 息を切らしながら、柊玲が答える。決して退く気はないという意志が、彼女を奮い立たせていた。

「兄は、私の憧れだった。私が迷っているときは、いつだって進むべき道を示してくれた」

 柊玲が独白する。

「だから、私は兄の復讐を果たし、兄の目指した理想を追い求める必要があるのです!」

 その叫びには、悲痛なものがあった。彼女自身、それが正しい道だとは確信できていないのだろう。それでも、憧れの兄が進んだ道を追い求めることに必死になっている。本来は、真面目で良い子なのだろう。他人がどんな選択を取ろうと、それは秋吉が咎めるべきことではない。そうとわかっていても、彼女がその選択をしてしまったことが秋吉は残念でならなかった。

「互いに退けないのならば、これ以上の言葉に意味はない。続きをーー」

「いや、もう十分だ」

 割って入る声。そちらを見やると、見知った少女の姿があった。

「サラマンダーか」

「高嶺の息がかかった魔法使いたちの始末で遅くなった……こちらは私が引き受ける。貴方は拘置所の方に向かって」

 現れた木更は、淡々と告げる。親しい間柄でもないが、どことなく雰囲気が変わったような気がする。

「おいおい。遅れてきて、せっかくの戦いを譲ってくださいってのは、さすがにどうなんだ?」

「拘置所では、羅號とあの子が戦っている」

「あの子……もしかして、アヴェンジャーか?」

 木更はこくりと頷いた。

「この戦いは、貴方の勝ちだ。そして、アンナとの決着は私に任せてもらう」

 木更とアンナとの間には浅からぬ因縁があることは、秋吉も承知の上だった。

 木更は、ゆっくりと柊玲の方に向かう。

「なんだ、貴様は……!」

 相対する柊玲の顔には、怯えの色があった。悠々と歩み寄ってくる木更に対して、得体のしれないものを見るような、鋭い視線を向けていた。

「そう怯える必要はない」

 木更はそう言って、右手を突き出す。

「苦しむ暇もなく、終わらせてあげるから」

 木更の右手から炎が一直線に放たれた。炎が猛るように、柊玲を呑み込まんと迫る。

 柊玲は、かろうじて炎を回避していた。防戦に回っては不利と判断し、木更に向かって猛然と駆け出す。一気に間合いに入り、右正拳突きを繰り出した。その一撃は、木更の胸を穿つ。しかし、木更の足は地にしっかりと着いている。被弾は覚悟の上で、持ち堪えたのだ。柊玲が弱っていたのもあるだろうが、あの一撃を耐えきるだけの強度は、どれだけの魔力によるものか。少なくとも、これまでのサラマンダーとは明らかに違う。

 木更の左手が、柊玲の肩に置かれた。

「待て!」

 秋吉の制止は意味をなさなかった。瞬時に、柊玲の全身が燃え上がる。柊玲は焼かれる苦しみからのたうち回るが、やがて全身の力を失い、地に倒れ伏す。

「……ここまでする必要があったのか? いや、そもそも君はこんなことができるような子じゃなかったはず」

 目の前の事態に理解が追い付かない。秋吉は、混乱のままに問いかける。

「行って、秋吉。向こうにはきっと、貴方の望んだ闘争がある」

 秋吉に背を向ける木更。これ以上の問答は無用だと言うことらしい。

 柊玲の焼死体に視線を向ける。彼女が復讐の道を、そして柊和人の道を歩む以上、遅かれ早かれ殺されていただろう。秋吉が気に掛けることではない。そうわかってはいるのだが、言いようのない苦いものがあった。

「今の君は、あまり好きになれそうにない」

 今はゆっくりと会話をしている場合でもない。拘置所にあの羅號という男がいるのなら、そちらに向かうべきだ。アンナとの戦いは、木更にとっては譲れないものだろう。そこに秋吉が割って入る余地はない。

 秋吉は、木更の言葉に従い、その場を去った。


「待っていましたよ、木更」

 満面の喜色を湛えるアンナは、柊玲だったものを一瞥する。

「あなたの覚悟、確かに見せてもらいました。その慈悲なき炎こそ、私が望んでいたものです」

 アンナの手に拳銃が握られ、銃口を木更に向ける。放たれた弾丸は、木更に命中することはなかった。木更の右手が、弾丸を横からはたき落としたのだ。魔法使いという前提の下でも、絶技と言えるだろう。

「弾丸を素手で弾き飛ばしますか……研ぎ澄まされていますね」

 木更が強いことが、アンナにとっては嬉しかった。

 アンナの父親は、木更の全てを奪った。忌々しいことに、彼の暴力衝動は確かにアンナの中に根付いており、逃れようのない業として、アンナを苦しめていた。

 最初からこうだったわけではない。全てが変わったのは、指輪を手に入れたあの日のこと。

 アンナの母は、善良な女性だった。憎き殺人犯との間にできた、望まれぬ子であるアンナに対して、精一杯の愛情を向けてくれていた。女手一つで、文句を零すこともなくアンナを育ててくれた。客観的に見れば、同年代の子に比べても恵まれない生活であっただろう。それでも、母といっしょにいることだけで満たされていた。アンナはそれだけで幸せだったのだ。

 ある日、アンナの前に、魔法使いの指輪が現れた。それがなぜ自分の前に現れたかなど、どうでもよかった。魔法の力は、様々なところで重宝される。母に助けられてばかりの自分が、やっと母の助けになることができるのだと心の底から喜んだ。

 だが、指輪を手にしたとき、どうしようもないほどの破壊衝動がアンナを蝕んだ。動悸は激しく、身を焼くほどの衝動に襲われて苦しむアンナに、母は心配して駆け寄ってきた。

 その衝動は、アンナという小さな容れ物にはあまりにも巨大すぎた。意識さえ朦朧とする中で、その衝動を思いっきり吐き出そうと、もがいた。聞こえたのは、乾いた銃声。

急に動悸が収まり、冷静になる。視界に映るのは、血に塗れた母の姿。自分の手には、硬質な何かが握られている。拳銃だった。

最も大事なものは、アンナ自身の手で壊れてしまったのだ。

 アンナが全てを理解するのに、時間はかからなかった。彼女の父親を、何よりもその男の娘である自分という存在を憎み、呪った。このまま死んでしまいたいと、銃口を自分に向けた。自分は死ぬべきであると、こんな醜い獣は生きていてはならないと、引き金を引こうとした。早く死んでしまいたいと本気で思っているのに、引けなかった。

 アンナは泣いた。こんなにも自分が嫌いなのに、それでも死ぬのが怖かった。自分をなじる言葉はいくらでも出てくるのに、あと少し、引き金を引く勇気が出てこない。アンナは、底抜けの絶望の中に叩き落とされていた。

 叶うことなら、木更のように善良に生きたいと思う。だけど、それは不可能。人が眠らなければ生きることができないように、誰かを壊さねば自分が壊れてしまうのだ。どれだけ理性を以て抑え込もうとしても、膨れ上がる暴力衝動はそれを許してくれない。

奪った命に対して、罪悪感はとめどなく湧いてくる。それでも、誰かを壊す瞬間、彼女は息苦しい水中から抜け出て、一気に空気を吸い込むかのような、どうしようもない充足感に満たされていた。その度に、あの男の娘であることを否応なく自覚させられ、気持ち悪くなる。

 だから、木更のことを知ったときは、運命を感じずにはいられなかった。アンナの父親に全てを奪われた彼女は、正義の魔法使いサラマンダーとして活躍していた。

 アンナは理解した。私は、彼女にこそ殺されなくてはならない。罪深き血は、彼女の聖なる炎によって焼き尽くされなくてはならないのだと。実際に出会って、木更が善良な人間であることを理解した。奪うだけの自分とは違って、多くの人を助ける力と意志のある、おとぎ話の勇者のような存在。

 あのショッピングモールで、アンナの命は終わるはずだった。だけど、木更はこんな罪人の命を奪うことさえ躊躇っていた。彼女は、誰かの命を奪うことを恐れていたのだ。

それではいけない、とアンナは思った。その優しさは、いつか彼女の命を脅かすことになるだろうから。

 断罪者たる木更は、慈悲を抱くべきではない。殺してでも止めなくてはならない悪が、世の中には存在する。

 今日この日を以て、その枷を外すつもりで来たが、現れた木更はすでに枷を外していた。何があったかは知らないが、嬉しい誤算だった。今目の前にいる木更は、アンナの望んだ断罪者だった。もはや、何も気兼ねすることはない。

「私の全て、受け止めてください」

 両の手に、拳銃を握る。出し惜しみはしない。自分の全てを、木更にぶつける。

 この日まで溜め込んだ破壊衝動を、一思いに開放する。これまでに経験したことのない快感に、意識が飛びそうになる。この激情の赴くままに、弾丸を射出。理を超越した連射速度で放たれる絨毯射撃。木更への想いを、木更への愛を、全身全霊で放ち続ける。木更ならば、きっと受け止めてくれると信じて。

 衝動を吐き出し尽くし、射撃を止める。

 アンナの瞳は、赤い壁を映していた。俄かに、壁が崩れ落ちる。

「気は済んだかな」

 背後から木更が現れる。赤い壁が、アンナの銃撃を防ぎ切ったのだ。

「それは、いったい……?」

 アンナは疑問を口にしていた。周囲には誰もおらず、他者の介入ではない。だが、木更の仕業ではもっとあり得ない。

「魔法使いの魔法は、一つだけのはず」

 木更の魔法は、炎。炎をどう解釈しようと、あのような真似はできるはずがない。だが、アンナはそういう例外を知っていた。それに気づけば、あの赤い壁の正体にも覚えがある。

「それは、アヴェンジャーの……」

 アンナは確かめるように、再び銃口を木更に向ける。銃弾は、今度こそ木更の肩を射抜いた。

 木更は怯む様子もなく、ゆっくりとアンナへと一歩を踏み出す。肩の傷が急速に癒えていく。

 アンナには、理解できない。どういう理由かはわからないが、木更が行使しているのは、おそらくアヴェンジャーの魔法だ。魔法使いが複数の魔法を使うこともありえないが、他人の魔法を使うというのも異常なことだ。

 アンナは銃撃を繰り返す。木更は頭と心臓だけは守るが、それ以外は無頓着のようで、弾丸を防ごうともしない。だが、当たった端から回復していく。アヴェンジャーが可能にしていた超速再生は、多少の傷など物ともしない。

「アンナ」

 木更が優しく呼びかけてくる。

「ごめんね。私、貴方の苦しみを理解してなかった」

「違います!」

 アンナは銃を下ろし、叫んだ。

「悪いのは、私です! 木更が気に負うことなど何一つありません!」

 木更は迷いこそすれ、光の道を歩んでいる。悪いのは何もかも、自分の方だ。

 木更は、手を伸ばせば届く距離まで来ていた。審判の時が来たのだ、とアンナは目を閉じた。本当は、死にたくない。死ぬのは、やっぱり怖い。それでも、死ぬのならば木更の手にかかってと決めている。

 苦しみの代わりに、温かい感触。はっと目を開く。アンナは木更に抱きしめられていた。

「貴方の父親が私の全てを奪ったことを気にしているようだけど、それは貴方の責任じゃない」

 諭すように木更が言う。その言葉に、身が引き裂かれそうになる。罪人の娘が、そんな温かい言葉を受け入れていいはずがなかった。

「やめて、ください……」

 全力で否定する。

「私自身が、私を許せないんです。そんな罪深き私を、一番の被害者であるあなたが許すなんてことはあってはならない」

「許すなんて言ってないよ。あなたが奪ってきた命に対する罪は、どんな理由があろうと許されることはないけど……親の罪は子供の罪じゃない。私への呵責で苦しむ必要はない」

 断罪者たる木更は、理性的に論理を紡ぐ。

「それでも、それでも私は」

「アンナ」

 木更の腕に力がこもる。

「私は貴方の苦しみを、絶望を、決して忘れない。復讐者として、何より友達として」

 瞬間、炎が二人を包み込んだ。

 熱くて苦しい。だけど、不思議と素直にその炎に身を委ねることができた。

「ありがとう、ございます」

 死にゆく恐怖がなくなったわけじゃない。それ以上に、この地獄のような世界から開放されるという喜びが、もう誰も傷つけなくて済むという安堵が、アンナをその罪ごと包み込むような木更の温かさが勝っていた。

「この世界の不条理に、どうか負けないで」

「うん」

 消えゆく意識の中で、最後にその言葉が届いた。

「私たちは負けない。それこそが、私たちの生きる意味だから」


◆◆◆


 秋吉は、中央自動車道をバイクで疾走する。適当に見かけた性能の良さそうなバイクを借りたのだ。一応返すつもりではある。その速度は、法定速度どころか、メーターを振り切ってなお加速を続けていた。バイク自身の性能によるものではなく、秋吉の魔法によるものだ。

加速の魔法は、結構応用が効くらしい。レーシングカーすら凌ぎそうな速度で走行しているが、魔法使いの高速戦闘を体験している秋吉にしてみれば、速すぎるということはない。周囲の車からすればはた迷惑この上ないだろうが、バイクの方が故障しない限り、事故を起こすことはまずありえない。

「ここらへんでいいか」

 バイクを停止させ、遮音壁のすぐそばに横付けする。一足飛びで遮音壁を飛び越え、一般道に降り立つ。ここから先は、自分の足で行った方が小回りが利く。

 拘置所までは五キロ程度。秋吉の速さならあっという間の距離だ。街を疾走して間もなく、拘置所にたどり着く。

「うおっ……」

 思わず嫌悪の声が漏れる。数十もの死体が、乱雑に転がっている。魔力によって鋭くなった鼻を死臭が刺す。安易な例えだが、この世の地獄という言葉がこれほどふさわしい光景もないだろう。

 そして、それを見つけ、秋吉は目を見張った。黒ずくめの少女、アヴェンジャーが地に倒れ伏している。よくよく見れば、胸のところに大穴が穿たれている。心臓を抉り取られたのだ。いくら超速再生の魔法を有していようと、心臓を破壊されれば即死は免れない。

 アヴェンジャーの死体の先には、羅號の姿、そしてその前に長谷川が向かい合っている。全身に痣や血を滲ませながらも、悠然として立っている。とはいえ、アヴェンジャーの相手をするのは、誰であっても楽ではない。羅號は、肩で息をしていた。

「さすがのあの子も、君には勝てないのか。さすがは上位存在。竜の系譜は伊達じゃないね」

 わざとらしく拍手して、長谷川が賞賛する。

「我に勝てる者など存在しない」

 淡々と羅號が告げる。何の疑いもなく、ただ絶対不変の事実であると言わんばかりに。

「同郷のよしみだ。遺言は聞いてやろう」

「ずいぶんとお優しいことだ」

 死を告げられても、長谷川は一切動揺していなかった。

「あ、じゃあその前にちょっとだけ時間をくれるかい?」

 羅號の無言が肯定となる。長谷川は秋吉の方に視線を向け、口角を上げた。

「やあ、よく来てくれたね。秋吉」

 日常会話でもするような気軽さで、語り掛けてくる。

「何やってんだ! さっさと逃げろ!」

 秋吉は叫び、急速に羅號に接近する。そのまま右ストレートを羅號の顔面にぶち当てた。

 手応えあり。だというのに、羅號は平然としている。

「鬱陶しい」

 羅號が蠅を払うかのように、左腕を振るう。退いて躱すも、羅號の拳が少しだけ触れた。それだけで、秋吉の体勢が崩される。とんでもなく重い拳。まともに食らえば、ただでは済まない。

「心配しなくともいい。君との約束は守る。すでに、あの子の治療の手配は完了しているよ」

「そんな話してる場合じゃねえだろ!」

 秋吉とは対照的に、どこまでも長谷川は暢気にしていた。

「後のことは、君に任せるよ。ああ、大丈夫さ。僕たちの勝利は決まっている」

 長谷川は、再び羅號に視線を合わせる。

「陽凪から受け継がれた魂、アヴェンジャーに敗北はない」

 確かな自信と共に、長谷川が宣言する。何を言っているのか、秋吉には理解できない。すでにアヴェンジャーは殺されているのだから。

「世迷言を」

 羅號の右腕が、長谷川の左胸を貫いた。長谷川の体から力が抜け落ちていく。羅號が右腕を引き抜くと、支えを失った肉体が地面に横たわった。

「……何から何まで、訳は分からないが」

 秋吉はファイティングポーズを取る。

「俺がやるべきは、あんたを倒すことだ」

 羅號が、秋吉の方へ向き直る。前回の遭遇時にしていたサングラスはかけておらず、羅號の瞳は露になっていた。爬虫類のごとき金色の瞳は、向けられただけで得体の知れない畏怖を感じさせる。

「無益な戦いだ。我も、貴様にとってもな」

 羅號は、秋吉に興味を全く示していなかった。ならば、無理やりにでも興味をこちらに向かせてやる。

「あんたは、アヴェンジャーに勝った。ならば、あんたに勝てれば、俺の欲しいものが手に入るってことだ!」

 秋吉は、持ち前の高速移動で羅號に詰め寄る。左ジャブを数発お見舞いしてやる。羅號は防御せず、まともに受けていた。しかし、羅號は意にも介していない。羅號は構わず、無造作に右腕を振るう。速度はあるが、大振り。回避は難しくないが、風圧だけで身の毛がよだつ。一発でももらえば、戦闘不能に追い込まれてもおかしくはない。

 回避後の隙に、最短距離を走る右ストレートを叩きこむ。だが、大地に根を張った大木のごとく、羅號は揺るがない。羅號の裏拳が飛んでくる。秋吉は大きく後ろに飛び退くことで免れる。

「どうなってんだ、いったい……ここまで応えないのは、異常過ぎるだろ」

 人間を殴っている手応えじゃない。固いのはもちろんだが、それ以上に圧倒的な重量感。魔力に頼らずに、巨象を殴ったらこんな感覚だろう。

 手加減などせずに殴っているのに、全く効いている感じがしない。殴っているこちらの拳の方が削られているような気さえする。アヴェンジャーという強敵と戦った後だというのに、その消耗を微塵も感じさせない。

 今、秋吉は柊玲との戦いのときのように、思考の高速化にリソースを割いている。決して戦闘技術に優れているわけではない羅號相手ならば、まず攻撃をもらうことはないだろう。

だが、互いに決め手がない。羅號がアヴェンジャーとの戦いで消耗しているのは確かだろうが、それでも羅號には余裕が窺える。このまま長期戦になれば、おそらく秋吉に不利になる。

 リスクはある。だが、それを恐れていては、勝利は掴めない。

 秋吉は、ギアを入れ替える。思考に回していたリソースを、移動速度に回したのだ。被弾する危険は上がるが、速度上昇による攻撃力の上昇が目的だ。超高速のコンビネーションを合計五発。防御をしない羅號には、面白いように入る。最も、防御しようとしてもそう簡単にできるものではないという自負はある。

しかし、羅號相手では不十分だったようだ。反撃に、羅號の左腕が迫る。ダッキングで躱し、羅號の横に潜り込む。この好機は逃さない。

 加速させるのは、両の拳。左右の拳を超高速で打ち出す。速度は、破壊力に直結する。わずかにだが、羅號の体がぐらついた。まだまだ終わらせない。打ち込める隙に、打ち込めるだけの攻撃を叩きこんだ。羅號が無造作に左腕を振るうタイミングで退く。

「煩い羽虫かと思えば、なかなかどうして骨がある」

 羅號が賞賛の言葉を投げる。上から目線なのが引っかかるが、羅號は紛れもなく強者だ。そんな相手に褒められることは、まあ悪い気分はしない。

「あんたこそ、大したもんだ。俺の打撃をこれだけ受けて立っていられたやつなんて、ちょっと記憶にないぞ」

 秋吉の拳は軽くはない。それをこれでもかというほどに叩きこんでいるのに、平然とされるのは少し気落ちする。

「あんたほどの男が、なんで高嶺なんかに付いているのか、理解に苦しむね」

「そう言うな。彼奴は、我にとっては恩人なのだ」

「へえ、そりゃまたどんな?」

 あの高嶺が人助けをしているとは、驚きだ。興味本位で聞いてみる。

「名前をもらった」

 予想の斜め上にもほどがある。

「我は、貴様等の言う異世界の住人だ。すでに滅びた世界から来た者は、自らの力だけではこの世界で存在を保つことはできない」

 異世界の存在。高嶺もそんな話をしていたらしく、秋吉自身もアヴェンジャーからその話を聞いていた。目の前の男は、自らのことを異世界人だという。確かに、指輪を着けてもいないのに、魔法使いの中でも埒外の強さ。不思議な説得力がある。

「故に、こちら側の存在に与えられた名前には、大きな意味がある。滅びた世界で名を失った我々を、こちら側に定義する楔となるのだ」

 言っていることはいまいちわからないが、とりあえず名前が持つ重要性はわかった。

「京香は、あれで可愛らしい一面があってな。羅號という名も、この世界の竜を意味する言葉をもじったものだと、楽しそうに言っていたよ」

 羅號が笑う。その笑みには、父が娘を想うかのような優しさを宿していた。

 秋吉は舌打ちする。

「聞きたくなかったぜ。少しだけ高嶺が好きになっちまった」

 四方山話は終わり。互いに魔力を練り、高めていく。

「非礼を詫びる。我は貴様を侮っていたようだ」

 羅號から発せられる圧力が、秋吉を襲う。

「我も、戦士として応えよう」

 羅號の足元の地面が、爆ぜた。

 先の攻防で見せたものとは、羅號の速さの桁が違う。愚直までの突進は、驚異的な速度。羅號は、豪快に右腕を突き出してきた。思考の高速化を優先し、確実に羅號の腕を回避する。羅號の戦闘技術そのものが向上したわけではなく、隙はある。そこに、右アッパーをぶち込む。

だが、加速させない拳では、やはり羅號には通用していなかった。羅號は攻撃をもらうことなどお構いなしとばかりに、無造作に剛腕を振るい続ける。

 腹の立つことに、羅號は手を抜いていたらしい。工夫も何もないが、羅號の攻撃は荒れ狂う暴風のごとし。巻き込まれれば、何者であろうとひとたまりもない。ただ真っ向から敵を叩きのめすのみ、と言わんばかりの、圧倒的強者の戦い方。

 攻防の最中、羅號の指先が秋吉の肩口を掠め、その部分が抉り取られた。油断していたわけではない。思考の最適化を継続するのは、単純な移動速度の上昇よりも負担が大きいらしい。一瞬だけ意識が緩んでしまったが故の負傷。

 肉を抉り取られた程度で済んだのは、むしろ僥倖と言えるだろう。下手すれば、腕一本持っていかれていたかもしれない。

「くそっ……」

 距離を置いて、一呼吸。

 秋吉の拳は、的確に羅號を捉えている。対して、羅號の攻撃はまともに秋吉には当たっていない。しかし、不利なのは間違いなく秋吉の方だった。当てても当てても、羅號は怯まず、それどころか、その猛攻は激しさを増す一方。いずれは捕まる。

 それでも、湧き上がるのは焦りや不安といった負の感情ではなかった。

「楽しいなぁ、羅號! 今この空間、この瞬間だけが、俺にとって世界の全てだ!」

 最上の強敵に巡り合う。これ以上の喜びなど、あるはずがない。

 小難しいことなど考えずに駆け出す。昂る心のままに、加速。ただ、己の速さを突き詰める。

 羅號には、半端な攻撃は通用しない。加速した拳が、羅號を撃ち抜く。それは確かに羅號に響いており、体勢をぐらつかせる程度の効果は見込めている。

 だが、この程度では足りない。もっと重く、もっと強く、もっと速く。一撃一撃に全身の体重を込める。それ以上に、全霊の魂を乗せる。羅號に反撃の暇さえ与えない。呼吸する間も惜しんで、拳を繰り出す。

 秋吉は、はっきりと理解した。自分が本当に欲しかったのは、最強の座なんてものじゃない。

 秋吉は、東洋太平洋チャンピオンの座に至るまで、あまりに順風満帆な道を歩んでいた。戦ってきた相手が弱いという気はないが、自分の限界を試されるような試合はない。

そんな中、秋吉は交通事故で左腕を失い、ボクサーを引退した。秋吉は、全てを燃やし尽くすような戦いを経験していなかったのだ。

 限界の壁を超えねば勝てない格上を相手に、己の全てを懸けて挑む。死が間近に迫るからこそ、今この瞬間、生きているという実感を、秋吉はこの上なく享受していた。

 今ならば、わかる。今まで自分が積み上げてきた全ては、この戦いのためにあったのだと。

 時間にしてみれば数十秒にも満たないだろうが、秋吉にとっては永遠にも思える時間の後、ついに秋吉の攻めが止まった。全てを出し切った。

 しかし、羅號はそれでも倒れなかった。倒せなかった。

「……これでも、ダメだっての、かよ」

 全身の体力も魔力も使い尽くし、秋吉は疲労困憊で膝を地についた。

「見事だ、秋吉琥太郎。久しく見ぬ剛の者よ。貴様の拳、確かに我が身に響いたぞ」

 全身を痣だらけにしながらも、羅號は相変わらず威風堂々としてそこに在った。

 羅號の腕が振り落とされ、秋吉の右腕が吹き飛んだ。とてつもない痛みが秋吉を襲うが、意識は失わずに済んだ。

「貴様のこの腕は、私が貰い受けよう」 

 羅號が秋吉の右腕を掴み上げ、大口を開けて噛り付く。あっという間に、骨ごと食い尽くした。

「何てもの見せられてんだ、俺は……」

 秋吉は、力なく笑う。

 なくなった右腕の方を見れば、とめどなく血があふれている。このままなら、羅號が手を下す間もなく、秋吉は失血死するだろう。体力も限界を迎え、秋吉の意識が薄れていく。

 勝てなかったのは、残念だ。だが、不思議と心地よい気分だった。退屈によって空いた心の穴は、埋まった。悔いはない。襲い来る眠気に素直に身を任せることにした。

 しかし、秋吉の意識は落ちるどころか、鮮明になっていく。秋吉を炎が包み込んでいた。熱さはなく、全身が癒されていくような不思議な感覚。気づけば、出血も止まっていた。

「頑張ったね」

 現れたのは、サラマンダーだった。

 秋吉の前に、木更が立つ。その小さな背中が、どうしてか大きく見える。

 木更は、アヴェンジャーの死体を一瞥した。

「後は任せて。貴方の全ては、私が引き継いだ」

 そして、少女は怪物と向かい合った。

「また会ったな。貴様には、格の違いを教えてやったはずだが」

 不遜にも思える羅號の物言い。自らの力に絶対の自信を持っているのだ。

「今の私は一人ではない。だから、私たちは負けない」

 木更は告げる。

「血液操作でも、超速再生でもない。継承こそが、アヴェンジャーの魔法」

 木更の全身を、眩いほどの炎が包み込む。それは、世界の全てを照らし出すような光。燦々と輝く陽光のごとき炎だった。

「見覚えがある。それは、はじまりの魔法使いの……」

 羅號が、信じられないものを目の当たりにしたかのように目を見開いている。

「この世の不条理を焼き尽くす。それこそが、私の使命」

 木更の炎が、竜の形を取る。荒々しくも荘厳で、どこか神々しさすら感じさせる炎。

「そうか、指輪とはそもそも結晶化した魂……その指輪こそが……くはは! 長谷川よ、そういうことか! だからこそ、この少女に託したのだな!」

 得心したように、羅號が哄笑する。

「いいだろう。我も、全霊を以て貴様の相手をしよう」

 木更と羅號の魔力が際限なく膨れ上がっていく。まるで天変地異の前触れとでもいうように、大気が揺れる。

 羅號は大口を開け、口元に魔力を集中させる。周囲の景色が歪んでしまうほどに魔力が凝縮され、小さな球となった。竜の息吹。あれが放たれれば、極大の魔力の奔流と化して、木更を跡形もなく消し去るだろう。

 対する木更は、右腕を突き出して構える。炎の竜が、生命を宿しているかのように、雄叫びを上げた。サラマンダーの異名を体現したかのような、圧倒的な威容に秋吉は思わず息を呑んだ。

 両者ともに長期戦など微塵も考えておらず、己の最大火力で幕を下ろすつもりらしい。

 大気の震えが収まり、一瞬の静寂。次の瞬間、羅號の球体が解放され、極大の光の柱が放たれた。一瞬遅れて、木更の右手から火竜が咆哮と共に飛び立った。

 光と炎が衝突。その余波だけで、秋吉の体が吹き飛ばされる。とてつもない力のぶつかり合いだった。完全な拮抗状態。全くの互角だった。長いせめぎ合いの後、光と炎が弾け、爆発が巻き起こった。暴風が巻き起こり、砂塵が吹き荒れる。

 羅號が鬱陶し気に腕で砂塵を払うと、すでに木更は間合いに入っていた。

 最大火力の一撃が相殺されたと判断し、即座に駆け出していたのだ。だが、羅號も素早く反応する。

 二人の戦いは、天災同士の衝突に等しく、何者たりとも割って入ることのできない激烈なものとなっていた。圧倒的な膂力を以て相手を捻じ伏せようとする羅號に対し、獣の身体能力と人の叡智たる高い戦闘技術によって渡り合う木更。ここでも、二人は全くの互角だった。

 羅號の攻撃は木更の肉体を削り取るが、木更はアヴェンジャーが有していた超速再生を行使していた。秋吉ならば致命傷になる傷でも、木更は止まらない。羅號に、木更の炎を交えた猛攻が効いている。それでも、羅號は退くことはしない。

 秋吉は瞬きするのも忘れ、二人の戦いに見入っていた。そこには、戦う者にしか表現できない美しさがあった。ただ己の方が上だとばかりに凌ぎ合う二人。

 これはまさに神話にして原初の戦いだった。小賢しい駆け引きなど一切存在しない。ただ互いに有したあらゆる暴を吐き出し、覇を競って衝突していた。

「すげぇ……」

 口から洩れる言葉は、賞賛でしかありえなかった。

 羅號は全身を苛烈な炎で焼け焦げさせながらも、一向にその暴威を衰えさせることはない。アヴェンジャーと秋吉との連戦で、その身を削られた後であるにも関わらず。

対する木更も、羅號の嵐のごとき猛攻に晒されながらも、一歩たりとも退くことはしなかった。それでも、荒れ狂う嵐に相対して、無事であるはずもない。羅號の腕にその痩躯を何度も穿たれながらも、その瞳には何物にも揺るがぬ強い意志の光を宿していた。

生物としての生存本能などどこかへ置き忘れてきたかのように、負傷など一切顧みず、鎬を削り合うのはどれだけの狂気が成せる業か。いや、それも適切ではない。彼らは狂ってなどいないのだろう。

 狂気とは、理性と分かたれるものではない。理性が究極的に突き詰められたものに、人は狂気という類型を与えただけに過ぎないのだ。極限まで研ぎ澄まされた刃のごとき究極的な理性を以て、あの二人は互いを否定し合うのだ。

 この戦いに勝利した方が最強を名乗ることに、異論など唱えようもない。

 人の形をした二頭の竜は、その全霊を以て敵を呑み込まんと叫びを上げていた。終幕は近い。

 この戦いではじめて見せる羅號の蹴りが、木更をまともに捉えた。両腕で防御しているが、肉が断裂し、骨が砕ける異音がした。衝撃を受け止めきれず、木更の体が撞球のごとく飛ばされていく。拘置所の塀に激突し、破砕。それでもなお止まらず、木更の体が死角に隠れる。

 わずかの静寂の後、塀の先から四つの人影が飛び出してきた。鏡像のように、見た目からはどれが本物か区別できない。秋吉はそれが、炎による分身であることを理解していた。

「小賢しい!」

 鬱陶し気に羅號が咆哮。空間を軋ませるほどの圧力が、木更の分身を四体ともかき消した。

 羅號が、はっと拘置所の塀の先に視線を戻す。業火の渦が、羅號に迫っていた。

 羅號が全身を膨大な魔力で覆う。しかし、覚醒した木更の炎は減衰こそできても、抑えきることはできない。上半身に炎を浴びながらも、羅號は横に逸れることで、炎の責め苦から逃れる。

 木更が悠々と塀の先から戻ってくる。すでに超速再生により、粉砕された腕は完治していた。

 両社が再び肉薄し、接近戦が展開される。膠着する戦いの中、羅號の振るう左腕が、少女の左脇腹を抉り取る。その顔には苦悶。

いくら超速再生を可能にするからといって、肉を穿たれる痛みは動きと思考を鈍らせる。頂を競う戦いの中では、あまりにも大きな隙。

構え直した羅號は、木更の左胸めがけて右腕を突き出す。心臓を抉り取られれば、いかに超速再生を可能としている木更だろうと、確実な死を迎えることとなる。

木更の右腕が、羅號の腕の軌道を逸らすため、内側から跳ね上がった。完全には逸らすことはできていないが、腕の接点を強く押し出すことで、木更は致命の一撃を免れていた。

そして、羅號にとっては隙が、木更にとっては絶好の機会が訪れる。

 羅號の体は異常な頑強さを誇るが、木更が狙ったのはアヴェンジャーや秋吉との負傷箇所。木更の左貫手が、羅號の腹部に突き刺さった。

 だが、その程度であの羅號が沈むわけがない。羅號はすぐさま返しの攻撃にーー。

「終わりだ」

 木更が、宣告する。瞬時に、羅號の体が焼け焦げていく。やがて、全身に火が広がった。

「な、にが」

 秋吉は茫然としていた。

「竜の甲殻にも等しい貴方の体は、私の炎でも容易には焼き尽くせない」

 木更は無感動に語る。

「だけど、内側の血液から燃やしてしまえば関係ない」

 木更の言っていることが本当ならば、いかな羅號とて死に絶える以外にない。内側からその身を焼かれて生きていることのできる生物など存在しないのだから。

 勝敗は決まった。羅號が万全の状態ならば、また結末は変わっていたかもしれない。秋吉やアヴェンジャーから受けた傷がなければ、そもそも木更の貫手が羅號の体を穿つことができていたかどうかはわからない。。加えて、強者との連戦は、確実に羅號を削っていたのは間違いない。だが、戦いに身を置く者が、たらればを言うべきではない。戦いの場では、結果だけが全てなのだ。

「我が敗れるか」

 死を間際に、羅號は穏やかな笑みを浮かべていた。

「京香よ。お前の理想は、叶えてやれそうにない」

 羅號は、空を向いて独り言つ。

「この世界の行く末は、この世界を生きる者が決める。貴方の出る幕ではなかったということだ」

「手厳しいな。死に行く者には、もう少し手心を加えろ」

 羅號の体が、光の粒子となって消えていく。

「慈悲の心あらば、京香に伝えてくれ。済まぬ、とな」

 消えていく羅號の最期の言葉に、木更は何も応えなかった。

 戦いは終わった。それを見届けた秋吉は、いいかげん疲れたと、静かに瞼を閉じた。


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魔法少女アヴェンジャー アンリ @kokoro127

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